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「青天を衝け」渋沢栄一は何をしたのか?
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戦争、選挙、金融…
世界中のあらゆる事件をネタに…
常に裏で利益をむさぼるある集団がいた…
国際情勢のあらゆる事象の背後には、
常に彼らの存在が見え隠れすると
国際関係学者の藤井厳喜先生は言います。
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荒木さんの最新刊
知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
警務隊で修練されている「逮捕術」を初めて明らか
にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
れました。
そのため、最高水準の逮捕術の技の連続写真が実に
多く載っています。それだけでなく、技のすべてを
QRコードを通して実際の動画をスマホで確認できる
のです!
自衛隊関係者、自衛隊ファン、憲兵ファンはもちろん、
武術家、武道家、武術ファンにも目を通してほしい
本です。
『自衛隊警務隊逮捕術』
荒木肇(著)
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おはようございます。エンリケです。
「陸軍工兵から施設科へ」第68回です。
ひじょうに興味深い内容です。
「卑怯な極悪人」
まさにその通りですよね。
さっそくご覧ください
エンリケ
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陸軍工兵から施設科へ(68)
赤軍事件とわたしたち
荒木 肇
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□ご挨拶とお礼
大寒波がやってきました。予報が出た頃、わたし
は北海道の陸上自衛隊の皆さんにお話を聞いていた
だく機会を与えていただけました。幸い、北海道で
は零下10度ほどの冷え込みはありましたものの、
およそ3日間、穏やかな天候でした。
黙々と隊員の皆さんは任務に就いています。正門
の警衛には若い女性自衛官も武装して立っていまし
た。きびきびした態度で寒さの中を服務中でした。
お疲れ様!風邪ひかないでと心の中でつぶやいて応
援しました。
KS様、お便りありがとうございます。おっしゃ
る通り朝日新聞をはじめ多くのマスコミは、意図的
に多くのウソを垂れ流してきました。それが記者彼
ら、彼女らのおごり高ぶった勝手な使命感からなの
か、意図的な敵方の工作の結果なのでしょうか。あ
るいはその両方なのでしょうか、少なくとも謙虚な
気持ちで正しい報道を行なうということからは遠い
行動の結果と思います。
KY様、まったくお書きいただいた通りです。歴
史はさまざまな角度から事実を検討し、その上で報
道される中味の真実を追究することが大切ではあり
ませんか。自分の思いと異なる事実があっても、そ
れを受け入れ、その背景の事情にも思いをはせるこ
とが大切です。より正しい時代相の追究に努めてい
かねばなりません。
▼赤軍派の兵士たち
1972(昭和47)年2月2日、グアム島の密
林から横井庄一伍長が生還しました。銃床もぼろぼ
ろになった歩兵銃を「天皇陛下にお返しするために」
持ち帰ったと言われます。長い逃亡生活で56歳と
報道されながら、ずいぶん老けて見えました。「恥
ずかしながら生きて帰ってまいりました」という言
葉が流行し、しばらく「恥ずかしながら」が人々の
口の端にのぼります。
伍長の帰国の翌日、札幌で冬季オリンピックの開
会式がありました。日の丸飛行隊とかマスコミが名
付けたスキージャンプ・チームの日の丸がまぶしか
ったです。それが閉会式からすぐの19日、わたし
たちはテレビにくぎ付けになりました。
連合赤軍の「兵士」たち5人が軽井沢の企業の保
養所浅間山荘を占拠し、管理人の奥さんを人質に立
てこもりました。彼らは猟銃などで武装し、包囲し
た警察官に発砲します。
赤軍派という過激集団は1969年に結成されま
した。70年3月には、その一部が日航機「よど」
号をハイジャックし北朝鮮に「亡命」します。「革
命は銃口から生まれる」をスローガンに、彼らは銃
砲店を襲った京浜安保共闘といっしょになって「連
合赤軍」を名乗りました。
