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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
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こんにちは、エンリケです。
短期連載「水雷艇「友鶴」転覆事件―その遭難から
入渠まで―」の最終回です。
他ではけっして見ることを得ない、
面白く、専門性が高く、知識をたくさん得られる
のに読みやすい。
ほんとうに素晴らしい連載でした。
ここで得た知識や感覚、発想、知恵は、
これから先の人生に活かされることと思います。
貴重な連載を提供いただいた
森永様に心からお礼申し上げます。
ありがとうございました!
エンリケ
※おたよりはコチラから
↓
https://okigunnji.com/url/7/
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水雷艇「友鶴」転覆事件―その遭難から入渠まで―
(最終回)
事件の顛末と今後の処置
森永孝昭(ドックマスター・日本船渠長協会会員)
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□はじめに
今回は、「友鶴」が入渠したドックについて、書き
たいと思います。このドックの名称は“第5船渠”
といいました。“ました”とあえて言うことは、現
在の名称と異なるからです。
佐世保海軍工廠のドックは明治から昭和にかけて3
6年間にドック数は、段階的に増えていったのです
が、竣工した順にドック番号を付けていきました。
したがって“第5船渠”ということは、5番目にで
きたドックという意味になります。またこの時には
“第2船渠”は、用途変更で埋め立てされて消滅、
欠番となっています。
ちなみに“第7船渠”が最後となり、日本最大とな
る軍艦の入渠を念頭に建設開渠されたものでした。
長崎三菱で建造した“二号艦”すなわち戦艦「武蔵」
が、推進器と舵の取り付けのため1941年(昭和16年)
7月に入渠したのが、このドックになります。
戦後になって、海軍工廠から民間工場へと移行した
とき、ドックの番号が不規則であったことから位置
順に、番号を振り直しました。これにより6基のド
ックは、海側から見て左から、第1~第6と改称さ
れました。このとき「友鶴」入渠ドックは、左から
2番目にありますので“第2ドック”となったので
す。ちなみに「武蔵」入渠ドックは“第4ドック”
となります。
民営化された造船所の設備は、使い勝手がいいよう
に改造、拡張、変更等が行なわれ、省力化と効率化
を進め、大量の船舶の建造、修理ができるようにな
り、戦後の造船王国の一翼を担うことができました。
それは旧海軍工廠の設備と技術が、戦後の復興に
貢献できたと、大いに喜ばしいことでした。
さて、このようにして民営化工場は、世界の造船所
になったのですが、佐世保には商港として生まれ変
わるにしても日米艦艇の基地が存在し、軍港色の強
い事情がありました。そのため民間造船所の中に、
ポツンと一基だけ国有のままで残されたのが「友鶴」
入渠の“第2ドック”でした。
このため、外観は昔のままの姿、すなわち「友鶴」
が入渠した当時の様相で残っているということです。
これは「友鶴」入渠を調査研究するには好都合で
した。
ところが、立場が変わってこのドックに船を入れる
作業となると、まったく不都合極まりないものなの
です。なぜかといいますと「近代化ができていない」
のひと言に尽きます。
「まさか、日米艦艇の入渠専用のため国有化であろ
う、だからそこそこに近代化がなされているはずだ」
と考えるのが普通だと思います。
ところが、その実態は分かりやすく述べれば、米軍
所有、自衛隊管理、民間(佐世保重工)作業とバラ
バラになっているので、近代化なんて金のかかるこ
とは、他者依存で主体性をもって行なうところがあ
りません。もちろん民間だって、払下げがなければ
