配信日時 2023/05/24 09:00

【陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(11)】 陸軍兵学寮の雑談  荒木肇

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おはようございます。エンリケです。

「陸軍砲兵史」
の第11回目です。

荒木先生の「雑談」です。
本当に面白いですね!

さっそくご覧ください


エンリケ


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陸軍砲兵史-明治建軍から自衛隊砲兵まで(11)

陸軍兵学寮の雑談

荒木 肇


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□はじめに

珍談奇談だらけの異文化流入について、雑談風にご
紹介したいと思います。とにかく列強に追いつくた
めには、その装備・兵器や用兵、さらには組織まで
も丸ごと導入しなくてはなりません。幕末以来、そ
れぞれの大名家には軍隊があり、さまざまな外国か
らの兵制・装備の受け入れがありました。その実態
は、オランダ式、プロシャ式、英国式、フランス式
などなど。


▼明治初めの聯隊・大隊旗

 1870(明治3)年4月17日、明治天皇は
「駒場野(こまばの)」で初めて聯隊大操練をご覧
になりました。駒場野は現在では東京都目黒区にあ
り、当時は広大な原野でした。地名の由来は、徳川
幕府の馬の訓練場があったことからです。そこに集
まった諸藩の軍隊ですが、フランス式、オランダ式、
プロシャ式、英国式とさまざまで、被服、装具、兵
器、号令、喇叭(ラッパ)も異なり、まことに統一
指揮が難しかったといいます。

 藩ごとにひるがえる旗章もばらばらであったので、
統一された10りゅう(方ヘンに「流」のつくり)
の聯隊旗と16りゅう(方ヘンに「流」のつくり)
の大隊旗が交付されたそうです。この聯隊旗は、の
ちの軍旗と同じように日章を中心にして16条の光
を出したものですが、そのサイズは大きかったよう
でした。縦は4尺4寸(約133センチ)、横は5
尺(同152センチ)というものです。周囲に総
(ふさ)もないものでした。(『帝国陸海軍の光と
影』大原康男、展転社、2005年)


のちの正式な軍旗が歩兵の場合、縦2尺6寸4分
(約80センチ)、横3尺3寸(同1メートル)で、
周囲には紫の総(ふさ)がつき、竿頭には菊花のご
紋章がついたものと比べると、ずいぶん簡素なもの
でした。まあ、最高指揮官の陛下の前で、とにかく
統一された姿を見せるための苦肉の策の一つでしょ
う。

この旭光のデザインも当時の兵部省(ひょうぶしょ
う)で軍制の整備を担当していた山田顕義(やまだ・
あきよし、1844~92年・元長州藩士・のち
陸軍中将・伯爵)兵部大丞(だいじょう)や原田一
道(はらだ・かづみち、1830~1910年・元
幕臣・後陸軍少将・男爵)、曾我祐準(そが・すけ
のり、1844~1935年・元柳川藩士・のち陸
軍中将・子爵)などが協議した結果で決めたとあり
ます。

▼原田一道のこと

 この原田一道は少年時代医学の道を志していまし
た。備中国鴨方新田藩の医官の家に生まれて、本藩
である備中松山藩の山田方谷(やまだ・ほうこく、
1805~77年)の教えを受け、江戸では蘭法医
である伊藤玄朴(いとう・げんぼく、1801~7
1年・幕府奥医師)の下で蘭学を学び、砲術知識な
どを評価されて幕府に出仕します。

 この伊藤玄朴も蘭法医として最初に奥医師になり
ました。拙著『脚気と軍隊』でも触れましたが縁故
の蘭学者を引きたて、有名な緒方洪庵なども幕府奥
医師になりました。ただ、いささか強引な人柄で、
かつ権力欲も強かったようです。末路は日本陸軍最
初の軍医総監松本順に弾劾されて幕府から追われる
ように引退します。

 一方、原田は幕臣として順調に活躍し、幕府の遣
外使節団に同行しパリで学び、続いてオランダの陸
軍士官学校に留学しました。彼のハーグでの留学時
代にはサーベルを帯び、洋式の軍服を着た肖像写真
が残っています。専門家によると、これは幕府陸軍
の制式ではなく勝手に作ったものだろうと言われて
いるようです。ズボンにはサイドストライプ、袖に
も襟にも金筋を巻いて、キャップ型の軍帽もかぶっ
ています。

