───────────────────
ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
合わせは以下よりお気軽にどうぞ
E-mail
hirafuji@mbr.nif
ty.com
WEB
http://wos.cool.coo
can.jp
───────────────────
こんにちは、エンリケです。
「情報機関はインテリジェンスの失敗をどう克服し
てきたか」の七回目。
軍や国防組織が抱える問題は、
能力的問題よりも組織論的問題のほうが本質的に重い。
という個人的な感覚を持っています。
この視点がないと、国防軍事に関する現実的な思考
はできない気がしています。
その意味で今回の本文は非常に面白い内容でした。
帝国陸軍の参謀本部創設が、米より20年以上早か
った事実に正直驚いています。
さっそくどうぞ
エンリケ
おたよりはコチラから
↓
https://okigunnji.com/url/7/
───────────────────────
情報機関はインテリジェンスの失敗をどう克服して
きたか(7)
真珠湾奇襲以来の「情報の共有問題」をいかに解消
したか
樋口敬祐(元防衛省情報本部分析部主任分析官)
───────────────────────
□出版のお知らせ
このたび拓殖大学の川上高司教授監修で『インテリ
ジェンス用語事典』を出版しました。執筆者は本メ
ルマガ「軍事情報」でもおなじみのインテリジェン
ス研究家の上田篤盛、名桜大学准教授の志田淳二郎、
そしてわたくし樋口敬祐です。
本書は、防衛省で情報分析官を長く務めた筆者らが
中心となり、足かけ4年の歳月をかけ作成したわが
国初の本格的なインテリジェンスに関する事典です。
2017年度から小学校にプログラミング教育が導入さ
れ、すでに高校では「情報科」が必修科目となって
います。また、2025年の大学入学共通テストからは
「情報」が出題教科に追加されることになりました。
しかし、日本における「情報」に関する認識はまだ
まだ低いのが実態です。その一因として日本語の
「情報」は、英語のインフォメーションとインテリ
ジェンスの訳語として使われているため、両者の意
味が混在していることにあります。
一方で、欧米の有識者の間では両者は明確に区別さ
れています。状況を正しく判断して適切な行動をす
るため、また国際情勢を理解する上では、インテリ
ジェンスの知識は欠かせません。
本書は、筆者らが初めて情報業務に関わったころは、
ニード・トゥ・ノウ(最小限の必要な人だけ知れ
ばいい)の原則だと言われ、ひとくくりになんでも
秘密扱いされて戸惑った経験から、ニード・トゥ・
シェア(情報共有が必要)の時代になった今、初学
者にも分かりやすくインテリジェンス用語を伝えた
いとの思いから作り始めた用語集が発展したもので
す。
意見交換を重ねているうちに執筆賛同者が増え、結
果として、事典の中には、インテリジェンスの業界
用語・隠語、情報分析の手法、各国の情報機関、主
なスパイおよび事件、サイバーセキュリティ関連用
語など、インテリジェンスを理解するための基礎知
識を多数の図版をまじえて1040項目を収録する
ことができました。
当然網羅していない項目や、秘密が開示されていな
いため、説明が不足する項目、現場の認識とニュア
ンスが異なる項目など不十分な点が多数あることは
重々承知していますが、インテリジェンスや国際政
治を研究する初学者、インテリジェンスに関わる実
務者には役立つものと思っています。
『インテリジェンス用語事典』
樋口 敬祐 (著),上田 篤盛(著),志田 淳
二郎(著),川上 高司(監修)
発行日:2022/2/10
発行:並木書房
https://amzn.to/3oLyWqi
---------------------------------
□はじめに
本メルマガの読者の方に突然の質問です。「イン
テリジェンス・インフォメーション」はどう邦訳す
ればいいのでしょうか?
インテリジェンスもインフォメーションも「情報」
という訳を当てることができますからこれには困
るのではないでしょうか?
情報情報、情報情報資料、インテリジェンス情報、
などと訳に困ってしまいますね。
仮に日本語訳を付けたところでその意味について
も、インテリジェンスとインフォメーションの違い
などよくご存知の方でも、戸惑われるのではないで
しょうか?
