配信日時 2022/03/30 09:00

【陸軍工兵から施設科へ(27)】 日清戦争へ備えて   荒木肇

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荒木さんの最新刊

知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
警務隊で修練されている「逮捕術」を初めて明らか
にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
れました。

そのため、最高水準の逮捕術の技の連続写真が実に
多く載っています。それだけでなく、技のすべてを
QRコードを通して実際の動画をスマホで確認できる
のです!

自衛隊関係者、自衛隊ファン、憲兵ファンはもちろん、
武術家、武道家、武術ファンにも目を通してほしい
本です。

『自衛隊警務隊逮捕術』
 荒木肇(著)
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こんにちは。エンリケです。

「陸軍工兵から施設科へ」第27回です。

鉄道と安保は直結していることがよくわかります。

いまのリニア新幹線もそうなのでしょう。


さっそくどうぞ。


エンリケ


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陸軍工兵から施設科へ(27)

日清戦争へ備えて

荒木 肇

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 □はじめに

 ウクライナへのロシア軍侵攻から1カ月が過ぎま
した。戦況は多くの予想をこえてロシア軍の意外な
弱体ぶりが明らかになっています。報道される多く
の映像を見る限り、ロシア軍車輌が分散せずに集ま
って先頭車輌が撃破されたり、ヘリコプターが撃墜
されたりしています。

 一説によると、ロシア軍は兵士たちに海外に通じ
る通信器材を持たせていない、それに対してウクラ
イナ市民は手元のスマホなどから海外に自由に発信
しているからだそうです。意外なことにロシア軍は
実は「張子の虎」だったのではないかとも思われま
す。ソ連崩壊後の軍縮や、徴兵への忌避などがカウ
ンターブローのように大陸軍を無力化してきたので
しょうか。


 いずれにせよ「専制主義対民主主義」の戦いをい
うNATO自由主義陣営とロシア陣営の烈しい情報
戦があることは確実です。わたしたちは、それこそ
情報リテラシーを鍛えながら正しい判断力を持ちた
いものです。


▼鉄道は東北へも

 東北への道を開いたのは日本鉄道でした。この明
治14(1881)年に発足した私有鉄道はもとも
と、秩禄(ちつろく)処分をされて公債をもつ「華
士族」の救済のための組織でした。従来の家禄を奪
われ、何とか収入を確保したい華族や士族が金を出
し合って将来性がある鉄道に投資する、そういった
会社です。

 政府が東西両京を結ぶ路線を建設する間に、日本
鉄道は着々と本州の北端、青森に向けて鉄道を伸ば
してゆきました。日本鉄道というその名の通り、こ
の会社は壮大な鉄道路線の建設計画を立てていまし
た。東京から高崎(群馬県)、同じく青森までと、
高崎から中山道を通って京都まで、中山道コースか
ら分かれて新潟を抜けて出羽(現在の秋田県)まで、
九州でも、いまは門司となった豊前大里(ぶぜん
だいり)から長崎まで、その途中で分岐して熊本ま
でというものです。

 上野と高崎の間の約100キロメートルの営業開
始は明治17(1884)年5月のことでした。続
いて7月には前橋(群馬県庁所在地)までの約8キ
ロを開通させています。そうして翌年3月には、赤
羽と品川間(今の山手線と埼京線)の20.8キロ
を開通させました。品川駅では官設鉄道と線路を結
び、新橋と赤羽間には1日3往復の直通列車を走ら
せます。所要時間は1時間15分だそうです。中山
道の各駅から横浜へ向かう人には大変便利になった
ものでしょう。

 東北方面に向かう栃木県へは大宮(現さいたま市)
から宇都宮(うつのみや・栃木県庁所在地)の路
線開業は明治18(1885)年7月。翌年6月に
は利根川を橋を使って渡り、全通します。

 日本鉄道は会社設立の認可にあたって政府と取り
決めをしていました。それは、「非常の事変や兵乱
があるときには、会社は政府の命令に応じて鉄道を
政府が自由に使える義務をもつ」ということです。
当時はまだ鎮台が各地にあった時代で、「兵乱」と
いう言葉がまだ重みをもっていたのでしょう。実際、
教科書にも書かれる明治17年の「秩父(ちちぶ)
事件」では、特別列車が鎮圧用の兵力を乗せて熊谷
(埼玉県)まで運転されました。

▼青森までの延伸

 白河(福島県)から仙台(宮城県)、仙台から盛
岡(岩手県)、盛岡から青森(青森県)への各路線
が明治19(1886)年から始められます。この
中でもっとももめたのが盛岡から青森までのルート
です。

陸軍は三戸(さんのへ・青森県南東部岩手県境)か
ら百石(ももいし・青森県東部、太平洋に臨む)、
野辺地(のへじ・下北半島の基部、港町)を通って
青森へ向かう計画路線の安全を危ぶみました。有事
では侵攻軍の軍艦による艦砲射撃を受け、敵軍が上
陸することで占拠されれば利用もされてしまうとい
う、当時としてはまったく現実性のある心配です。

