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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。
短期連載「水雷艇「友鶴」転覆事件―その遭難から
入渠まで―」の7回目です。
冒頭文を拝読し、
もはやわが国は海洋国家の名に値しない国になった
のかもしれない。
と強く感じました。
本文も、強くこころ打たれるものでした。
兵隊さんが自らの死と向き合いながら辞世を詠む。
昔の、本来の祖国日本のレベルの高さを改めて覚え
ます。
数字を基に冷静沈着に事態と向き合う森永さんの姿に
真の、海のプロの姿を垣間見ます。
沈没船の内部で徐々に水位が上がってゆく恐怖、、、、
閉所恐怖症の私にはとても耐えられません。
背筋が寒くなりました。
エンリケ
※おたよりはコチラから
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水雷艇「友鶴」転覆事件―その遭難から入渠まで―
(7)
非情なる時間、次々と判明する艦内
森永孝昭(ドックマスター・日本船渠長協会会員)
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□はじめに──日本人船員数の絶望的な下げ止まり
日本船は一体どこへ消えたのでしょうか。今回は日
本の外航船について思うところを書いてみました。
造船所には、いろんな国の船がやってきます。遠い
昔のある日、パナマ船籍の船がやってきたとき、ど
この外国人が乗っているのかと思ったのですが、出
迎えてくれたのは日本人でした。ブリッジでは日本
人キャプテンが「全員が日本人です、パナマ船にす
ると税金が安いそうです」とおっしゃるわけです。
昔といっても50年ほど前までは、欧米の船籍港の
船が数多く見られたものでした。もちろん日本船も、
これが敗戦国かと見紛うほどに世界のあらゆる港
で日の丸を翻していたのです。前回前々回で取り上
げた海難事故でも、ほとんどが「丸」の付いた日本
船であったことからよくわかります。
ところが、この20~30年の間にずいぶん中身が
変わってきました。次から次へとやたらに、パナマ
やリベリア、マーシャル諸島といった小国の船へと
変わっていったのです。もともとパナマやリベリア
は、欧米社会が自分たちの都合に合わせて作り上げ
た船舶のタックス・ヘイブン(税金逃れ)国として、
よく知られていました。これらの国に船籍を移す
ことによって税金軽減を狙ったのでした。
このような船を、英語の直訳では“コンビニ籍船”
と称し、日本語では“便宜置籍船”といいます。さ
らに何が“コンビニ”か、というと普通の国は、自
国船には自国船員を乗せることが義務付けられてい
ますが、“便宜置籍船”にはそのような面倒なルー
ルがない、ということです。したがって海運先進国
は、自国民より安い外国人船員の配乗を目的として、
これらの船を増やしていったのです。
船籍次第で、簡単にいくらでも外国人を雇用できる
というところが、陸上の企業と違うところです。こ
のようにして多国籍人が乗る混乗船が世界的に普通
の姿になってきたのです。よく言えば、国際化の先
駆けであったわけです。
日本では、このような形態船には背を向けて独自の
発展をしていきましたが、国際競争の波には勝てず
、やがて日本でも“便宜置籍船”に鞍替えし外国人
を雇用することが進み、外航日本船も外航船員も急
速に減少していったのです。そして1970年前半、日
本の船員も船もピークでしたが、実にその95%が200
0年代には消滅したのです。
さすがに国も慌てたのか、日本船減少を食い止める
策に転じたのです。税制緩和に加え日本籍船にも外
国人船員を乗せてもいいようになったのです。ただ
し船長、機関長は日本人でなければなりませんでし
た。それでも最初のころは、船会社は日本船として
の質の維持と信用と後継者育成のため、職員(士官)
はじめ主要メンバーは日本人を配乗していました。
これによって100隻以下だった日本船は、200隻を超
えるまでに回復したのですが往時と比べれば取るに
足らない隻数でしかありません。
実際はそのように形態が変わっただけで、日本の海
運先進国として所有し運航する数量は、変わらなか
ったのです。ただ人的資源である日本人船員数は絶
望的になって回復は望むすべもなく下げ止まったま
までした。
そして極めつけの日本船が出現しました。つまり「
これ日本船です、わたしフィリピン人船長です」と、
船長、機関長も外国人でも可能となったのです。