これは、「情報」という言葉が日本に入ってきた
経緯、元のインフォメーションの意味も変遷してき
たことなどによる混乱のせいです。さらに、最近で
は2025年の大学入学共通テストからは情報科目が出
題教科として追加されることとなりました。それら
はプログラムや情報処理のイメージが強く、「情報」
とはいったい何なのかと混乱してしまいます。
このようなわけでインテリジェンス・インフォメ
ーションには、現在のところ適切な日本語訳はあり
ません。しかし、その意味することは、秘密に得ら
れた情報、特にスパイなどのヒューミント活動によ
り“秘密裏に得られたインフォメーション”に使用
されることが多いです。
情報源の種類には、大きく分けて機械などを通じ
て技術的に得られる情報(テキント:シギント、イ
ミントなどの総称)と人を通じて得られる情報(ヒ
ューミント)とがあります。
ウクライナ情勢でも、ウクライナ周辺に集結して
いるロシア軍の動向などの商業衛星画像情報(イミ
ント)がネットや新聞に掲載される時代になりまし
た。偵察衛星であれば、さらに詳細な行動を把握で
きる可能性が高いはずです。
しかし、「プーチン大統領の考え方や本音」など
は、機械的手段で入手することは困難です。そのよ
うな場合、仮にプーチン大統領の側近などからヒュ
ーミントにより、信頼できる情報を情報機関が入手
できれば、バイデン大統領は、より適切な行動をと
ることができるはずです。
たとえば、1962年のキューバ危機においては、
U-2偵察機による画像情報とGRUのペンコフス
キー大佐からもたらされたヒューミントを統合する
ことにより、情報機関は適切な評価を下すことがで
き、ケネディ大統領の決断とそれにともなう軍の行
動により米ソの戦争を回避することができました。
今回のウクライナ情勢で、アメリカがロシアの軍
事侵攻に関してかなり正確な見通しを示し、現在の
ところ情報戦で優位に立っていることを考えれば、
テキントだけではない情報つまり、“インテリジェ
ンス・インフォメーション”を入手できている可能
性が高いと筆者は考えます。
今後は、プーチン大統領の戦争終結に関する本音
などが入手できるか、仮に今までの決定的な情報が
ヒューミントだとすれば、その情報源がまだ残って
いるかどうかが非常に気になるところです。歴史的
にはアメリカのヒューミント能力もかなり制約を受
けていましたが、復活したのでしょうか。
さて、先回、真珠湾奇襲と9.11テロにおける、ア
メリカのインテリジェンスの問題をまとめると「情
報収集手段の問題」「情報の共有の問題」「分析の
問題」「情報の政治化の問題」「その他の問題」と
なるとしました。
今後は、その解決のため、アメリカのインテリジ
ェンス機関がどのように対応してきたかを述べたい
と思います。
そして、今回はまず「情報共有の問題」をどのよ
うに解決しようとしてきたかについて述べたいと思
います。なぜなら、この問題はインテリジェンス・
コミュニティーの成り立ちに最も関係し重要かつ長
年の問題だからです。
▼インテリジェンス・コミュニティーの形成と情報
共有
アメリカは、今でこそ世界最強とされる軍隊を常
備していますが、実は、第二次大戦までは、軍は戦
時または戦争に備えて拡大され、戦争終結とともに
組織を廃止するか、著しく縮小するパターンを繰り
返してきました。
情報機関は、そもそも軍の行動に必要な、軍事情
報を収集・分析のために設立されたわけですから同
様の動きをしました。アメリカは今でこそ総勢約2
0万人、予算817億ドルという世界最大級のイン
テリジェンス・コミュニティーを形成しています。
しかし、歴史的には、平時には縮小または一部が廃
止や統合されてきました。
この情報機関の設立およびインテリジェンス・コ
ミュニティーへの発展にともない、情報共有が進展
する一方で、各情報組織間の対立により情報共有が
制限されることになります。
そこで、どのようにアメリカのインテリジェンス
・コミュニティーが形成されていったのかについて
見てみたいと思います。
▼軍における情報組織の常設
アメリカで常設の情報組織が創設されたのは、海
軍が最初です。1882年「平時戦時に海軍に役立
つ資料を収集し記録する」ために、海軍省航海局の
中に情報課が設けられました。
この組織が本格的に情報活動を行なうようになっ
