配信日時 2024/09/17 08:00

【情報戦争を生き抜くためのインテリジェンス(19)】陸軍に立ち遅れた海軍情報組織の設立     樋口敬祐(元防衛省情報本部分析部主任分析官)

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おはようございます、エンリケです。

インテリジェンスのプロ・樋口さん(元防衛省情報本
部分析部主任分析官)がお届けする
『情報戦を生き抜くためのインテリジェンス』
の19回目。

帝国海軍の情報史です。
戦後日本ではあまり耳にも目にもしない話な
ので、面白いですね。

さっそくどうぞ。


エンリケ



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情報戦争を生き抜くためのインテリジェンス(19)

陸軍に立ち遅れた海軍情報組織の設立


 樋口敬祐(元防衛省情報本部分析部主任分析官)

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□はじめに

今回は、建軍前後から日露戦争頃までの日本海軍の
インテリジェンスについて述べたいと思います。

陸軍は兵(制)式としてフランス式、次いでドイツ
(プロイセン)式を取り入れましたが、海軍は一貫
してイギリス式でした。明治の陸軍、海軍において
は、取り入れた国も違いますが、そもそも情報に対
する考え方が違うように思います。その違いについ
ても、歴史的に組織やその活動などを考察しながら
明らかにしていきたいと思います。


▼日本海軍におけるイギリス式導入の背景

1853年にペリー提督率いるアメリカ合衆国東インド
艦隊が、日本を開国させるため派遣され、翌年再度
来航したペリーの強硬な態度により、日米和親条約
が締結されました。その結果、江戸幕府は下田、箱
館(函館)を開くことになりました。

こうして、200年以上にわたる鎖国政策は終わりを告
げたわけですが、このような状況下において江戸幕
府はまずは海軍力の強化の必要に迫られました。そ
こで、開国前の唯一ともいえる交流相手だったオラ
ンダにあわてて軍艦の購入(1853年)を申し出まし
た。

翌1854年、軍艦スーンビン号が長崎に到着、艦長フ
ァビウス中佐のもと、3か月の短期間ですが、日本
人に対し海軍伝習が行なわれました。

同艦は1855年に幕府に寄贈され観光丸と改称されて、
第2次海軍伝習の練習艦となりました。英仏などの
列強に比べて、オランダの国際的地位は、以前のよ
うに高くはありませんでしたが、軍事的知識の取り
入れは、やはりオランダ語を介して行なうのが便利
でした。

オランダ海軍軍人による海軍伝習が行なわれ、オラ
ンダ語の兵学教科書なども多く輸入、使用されまし
た。1862年には、幕府は海軍技術習得を主目的に留
学生をオランダに派遣しました。榎本武揚、西周、
津田真道といった優秀な人材16名を派遣し、造船学、
航海術、医学、法学などを学ばせました。

このような経緯の中で、維新当初に明治政府が旧幕
府から引き継いだ軍艦は17隻でした。その多くは各
国から輸入された老朽木造艦でした。

また、新政府に海軍技術を理解する人材も乏しく、
当面は、勝海舟以下の旧幕府海軍の首脳部をそのま
ま利用するかたわら、海軍士官を養成するために、
1869(明治2)年、旧幕府軍艦操練所跡を海軍操練
所として教育を開始しました。

1870(明治3)年、海軍操練所を海軍兵学寮と改称
し、イギリスに訓練を委託、1873(明治6)年には
英海軍将校ら34名を招聘して教育にあたらせること
になりました。これ以来、日本海軍はイギリスの伝
統を継承することになります。

幕末から明治期にかけて、日本は特にイギリスとの
関係を強化しました。イギリスは日本に対して技術
的支援や軍事顧問を提供し、その見返りとしてイギ
リス式の海軍制度の導入が促されました。このよう
な関係構築は、国際的な地位を確立するためにも重
要でした。

また、当時のイギリスは圧倒的な海軍力を持ち、最
新の技術と戦術を駆使していました。イギリス海軍
の艦船、兵器、戦術は非常に優れており、これらの
技術を導入することは日本の海軍力を強化するため
の最も合理的な方法と考えられていたからです。

イギリスは、海軍兵の教育と訓練においても先進的
な制度を持っていました。海軍兵の訓練方法や教育
制度は非常に整備されており、日本海軍はこれを参
考にし、効果的な教育制度を構築しました。

しかし、悪しき伝統も引き継いでいます。たとえば
イギリス海軍においては、兵科(航海、通信、砲術、
水雷など艦船を運用して兵器を操作する任務を果た
すもののうち機関関係をのぞいたもの)優位で機関
科蔑視の差別思想がありました。

