配信日時 2022/09/14 09:00

【陸軍工兵から施設科へ(50)】 幻の弾丸列車計画(3)     荒木肇

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荒木さんの最新刊

知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
警務隊で修練されている「逮捕術」を初めて明らか
にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
れました。

そのため、最高水準の逮捕術の技の連続写真が実に
多く載っています。それだけでなく、技のすべてを
QRコードを通して実際の動画をスマホで確認できる
のです!

自衛隊関係者、自衛隊ファン、憲兵ファンはもちろん、
武術家、武道家、武術ファンにも目を通してほしい
本です。

『自衛隊警務隊逮捕術』
 荒木肇(著)
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おはようございます。エンリケです。

「陸軍工兵から施設科へ」第50回です。

記念の50回目は、 秩父宮殿下が登場されます。
偶然とはいえ畏れ多いことです。

この話を読み、大阪の御堂筋を作った人や、
巻頭大震災復興にあたった後藤新平のことを
思い起こしました。

いつの時代も先見性がある人は、同時代に受け
入れられないようです。

国語をめぐるお話も、我が意を得たり!です。

さっそくどう
 
エンリケ



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陸軍工兵から施設科へ(50)

幻の弾丸列車計画(3)


荒木 肇

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□英国女王逝去(逝去)される

 マスコミの報道にひどく違和感を覚えたのはわた
しだけでしょうか。「英国女王死去!」、死去とい
うのは、故人の身内がいうことだと思っていました。
友人のご父君が亡くなって、「逝去」は使います
が、「死去しました」とは言いません。「父が死去
いたしました」、「ご父君の逝去をお悔やみします」
という会話はあっても、「お父さん、死去したん
だって」とは聞いたことがありません。

 事情通にうかがうと、「(わが国の)皇族以外に
は敬語表現を使わない」という申し合わせがマスコ
ミにはあるようですね。そしてまた、英語の動詞に
は敬意そのものをこめることがないから、海外から
の通信を直訳したまでだ・・・と反論されるかもし
れません。


もともと、わが国語には皇族が亡くなると、親王・
女院・摂政・関白・大臣には薨御(こうぎょ)とい
う言葉を使いました。また、皇族・三位(さんみ)
以上の貴人の場合は薨去(こうきょ)、あるいは薨
逝(こうせい)といい、天皇・皇后・皇太后・太皇
太后には崩御という言葉がありました。もっと昔は
上皇、法皇にもつかわれておりました。


制度的に摂政や関白、三位、古い制度下の大臣はな
くなりましたから、薨御は死語となり、薨逝も同じ
ように消えてゆくことだと思います。「薨」という
言葉も、「みまかる」という訓がありますが、「み
まかられた」という表現もなくなってしまうわけで
す。


ただ、外交儀礼として、わが国の皇族に準じると思
われる英国女王陛下が亡くなられたのなら、せめて
「逝去」という言葉は使えなかったのでしょうか。
いや、例外は作れないという原則論もあるでしょう。
ただ、例外的取り扱いという柔軟な態度はとれな
いのでしょうか。


それよりも、「せめて逝去を使うべきだ」という人
間が少数になっていく現状、天皇・皇后陛下の行幸
啓も「お出かけになった」という言い方に変えられ
てゆく社会の気分、良い・悪いで評価するものでは
ないのだろうなとは思っています。


▼最高時速200キロで計算せよ

 この「弾丸列車」は最高時速150キロで計画さ
れていました。ところが、青木槐三氏の回顧による
と、秩父宮(ちちぶのみや・昭和天皇の弟君)殿下
が、世界の趨勢から考えるともっと出せるように、
時速200キロメートルで計算しなおしたらどうか
言われたとあります。戦後の社会では皇族がこうし
たことに口を出すのはあり得ませんが、当時、殿下
は参謀本部に在籍され、業務として運輸関係も視野
に入れる参謀将校でもありました。そのお立場から
の発言であったのでしょう。

 技術陣はさっそく、最高時速を200キロメート
ルにあげて計算し直しました。欧米の様子をみると、
ドイツには時速80マイル(約130キロメートル)
を出すフリーゲンダー・ハンブルガアがあります。
アメリカにはユニオン・パシフィックのシティ・
オブ・デンバーが走っていました。70マイル
(約100キロメートル)以上ならば、ハイアワサ、
デトロイト・アローなどといくらでもあります。

 ドイツのフリーゲンダー・ハンブルガアは意欲的
な流線型の軽量ジーゼル列車でした。1933(昭
和8)年5月からベルリンとハンブルクを結んでい
ました。この頃のドイツは世界大戦後の苦境からの
復興気分に力を注ぎ、海にはオイローパやブレーメ
ンという大型客船、海軍にはドイッチュラントを浮
かべ、陸にはこの高速列車を走らせていたのです。

