配信日時 2024/01/24 09:00

【陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(45)】 第1次世界大戦の教訓 荒木 肇

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おはようございます、エンリケです。

「陸軍砲兵史」
の第45回目です。

歴史から学ぶ、歴史を今に活かす、
という言葉はよく耳にしますが、
本当にその価値がある歴史読み物等は
ほとんど存在しない、というのが
いまの私の正直な印象です。

そんななか、
荒木先生の記事と毎週接することのできる
喜びは、他に例えようがありません。

さっそくご覧ください


エンリケ


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陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(45)

第1次世界大戦の教訓


荒木 肇

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▼世界大戦を体験しなかったからという誤解

 これはよく言われることです。日本陸軍は第1次
世界大戦をきちんと学ばなかったから、陸軍は新し
い考えを取り入れなかった。たとえば、大正初めか
ら装備化が進んだ38式歩兵銃の全長は短くならず、
銃剣も長いままだった。


列国は塹壕戦の中での取り回しに苦労したからみな
短くなった。日本陸軍はあの塹壕戦を経験しなかっ
たから、長大なままの歩兵銃を装備し続けた。また、
自動装填連射の短機関銃を装備しなかったのだ。こ
んなことがよく言われます。

たしかにドイツ軍は歩兵銃から騎兵銃タイプにしま
した。英国もまた同じです。でも、日本陸軍の主敵
だったロシア軍、のちのソビエト陸軍はどうだった
でしょう。世界大戦の塹壕戦を経験したはずなのに
第2次世界大戦も、あの長大なモシン・ナガンM1
891歩兵銃はそのまま。さらには銃口にネジ止め
したスパイクを着けていました。銃の全長は129
センチ、着剣すると173センチです。

 38年式歩兵銃の前身は30年式歩兵銃ですが、
銃全長は127センチ、30年式銃剣を着けて16
7センチでした。つまり銃剣格闘でロシア軍に負け
ないように歩兵銃が長かったというのは誤りです。
むしろ、のちにノモンハンなどで行なわれますが、
広大な草原や砂漠地帯で長距離での小銃射撃が行な
われたことからも、不利な短銃身にはできなかった
のではありませんか。

 また、拳銃弾を使う短機関銃を採用しなかった。
これはのちに非業の死を迎える渡辺錠太郎大将が若
い頃に「これからの歩兵には塹壕戦用に短機関銃を
装備すべし」という提言を行なっています。これは
確かにすぐには実現しませんでしたが、あの欧州大
陸のような長大な塹壕線で戦うということが、アジ
アで起きたでしょうか。そうはなるまいと多くの軍
人は考えたようです。

▼重砲を充実した欧州列国

 フランス軍は開戦時には61個中隊、308門が
砲兵勢力でした。それが1918年には野戦重砲約
4600門、攻城重砲340門、合計で約5000
門を整備しています。また迫撃砲も約2000門が
あったといわれます(『兵器と戦術の世界史』)。

 そうして師団の1000人あたりでは開戦時には
3.2門だったのが(軍団砲兵も含んでの数字)、
1918年には4.4門(前同)となり、攻撃用の
師団では8.7門、防禦師団でも5.5門に達しま
す。2個師団、つまり1個軍団で兵員を1万800
0名とすると、およそ160門にもなりました。


 火砲1門あたりの担任正面を調べても砲兵火力の
増大は驚かされます。フランス軍の数字ですが、1
915年9月のシャンパーニュ会戦では野砲1門が
33メートル、重砲は40メートルでした。それが
17年10月のマルメゾン会戦では野砲16メート
ル、重砲にいたっては12メートルとなっています。

▼チンタオ要塞攻撃の日本軍

 では、日露戦争の要塞攻略戦の反省から、ドイツ
領青島の要塞を攻撃した日本軍はどのような砲兵火
力を用意したでしょうか。まず、動員が1914
(大正3)年8月16日に下令されました。対象は
第4師団(大阪)、第5師団(広島)、第18師団
(久留米)管理部隊です。

 23日には旅順、澎湖島(ほうことう)、基隆
(きいるん)、鎮海湾、長崎、佐世保の各要塞に警
急戦備下令となります。砲座は整備され、弾薬も砲
側に揚げられ、すぐにも火ぶたが切れるような態勢
です。9月4日には野戦重砲兵第2聯隊、8日には
前同輜重隊、24日には28珊榴弾砲で編成された
独立攻城重砲兵第4大隊にも動員がかかります。