陸軍がかわって提案したのは、現在の花輪線や奥羽
線コースでした。盛岡から田頭(でんどう・岩手県
北西部、現八幡平市)、大館(おおだて・秋田県北
東部)、弘前(ひろさき・青森県南西部、弘前平野)
を通って青森へ行く内陸路線です。

しかし、この陸軍が提案したルートは山間部が多く、
トンネルや鉄橋を多く必要としました。経費の増大
がネックとなって、もとの日本鉄道がつくった今の
東北本線の路線通りに建設が認可されます。

こうして上野と青森の間が全通するのは、明治24
(1891)年9月のことでした。1日1往復の直
通列車が運転されました。全長は732キロメート
ル。下り列車の所要時間は26時間15分、上りが
26時間40分だったようです。その30年前の幕
末の頃なら3週間近くの日時を要したことでしょう。
1日10里(約40キロメートル)を歩いても18
日余りがかかりました。

▼日清戦争に備えて

 明治の鉄道は人を運び、物も運び、それに文明も
運びました。学校と軍隊は、新しい文明開化の象徴
でした。時計によって管理されて、夏と冬では昼間
や夜の長さが違うといった自然と折り合った暮らし
は旧いものになりました。人々の生活も近代的なも
のに変わってきました。

 なかでも軍隊は、服装も、食物も、生活習慣や思
考方法まで西欧式近代を取り入れます。兵役を終わ
った若者は故郷に帰ってからも予備役になり、軍隊
と縁は切れませんでした。戦時になると、召集令状
が役場からやってきて、若者たちは最寄りの汽車の
駅から旅立ちました。

 日清戦争(1894~95年)を陸軍は近衛師団
と6個師団で迎えました。主力となる歩兵聯隊は合
計で28個、ほかに野砲兵聯隊7個、騎兵、工兵、
輜重兵各大隊はそれぞれ7個です。近衛と第1師団
の6個歩兵聯隊は東京にあり、ほかは全国各地の衛
戍地(えいじゅち)にありました。野砲兵聯隊と騎・
工・輜重兵大隊は師団司令部所在地にいます。

 東京以外にある22個歩兵聯隊は動員(戦時編制
になること)がかかれば、召集令状によって集まっ
てくる兵員と軍馬を受け入れることになりました。
そこから最寄りの鉄道の駅から汽車に乗り、渡海す
るための集結地に向かいます。たとえば、第1師団
第15歩兵聯隊は衛戍地高崎から日本鉄道で品川に
向かいました。

第2師団は青森から歩兵第5聯隊が、仙台から第4、
第17歩兵聯隊が鉄道を使い、新潟県新発田(し
ばた)の歩兵第16聯隊だけは直江津まで行軍して
鉄道に乗り込みました。名古屋の第3師団は愛知県
豊橋の歩兵第18聯隊が東海道線に乗ります。金沢
の第7歩兵聯隊は福井県敦賀まで他兵科の部隊と行
軍し、敦賀駅から列車に乗り込みました。第6、第
19歩兵聯隊は名古屋駅から列車の旅を始めます。

熊本の第6師団も第13、第23歩兵聯隊が他兵科
部隊とともに私鉄九州鉄道線で門司に向かいます。
小倉の歩兵第14聯隊、福岡の歩兵第24聯隊も鉄
道や港に近い位置にありました。

▼日清戦争と鉄道

 広島の外港だった宇品港、陸軍船舶が集まり大陸
へ人員・物資を送りだした有名な港です。ここと山
陽鉄道を結んだのが宇品線でした。また、陸軍は東
京市内の青山練兵場から新宿への線路の建設を私鉄
甲武(こうぶ)鉄道に委嘱します。青山には臨時停
車場が置かれ、そこから列車が出ました。この停車
場は各地から集まる軍隊をいったん受け入れ、ここ
から品川へ送りだす役目でした。

 現在も東京都品川区大崎では山手線と湘南新宿線
が分かれます。もともと山手線の線路が日本鉄道線
だったのですが、これでは品川駅でスイッチバック
になってしまいます。これまでは前にあって牽引し
てきた機関車をターンテーブルで向きを変えて、後
尾だった貨車・客車に連結する、そんな手間がかか
りました。そこで新しく東海道線の品川―大森の間
の大井で東海道線に直結する短絡線を造ります。

 『日清戦役統計』から見ると、興味深い数字が並
びました。近衛師団は青山停車場から広島まで56
9.69マイル(約910キロメートル)を走行時
間33時間17分、停車時間10時間54分で合計
44時間11分。第2師団は青森から広島まで約1
630メートルを78時間56分。第3師団の名古
屋-宇品間は約540キロメートル、17時間28
分。第4師団の京都-広島間の約380キロメート
ルを19時間26分。第6師団の熊本-門司の間、
約200キロメートルを7時間53分。

 平均速度はいずれも走行時では毎時20キロ以上、
30キロ未満という当時としては、なかなかの速度
でした。青森から停車時間も入れて3日と3時間余
りで広島まで着くことができたのです。

 戦役中で人員14万2900人、馬匹2万550
2頭が運ばれました。



(つづく)


(あらき・はじめ)


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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
 

『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
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