配信日時 2024/09/03 08:00

【情報戦争を生き抜くためのインテリジェンス(17)】情報要員の活躍と悲哀     樋口敬祐(元防衛省情報本部分析部主任分析官)

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おはようございます、エンリケです。

インテリジェンスのプロ・樋口さん(元防衛省情報本
部分析部主任分析官)がお届けする
『情報戦を生き抜くためのインテリジェンス』
の17回目。

名も残らず、斃れ、消えていった情報要員は、
想像以上に多くいるのでしょうね、、、

さっそくどうぞ。


エンリケ



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情報戦争を生き抜くためのインテリジェンス(17)

情報要員の活躍と悲哀


 樋口敬祐(元防衛省情報本部分析部主任分析官)

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□はじめに

今回も引き続き明治期の情報要員の活躍です。活躍
といっても成功ばかりではありません。成功の裏に
は、数多くの失敗もあったはずです。“はず”とい
うのは、明らかになっていない活動の方が多いので
はないかと思われるからです。

また、諜報活動や工作活動自体は成功しても、情報
要員のその後の軍隊での勤務や退役後の人生は必ず
しもうまくいったとは言えない人もいます。今回は
そのような側面も紹介します。


▼僧侶「清水松月」に偽装して活動した花田仲之助

川上操六にシベリアに送り込まれたのが花田仲之助
(はなだなかのすけ1860~1945)でした。

花田仲之助は、1860年薩摩藩(鹿児島県)で藩の奥
侍医の家に生まれました。1877年、16歳で西郷軍の
配下として西南戦争に参戦しましたが、政府軍につ
かまりました。そこで斬刑となるところを川上操六
に助けられました。

これに恩義を感じた花田はその後上京して、1880年
に陸軍士官学校に入学、軍人の道へ進みました。

陸軍士官学校の同期には、明石元二郎、荒尾精、根
津一などがいました。花田は青年将校の期間中に、
鎌倉の円覚寺で座禅に励み「松陰」の居士号(*)
を授かるほどになりました。

(*居士(こじ)とは出家せず、在家で修行を重ね
る仏教者の意味です。普通の信者と異なる点は、仏
教学の知識・実践において僧侶に準ずる、あるいは
匹敵するほどの力量を持っていることです。)

1896年、川上参謀次長から参謀本部への出仕を命じ
られ、このような特技を活かす特別任務を命ぜられ
ました。

1897年、西本願寺のシベリア別院の布教師というふ
れこみで、僧侶「清水松月」に偽装してウラジオス
トクを拠点として表向きは布教活動を行ない、裏で
はシベリアや満洲において情報収集に努めました。

この任務は川上が花田だけに与えた特命であり、ほ
かの者には極秘にされていたようです。清水松月の
寺には、参謀本部所属の軍人の姿も見られましたが、
彼を「僧侶であることに疑いを持つものはなかった」
とされるほどでした。

しかも、花田の主要な情報源は、娘子軍(じょうし
ぐん)と呼ばれていた日本人の娼婦たちでした。娼
館のお得意さんは、シベリア鉄道の建設現場で働く
現地の工夫たちやロシア軍の将兵であり、そこで娼
婦たちが寝物語で得た工事の進捗状況や軍事に関す
る情報を花田が収集して回っていたというのです。

このようにして、順調に情報収集していましたが、
1899年5月に川上参謀総長が急逝し、参謀本部の方
針が変わり、12月には本部から花田に対し帰還命令
が下りました。

内地に帰るとすぐに報告書を川上の後任の大山巌参
謀総長に提出し、12月28日付けで予備役へ編入、少
佐に昇任すると当時に陸軍を辞めました。

この報告書には「対露卑見」(*)というタイトル
がつけられ、満洲侵略に対するロシア側の飽くなき
工作活動、ロシア軍の獰猛な性格が記されました。
そこに、日清戦争の勝利によって横暴にならんとし
ている日本軍の言動を忌憚なく批判した意見書が付
されました。(*卑見:自分の意見の謙譲語)

花田が軍を辞めたのは、参謀本部第二部長の田村怡
与造大佐とロシアへの対応をめぐり意見が対立した
のが原因とされています。

その後、1901(明治34)年2月には、国民教化を目
的とする団体「報徳会」の設立のため、「東亜報徳
会」発起主意書を発表し、「教育勅語」を基本とし
「知恩報徳・感恩報謝」の精神を全国各地に広める
活動に従事しました。

しかし、1904年、日露戦争が始まると予備役少佐と
して召集され、急きょ参謀本部に復帰して満洲に派
遣されました。そこでは、玄洋社の大陸浪人などと
共に満洲義軍を編成し、馬賊をまとめて諜報活動に
従事しました。

