配信日時 2022/03/16 20:00

【海軍戦略500年史(42) 】太平洋の戦い(最終回)──忘れられた通商破壊戦 堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の四十二回目。

きょうでWW2までの海軍戦略が終わりです。

ここでいったん連載は終了です。

WW2以降今に至る海軍戦略の歴史は、
再開後にお届けする予定です。


玉砕が戦訓伝達を不可能にした

との指摘に目を啓かれる思いがしています。



堂下さん、長い間の連載ありがとうございました。
次の連載も楽しみにしております!


さっそくどうぞ


エンリケ


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海軍戦略500年史(42)

太平洋の戦い(最終回)──忘れられた通商破壊戦


堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

 今回は太平洋戦争のまとめです。日米海軍はどち
らも艦隊決戦型の作戦構想を持っていましたが、開
戦前に米軍側の構想はミクロネシアの島々を水陸両
用戦で奪って島伝いに日本本土に迫るというものに
進化しました。艦隊決戦構想は日本海軍独りよがり
のものとなったのです。この島伝いの進攻作戦につ
いて、日米両軍の備えはどうだったのか、これが第
一のポイントです。

もうひとつは、通商破壊戦とそれから商船を守る海
上護衛戦の実態はどうだったのかということです。
終戦直後、東久邇内閣は臨時議会において、太平洋
戦争の敗因の最も根本的なものは船舶の喪失と激減
であったことを明らかにしました。これまでもこの
問題については折々に触れてきましたが、もう一度
整理してみます。

 今回の連載で、第二次大戦までの海軍戦略の歴史
が終わりますので、いったん区切りをつけて休載と
させて頂きます。戦後から今日の海軍戦略の歴史に
ついては、いずれ再開したいと思いますので、その
折にはよろしくお願いします。これまでのご購読あ
りがとうございました。


▼日本軍の島嶼防衛作戦

 第一次大戦で日本の委任統治領となった旧ドイツ
領のマーシャル、カロリン、及びマリアナ諸島はワ
シントン条約(1922年)で防備制限が課せられてい
た。しかし無条約時代となると(1937年)、海軍は
南洋群島の基地整備が必要と判断し、それまで南洋
庁(総理府、のち外務省、拓務省)が行なっていた
飛行場の建設などを担当することになった。また、
海軍は南洋群島の防備のために第4艦隊を新編し
(1939年)、翌年、周辺海面の警備や占領地の治安
維持などを担当する根拠地隊を4隊編成した。

 開戦して日本が南方へ進攻作戦を展開しているう
ちは海軍の根拠地隊でなんとか対処できていたが、
米軍が本格的な反攻作戦を開始して熾烈な島嶼争奪
戦が始まると、海軍だけでは対処できなくなり、陸
軍部隊も派遣されるようになった。しかし、「太平
洋正面は海軍で陸軍は大陸」との考え方は強く、マ
リアナ諸島の例に見るように陸軍部隊の派遣は後手
に回りがちで、ガダルカナル島の補給のように輸送
船の不足や沈没により戦力の造成は難航した。

島嶼での戦い方も、日本軍の防御は第一次世界大戦
のガリポリ上陸作戦(1915?16年)の戦訓などから
水際での撃滅が徹底されたが、米軍は上陸作戦前に
日本の航空基地を無力化して制空権を握り、艦砲射
撃と航空爆撃により日本軍の水際陣地を徹底的に破
壊する戦法をとった。

日本軍の兵力の逐次投入や補給の失敗もあり、圧倒
的な戦力と上陸作戦要領を進化させ続けた米軍の強
襲上陸は防ぎきれなかった。日本軍は太平洋の島々
で奮戦したものの玉砕が続いたことから、米軍の戦
法への対策を立てようにも戦訓を語る者がいなかっ
たことは悲劇的だった。