金どころか手も足も出せません。しかも稼働率が低
いため「現状でいいのでは」という考えが中央では
支配的でしょう。
この “第2ドック”には、佐世保を母港としている
米艦船が主体となって、掃海艇の小型艦から長さも
幅も限度一杯の揚陸艦、給油艦が入渠するのです。
その作業は、佐世保重工が受け持つのですが、民間
のわれわれが入渠設備のないドックで行なうのです
から、心身ともに苦労することになります。
近代式のドックでは、船首がドック両サイドにある
可動式ローラー装置とワイヤで固定されると、狭い
ドック内でも左右の振れなく安全に入っていきます。
ところが、この昔風のドックでは、大型艦をロー
プで両サイドからなんと大勢の人力で支えるのです。
時には支えきれませんから、ドックサイドに等間隔
で並んで立っている“ビット”という固定支柱にロ
ープを巻き付けて船の横移動を止めるようにするの
です。これからもわかるように、入渠作業には、人
手はいるし、時間もかかるし何と言っても危険だと
いうことになります。
このような“第2ドック”にかかわった仕事をする
たびに「果たして転覆した船を必死に入渠させよう
と頑張った人たちがいたことを、誰か知っているの
だろうか」と、遠く過ぎ去った出来事に思いを馳せ
るものがあります。
▼ 上 奏
“友鶴”遭難の翌日3月13日(入渠の日)、海軍
大将野村吉三郎を委員長として27名よりなる査問
委員会が組織され、早速、遭難の真相、原因および
これに対する責任などにつき調査が始まった。
実をいうと1年4か月前、“早蕨(さわらび)”と
いう二等駆逐艦が、荒天の東シナ海で転覆沈没し、
104名の殉職、生存者14名という極めて似た事故が
発生していたのだった。そのとき少なからず復原性
が取り沙汰されたものの、「悪天候と過搭載(甲板
搭載の補給物品など)が原因」として処理され、真
相は見過ごされたのである。
しかし、“早蕨”が竣工後8年間も運用されたのに
対し“友鶴”はわずか2週間と極端に短かったので、
事の重大さは、あまりにも明確すぎて海軍は「今
回は本気で真相を追究しなければ海軍は終わりだ」
という狼狽にも似た空気が生じていたのだ。
委員は直ちに佐世保へ急行して実況見分と聴取り調
査を行ない、さらに建造所の舞鶴要港部工作部でも
建造経過の調査を行なった。最後に東京の艦政本部
で建造計画関係を詳細に調べ上げた。その後、委員
会は異例の早さで審議を行ない、早くも4月2日、
野村委員長から海軍大臣大角岑生(おおすみみねお)
大将に調査報告書が提出された。
海軍大臣は報告書をもとに、昭和9年4月4日「水
雷艇友鶴遭難事件」を上奏した。
以下に上奏文をやや読みやすく書き下して記述す
る。
記
「謹みて水雷艇友鶴遭難の原因及今後の対策につい
て上奏致します。
{前半は遭難と救助の記述につき省略}
友鶴の艦内調査に基づきまして転覆の原因を各方面
より検討しましたところ大角度の転舵の形跡はなく、
また防水扉等も閉鎖し移動物も確実に固縛されて
おり、操艦上や保安上においても過誤はないとみと
められます。このことは艇長海軍少佐岩瀬奥市の過
去の経歴と昨年度の萩駆逐艦長として小艦艇の操縦
には豊富な経験あり、また思慮綿密の性格を有して
おりこの人格と技量からして裏書できるものです。
友鶴転覆の原因は操艦および保安上の過誤でもなく、
当時の海象はこの種の小艦艇に不利であったけれ
ども稀有の荒天ではなかったこと、及び建造工事に
おいて欠陥がなかったことに鑑み結局計画上の不備
に基づくものと認めた次第であります。換言すれば
船体、兵器、機関の配置上重心点の位置高く、かつ
重量の分布が適当でない関係上、当時の風浪におい
て左舷に大傾斜を起こしたとき、これに対抗する復
原力が不足であったということに帰着いたします。
したがって今回の事件惹起(じゃっき)の責任は実
施部隊にも建造所側にもなく、主として艦艇計画担
当の当局にあることをみとめております。よって責
任者に対しては相当の措置を講じるつもりです。
但しこの計画上の不備は漫然と生起したのではなく、
