配信日時 2022/03/16 09:00

【陸軍工兵から施設科へ(25)】 鉄道網の進展    荒木肇

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知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
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にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
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こんにちは。エンリケです。

「陸軍工兵から施設科へ」第25回です。

鉄道から見た国防史ともいうべき内容ですね。

実に新鮮で面白く読みふけってしまいます。


さっそくどうぞ。


エンリケ


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陸軍工兵から施設科へ(25)

鉄道網の進展


荒木 肇

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 □はじめに

 鉄道の歴史を学ぶと、1872(明治5)年の新
橋-桜木町間に初めて汽車が走ったときから188
9(明治22)年の東海道線全通までが創業期とい
えます。続いて、私有鉄道の路線拡充が進む189
3(明治26)年から1906(明治39)に大手
私鉄を国有化するまでの時代を官鉄と私鉄の競合時
代となるでしょう。

そうして1908(明治41)年からの、後藤新平
(1857~1929年)が腕をふるい、関東大震
災(1923年)で勢いを失うまでの頃が国鉄の興
隆時代だと思われます。

 後藤新平は岩手県水沢市に生まれ医師となり、内
務省衛生局に勤務しました。1898(明治31)
年には台湾総督府民政長官になります。この人事は
総督の児玉源太郎陸軍大将によって支持されたもの
で台湾の民政はたいへん成功を収めたといわれまし
た。

 日露戦後、1906(明治39)年には国策会社
である南満洲鉄道株式会社の総裁、2年後には逓信
(いまの郵政省)大臣として入閣し、桂太郎系の政
治家となりました。その後も大隈重信内閣では外務
大臣となりシベリア出兵などでも活躍します。

 今日は、東西両京を結ぶ幹線の採用決定などの話
題です。


▼国内産業の様子

 西南戦争(1877年)は明治維新の総仕上げと
もいうべき事案でした。莫大な戦費をまかない、全
力を挙げて鎮圧に向かった明治政府は戦後処理に疲
労困憊します。不換紙幣を整理し、財政を整え、国
防にも資金を投じなければなりません。何より、国
民生活に配慮しなければ、富国強兵もその前提にな
る殖産興業も空疎なお題目になってしまいます。

 わが国の当時の主要な輸出品は「生糸」でした。
先進諸国の絹織物の原料となり、輸出貿易の周囲で
す。続いて、茶や蚕種(さんしゅ・蚕蛾の卵)が他
の輸出品目を圧倒していました。ひるがえって輸入
品は、兵器・船舶・毛織物といった軍需品と並んで、
綿糸や綿布といった綿製品が多くの比重を占めて
います。


 このような農産物や農産加工品を輸出し、工業製
品の輸入といった構造は着々と進んでいました。原
料品の生糸の輸出が伸び、生糸業が盛んになればな
るほど、いわゆるモノカルチュア的になっていきま
す。

 明治10年代の初め、生糸と茶の国内生産高の8
割近くが海外へ輸出され、生糸の輸出額は全輸出額
の4割以上を占めていました。これに茶や水産物を
加えると全輸出額の7割近くにも達していたのです。

 その一方で、輸入品は毛織物のすべて、綿糸や砂
糖は国内消費の6割以上、綿織物も3割以上、鉄は
7割以上が輸入に頼っていました。毛織物の代表は、
軍服や装備品、毛布などでしょう。また、完成品
の綿織物も海外製品とは、ほんとうに国民生活のす
べてにわたって生糸などに依存していたわけです。

▼鉄道を延伸せよ

 鉄道建設を進めよう。鉄道は荷物を運び、人を動
かし、さらには文明を運びました。驚かされるのは
江戸を朝早く出て、夕方に着いていた開港地横浜に、
汽車は1時間弱で着いてしまいました。


 品川-桜木町間が35分と資料にあります。現在
の京浜東北線でも32分ですから、ほとんど変わら
ないといっていいでしょう。途中停車駅は川崎だけ
なので、汽車はひたすらノンストップで走り続けま
した。もちろん、明治10年の西南戦争では多くの
軍需物資や兵員がこれで運ばれたのです。

 1874(明治7)年5月には大阪-神戸の間、
32.7キロメートルが開業します。2年後の7月、
大阪と向日町(むこうまち・長岡京遺跡もある現
在の洛西ニュータウン付近)の間の36.6キロが
開業、約1カ月後の9月には大宮通(現在の梅小路
貨物駅付近)に仮停車場が開き、向日町-大宮通り
も開業します。こうして神戸と京都は鉄路で結ばれ
ました。

 それでは関東では、開業以来、東京と横浜以外は
どうなっていたのでしょう。政府も手をこまねいて
いたわけではありません。東西の両京を結ぶ幹線を
つくろう、そう考えていました。1870(明治3)
年から74(明治7)年の間にも、2つのルート
を検討していたのです。

 古い言葉で「五畿七道」といいました。律令体制
の国の区分です。五畿とは現在の近畿地方のことで
した。大和(やまと)、山城(やましろ)、摂津
(せっつ)、河内(かわち)、和泉(いずみ)の各
国です。大和は奈良県、山城は京都府、摂河泉(せ
っかせん)とまとめられたのは現在の大阪府とほぼ
重なります。

 これ以外の国は「道」という単位にまとめられま
した。九州などの「西海道(さいかいどう)」、
「南海道」、「山陽道」、「山陰道」それに「北陸
道」、「東海道」、「東山道」に区分されていたので
す。江戸時代になると、道路としての「街道」が整
備され、東山道を中山道(中仙道)というようにな
ります。「北海道」というのは明治になって付けら
れた名前です。律令体制の行政区分による名称の一
つになります。