日本船を確保するための苦肉の策の末路でしょうか。
なぜ発展途上国の外国人を乗せることができるよう
になったのでしょうか。ひと口で言えば「技術革新」
でしょう。天測はGPSに代わり、荷役方法も船体強
度もコンピュータで計算し、24時間いつでも世界中
どこからでも通信可能となったからです。それによ
って自国自社の高価な船を、あらゆる形を変えて人
件費の安い外国人に託すことだってできるのです。
ところが、やはり盲点はあります。
人は、研ぎ澄まされたアナログ的要素というか五感
を駆使した操船感覚で衝突を回避する能力がなけれ
ば、事故は防げないのです。その証拠に先進国の軍
艦が、テレビゲーム感覚でしょうか、主に映像画面
で判断して衝突事故を起こし、大損害を出していま
す。またインド洋では「なんでこんなところに」と
いう大型船座礁事故が発生しています。やはり究極
の事故防止は経験豊富な人間によるところが大きい
のですが、もはや逆戻りはできないのが現状です。
今も昔も日本の産業は、大量の海上輸送に依存して
成り立っています。その実態は、フィリピン、イン
ドをはじめ多くの外国人船員が担っている、としか
言いようがありません。
そこから見えてくる「日本を守る」ということは、
“日本国籍の船”や“日本人船員”などと特定する
ものではなく、とどのつまり“日本への海上輸送の
確保“、つまり”シーレーン“という概念だけとい
うことになります。
▼艦 内
(救 出)
急ぎ渠内の排水が全速で進められると、ほどなく船
体が少しずつ扉船から見て右へ傾き始め、上部構造
が渠底に当たったことがわかった。
排水が進むにつれて傾斜は中心線から30度ほどで
止まり、あとはそのまま水位が下がったので安定し
たと判断し、渠内の小型ボートでマンホールを開け
るため数人が船底外板に上った。そして2340、緊急
を要する箇所にあたる、前部左舷第2運用科倉庫の
厚さ14mmの船底に向けて電動ドリルが唸りだした。
ドリルの刃が次々と穿孔を作り、フロアー・プレー
ト(内部の強力構造の骨)間いっぱいに440×650mm
の楕円形の切目破線を作り出した。穿孔の間隔はで
きるだけ詰めてあり、穴と穴の間をガスで溶断して
いくわけだが、この組合せの方が早くマンホールが
作れるからだ。二重底になっているのでさらにあと
1枚を開けなければならないが、内部の鋼板は外板
より薄かったので早目に切開でき、日付が変わっ
た3月14日0045ついに外と内が通じた。
照明を入れると同時に数名が内部へ躍(おど)り込
むと、そこにはちょうど10名が横たわり、ひっそ
りとしていた。ぐったりとした一人一人を揺り起こ
してみたが、0052に2名の意識不明者を確認し
たものの、あとは息絶えていた。
2名の生存者は名札からすぐに三等兵曹「柳田捨一」
(宮崎)、二等水兵「戸田 惠」(愛媛)の両氏だ
とわかった。直ちに軍医官の付き添いのもと海軍病
院に搬送した。
同様にして0430、後部の第3運用科倉庫から、比較
的元気であった8名全員を救出している。後部の人
たちには十分な空気と食料の供出、それに連絡もつ
いており後回しになっていたのだ。
救出者は、一等水兵「穴藤弘義」(徳島)、「松田
卓爾」(大分)、二等水兵「植野宣好」(熊本)、
「笠井武夫」(徳島)、「松木利惣」(大分)、一
等機関兵「石原年行」(鹿児島)、「小松國市」
(福岡)、二等機関兵「山岡 證」(高知)の8氏で
あり、意識もしっかりとして会話すらできた。同じ
く彼らもただちに海軍病院へ移送された。
なお出身者が九州、四国が多いのは、佐世保鎮守府
の管内が九州、四国、沖縄であるからで、士官以外
の乗員は当然それらの出身者で占めることになる。
引き続き、機械室はじめ各所にマンホールが穿けら
れて、諸室、倉庫、タンクその他あらゆる区画を、
海軍関係者、工廠の作業者、同隊水雷艇の乗員など
が生存者の捜索にあたった。
徹底した捜索の結果、前記の10名以外に生存者
は発見できなかった。海軍は早くも同日(14日)
0930には「生存者はなき見込み」と発表、1000から
一旦作業者はドックから離れ、全排水を開始するこ
とになった。
(惨 状)
昼前にドライになると、右側の水船と重油船はドッ
ク右の犬走り段に乗り上げて傾き、左側の水船は特
製盤木に乗り上げ、重油船は倒れた特製盤木に乗っ
ていた。
あと要所に支柱を立てて、不測の傾斜や瓦解の防止
策を講じた後、すぐに遺体収容にあたった。
その結果、14日の1800までに59名の遺体を、その後
15日2200までにさらに13体を収容したが、あとは徹
底的な艦内捜索を行なったにもかかわらず、何者も
発見できなかった。