たのは1898年の米西戦争以降ですが、当時の組織の
規模は小さく、その後継の海軍情報部(ONI)情報
部員は、1914年の第一次大戦当時でさえ士官8人、
文官8人でした。
部員の業務の75%は、新聞記事の切り抜きとファ
イリングで、同じような作業は、海軍省内の他の部
局でも行なわれている日常的な業務に過ぎませんで
した。
第一次大戦の進展にともない情報部には、多くの
予備役が投入され拡大したものの、戦争が終わると
再び縮小され、1920年の海軍情報部の士官はわずか
6人(その他不明)という状況で、士官については
大戦前よりも少ない状況でした。
その後も第二次大戦開始前までは極めて弱小の組
織でしたが、欧州情勢が怪しくなってきた1938年6
月に、一挙に約60人の士官と約100人の下士官およ
び文民によって強化されました。ただし、真珠湾奇
襲における情報業務の部分でも記述したように情報
部は敵に関する情報の収集が任務で、肝心な情報の
分析などは、海軍作戦部が担当していました。
陸軍はといえば、海軍に遅れること3年、1885年
10月になって常設のインテリジェンス機関として戦
争省(旧陸軍省)内に軍事情報課を設置しました。
しかし、その内実はといえば、情報課は高級副官室
の一つのセクションにすぎず、わずか3人の要員が、
高級副官リチャード・ドラム准将の部下にいたにす
ぎませんでした。
その任務は、「外国陸軍に関する情報を収集」す
ることでしたが、まともな情報源はなく、ドラム准
将が、各指揮官たちに、部下の将校たちが海外に出
かけた際に収集した情報を、報告書として提出して
もらうよう依頼するような状況でした。
それでも1898年になると欧州各国、メキシコ、日
本などに16の駐在武官ポストが設立され、その新た
な駐在武官制度を活用してやっと独自の情報収集活
動ができるようになりました。
ウィリアム・マッキンリー大統領およびセオドア・
ルーズベルト大統領に仕えたエリフ・ルート陸軍長
官(Secretary of War)(1899~1904在任)は、陸
軍組織の再編成を行ない、その際、陸軍省(戦争省)
内に、第1部(総務)、第2部(情報)、第3部
(作戦計画)からなる陸軍最初の参謀本部を創設し
ました。
第2部は高級副官室の軍事情報課が担いましたが、
1908年には、第3部に統合されてしまいました。さ
らに、その後はウォーカレッジのインフォメーショ
ン・サービスに格下げされてしまいました。
アメリカ軍においていかに当時は情報(部)が軽視
されていたかということが伺える改編です。
その後、1917年4月、アメリカは第一次大戦に参
戦しましたが、外国で戦争するための準備も体制も
できていないまま同年5月に、陸軍の先遣隊を欧州
に送ることになりました。アメリカ陸軍は、それま
で本土から遠く離れた戦場で戦い、大規模な戦闘を
指揮するために必要な参謀組織はありませんでした。
アメリカの対欧州遠征軍の先遣隊長パーシング将
軍は、参謀組織の必要性を実感し、フランス軍の参
謀本部を模倣して人事、情報、作戦、兵站を所掌す
るG1からG4までの部からなる参謀部を現地にお
いて創設しました。
この際、参謀第2部(G2:General Staff
Section 2)は「インフォメーションの収集・配布、
地図の整備、検閲、敵方に関するインテリジェン
ス」を所掌する情報部となりました。そして年末ま
でには、欧州遠征軍の大隊レベルまでこの編成を採
用するようになりました。これ以来「2」の付く組
織は情報を担当する部署になりました。
もっとも、参考としたフランス軍の「参謀第2部」
は、普仏戦争(1870?71年)に敗北したフランスが
ドイツ参謀本部を真似て創設された制度です。
「プロイセン(ドイツ)を見倣え」という風潮は当
時の流行りでロシア、トルコ、日本なども早々に取
り入れていました。
ちなみに、日本においてドイツ(プロイセン)陸
軍を参考にして参謀本部が設立されたのは、1878年
であり、アメリカよりも20年以上も前のことでした。
アメリカは第一次大戦に参戦することになって、
ようやくその必要性を認識し、遅れて取り入れたと
いうことができます。
いずれにしてもこれが、今に至る米陸軍の野戦部
隊における作戦情報を所掌する組織の原型になった
とされています。