日本軍はイギリス式を導入することで、この思想も
海軍内部に植え付けられました。これは以後いわゆ
るエンジニア問題として機関科将校の不満の種とな
っており、第2次世界大戦に至るまで禍根を残しま
した。

このような、背景をもとに海軍の情報機関も必然的
にイギリスを模倣していくわけです。

ところが、イギリスにおける近代的な情報組織の設
立は意外と遅く、陸軍は1873年に陸軍省内に情報部
を設置(1887年に軍事情報部に拡大)、海軍は立ち
上げが陸軍に10年も遅れています。1883年に海軍司
令部内に海外情報委員会を設置し、1887年に海軍情
報部が設立されました。

▼建軍から日清戦争までの日本海軍情報機関

陸軍の部分と繰り返しになりますが、建軍当初の組
織名の変遷を追っておきましょう。

1868(明治元)年、海陸軍務科が設置。直後より軍
防事務局、軍務官へ改組
1869(明治2)年、軍務官が廃止され、兵部省が新設。
当初は陸海軍の区別なし
1870(明治3)年、兵部省に海軍掛(りくぐんがかり)
と陸軍掛が設置
1871(明治4)年、両掛が海軍部と陸軍部へ改編
1872(明治5)年、兵部省が廃止(太政官第62号)
され、陸軍省、海軍省が設置
海軍省設立当初は、秘史局、軍務局、造船局、水路
局、会計局の5コ局から成っていました。
1876(明治9)年には、軍務局、水路局、会計局、
主船局、兵器局、医務局の6コ局と事務課、記録課、
翻訳課の3コ課となりました。軍政も軍令も海軍省
が担当していました。

1884(明治17)年には、軍務局が廃止され、代わり
に軍事部が設置、軍事部条例で任務なども明確に制
定され、海軍の軍令機関が初めて出現しました(陸
軍は、1878(明治11)年に陸軍省から参謀本部が軍
令機関として独立しました。しかし、海軍省から軍
令部門が独立するのはまだまだこの後のことです)。

軍事部は第1課から第5課までの5コ課編成で、第1課
(軍務全般担当)を除きいずれの課も以下のような
何らかの情報にかかわる業務を行なっていました。
第2課:外国兵制の観察
第3課:沿岸防禦に関する事項、水路の難易に関す
る研究
第4課:艦船砲銃水雷等の利害の得失の研究
第5課:内外の兵書、戦史その他海軍に有益な図書
の収集、翻訳
編制は将官を長とし、人員は20~40名程度の陣容と
考えられています。

1888(明治21)年には、当時としては画期的な陸軍
と海軍を統合した組織である参軍官制が制定され、
参軍の下に陸軍参謀本部と海軍参謀本部が並置され
ることになりました。参軍官制下での国外情報活動
は、陸軍では参謀本部内の第2局、海軍では参謀本
部内の第1局(作戦の計画、諜報の調査)がそれぞ
れ担当しました。
(海軍参謀本部条例 明治二十一年 勅令第二十六
号)

しかし、この制度は戦時に陸軍の統制下に入ること
を嫌ったと思われる海軍の意向により、わずか1年
弱で廃止され、1889(明治22)年、海軍参謀部が設
けられることとなりました。参謀部には3つの課が
置かれ、その第3課が諜報を担当しました。(海軍参
謀部条例 明治二十二年 勅令第三十号)

「第3課は内外国諜報の事を所掌し、秘密諜報、通常
諜報、特別諜報、兵事上必要なる書類翻訳編纂を行
う」ようになっています。(海軍参謀部各課将校服
務規則 明治二十二年 四月二十六日 海軍省達第
百九号))

翌1890年には、海軍参謀条例が改正され海軍参謀部
が「公使館付き武官」も管轄することとなり情報収
集手段(ヒューミント)が増えました。

1903(明治26)年の海軍軍令部条例により、海軍軍
令部に2局が設けられ、第1局は、作戦、出師(動
員)準備、沿岸防御の計画、艦隊軍隊の編制及び軍
港要港に関する事項を、第2局は、教育訓練の監視、
諜報及び編纂に関する事項をそれぞれ分掌すること
になりました。