非常時局にあって制限トン数内において戦闘力諸
要素を極力充足しようとする熱心に発し、また建造
中において上海事変等の教訓を加味する必要に迫ら
れるなどの事情があって、自然と艦の安定性に関す
る見込みが過小になってしまった計画者の立場にも
事情諒とすべきものだと認めております。
以上のように真相は明らかになりましたが、当局の
艦艇計画上の不備は早蕨遭難と略同一の状況におい
て、多事多端の今日、陛下の艦艇を損傷し又百名の
殉職者を出しましたことは衷心(ちゅうしん)恐縮
至極のところであります。
この貴重なる犠牲を教訓としてこの際調査会を組織
し、既成未成の艦艇の安定性に関し徹底的な調査検
討を致しまして、欠陥のあるものは急速に改造を実
施し、計画上不備あるものはその計画を改め、軍備
の整備上支障ないようにすると共に艦艇の安定性に
関する疑惑を一掃し、益々内容を充実し国防の重責
に任じて遺憾なきことを期する覚悟でございます」
▼その後
(世 論)
“友鶴”遭難は、日本人特有の美談としてマスコミ
が取り上げたために、全国のあらゆる組織、団体、
自治体、軍や企業、そして個人から弔意と膨大な義
捐金(ぎえんきん)が集まった。また純真な小学生
からの手紙も多数海軍に寄せられた。
やがて西宮にあるタイヘイレコード社により「ああ
水雷艇友鶴」(歌手:吉田一男)と題したレコード
も発売された。
マスコミはちょうど2年前、「爆弾三勇士」(又は
「肉弾三勇士」、新聞社によって呼称が違った)と
称して、第一次上海事変の昭和7(1932)年2月22
日に偶然起こった戦場での出来事を、故意に大々的
に報じ、国民が熱狂した実績があった。その後の大
戦と比較すれば、平時の小さな事象ではあったが、
莫大な義捐金が集まり、数社が競って作った映画や
レコードもヒットし、新聞の売上げも伸びたことが
忘れられなかった。
しかし「柳の下に〝どじょう〟はいなかった」ので
ある。2年前のことは、曲がりなりにも戦場での出
来事であったが、今回は単なる遭難事故であったわ
けだから、表立っては言えなくとも「軍艦が嵐で沈
むとはねー」くらいのことは、普通の大人は思って
いた。
海外からも、国家や軍レベルからの弔意が多数寄せ
られたものの、「Japanese warship は not for
sea, only for lakeだ」なんて陰口をたたかれてい
たのである。
したがって、醒めていた国民は乗らなかったので商
業的なものは失敗に終わり、それを見越した業界も
過剰な便乗は差し控えたのだった。
(藤本造船少将)
造艦担当は、海軍艦政本部の第四部(造船部)であ
り、その実質責任者は藤本喜久雄造船少将であった
が、彼は事件直後の4月5日付で技術研究所転属と
なったのち、4月21日に謹慎15日の処分を受け
た。また艦政本部長の杉政人(すぎまさと)中将は
引責辞任の後、予備役となった。
藤本少将は、謹慎期間中を除き、昭和9年のほぼ12
月いっぱいまで勤務したあと予備役となり、その後、
海軍嘱託として造船の設計陣に復帰する話であった。
しかし翌年(昭和10年)1月9日急逝(享年47)し、
それは叶わなかった。
葬儀は、現役将官の格式にのっとり弔銃小隊、儀仗
兵、軍楽隊が派遣されて盛大に行なわれた。このこ
とからして“友鶴事件”があったにもかかわらず、
前向きで改革的な実績は評価されていたといえよう。
その後、海軍は、保有艦船すべてにわたり復原性の
見直しと、改善工事を順次施工していくことになっ
たが、その最中の昭和10(1935)年9月、またもや
海軍を震撼(しんかん)させる大事件が発生した。
東北三陸の沖合い250マイルの太平洋上において、
演習中の軍艦41隻中19隻までが荒天によって損傷す
るという大海難事故が起こったのである。これを
「第四艦隊事件」というが、特に駆逐艦2隻は艦首
を切断し54名もの殉職者を出したのだった。
これにより今度は船体強度不備と設計の問題が発生
し、リベットと溶接の使用比率の見直し、その他の
改善策を練り、強度確保の補強工事が再び全艦に施
工されることとなった。