太平洋戦争を通じて、日本の島嶼防衛戦は、前進基
地の防御に始まり、絶対国防圏の確保、そして最終
的には本土決戦への時間稼ぎの様相を呈していった。

▼米海兵隊の強襲上陸作戦

 米海兵隊のエリス少佐による「海兵隊作戦計画7
12D」(1921年)は、その後の部隊編成、装備、ド
クトリンなどの研究成果を取り込んで「上陸作戦マ
ニュアル草案」(1935年)に進化した。

これにより、上陸前の艦砲射撃、航空支援、輸送艦
から上陸用舟艇に移乗しての上陸、橋頭堡の確保と
いう水陸両用作戦の一連の流れと指揮系統や兵站の
基準が確立された。また、装備面でも大きな革新が
なされ、輸送艦から海岸へ兵士を運ぶ上陸用舟艇、
戦車やトラックを運ぶ平底船、上陸の掩護と上陸地
点の確保のための水陸両用装軌車などが開発された。

 海兵隊の新しいドクトリンの初の実戦の場となっ
たのは、日本軍が飛行場を建設中のガダルカナル島
とその向かいのツラギ島への上陸作戦においてだっ
た(1942年8月)。ツラギ島では抵抗を受けた
が、ガダルカナル島は無血上陸であった。ガダルカ
ナル島をめぐる日本軍の大消耗戦についてはすでに
述べたが、戦いは1943年2月に日本軍が撤収するま
で続き、海兵隊は陸戦で日本軍に初めて勝利し、多
くの教訓を得た。

 太平洋戦争において海兵隊は二つの進攻軸に沿っ
た作戦を実施した。南太平洋方面での作戦はガダル
カナル島のようなジャングルの戦いであり、上陸地
点を敵の抵抗の少ないところに選ぶことができた。
一方、中部太平洋方面では、タラワや硫黄島のよう
な強固に防御された小島での戦いであり、本格的な
強襲上陸作戦となった。

 初の本格的な強襲上陸となったタラワでは、3日
間の戦闘で米軍に3,407名の死傷者、日本軍に4,690
名もの戦死者を出した(1943年11月)。タラワでの
戦訓は徹底的に研究され、のちのペリリュー、サイ
パン、テニアン、グアム、硫黄島、そして沖縄での
戦闘に反映された。沖縄戦(1945年4月~6月)は
第二次大戦における水陸両用作戦の完成形というべ
き展開を見せた。それは過去30年間に米海兵隊が行
なった26回の水陸両用作戦の成果でもあった。

▼忘れられた通商破壊戦

 日本海軍の戦略は艦隊決戦一本槍で、第一次大戦
でドイツ潜水艦による通商破壊戦が島国イギリスを
追い詰めたことも深刻に研究されず、開戦時、海上
交通保護については海防艦4隻を有するのみだった。
第一次大戦中に撃沈された連合国の船舶は、1,285
万トンにのぼり、実にその87%がドイツ潜水艦によ
るものであり、開戦1年目に31万トンだった喪失量
は、その後凄まじい勢いで増加して、4年目の1917
年には実に624万トンに達していたのだ。アメリカ
は、第一次大戦にドイツの無制限潜水艦戦をきっか
けとして参戦したが、大西洋の戦いでドイツの通商
破壊戦が戦局に大きな影響を与えたことを十分に理
解していた。アメリカも伝統的に艦隊決戦主義であ
ったが、すでに述べたように対日戦を見据えて戦略
を進化させていた。

 太平洋戦争開戦当初の日本の海上輸送は、進攻に
ともなう作戦輸送がほとんどであり、輸送地域も限
られていたため進攻作戦と輸送船に対する護衛作戦
はおおむね両立していた。しかし、作戦が進展し対
象地域が拡大する一方で、攻略した南方資源地帯か
らの国内への物資輸送も増加してくると、護衛を必
要とする航路も必然的に増え、作戦用の兵力を割か
なければならなくなった連合艦隊には負担となって
きた。