当時ロシア軍は、満洲での影響力を高めるための工
作手段として馬賊を利用しており、これに対抗する
ために日本軍も馬賊を利用する必要があったからで
す。

満州義軍の最大時の兵力は3000名に及びましたが、
1905(明治38)年9月5日のポーツマス条約(日露
講和条約)を受けて10月に解散しました。

その後、花田が退役した年月日は明確ではありませ
んが、1906(明治39)年3月には、東亜報徳会を改
め、報徳会と呼称し国民教化活動を再開するととも
に、軍事や戦争に関する著作を執筆し、知識の普及
に努めるなどの活動を続け1945(昭和20)年に亡く
なりました。

▼石光真清の秘められた活躍と失意

石光真清(いしみつまきよ1868~1942)は、1868
(明治元)年、熊本藩士・石光真民(100石)の長男
として、熊本に生まれました。陸軍幼年学校を経て
1889年に陸軍士官学校を卒業。近衛歩兵第2連隊付、
その後1895年、陸軍中尉で日清戦争に出征するなど、
順調に軍歴を歩んでいました。

彼の謀略活動の詳細が明らかになったのは、その手
記が公開されたからです。石光真清の自伝的手記は、
彼の死の直前の1942年2月に『諜報記』として刊行
(真清の手記を基に新聞社に勤務していた長男の真
人が浄写校訂)され、没後(42年5月15日逝去)に
『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』『城下の
人』など四部作として真人氏によって編集され出版
されました。

石光真清は筆まめで、時間があれば詳細な日記を書
くことを習慣としており、それは戦場でも同様だっ
たそうです。引退してからは昔の日記を取り出して
は書き綴っていましたが、そもそもその原稿を他人
に見せる意図はなく、物置に放置していたり、一部
を焼却したりしました。

しかし、残った原稿の価値などを長男が見出し、説
得して、浄書したり、編集したりして出版しました。
したがって、それらの本が出版されなければ、真清
は一情報要員として歴史の中に埋もれてしまい、彼
の功績や活動は、明らかにならなかったでしょう。

石光真清は、1901年に特別任務のため予備役に編入
され、菊池正三の偽名で、満洲、シベリアなどに渡
り、民間人としての生活などを送りつつスパイ活動
に従事しました。

ハルピンでは、当時はロシアでは下賤とされていた
洗濯屋を営んだり、その後写真館を経営するなどし
て、次第に現地で信用を得てロシア軍の御用写真家
にまでなりました。その結果、なんとシベリア鉄道
の建設進捗状況や橋梁などの写真を怪しまれること
なく撮影しています。

日露戦争後は、退役して東京の世田谷の三等郵便局
長などを務めましたが、1917年に召集されて再びシ
ベリアに渡り、諜報活動に従事しました。最終的な
階級は少佐でした。

1919年、召集解除されましたが、帰国後は夫人の死
や負債など、失意の日々を送り、晩年は、シベリア
時代のスパイ活動での体験の悪夢に苛まれるなどし
て1942(昭和17)年76歳で没しました。

ちなみに、真清の二つ下の弟、石光真巨(いしみつ
まおみ 1870~1937)も、軍人の道を歩きました。陸
軍幼年学校に入り、1890年陸軍士官学校卒業、翌91
年砲兵少尉に任官、1904年には、第10連隊大隊長と
して日露戦争に出征、1907年には野砲第8連隊長を
拝命するなど順調に普通の陸士出身の軍人としての
経歴を積みます。

1910年には大佐に昇任し、1913年からは参謀本部に
勤務し、支那課長、1915年に部欧米課長、1916年に
は少将に昇進しました。その後、1919年に中将に昇
進、第1師団長などを歴任しましたが、当時の軍縮の
風潮のため大将には親任されなかったといいます。

1925年に予備役となりましたが、真臣は、肥後魂と
卓越した識見を持った逸材、中国通、軍事教練の発
案者として知られています。

真臣の経歴から考えると、仮に真清が軍事探偵(ス
パイ)の道に足を踏み込まなければ、退役時には中
将以上の階級となり真臣と同じように、将軍として
歴史に名を刻まれていたはずです。

息子真人氏によれば、真清は、予備役になり50歳頃
から反省と追憶の生活に入ったとされます。この中
には、若くして愛国心に燃え軍事探偵になったとは
いえ、少佐で終わった自分と中将まで昇進した弟、
さらには出世した陸士時代の同期、後輩などとを比
べると悲哀を感じたこともあったのではないかと推
察されます。

▼報国六烈士

日露戦争で諜報・謀略活動に身を投じたのは、軍人
だけではありません。東京の文京区の護国寺には、
日露戦争時にロシア軍内に潜伏し、特別任務に就き
亡くなった民間人6人の志士の慰霊を顕彰する「報
国六烈士碑」があります。