「兵士」たちは軍事訓練に励みましたが、アジト
を警察に見つかり森や永田というリーダーは逮捕さ
れます。残りは軽井沢付近の山中に逃げ込みました。
手加減した警察隊は多くの死傷者を出してしまい
ます。人質の安全が最優先だったからでしょう。そ
れに犯罪者は生きたまま逮捕する、そういった方針
が貫かれます。
2月28日、ついにガス弾だけを使った警官隊は
2人の死者を出しました。人質を救出し、5人を逮
捕することができました。それにしても手ぬるい、
とわたしは思っていました。「兵士」たちは自分が
撃たれることなど考えてもいないからでしょうか。
窓から身を乗り出し、銃を外につき出して警察官に
発砲を続けていました。
その手ぬるさの1つの理由は、まだまだ世の中の
気分に「学生運動」への同調者が多かったからでは
ないでしょうか。卑怯な極悪人、とわたしは思って
いましたが、周囲は必ずしもそうではなかったよう
です。
▼3発で終わる
帝国陸軍の砲兵少尉だった山本七平は『私の中の
日本軍』の中で次のように書いています。だからイ
ンテリや反体制を気取る人たちから、山本氏は蛇蝎
のように嫌われ、反動、右翼とされていました。し
かも、この文章は当時では右翼の代表雑誌のように
言われた「諸君!」に掲載されたのです。
『あれは戦いでも銃撃戦でもない。戦場なら5分で
終わり、全員が死体になっているだけである。今な
らバズーカ砲、昔なら歩兵砲の3発で終わりであろ
う。1発は階下の階段付近に撃ち込んで2階のもの
が下りられないようにし、2発目は燃料のあるらし
いところに撃ち込んで火災を起させ、3発目は階上
に撃ち込む。砲兵が出る幕ではない』
まったく事実です。「兵士たち」もその擁護者たち
も「唯銃主義」を唱え、革命戦争を起こす気なら、
あんな安全な戦いなどすべきではないでしょう。あ
んなのは戦争ではないと山本少尉は言ったのです。
山本七平は1942(昭和17)年に青山学院高等
商業部を繰り上げ卒業すると10月に近衛野砲兵聯
隊補充隊に入営します。1921(大正10)年の
生まれでした。翌年の1月に甲種幹部候補生に採用
され、豊橋の予備士官学校に入校、10カ月の教育
を受けます。豊橋は砲兵科予備将校の養成をしまし
た。44年の5月末にはフィリッピンの第103師
団砲兵隊に配属されます。そこで山本少尉は苛酷な
実戦に参加しました。
赤軍や過激派学生への同情がなくなったのは3月7
日のことでした。リンチで殺された兵士の遺骸が群
馬県で発見されました。続いて県内でさらに11人
の死体が見つかり、千葉県内で2人の死体、合計1
4人が亡くなっていたのです。「総括」という名の
拷問を繰り返し、最後には殺してしまうという異常
な集団であることが明らかになりました。
1972年にはさらに彼らによって陰鬱な事件が続
きます。5月30日のことでした。イスラエルのテ
ルアビブ・ロッド空港で「日本赤軍」の兵士3人が
マシンガンで空港にいた旅行者たちを無差別に撃ち
倒します。非武装の民間人、巡礼者のプエルトリコ
人など26人が殺され、70人以上が負傷しました。
テロというのは卑怯なものです。大きな目的のため
には犠牲はしかたがないと、よく左翼の人は言いま
したが、自分の夢のために人を殺してよいのか。そ
ういう疑問は誰もが持ちます。
なぜか現在でも「専守防衛のためには、誰かが殺さ
れてからでなくては反撃してはいけない」という意
見をもつ人がいます。正義の主張のためには少しの
犠牲があっても仕方がないというのでしょう。興味
深い事実です。
3人のうち2人は手榴弾で自爆し、1人はイスラエ
ル軍に捕えられ正体が明らかになります。よど号の
ハイジャック犯の1人の弟でした。もっとも、この
人の兄もどうやら北朝鮮当局によって処分されてし
まったようです。
▼「100人斬り」と本多勝一
本多さんは不思議な人でした。まず、正確な経歴
が分からない。ウィキペディアを見ても彼の出身校
にはいろんな説があるとしています。わたしは京都
大学で文化人類学を学んだと信じていましたが、ど
うもはっきりしません。大新聞の記者でありながら、
いまだにはっきりとした入社までの経歴が不明瞭
というのは興味深い事実です。
本多さんは鈴木明さんと論争を行ないます。次回
は100人斬りと日本刀の話にします。
(つづく)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
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