 帰国した時にはすでに幕府は瓦解していました。
しかし、貴重な外国軍隊の経験者、しかも本格的か
つ傾倒的な将校教育を受けてきた人でした。すぐに
新政府に引き抜かれ、兵部省で働くようになりまし
た。

▼教育の混乱

 1869(明治2)年の陸軍大坂兵学寮(大阪と
表記されるのは71年から)の職員録を見た柳生悦
子氏によると、頭(かみ)、権頭(ごんのかみ)が
空席で、権助(ごんのすけ)が最高官。それが原田
一道だったとのことです。その下は権允(ごんのじ
ょう)しかおらず、川勝広道の名があるとのこと。
川勝はたしか横浜仏語学所長でした。

 教官たちも全国から集められたオランダ式兵学の
研究者や、幕末にフランス式伝習を受けた人などが
集まっていて、ずいぶん混乱したものでありました。
フランス式と決定する前のことですから、さまざま
な意見も出ていた頃です。

 当時、新しい兵制については大きな対立がありま
した。大村益次郎は近代陸軍の祖とされています。
いまも靖国神社に立つ像で有名です。彼は長州出身
で天才的な人でした。やはり蘭学者出身で、幕末に
は長州藩の兵制改革を行ないました。大村が考えて
いたのは大坂兵学寮で御親兵士官(政府直属軍)を
養成し、その部下は農兵、つまり庶民出身の徴兵に
よるということです。京都の時代には、そうした論
者が勢力をもっていました。

 ところが、兵学寮が大坂に移転し、原田が兵学権
頭になります。原田によれば卒業生は各藩に帰して
しまうというのです。各藩に帰して、各藩軍の指揮
官、教官にしてフランス式兵制に統一するとのこと
でした。しかも、七道に鎮台を置き、そこには藩兵
を入れる、東京と京都には各鎮台から交代で兵を派
遣するという構想まであったようです。

 七道というのは古代からの行政単位のことです。
南海道、山陰道、山陽道、東海道、東山道、北陸道、
西海道になります。実際に整備された鎮台は(18
76年)第1が東京、第2が仙台、第3が名古屋、
第4が熊本、第5が広島、第6が熊本でした。全国
6鎮台です。 


▼厳しかった教育、原田と揖斐

 1870(明治3)年11月には兵学寮生徒志願
者の少なさに危機感をもった政府は、厳しい態度で
各藩に「貢進生」を差し出すように命じます。藩の
規模によって9人から3人の生徒を差し出せという
布告が出されました。

 集められた生徒たちは大変な目に遭います。術科
教官筆頭の揖斐章の存在です。揖斐は1844年、
幕臣の家に生まれ幕府陸軍歩兵指図役頭取(大尉相
当官)として鳥羽伏見の戦いで負傷します。186
7年からのフランス軍シャノワン大尉らの教え子で
す。幕府の瓦解時には撒兵頭並(少佐相当官)を務
めていました。大村益次郎に招かれ、京都の河東で
教官を務めてもいます。

 のちに1871年には少佐に任用され、つづいて
大佐に進み、西南戦争の田原坂でも重傷を負うとい
った歴戦の士官でした。この揖斐がたいへん生徒た
ちばかりか、同僚教官たちからも評判が悪いのです。

 原田と揖斐、このコンビは欧州式のやり方を徹底
しようとします。さまざまなトラブルや軋轢がある
のは、この時代の特徴でありますが、「西洋かぶれ」
と悪口を言われた2人、「幕臣風情が・・・」と陰
口を叩かれた2人、きちんと仕事をしたようです。

 詳しい中身は、『史話まぼろしの陸軍兵学寮』
(柳生悦子、六興出版、1983年)を参照してく
ださい。今日はふだんには書かない雑話です。


 
(つづく)


(あらき・はじめ)


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●著者略歴

荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。

著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか─安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!─昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊─自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。


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