▼対外情報機関と中央情報機関の設立
そうした、平時には必要でないと思われる軍の組
織は消滅または、縮小させるという考え方はその後
も続き、情報を統合する機能はもちろんインテリジ
ェンス・コミュニティーなど存在しようがありませ
んでした。
1939年当時、国務省は在外公館からの報告を通じ
て、対外インテリジェンスを入手していましたが、
いわゆるスパイなどを駆使して外国の機微な情報を
収集する対外インテリジェンスに特化した情報機関
はありませんでした。
その頃フランクリン・ルーズヴェルト大統領
(1933~45年在任)は、対外インテリジェンスの能
力に不安を感じていました。そこで、1940~41年に
かけて欧州の情報体制をウイリアム・ドノバンに視
察させ、その報告書に基づき、ドイツのような「中
央情報組織型の情報体制」の設立を検討し始めまし
た。
1941年5月27日、無制限国家非常事態が宣言され、
アメリカが準戦時体制に移行すると情報体制も急速
に強化されるようになりました。
同年7月11日、ルーズヴェルト大統領は、大統領
令によりドノバンを長とする「情報調整官室(OCI)」
を発足させました。その任務は、国家安全保障に関
わるすべての情報を取りまとめて分析することです。
人員は600人、予算は1000万ドルでした。
形式上は、安全保障に関する情報が集約され共有
する体制が初めて出来上がったことになります。
▼軍情報組織と文民情報組織との確執
しかし、この情報調整官室(OCI)の発足は、退
役軍人とはいえ、文民であるドノバンが長となり中
央情報組織を設立すること、さらにその組織が軍事
情報へも介入する恐れを懸念した陸・海軍の反発を
招きました。
そこで、1942年2月、陸・海軍の情報部が中心と
なり、国務省、経済戦争委員会、さらに情報調整官
室の各代表を加えた「統合情報委員会」を設立しま
した。
これらの軍の動きは、真に統合された情報体制の
必要性からではなく、ドノバンの計画する文民組織
が軍の情報も握ることへの反発から生まれたのです。
そのためアメリカの情報体制は、「中央情報組織に
よる情報体制」と「情報委員会による情報体制」の
二つが混在する状況となりました。
日本による真珠湾奇襲後、アメリカには統合参謀
本部が設立されましたが、それを契機に情報調整官
室と軍の確執はさらに激しくなりました。
結局1942年6月13日、文民組織の情報調整官室
(OCI)を戦略情報局(OSS)に改組し、それが統合
参謀本部という軍事組織に従属することで、事態は
落ち着いていきました。このOSSが、中央情報局
(CIA)の前身です。
▼中央情報組織型OSSの解体とCIAの創設
OSSは応急措置的な組織であったため、第二次大
戦後すぐに解体されました。一方の「統合情報委員
会」も陸・海・空軍の情報部長(大戦後に空軍創設)
レベルが参加する組織に縮小され、軍事情報のみを
対象とするようになりました。
ところが、OSSを廃止すると、各情報機関は自ら
の組織の生き残りをかけて互いに競い合って情報報
告書を大統領に提出するようになり、結果として大
統領の下には大量の書類が集まるようになりました。
情報は統合されず、各組織の意見や分析の対立もあ
り、大統領の適切な判断材料とはならなくなりまし
た。
そこでトルーマン大統領は、1946年1月、国務
省、戦争省(旧陸軍省)、海軍省の各省が予算と人
員を充当する形で、「中央情報グループ(CIG)」を
設立しました。大戦後は、急速にソ連に関する包括
的な情報収集の必要性が高まってきたのです。
冷戦下の戦いにおいては、従来の戦争とは違って、
軍事情報の収集だけに重点を置いては不十分です。
ソ連の政治・経済に関する情報もバランスよく収集
し、それらを分析し統合する必要に迫られました。
そこで、1946年7月26日、国家安全保障法により、
独自の予算と人員を有し、各省庁間の情報活動にお
ける調整を職務とする中央情報局(CIA)が設立、
その長官が中央情報長官(DCI)を兼務することと
なりました。
CIAの主な業務は次の3つでした。(1)各省庁間の
インテリジェンス活動を調整する、(2)国家安全保
障に関するインテリジェンスを関連付け、評価する、
(3)国家安全保障に影響を及ぼすインテリジェンス
に関連したその他の職務を遂行すること、です。