これらの連続した事件から、藤本流の斬新さと長所
までも後退させられ、必要以上に「石橋を叩いてわ
たる」式の設計思想に支配されていった。それはの
ちの大戦にも少なからず影響を与えたかもしれない
。
最後になったが、“友鶴”は廃艦となったわけで
はない。徹底した重心降下に努め、主兵装は砲楯式
の12センチ単装砲3基、53.3センチ連装魚雷発射管1基
となったものの、正常な軍艦となって蘇(よみがえ)
り、昭和20(1945)年3月24日に戦没するまで活躍
したのであった。
▼おわりに
平成21(2009)年3月、「友鶴事件」と同海域で巻
網漁船「第11大栄丸」が転覆のうえ沈没した。法的
制限に従った建造、同じ3月に強風下の中、追波に
よる転覆、これは2隻の状況が極めて共通している
と思う。この動機により、“友鶴”の件につき転覆
から入渠までを、まとめることにした。
しかし、ここまで書くとは予想していなかったが、
なにせ昔の事件であるため説明に説明を加えていく
うちに思わぬ長さになってしまった。
参考資料は、ほとんど「アジア歴史資料センター
『事件 災害事故 沈没 転覆 友鶴転覆関係』(WEB)」
を使用した。数ある報告書、電報、作業日誌、交信
記録、新聞などの各内容から照合、吟味、整合、分
析などを繰り返し、より事実に近いものを求めるの
に苦労した。
こうした事件に際しては、今も昔も「操船によって
遭難は避けられたのではないか」という説が時折出
没する。しかし欠陥(ハード)を操船(ソフト)で
対応するには、操船者のみにしか知り得えない限度
というものがある。これを陸上の車に置き換えてみ
れば、誰にでも直ぐに理解できるはずだ。
読者の皆様へ。8回の短期連載でしたが、お付き合
いいただき誠にありがとうございました。現在、
『報国丸と太平洋戦争─仮装巡洋艦になれなかった
武装商船』(仮題)という原稿をまとめております。
近い将来、この本が刊行され、読者の皆様にご報告
できる日を楽しみにしています。森永孝昭
(参考資料、文献)
『昭和9年 友鶴救難報告』――――― 佐世保海
軍港務部長 佐世保図書館
『事件 災害事故 沈没 転覆 友鶴転覆関係』アジア
歴史資料センター
1(1)~1(14) C05023969100~C05023970400
4(1)~4(14) C05023973400~C05023974700
『特務艦朝日潜水艦救難設備実験関係(1)』アジ
ア歴史資料センター C05023589500
『港務部長会議摘録校正の件(2)』アジア歴史資
料センター C05034588900
『戦前船舶』第3号 戦前船舶研究会 1997年
『船渠便覧』小冊子 佐世保船舶工業 船渠課
1959年
『佐世保海軍工廠 資料編』『同 沿革史編』
堤重範/編 1992年
『潜水の歴史』眞野喜洋:監修 社会スポーツセ
ンター 致知出版社 2001年
『空白の戦記(てん(眞編に頁)覆)』
吉村 昭 新潮社 1970年
(つづく)
(もりなが・たかあき)
※森永さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。
↓
https://okigunnji.com/url/7/
【著者紹介】
森永孝昭(もりなが・たかあき)
1949年2月26日、佐世保にて誕生
1972年、長崎大学水産学部卒業
1972年、神戸、広海汽船 航海士
1982年、甲種船長免状(現:1級海技士)受有
1983年、佐世保重工株式会社 ドックマスター
2009年、定年、常勤嘱託ドックマスター
2020年、非常勤嘱託ドックマスター 現在に至る
実績:233隻の新造船試運転船長。延べ約6300隻の
操船(自衛艦、米艦、貨物船、タンカー、コンテナ
船、客船、特殊船など)
現在:一般財団法人 日本船渠長協会会員
過去の外部委嘱:西部海難防止協会専門委員、佐世
保水先人会監事
近著『報国丸と太平洋戦争─仮装巡洋艦になれなか
った武装商船』(仮題)
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