これで死者72、生存者13(救助者10、脱出者3)の
85名が確定した。総乗組員113名であったので、残
り28名が行方不明になる。
港外では“龍田”“常磐(ときわ)”“初春”“子
日”“燕”“鴎”と3隻の曳船、そのほか航空機も
動員して広範囲を捜索、また平戸、五島をはじめ漂
着予想海岸線もくまなく警察、青年団、消防団等の
協力のもと捜索したが、いずれも生存者も遺体も発
見できなかった。
海軍は行方不明者を死亡と認定、17日午後、死者
72名と不明者28名の計100名の殉職者の合同海軍葬
儀を、佐世保凱旋記念館にて仏式でとり行なうこと
とした。
内部の惨状は目を覆うものばかりであるが、一つだ
け船底部で勤務していた機関部の様子を新聞記事か
ら流用し述べてみる。
「機関長の古谷萬太郎機関中尉(28歳)は、15名の
部下と共にわずか1m×4.5mのスペースに逃げ込ん
だ。16人は水平に走る丸棒2本に体を固縛して隣人
同士は手を握りしめていた。この姿に、最後の最後
まで取り乱すことなく冷静さを保ち整然と行動した
ことがうかがえ捜索者に強い感動を与えた」とある。
16名が逃げ込んだスペースはどこだろうかと思わ
れるが、このようにまとまって多数の死亡者が見つ
かったところは、右舷の軸路しかない。プロペラ・
シャフトは、軸ブレーキがかかっていないため、外
のプロペラが波に洗われると回転するので、逃げ込
んだ乗員はシャフトに巻き込まれるのを避けるため
体を固縛したのかもしれない。
(遺 書)
遺書が艦内の隔壁、フレーム、扉、壁、パイプ、そ
のほか個人の手帳、紙片などに残されていた。ほぼ
原文のままであるが一部を記載する。
「午前四時半急に左にかたむきてんぷくす 極力防
水に努む 家は妹にたのむ 天皇陛下ばんざい」
「日本男子の武士 母安んぜ 国のため 昔 みな
よろこんでしす 子思うに」
「艦と共に四時三十分転覆せり 一区及二区居住員
を以って極力防水に勤むれど浸水徐々にして 一死
奉公の秋来る」
「約一時間半を立てり 一同皆元気にして沈着なり
今だ救助に来たれる様子なし 君に捧げし身体一
同口を揃えて覚悟し居」
後部機械室で大島機関特務少尉の遺書が見つかって
いる。
「我等今よろこんで職に死す帝国万歳 大島外五名」
である。
准士官以上の中で、この大島特務少尉と艇長の岩瀬
奥市少佐の2名だけが、行方不明のままとなってい
るが、艇長は艦橋で指揮していたので転覆と同時に
艦外に流出しただろうことは理解できる。ところが
大島特務少尉は、転覆後も機械室で存命していたこ
とが、これで証明できるのだが不思議にも艦内では
見つかっていない。また「大島外五名」とあること
は6名が同室にいたことになるが、当機械室では4
名の遺体しか発見されていない。
庵埼での潜水調査で、この機械室の右舷側天窓兼入
口が開放されていたことを潜水夫が確認している。
このことから、大島特務少尉ともう一人の2名は、
遺書をしたためたあと、最後の力を振り絞って艦外
脱出を決行したものと推察されるのである。
▼判 明
その後の生存者への聞き取りにおいて、救助者のい
た前部と後部の区画内部の様子がわかったので述べ
てみる。
(前 部)
転覆当時第1兵員室に12、3名、第2兵員室に7、8名
がいた。転覆後「茨城謙一」一等兵曹(福岡)の指
示により、第2兵員室のストーブ煙突から浸水があ
ったので、煙突管を取り外して衣服等でこの穴をふ
さいで防水に努めた。その後、第1兵員室に全員約
20名が集合し、防水扉を閉めた。
第1兵員室の浸水高は最初約15cmであったが、
漸次増水して12日午前11時頃には150~170cmとなっ
た。天井にあたる第2運用科倉庫面までわずか頭一
つほどの空間しかなかったので、在室者は第2運用
科倉庫と米倉庫とに移った。
水位の上昇は止まったが、時間とともに酸素不足に
陥り、中には防毒面を使用した者もいたが、効果が
あるわけでもなく苦悶(くもん)のすえ順次窒息死
亡していった。
その後、ドックにおいてわずか2名のみが失神状態
で奇跡的に救出されている。
(後 部)
転覆当時、第4兵員室には兵員23名がいた。転覆
直後室内に約15cmの浸水があったが、少しずつ
増加して約60cmに達したものの、あとの増水は
なかった。
ところが、隣室(第3兵員室)との防水扉を誰かが
開けたため、そこから多量の海水が一瞬にして浸入、
150cmまで水位が上昇し、天井(第3運用科倉庫面)
までわずか60cmとなった。
この増水の状況を見て10名の兵員は艦外に脱出し
たが、まだ暗夜と荒天のため、そのまま全員が行方
不明となったのである。
その間、先任者の「松原一満」一等兵曹(熊本)は