この(3)の「その他の職務」が、CIAが秘密工作
を行なうことができる根拠だとされています。
このようにして軍の情報組織を含め、すべての政
府情報組織の上に立つDCIと、中央情報組織としての
CIAがコミュニティーをまとめる体制ができ上がり、
強化されることにより、インテリジェンス・コミュ
ニティーとしての情報収集手段が充実し、情報の共
有がなされるようになっていきました。
ところが、前述のようにOSSと軍との間には、軋轢
がありました。その軋轢はOSSがCIAとなっても解消
されませんでした。そもそもインテリジェンスは、
戦争のため、軍のために必要であり、それを文官主体
の組織が分析することに軍の強い反発があったから
です。
すぐに、両者の分析評価などには違いが生じ、対
立は激化していくことになります。
CIAと軍の対立で、顕著なものは、ソ連のミサイ
ルギャップ問題でした。1956?57年当時、CIAは、ソ
連は大規模な爆撃機部隊を保有していないことなど
から、ソ連の産業はそれほど生産性が高くないと見
ていました。
しかし、1957年、ソ連がスプートニク1号の打ち
上げに成功し、人類で初めて人工衛星を地球の周回
軌道に乗せることに成功したいわゆるスプートニク・
ショックにより、アメリカのミサイル技術のソ連に
対する遅れが、安全保障上の命取りになるという論
争が生まれました。
▼軍事情報組織を取りまとめるDIA
そのようなCIAのソ連に対する見方が甘いと考え
る軍は、軍事情報を取りまとめるため、1961年10月
1日、国防情報局(DIA)を設立しました。当時の
国防長官はロバート・マクナマラで、国防総省下の
情報は、統合参謀本部議長を通じて国防長官に上げ
られるようになりました。
その後も、DIAとCIAは、ソ連の軍事力・戦略・部隊配
置、朝鮮半島情勢の分析・評価などをめぐってことご
とく対立しました。DIAの情報に基づく国防総省と
CIAとの対立は、ベトナム戦争時にピークを迎えまし
た。
国防総省隷下の元国家安全保障局(NSA)長官
のウイリアム・オドム将軍によれば、冷戦期のCI
Aの軍事情報はほとんど軍には、活用されなかった
とされています。
一方、CIAのレイ・クライン元情報担当次官(分析
官トップ)は、「端的に言えば、ケネディ、ジョンソン
政権時のCIAの情報評価と分析は、マクナマラ長官よ
りも穏健で、より楽観的だった」とDIAとの評価の違
いを明かしています。
このようにCIAとDIAとの情報共有は総じてうまく
いっていなかったというのが、冷戦時の状況のよう
です。
▼情報共有が進展しない─頓挫し続けるCIAの改革
1974年、ポルトガルの軍事クーデター(4月)、
インドの原爆実験成功(5月)、キプロス紛争
(7月)の予測に相次いで失敗したCIAは、ニクソン
大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件
(8月)への関与も疑われ、厳しい批判にさらされ
ました。
翌75年、上院に「情報活動に関する政府の工作
を検討する特別委員会」(チャーチ委員会)が設置
され、秘密工作の禁止と議会による情報機関の監督
が強化され、CIAの活動の一部が制限されました。
1977年、情報共有を促進し分析の能力向上の
ため、国家安全保障会議(NSC)は、新たに対外
情報長官を設置し、同長官が全ての情報源からのイ
ンテリジェンスを総合して分析するいわゆるオール
ソース・インテリジェンス分析組織を持つことが必
要だと報告しました。
そのためには、対外情報長官の下にCIAが有す
る秘密工作組織だけでなく、国防総省の傘下にある
電波情報を収集する国家安全保障局(NSA)およ
び偵察衛星を運用する国家偵察局(NRO)などを
入れる必要があると提言しました。
しかし、その案は、国防総省の激しい反対に遭い
実現はしませんでした。
1992年2月、冷戦後の新たな情報体制を検討
していた上院情報委員会のボーレン委員長と下院情
報委員会のマカーディー委員長が、インテリジェン
ス・コミュニティーの再編を求める提言を行ないま
した。
その内容は、CIA長官が兼務している中央情報
長官(DCI)に代わって、コミュニティーに関す
る全権を有する国家情報長官(DNI)を設置し、
DCIと国防長官とのライバル関係に終止符を打つ