 わが国も1934(昭和9)年から大陸の南満洲
鉄道、略称「満鉄」では特急牽引用機関車、「パシ
ナ」の設計を始めました。これが「あじあ」号を牽
いて満洲を走ったのです。

▼世界の様子


 20世紀に入ると列車は高速化しました。もっと
も、最高速度は100マイル(約161キロ)を超
えますが、ふつうの定期列車の速度はそう簡単には
あがりません。1931(昭和6)年には、カナデ
ィアン・パシフィックは200キロほどの区間を平
均速度で110キロを出しました。翌年には英国の
グレート・ウェスタン鉄道では124キロの区間で
はありましたが平均時速115キロを記録していま
す。

 とても興味深い指摘を齋藤晃氏はされました。ア
メリカ大陸では運転距離が1500キロメートルに
もなるし、長距離列車は欧州の3倍以上の重さの1
000トンほどの列車が珍しくないそうです。そう
であると、速度よりも貨物・物資の積載量が大切に
されるということかも知れません。ニューヨーク・
セントラル鉄道の有名な「20世紀特急」でも平均
速度は時速87キロだったそうです。

 では、満鉄の亜細亜号はどうだったのでしょうか。
大連と新京(奉天)の間の701.4キロを8時
間半、平均速度82.5キロで走る、これは少しも
すごい記録ではないということです。線路条件も悪
くありませんでした。急勾配は最大で9.5パーミ
ル、箱根越えのおよそ3分の1、最小曲線半径は6
00メートル、レールも一部では60キログラム(
1メートルあたりの重さ)に強化されています。こ
れまでの東海道本線の特急「つばめ」は時速67.
5キロ、満鉄の急行「はと」は同66.8キロでし
た。


▼満鉄のパシナ

 パシナというのは蒸気機関車の型式名称です。パ
シというのは、車輪の並び型が4-6-2、つまり
前輪が2軸、動輪が3軸、従輪が1軸のアメリカ規
格の形式名パシフィックということを表します。車
軸配置では、2C1とも書かれます。


これより大きな形式は、4-6-4のハドソンとい
うタイプです。これは軸重(全重量を軸数で割る数
値)を減らすこと(線路への負担が軽くなる)はで
きますが、どうしても車体が大型化してしまいます。


 そこで「亜細亜号」の牽引機は4-6-2の車軸
配置のパシナということになりました。開発順に、
イ、ニ、サ、シ、コ、ロ、ナ、ハ、ク、チの記号が
付けられました。パシフィック型式の7番目という
ことです。

 それまでのパシコより動輪直径が15センチも大
きい2メートルでした。内地の狭軌用機関車C51
のそれが1750ミリですから、ずいぶん大きくな
ります。石炭の供給も、機関助手による人力では足
りず、メカニカル・ストーカー(機械給炭機)が採
用されました。軸重も24トンで欧州の機関車より
も外形も大きくなっています。


 では、実際の運転ではどうだったか。最高運転速
度は110キロと表示されています。通常運行では
120キロを出すこともあったそうです。試運転で
は135キロを発揮したともいいます。

 こうした技術的な蓄積があったので、当時の鉄道
省も弾丸列車に積極的になれたのです。

▼いまの新幹線は当時の計画線

 歴史はくり返すという言葉通り、鉄道建設は橋梁
とトンネルから始めます。東海道線を1889(明
治22)年に取りかかったとき、箱根のトンネルと
神奈川県の相模川(平塚市と茅ヶ崎市の間)鉄橋が
最初でした。弾丸列車も沿線の用地買収と新丹那ト
ンネルの掘削から始まります。

 丹那トンネルは17年間の歳月と、水で苦しみ、
崩落事故で多くの人命が失われたものでした。その
現行のトンネルと並行して、広軌にふさわしい幅と
高さも大きい新丹那トンネルの工事にかかります。
新旧で比べてみれば、高さで940ミリ高い780
0ミリメートル、幅では1060ミリ広い9600
ミリメートルが新丹那トンネルの規格です。

 このトンネルは熱海口から50尺(約15メート
ル)、三島口は3500尺(約106メートル)を
掘ったところで資材不足で工事を中止します。戦争
が激しくなれば、当然、計画は中止になりました。

 次回もまた、いまの新幹線の母体になった弾丸列
車を話題にさせてください。


(つづく)


(あらき・はじめ)


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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
 

『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
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