六烈士とは「横川省三、沖禎介、脇光三、松崎保一、
中山直熊、田村一三」の24歳~39歳の青年です。こ
の特別任務班の目的は、ロシア軍背後の交通・通信
網の破壊や情報収集、馬賊を利用しての攻撃などロ
シア軍の攪乱(かくらん)でした。

なかでも伊藤柳太郎大尉の下に編成された特別任務
班第1班(12名)は、ハイラル、チチハル方面でロ
シア軍の兵站線である東清鉄道(*)の鉄橋を破壊
する任務を帯びていました。

(*シベリア鉄道から分岐し、満洲を横断してウラ
ジオストクと結ぶ路線でロシア軍の兵站線の大動脈)

途中で伊藤班と横川班の2つのグループに分かれ作
戦を遂行しようとしましたが、いずれのグループも
作戦に失敗し、大半はロシア軍に捕らえられ処刑
(銃殺)されました。

その際、脇光三ら4名は、ロシア軍の手から逃れ一
旦退却しましたが、蒙古のクーロン(現ウランバー
トル)付近で蒙古兵に襲われ、殺害されました。

横川省三(よこかわしょうぞう1865〜1904)は、盛
岡藩出身。若いころは、自由民権運動に投じ、加波
山事件に連座して投獄されたこともあります。1890
年に東京朝日新聞社に入社し、郡司成忠の千島探検
の特派員や日清戦争では従軍記者となりました。

のちに清国に渡航して北京の東文学社(*)に入り
ますが、日露戦争前に軍事探偵として諜報活動に従
事するようになり、特別任務班に参加しました。

(*日清戦争後の日本語ブームのなか、1898年に上
海に設立された日本語を教える私立の学校の一つ)

沖禎介(おきていすけ1874~1904)は、1874年長崎
県平戸生まれ。第五高等中学校卒業。東京専門学校
(現早稲田)に入るも中退し、1901年に大陸に渡り、
北京で東文学社の社長代理となりました。1903年に
独立して文明学社を創設、清国人教育に取り組みま
した。

しかし、日露戦争勃発後は、横川省三らと諜報活動
に従事するようになり、特別任務班に参加しました。

脇光三(わき・こうぞう1880~1904)は、1880年東
京・麹町で出生後、浅岡家から脇家に養子に入りま
した。1900年、日本中学校(現日本学園中学校・高
等学校)卒業後、仙台の第二高等学校医学部に入学
しました。しかし、大陸熱が高じ1901年9月に退学
し、台湾協会学校(現・拓殖大学)の試験を受け2
年に編入されます。

しかし、同校も1年足らずで中退して中国に渡り、
東文学社に入り中国語の研究に努めました。1903年、
天津の北支那毎日新聞社に勤務し、日露戦争開戦後、
特別任務班員に志願しました。

中山直熊(なかやまなおくま1880~1904)は、1880
年熊本県生まれ(経歴代々熊本藩士を務めた家系)
済々黌中卒。税関使を経て、1903年清国へ渡り、北
京振華学堂に学びましたが、間もなく、天津の邦字
紙「北支那毎日新聞」の記者となりました。日露戦
争開戦後、特別任務班に志願しました。

田村一三(たむらいちぞう1882〜1904)は、1882年
宮崎県生まれ。宮崎中学卒。1902年北京で日本語教
師となり、日露戦争開戦後特別任務班に志願しまし
た。

松崎保一 (まつざきやすいち1874〜1904)は、187
4年宮崎県生まれ。陸軍歩兵少尉だが、軍人を除隊し、
1901年清国にわたり東文学社などで中国語を学びま
した。日露戦争開戦後、特別任務班に志願しました。

これらは、記録があるため表面化した一例であり、
このような活動の例はほかに多くあったと思われま
す。


(つづく)



(ひぐち・けいすけ)



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【著者紹介】

樋口敬祐(ひぐち・けいすけ)
1956年長崎県生まれ。拓殖大学大学院非常勤講師。
元防衛省情報本部分析部主任分析官。防衛大学校卒
業後、1979年に陸上自衛隊入隊。95年統合幕僚会議
事務局(第2幕僚室)勤務以降、情報関係職に従事。
陸上自衛隊調査学校情報教官、防衛省情報本部分析
部分析官などとして勤務。2011年に再任用となり主
任分析官兼分析教官を務める。その間に拓殖大学博
士前期課程修了。修士(安全保障)。拓殖大学大学
院博士後期課程修了。博士(安全保障)。2020年定
年退官(1等陸佐)。著書に『2020年生き残りの戦
略』(共著・創成社)、『2021年パワーポリティク
スの時代』(共著・創成社)、『インテリジェンス
用語事典』(共著・並木書房)、近刊『ウクライナ
とロシアは情報戦をどう戦っているか』(並木書房)



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