1941年当時の石油の民間需要は年100万トン、海軍
が200万トン、陸軍が50万トンで、計350万トン、国
内生産は50万トンであった。これに長年の備蓄が
700万トンあったのだが、南部仏印への進駐(1941
年7月)で石油の全面禁輸となり、陸海軍が何もし
なくても日本は2年しか持たないということになっ
た。

 そこで南方資源地帯を占領して石油を輸入すれば
よいのだが、そうすれば英米と戦争となり、日本の
タンカーが敵潜水艦に沈められてしまう、この輸送
の問題が詰められていなかった。軍令部は船舶被害
を1年目80~100万トン、2年目以降60~80万トン、
これに対して造船能力は、1年目45万トン、2年目
60万トンなどと見積もっていた。

当時の日本の船腹量は630万トンあったので、戦争
2年目の終わりに555万トンまで減少するが、その
後はやや増加さえする計算になり、これなら太平洋
戦争はなんとか遂行しうるということになる。しか
し、この見積りが根拠のあやふやなバラ色の希望的
観測であり、実際には絶望的な展開をたどったこと
はすでに述べたとおりである。

▼連続攻勢の破綻

このように海上輸送態勢は極めて脆弱であった一方
で、日本軍は緒戦からの連続攻勢で後方連絡線を数
百マイル単位で伸ばしていった。たとえば、門司か
ら高雄は640マイル、高雄からシンガポールは1,630
マイルもあったし、横須賀からサイパンは1,280マ
イル、サイパンからトラックは610マイル、トラッ
クからラバウルは800マイル、ラバウルからガダル
カナルは600マイルであった。
もともと輸送能力には限界があるのだから、制海権
を獲得したといっていた緒戦の段階においてさえ、
連続攻勢は潜在的に破綻する運命にあったのだ。

 米海軍は真珠湾攻撃のその日のうちに日本に対す
る無差別潜水艦戦を開始した。開戦時に米海軍が保
有する111隻の潜水艦のうち73隻を太平洋側に配備
したが、当初は魚雷の欠陥や不足により戦果は上が
らなかった。
 
しかし、ガダルカナル争奪戦の頃には日本軍が無理
な海上輸送を強いられたこともあり、米側の戦果は
顕著に増加する。1943年半ば、米軍は大西洋から太
平洋に重点正面を移しはじめ、レーダーを装備した
米潜水艦が日本海や黄海にも侵入し、日本近海での
船舶被害が急増する。1944年にかけて、米潜水艦で
は電池魚雷、夜間潜望鏡、レーダー、ソーナーなど
の武器の革新が進むとともに、3~4隻の潜水艦に
よる集団攻撃法(狼群戦術)をとったことにより対
日海上交通破壊戦は軌道に乗り、日本船の被害は激
増した。1945年になると、日本船舶が激減してしま
い攻撃目標がなくなったため、米潜水艦は主として
不時着搭乗員の救助にあてられるようになった。

▼遅すぎた海上護衛戦

日本海軍では、開戦当初は海上護衛のための専門組
織はなく、1942年4月に日本とシンガポール及びト
ラック間の各航路の船団に対する海上護衛隊が編成
されたのみである。その後、軍令部に海上交通保護
などを担当する課が新設されたが、課長以下5名の
体制でしかなかった。

 絶対国防圏が設定され米第5艦隊による怒濤の進
撃が始まろうとしていた1943年11月、ようやく海上
護衛総司令部が発足し、海上護衛隊と各鎮守府など
を統一指揮することになった。しかし、肝心の兵力
は海防艦をはじめとする44隻と掃海艇などに過ぎず、
余力のない連合艦隊からは兵力は得られなかった。

日本は米潜水艦の跳梁に対抗する護衛艦艇が不足し
ていたことから、黄海南部や宗谷海峡には機雷を敷
設した。また、対潜哨戒により安全を確保した指定
航路帯を通航させる方式も試みたが、兵力不足によ
り計画倒れに終わった。