こと、コミュニティーの全分析官を1カ所に集めて
「国家情報センター」を設置することなどです。
しかし、この案も国防長官だけでなく他のコミュ
ニティーメンバーからの反対にあって採択されませ
んでした。
1994年には、CIAの防諜担当だったエイムズ・オ
ルドリッチがソ連のスパイだったことが発覚し、
再び議会を中心としてインテリジェンス・コミュニ
ティー改革の機運が盛り上がりました。そこで、複
数の調査委員会により冷戦後のアメリカのインテリ
ジェンスの見直しが行なわれました。
このため倫理上問題のある人物を情報源として運
用することを自重する動きがあり、ヒューミント能
力は弱体化したといわれています。
1996年、相次いで公表された調査結果では、DCI
を兼務しているCIA長官に対し、情報コミュニティ
の長としての権限強化が重要であるとされました。
しかしDCIの権限を大幅に強化した国家情報長
官(DNI)創設案に関しては、再び国防総省の関
係者を中心に反発が生じました。
結局、インテリジェンス・コミュニティーのマネ
ージメントに専念するための中央情報副長官の職を
新設するという中途半端な改革で終わってしまいま
した。
法律的にはCIA長官がDCIとして情報の取り
まとめをすることになっていますが、国防長官の権
限は強大で、国防総省とその傘下の情報機関は、予
算および人員的にインテリジェンス・コミュニティ
ー全体の85%も占めていますので、国防総省が反
対すれば組織の新設はうまくいきません。
そのため、CIAは軍事情報分野には手をだせず
、DCIとしての役割を持つCIA長官を積極的に
補佐できていませんでした。
CIAも、軍との軋轢を避けるためヒューミント
活動、秘密工作活動などに重点を指向し、軍の情報
活動との棲み分けがなされていたというのが実情で
す。
米インテリジェンス機関の設立の目的は、真珠湾
攻撃のような戦略的奇襲を受けないことでした。し
かし、たびたびインテリジェンスの失敗のため、ア
メリカは戦略的奇襲を受け、インテリジェンス機関
間の協力が不十分で情報が共有できていない点が問
題だと長年指摘され続けていました。
そして、その改善策として、コミュニティーを取
りまとめる強力な組織の設立の必要性が常に提案さ
れてきたのですが、実現しなかったというのが、
9.11テロまでの経緯です。
▼インテリジェンス機関統合のための国家情報長官
(DNI)の設立
これらの流れに終止符を打ったのが、2001年
の9.11テロだったのです。9.11テロは、先
回まで見てきたように、実体としては真珠湾奇襲と
は異なる点が多いですが、それがアメリカ国民に与
えた衝撃度としては、まさに第2の真珠湾攻撃とい
うべきものでした。
しかし、その衝撃が大きかったからといってイン
テリジェンス機関を統合するより強力な国家情報長
官(DNI)の設立が、すぐに上手くいったわけで
はありません。
従来の改善策と同様に、インテリジェンス・コミ
ュニティーを強力に統括する国家情報長官の創設案
は、ほどなく提案されました。
それに対して、すぐに強硬な反対派の意見は、国
防総省関係者から出されました。仮にDNIを設け
ても、従来よりも強力で十分なリーダーシップを発
揮することはできず「屋上屋を架す」結果になると
の意見です。
また、過去のインテリジェンス機関は、色々な変
遷を経つつも比較的うまくいっており「真の原因は
インテリジェンス機関の組織構造ではなく他にある
にもかかわらず、下手にいじくりまわしてインテリ
ジェンス機関を統合化する必要性はない」というイ
ンテリジェンス研究家の主張もありました。
それらの意見を受け、ブッシュ大統領(子)も、
当初は改革に消極的な姿勢を示していました。とこ
ろが、2004年は大統領選挙の年でした。
共和党政権のこのような対応に対し、民主党のケ
リー大統領候補は、速やかに9.11委員会などの
インテリジェンス改革の報告書にある提言すべてを
支持する旨を発表するとともに「ブッシュ大統領は
テロ対策に消極的である」との批判を行ないました。
そこで、ブッシュ陣営としては、大統領選挙対策
の一環として、積極的姿勢を示す必要に迫られ同年
12月8日に「インテリジェンス改革及びテロリズ
ム防止法(インテリジェンス改革法)」を成立させ
DNIが設立する運びとなったのです。