 さて、東京と京都をむすぶ幹線鉄道の候補にあが
った1つはいまも主要幹線である東海道ルートでし
た。もう1つは中山道コースです。政府は両方の可
能性を考え調査します。

▼中山道ルート

 幕末の遣米使節の随伴艦として太平洋を横断した
「咸臨丸(かんりんまる)」その乗り組み士官とし
て航海長(測量方)を務めたのが小野友五郎です。
小野は1817年に常陸(ひたち)国笠間藩士の家
に生まれ、和算から測量術を学び、江川担庵の推挙
で幕府天文方に出仕、長崎海軍伝習所に学び、幕府
海軍築地軍艦操練所の教授方になります。


幕末には軍艦頭取(艦長)、また勘定奉行並に昇進
しますが、鳥羽・伏見の戦いで主戦派とみなされ、
役職を罷免されました。その後、新政府に出仕、こ
の東海道筋、中山道筋の実地調査を行ない、両方の
比較を詳細にしています。

御雇外国人といえば、破格の給与を受けて明治初め
に海外知識を導入した人々ですが、このうちの1人
に英国人ボイルという技術者がいました。彼は数度
にわたって中山道を調べ、政府に中山道コースが優
れていることを主張します。また、幹線から分かれ
て、信州上田(長野県上田市)から松代(まつしろ)、
飯山(いいやま)をつないで、新潟に通じる路線も
提案していました。

舟運も発達し、よく整備された東海道より、中山道
は悪路で山もあるが、国土の総合開発には遅れた地
域こそ優遇すべきであり、太平洋側と日本海側の連
絡も考慮すべきだともいうのです。これは確かに、
現在でも説得力のある主張でした。


1880(明治13)年11月、財政上の事情から
東京-高崎間の認可が取り消されました。この鉄路
は現在も高崎線として東海道線との直通路線であり、
新潟への通り道として印象づけられますが、当時
としては東西両京を結ぶ幹線の一部でした。

こうした中山道ルート停滞の中で、右大臣岩倉具視
(いわくら・ともみ)が提唱して、日本初めての私
有鉄道の建設を目指す「日本鉄道会社」が発足しま
す。岩倉は明治初めの遣欧使節の一員として欧米を
視察し、鉄道の威力を大きく感じていたのです。政
府の財源が乏しいなら、金がある大名華族や公債を
もつ士族、新興実業家たちに呼びかけて私有鉄道を
始めようという企画でした。


 いまも、上野(東京都台東区)の駅の近くに岩倉
高校があります。普通科の他に、運輸科というコー
スをもち、1897(明治30)年の創設以来、多
くの鉄道人を育ててきました。この岩倉高校は公卿
であり華族だった岩倉公爵家とは関係はなかったの
ですが、鉄道の恩人を記念して学校名に岩倉を付け
たそうです(命名は明治36年)。


▼山縣有朋の意見

 明治15(1882)年には金が集まった日本鉄
道から委嘱を受けて、鉄道局が前橋(群馬県)まで
の路線の工事を始めました。中山道が有望だ、誰も
がそう考えていたのです。東海道には何よりの難所、
「箱根の険」がありました。さらには江戸時代か
らの大河、富士川、安倍川、天竜川などがあり、長
大な鉄橋を架けなくてはなりません。


 琵琶湖畔の長浜(豊臣秀吉の城で有名)と岐阜県
大垣との間の路線の見込みもついていました。そう
なると、後は高崎と大垣を結ぶ路線の建設だけで済
みます。ところが、東海道は、横浜から西はまるで
手つかずになっていました。

 こんなときに、工部卿代理になっていた参議山縣
有朋陸軍中将は、16年6月に太政大臣三條実美に
「幹線鉄道敷設ノ件」という意見書を出しました。
工部卿は工部省の長官で、鉄道局の直属上司でもあ
りました。

 その意見書を要約します。(1)国の富強を図る
には交通の便をよくすること。交通の便を向上する
には鉄道の敷設に勝るものはない。(2)人智の開
明にも寄与し、国産の製品も勃興する。(3)いざ
戦時になっても多くの兵員・物資を遠距離に短時間
で運べる。(4)たとえ鉄道が費用ばかりかかって
利潤が少なくても、間接の利益が大きいことは明ら
かである。(5)鉄道建設は喫緊の要件である。

 (3)に注目します。当時、わが国は国内鎮圧に
各地の鎮台を設け、有事には他の鎮台から旅団を編
成し紛争地に送りこみました。大陸からの脅威を感
じていた陸軍としては各地に海岸要塞を建設しなが
ら、少ない常備兵をいかに効果的に運用するかを考
えていたのです。

 山縣はこうも言います。欧州諸国のような長大な
路線は必要ない。わが国の中央を貫通する1幹線を
置けばいい。東西2京の間に1本の幹線を敷き、そ
こから枝線を左右に伸ばし、東西の海港をつなぎさ
えすればいい。

 具体的は次のルートを提唱します。東京-高崎-
小諸(こもろ)-松本-木曽鳥居峠-木曽谷-加納
(岐阜市内)-長浜-大津-京都-大阪-神戸とい
う、まさに江戸時代の中仙道を彷彿させるものでし
た。枝線については加納から名古屋へ、長浜から敦
賀へ、上田から松代、飯山、新潟と3つを挙げてい
ます。

 定説になっているのは、陸軍は海岸からの侵攻を
恐れ、中山道コースを主張したといわれますが、必
ずしもそればかりとは思えません。

 次回は、中山道コースの決定から挫折を調べまし
ょう。





(つづく)


(あらき・はじめ)


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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
 

『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
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