1945年3月には、マリアナ基地のB-29が飛来して下
関海峡に機雷を敷設し始め、米潜水艦が侵入できな
い日本の主要港湾、内海、さらには日本海や朝鮮沿
岸などもB-29による機雷で封鎖され、大陸からの食
糧輸送が止まった(飢餓作戦)。
 
同年5月、日本海軍に船舶の一元的運用のための海
運総監部が設置されたが、7月には米機動部隊は北
海道から本州北部にかけて猛烈な空襲を行ない青函
連絡船を含む多数の船舶を撃沈して、北海道炭など
の輸送ができなくなった。このようにして日本は完
全に封鎖され、海外輸送、国内海上輸送はほとんど
止まり、戦争遂行に必要な物資や食糧は極度に不足
した。

アメリカの海上交通破壊戦により日本が喪失した船
舶は、2,259隻814万トンであり、このうち60%が潜
水艦、30%が航空機、5%が機雷によるものであっ
た。100トン以上の商船乗組員の犠牲者は30,592名
に達し、これは太平洋戦争中に日本商船隊を支えた
およそ7万人の海員の44%にあたり、この犠牲率は
陸海軍全将兵の19%をはるかに上回った。船舶の建
造能力も不十分なら、海上護衛も後手に回ったこと
で、日本が1トン建造するごとに3トン沈められた
計算になり、日本の商船隊はやがて皆無になり、日
本は破滅する運命にあった。

▼太平洋戦争の根本的な敗因

日本海軍は海上護衛戦に関して、開戦から2年間ほ
どほぼ無為無策であり、海上護衛総司令部が設置さ
れてからも連合艦隊は必要な兵力を割り当てなかっ
た。これは、連合艦隊が艦隊決戦で敵艦隊を撃滅し
さえすれば制海権を獲得でき、海上交通路の安全も
守られるという考えに固執したからであった。

この考え方は、第一次大戦のジェットランド海戦で
決戦が成立しなかったように、艦隊決戦は起きない
という海上戦略の発展段階を軽視するものであり、
事実、自ら戦ってきた太平洋の戦いでも証明され続
けていることであった。また、ドイツが両大戦にお
いて潜水艦だけで極めて効果的な海上交通破壊戦を
行なったことから海上交通破壊と艦隊決戦は無関係
であることも認識すべきであった。
 
 潜水艦の用法についていえば、日本海軍は艦隊決
戦の前の漸減作戦に潜水艦を使うという考えを変え
なかったため、日本潜水艦は主として対潜警戒の厳
重な米大型艦に指向したため、戦果が上がらず多数
の潜水艦を失う結果になってしまった。米海軍のよ
うに脆弱な商船を主目標とする通商破壊戦を重視し
ていたならば米軍にとって大きな痛手となったであ
ろうことから、日本海軍の潜水艦用法の戦略的な過
ちだったといえる。

 終戦直後、東久邇内閣は臨時議会において、太平
洋戦争の敗因の最も根本的なものは船舶の喪失と激
減であったことを明らかにした。また、米戦略爆撃
調査団もその報告書において「日本の経済および陸
海軍力の補給を破壊した諸要素のうち、単一要素と
しては、船舶に対する攻撃が、恐らく、最も決定的
なものであった」としている。島国の戦略としてあ
まりにも当たり前のことが、4年近くの戦のあとに
ようやく再確認されたのであった。


(つづく)

【主要参考資料】
外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』
(原書房、1979年)

吉田俊雄著『四人の連合艦隊司令長官』
(文藝春秋社、1981年)

森本忠夫著『魔性の歴史 マクロ経済学からみた太
平洋戦争』(文藝春秋社、1985年)

野中郁次郎著『アメリカ海兵隊 非営利型組織の自
己革新』(中公新書、1995年)

井上亮著『忘れられた島々 「南洋群島」の現代史』
(平凡社新書、2015年)

大井篤著『海上護衛戦』(学研M文庫、2001年)

大内健二著『戦う民間船』
(光人社NF文庫、2006年)
 









(どうした・てつろう)


◇おしらせ
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【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。


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おきらく軍事研究会
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