このように長い間その設立が議論され、そのつど
国防総省の強い反対にあって頓挫してきた国家情報
長官がやっと設立されました。ただし、その経緯は
純粋にインテリジェンスの問題を解決するためでは
なく、大統領選挙戦でテロ対策が争点になった政治
的側面の方が大きかったのです。
いずれにしろ、DNIが設立したことにより、結
果的に情報の共有が進展することになりました。従
来はCIA長官がインテリジェンス・コミュニティー
の取りまとめ役として中央情報長官を兼務していま
したが、DNIはコミュニティーの取りまとめ役とし
ての職務に専念し、予算、人事的な権限も強化され
ました。
各情報機関から上がってくる情報を取りまとめ、
大統領への日々報告もDNIの所掌になりました。
したがって、その情報の取りまとめの過程を通じて
インテリジェンス・コミュニティー全体としての情
報が共有されることになりました。
以上のように、真珠湾奇襲以来長年の問題であっ
た、情報共有が不十分という問題点が、60年後の
第2の真珠湾攻撃の教訓により、制度的にはやっと
解消されることとなりました。
さらにシステム的にも改革が進展していますが、
次回はそのあたりから述べていきたいと思います。
(つづく)
(ひぐちけいすけ(インテリジェンスを日常生活に
役立てる研究家))
樋口さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。
↓
https://okigunnji.com/u
rl/7/
【著者紹介】
樋口敬祐(ひぐち・けいすけ)
1956年長崎県生まれ。拓殖大学大学院非常勤講師。
NPO法人外交政策センター事務局長。元防衛省情報
本部分析部主任分析官。防衛大学校卒業後、1979年
に陸上自衛隊入隊。95年統合幕僚会議事務局(第2
幕僚室)勤務以降、情報関係職に従事。陸上自衛隊
調査学校情報教官、防衛省情報本部分析部分析官な
どとして勤務。その間に拓殖大学博士前期課程修了。
修士(安全保障)。拓殖大学大学院博士後期課程修
了。博士(安全保障)。2020年定年退官。著書に
『国際政治の変容と新しい国際政治学』(共著・志
學社)、『2021年パワーポリティクスの時代』(共
著・創成社)、『インテリジェンス用語事典』(共
著・並木書房)
▼きょうの記事への、あなたの感想や疑問・質問、
ご意見をここからお知らせください。
⇒
https://okigunnji.com/url/7/
ブックレビューの投稿はこちらから
http://okigunnji.com/url/73/
PS
弊マガジンへのご意見、投稿は、投稿者氏名等の個
人情報を伏せたうえで、メルマガ誌上及びメールマ
ガジン「軍事情報」が主催運営するインターネット
上のサービス(携帯サイトを含む)で紹介させて頂
くことがございます。あらかじめご了承ください。
PPS
投稿文の著作権は各投稿者に帰属します。
その他すべての文章・記事の著作権はメールマガジ
ン「軍事情報」発行人に帰属します。
最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝し
ています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感
謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、
心から感謝しています。ありがとうございました。
●配信停止はこちらから
https://1lejend.com/d.php?t=test&m=example%40example.com
----------------------------------------------
発行:
おきらく軍事研究会
(代表・エンリケ航海王子)
メルマガバックナンバーはこちら
http://okigunnji.com/url/105/
メインサイト
https://okigunnji.com/
問い合わせはこちら
https://okigunnji.com/url/7/
---------------------------------------------
Copyright(c) 2000-2022 Gunjijouhou. All rightsr reserved