本条例により、1889(明治22)年に海軍参謀部第3課
として独立した情報組織は再び第2局の中に組み入
れられることとなりました。

▼日露戦争前後の海軍の情報組織

1896(明治29)年、牒報課が新設されました。これ
により、第1局は「作戦、沿岸防御、艦隊軍隊、編
制及び軍港、要港に関する事」、第2局は「出師準
備、艦隊艦艇隊運動程式、信号書諸操典の制定、教
育、訓練、検閲及び海運に関する事」を所掌するこ
とになりました。

牒報課は「牒報(*)、翻訳及び編纂に関する事」
を所掌するようになりました。
(海軍軍令部条例 明治二十九年 勅令第五十九号)

(*「牒報」の用語は明治三十年の勅令第四百二十
三号から「諜報」に改められました。)

ここで、再び情報専門の課が設けられるようになり
ました。その理由は明らかではありませんが、日露
戦争を見据えた情報収集体制の強化と1887年に設立
された英国海軍情報部の影響を受けたものと推測さ
れます。

当時の牒報課の課長は少佐で第1、第2局長が大佐
だったのに比べ位置づけが低かったと見られますが、
翌1897(明治30)年には牒報課が第3局に昇格し、
局長は大佐となり人員も第1局の7名、第2局の8
名に比べれば、やや多めになりました。第3局は、
外国の軍事、諜報、翻訳及び編纂に関する事を所掌
しました。

1904(明治37)年には、局を廃止して、3個班編成
が採用され各班の首席参謀が、その班の事務を監督
しました。第3班の所掌は、軍事情報、翻訳並びに編
纂に関する事でした。

軍令部処務細則によれば、
1各国の兵制並びに国防に関する事項
2各国海軍勢力の長さ及び艦船艇に関する事項
3東洋における海陸軍の状況動作に関する事項
4東洋諸邦交通に関する事項
5東洋港湾の調査並びに沿海兵要地理に関する事項
6東洋に関係ある外交事件
7公使館付将校の報告及び諸諜報に関する事項並びに
其の分類保管
8外国書類並びに新聞雑誌の翻訳
9兵要書類の編纂です。

当時の第3班の定員は16名(部の定員は54)で、定
員外で臨時採用(出仕)の印刷工などが20名いまし
た。

1904(明治37)年対露宣戦布告の翌日の2月11日から
1904(明治38)年の12月20日まで宮中に大本営が設
けられました。大本営海軍幕僚(軍令部長、軍令部
次長、海軍参謀、海軍副官)は、軍令部において勤
務し、必要がある場合のみ宮中における御前会議
(通常は週1回程度)に列席しました。

海軍参謀は、軍令部の職員が兼務し、情報活動は軍
令部の組織を通じて行なわれました。

日露戦争後の1905(明治38)年12月21日、海軍軍令部
は3個班から4個班編成となり、従来の第1班の任
務の一部が第2班に付与され、第3班の任務がその
まま第4班へ(軍事情報、翻訳・編纂業務)と繰り
上がりました。(海軍軍令部処務規則の改正)

各班の首席参謀は班長と呼称され、班長の責任と権
限が明確にされました。1904年の処務規則細則と比
べると第4班の所掌事項は、外国艦船の発着調査と
いう項目が追加されるとともに、「東洋」という用
語が全て「各国」に改められました。

これらは、日露戦争後、情報資料収集の対象が、東
洋から世界へと拡大したことを示しています。定員
は1904年から佐官が2名増強されています。

このように、海軍は陸軍に比べて情報部の設立が遅
く、また情報部門が独立したり併合されたりを数回
繰り返しています。

次回は、日清・日露戦争に備えた海軍の対外情報収
集などについて検討します。


(つづく)



(ひぐち・けいすけ)



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【著者紹介】

樋口敬祐(ひぐち・けいすけ)
1956年長崎県生まれ。拓殖大学大学院非常勤講師。
元防衛省情報本部分析部主任分析官。防衛大学校卒
業後、1979年に陸上自衛隊入隊。95年統合幕僚会議
事務局(第2幕僚室)勤務以降、情報関係職に従事。
陸上自衛隊調査学校情報教官、防衛省情報本部分析
部分析官などとして勤務。2011年に再任用となり主
任分析官兼分析教官を務める。その間に拓殖大学博
士前期課程修了。修士(安全保障)。拓殖大学大学
院博士後期課程修了。博士(安全保障)。2020年定
年退官(1等陸佐)。著書に『2020年生き残りの戦
略』(共著・創成社)、『2021年パワーポリティク
スの時代』(共著・創成社)、『インテリジェンス
用語事典』(共著・並木書房)、近刊『ウクライナ
とロシアは情報戦をどう戦っているか』(並木書房)



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