兵員に対して冷静に事に当たるよう指示し、残り1
3名は水を避けるため上方の第3運用科倉庫に移っ
た。
その後「松原」兵曹と「大隈信男」二等機関兵曹(
佐賀)の2名は12日午後、平戸志々伎埼の南にお
いて救助船があるのを知って脱出したが、荒天のた
め行方不明となった(この2名が“龍田”や伴走艦
から目視された者である)。
あとの11名は、第3運用科倉庫に取り残されたが、
庵埼で3名が脱出救助、8名は14日ドックにおいて
救出された。
あまり固執(こしゅう)する必要はないが、計器類
から転覆時の状況について資料上でみると、
(時 刻)
0416 クロノメーター1 (クロノメーター:時辰
儀、高精度の機械式時計)
0417 クロノメーター2
0420 第1兵員室掛時計
0411 士官室掛時計
の記録が残っている。
また他に殉職乗員の腕時計などが参考にされたと
思うが、海軍工廠は4時17分と推定し、査問委員
会は4時12分と認定した。
この場合は4時12分の方が、事実に近いと思う。
なぜなら4時17分が転覆停止した時刻なら、それ
以前の11分や16分に止まった理由が説明できな
い。
反対に、これが4時12分であれば、それより進ん
だ時刻を示している時計の理由として、機械式時計
は水没直後も、2分から5分ほど針が進むことがあ
ると考えられるからだ。
「当時の時計は精度が悪かったので、初めからバラ
つきはあっただろう」と思われるかも知れないが、
旧海軍では同時刻行動を行なうために、日頃から時
刻整合は特にうるさく、小まめに時刻合わせを行な
っていたのである。
(方 位)
53.6度 ジャイロ(転輪羅針儀)室のマスター
・コンパス(主羅針儀)
60.4度 艦橋のレピーター・コンパス(従羅針
儀)
63.9度 補助ジャイロ室
96.0度 後部操舵所
工廠は、艦首方向は60度で転覆としているが、こ
れはほぼ的を射ているといえる。
(舵 角)
各所の舵角指示器
左 17度 艦 橋
左 2度 後部操舵所
左 18度 機械室操縦室
右 32度 第4兵員室
右 33度 舵機室舵頭
右 32.5度 実際の舵板
工廠は触れていないが、委員会は「針路30度で直
進中、当舵(あてかじ)左舷に18度」としたが、
これはわかりにくい。舵角指示器が各所でバラバラ
であり、しかも実際の舵板は右32.5度になって
いたからである。
(転覆舷)
各所の傾斜計
左舷29度 前部機械室
左舷15度 士官室
右舷80度、左舷30度 機械室操縦室
右舷10度、左舷 0度 第1士官室
最大傾斜が左舷と右舷に分かれているが傾斜計の構
造がわからないので、これだけではなんとも言えな
い。工廠、委員会ともそろって「左舷に傾斜し転覆
した」としている。
工廠は、その理由として「第2兵員室後部にあるジ
ャイロ室の主羅針儀(マスター・コンパス)が、左
舷壁に支えられて約45度傾斜して止まっていた」
ことをあげている。
ドックにあった“友鶴”は、すべての遺体収容と調
査検分が終了したあと、船体の復旧作業が行なわれ
た。
「反転盤木を修復し、船体に仮防水したうえでドッ
クに注水、転覆のまま浮上、横移動して船体を盤木
に乗せる。ドライ後、装備や搭載物件を可能な限り
撤去し、さらに船体の完全防水を行なう。再度ドッ
クに注水して転覆船体を浮上、これを転倒して正位
とする」という手順で行ない、4月27日1200
“友鶴”の引き起し作業は無事完了した。反転盤木
は最後には使用され、無駄にはならなかったのであ
る。
(つづく)
(もりなが・たかあき)
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【著者紹介】
森永孝昭(もりなが・たかあき)
1949年2月26日、佐世保にて誕生
1972年、長崎大学水産学部卒業
1972年、神戸、広海汽船 航海士
1982年、甲種船長免状(現:1級海技士)受有
1983年、佐世保重工株式会社 ドックマスター
2009年、定年、常勤嘱託ドックマスター
2020年、非常勤嘱託ドックマスター 現在に至る
実績:233隻の新造船試運転船長。延べ約6300隻の
操船(自衛艦、米艦、貨物船、タンカー、コンテナ
船、客船、特殊船など)
現在:一般財団法人 日本船渠長協会会員
過去の外部委嘱:西部海難防止協会専門委員、佐世
保水先人会監事
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おきらく軍事研究会
(代表・エンリケ航海王子)
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