 すでに第18師団の動員と並行して野戦重砲兵第
3聯隊が8月16日には動員下令。同17日には甲
号臨時編成部隊として攻城砲兵司令部と独立攻城重
砲兵第1、第2、第3の各大隊、独立攻城重砲兵独
立中隊と攻城廠も編成を命じられました。

▼独立攻城重砲兵部隊


 野戦重砲兵第2聯隊は2個大隊、つまり6個中隊
編成で38式12珊榴弾砲が24門です。同第3聯
隊は2個大隊、同じく6個中隊で38式15珊榴弾
砲が24門、どちらも輓馬編成でした。悪路と馬の
不足でたいへんだったようです。

 独立攻城重砲兵第1大隊は38式15珊榴弾砲3
個中隊12門編成でした。本来は徒歩編制でしたが、
前出の野重聯隊から馬を回してもらえました。前同
第2大隊は大型砲装備です。第1中隊は45式15
珊榴弾砲4門、第2中隊は45式20珊榴弾砲4門
でした。

 この2個大隊は10月6日に労山港から上陸しま
す。火砲や砲床材料は軽便鉄道で運ばれ、陣地まで
約50キロメートルを移動しました。もともと両砲
とも要塞に据え付けられるのが前提ですから、移送
はたいへんな困難があったでしょう。

 同第3大隊は加農装備です。広島にあった重砲兵
第4聯隊が編成を担任しました。38式10珊加農
が12門、敵艦艇や気球に射撃します。同第4大隊
は28珊榴弾砲3個中隊6門でした。由良要塞の重
砲兵第3聯隊が編成を担任し、徒歩編制ですから軽
便鉄道で運ばれました。

 独立攻城重砲兵中隊は芸予重砲兵大隊が編成を担
任し、装備は45式15珊加農です。中隊本部と2
門をもつ戦砲隊、中隊段列から成る人員148名、
馬匹4頭の中隊でした。砲台、堡塁の破壊に威力が
あり、制圧射撃に効果があがったといいます。

▼野砲兵と山砲兵

 これに第18師団の固有砲兵である野砲兵24聯
隊が加わりました。2個大隊6個中隊ですから36
門の38式野砲があります。野砲榴弾1万907発
を携行し、射耗が2224発ですから1門あたり約
62発、榴霰弾携行6万1965発のうち1万67
04発を射耗します。1門あたりでは464発にな
りました。要塞攻撃でも歩兵の直接掩護ですから弾
種では1:7.5で榴霰弾が主になるわけです。

 山砲兵中隊もありました。福岡県久留米にあった
独立山砲兵第3大隊が編成を担任し、41式山砲6
門を駄馬66頭、人員288名で運用します。中隊
段列には駄馬50頭が属し、乗馬は20頭、輓馬が
17頭という編制です。山砲兵隊は駄馬といって火
砲や備品を分解し、馬の背に載せて運ぶのでどうし
ても馬が増えました。さらに10月25日、臨時山
砲兵3個小隊が増派されます。各小隊41式山砲2
門です。

▼日英共同軍の砲兵火力

 10月28日の攻撃には、日英軍2万9272人、
うち英国軍は1421人であたることになりました。
重砲の数は88門に海軍重砲隊が8門、合計で96
門です。それに野砲や山砲が44門となります。合
わせて140門にもなったのです。

 兵員が約2万9000人とすれば、1000人当
たり4.8門となります。同時期の欧州戦線のフラ
ンス軍3.2門と比べると、約1.5倍というもの
でした。十分な砲兵に掩護された歩兵の漸進、壕を
掘り、その線を推進してゆく正攻法をとりました。

 当時の朝日新聞の特派員は次のような記事を送り
ました。
「世界文明の粋を集めたる大砲は、一斉に砲火を開
けり。砲声天地に震撼(しんかん)し、硝煙暁霧
(ぎょうむ)を破って、山東の日色為に暗澹(あん
たん)たり」


 では次回はフランス砲兵の戦後改革などについて
調べましょう。



(つづく)


(あらき・はじめ)


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●著者略歴

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。


『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
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