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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。
短期連載「水雷艇「友鶴」転覆事件―その遭難から
入渠まで―」の6回目です。
海の仕事を知る機会は意外なほど少ないものです。
この連載を通じて、海での仕事の実際を知り、
海国日本をあらためて実感しています。
エンリケ
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水雷艇「友鶴」転覆事件―その遭難から入渠まで―
(6)
次々と立ちはだかる障害
森永孝昭(ドックマスター・日本船渠長協会会員)
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□ドックマスターのこぼれ話
今回は、前回に続きまして「かりふおるにあ丸」
(鉱石運搬船)について書きます。
1970年(昭和45年)2月9日、22時30分でした。房総
半島沖を西進していた「かりふおるにあ丸」が大波
を受け、左舷前部に亀裂が発生して浸水が始まった
のです。「早くしなければ沈む」、乗員には1年前
の「ぼりばあ丸」遭難が頭をよぎりました。
緊急遭難信号を発信して、乗員は急ぎ救命艇降下の
準備にかかりました。降下しなければ脱出はできま
せん。ところが、深夜の大時化(しけ)の中、作業
は困難を極め、両舷の救命艇は、作業中の乗員計6
人と共に暗黒の闇に呑まれてしまったのです。また
膨張式の救命いかだも強風と荒波にもっていかれ、
もはや脱出の手段は絶たれてしまったのです。
船は、いつ沈んでもおかしくないことを知っていた
乗員は、絶望の淵にありました。そんな時の10日
の3時過ぎ、暗闇の中に煌々と照明をつけてやって
きた船が見えたのです。
その船は、「オーテアロア号」(冷凍貨物船、
以下:オ号)というニュージーランドの船でした。
しかし救助方法がありません。この大時化の中、救
命ボートを降ろすのが危険すぎるのは「オ号」だっ
てわかっていました。
しかも重い鉱石を満載した船が、目の前で瞬時にし
て海に消えることは誰にでも想像できました。見つ
め合う両船は、連絡を取りながらもどうすることも
できません。「オ号」のノーブル船長は、白みだし
た曇り空の中、苦渋の決断をしました。成功か失敗
か、生か死か、一か八かの賭けに出たのです。
驚くべきことに、まるで決死隊のような5人が乗っ
た救命ボートは、荒れ狂った海への降下離脱に成功
しました。そして転覆と機関故障の危惧を抱えなが
らも、前部が沈みつつある「かりふおるにあ丸」の
外舷に到着したのです。
「かりふおるにあ丸」乗員が、舷側に垂らした縄梯
子やネットを伝って次々と降りてきました。「全部
で何人だ」とボートマンが尋ねると「23人です」と
の声があがって20、21とボートに乗り移ってきたと
ころで、あとの2人がなかなか来ませんでした。
「船首が突っ込んでいる、危ない」との声があがり
ました。その時やっと22人目が下りて来て、「キャ
プテンが、自分は残ると言ってききません」と皆に
伝えました。ふとブリッジに目をやると、キャプテ
ンが手を振っていた、といいます。もう時間の余裕
はありません。ボートが離れて幾許(いくばく)も
なく「あっ、沈む」と誰ともなく叫んだとき、巨体
が静かに没していくのでした。
その後、駆けつけた「えくあどる丸」(冷凍貨物船)
が加わり、救命ボートと共に不明になった6人の捜
索を開始しました。そして乗員全員が目を皿にして
見張りを続けた結果、水浸しとなったボートに2人
の生存者を発見したのです。「えくあどる丸」は巧
みな操船で、ボートの風上に位置して風圧により接
近のうえ、ネットを利用して引き上げ、救助したの
です。
捜索は、その後も飛行機や船が集まって続けられ
ましたが、浮遊物以外には何も発見できませんでし
た。
「かりふおるにあ丸」船長が退船を拒否し船と運命
を共にされたことが、議論の的になりました。実を
いうと、同年1月17日に「波島丸」(石炭運搬船)
が北海道沖で沈没したときも、船長は退船を拒んで
殉職したばかりだったのです。
当時の船員法第12条に「船長は船舶に急迫した危
険があるとき、人命、船舶および積荷の救助に必要
な手段をつくし、かつ、旅客、海員、その他船内に
あるものを去らせた後でなければ、自己の指揮する
船舶を去ってはならない」とあったことが問題だと
されたのです。
しかし当時の誇り高き日本人船長が、そんな条文ご
ときで左右されたとは思えません。
1970年当時、44歳であったキャプテンは、青年時代
に見聞きした先輩たちの責務遂行に傾倒され、どこ
かの隣国の船長などとは比較ならない崇高な精神構
造があったと私は信じているのです。
なお素早くも同年(1970年)、船員法が改正されて
「船長は自己の指揮する船舶に急迫した危険がある
ときは、人命の救助並びに船舶及び積荷の救助に必
要な手段を尽くさなければならない」で終わって最
後の文言は削除されたのです。
また長年、救命艇降下の困難さを解消する方法が模
索されていたのですが、現在のような船尾投下式の
カプセル型救命ボートになるまでには、相当の年月
がかかったのです。
▼特製の反転盤木(ばんぎ)
一方受入れ側の工廠では、決定後直ちに工廠長の山
本幹之助造船中将みずから陣頭指揮をとり、船渠部
員のみでなく応援者と幹部まで計700名が集まって、
特別盤木製作で徹夜工事をすることとなった
作業はすべての現場工廠員の肩にかかっていたので、
工廠造船部長の鈴木格司造船大佐は、船渠工場の部
員をはじめ班長、組長,伍長、職工すべてを集め、
懇願にも似た異例の訓示を行なった。
すなわち「即入渠の上、人員救出を行なう緊急処置
たる計画実行の可否は君らの仕事如何にかかってい
る。万難を排して進めるようお願いする。船渠作業
をすべてに優先する」
12日2100よりドック排水を開始した。排水には4時
間を要するので、13日の0100がドライ予定時刻であ
るから、そのあいだ休める者は休んだ。
ドライになるとすぐ船渠の図面屋が、渠底に降りて
行き盤木を設置する箇所のマーク入れを行なってい
った。
やがて、どこから集めたのだろうと思われる大量の
角材が、クレーンで渠底に下ろされてきた。ドック
では艦艇が入渠したとき、横支柱(サイドショアー)
に大量の10寸角(300×300mm)を使っていたので、
各ドックと倉庫からありったけの新品、中古のほか
廃棄品などから使える物も含め、かき集めてきたも
のである。
転覆した“友鶴”の前、中、後の甲板3か所を当て
て支える(上架)ため、当然ながら盤木は櫓(やぐ
ら)のように組んで高くする必要があった。しかも、
ドック中央ではなくして左側に作製し、入渠と上架
の作業を分別する計画となった。
山側二つが高さ8.6m、横幅9m、前後幅2mである。
計画盤木の幅方向の左右に長さ2mと1.5mの角材を
井桁(いげた)に組み上げていき、5段組んだとこ
ろで長さ9mの角材を左右に渡して連結し一体化し
ていく。同じようにして積み上げていくが、8.6mと
もなれば300mm角材換算で28段積み重ねることになる。
要所には通しボルトを刺し込み、各箇所には大量の
カスガイが打ち込まれ、隣接したもの同士を固定し
全体を一体化していった。さらに“やぐら”の足元
前後に6トンウェイトを置いて、所々の層で大回し
にワイヤを取って下向きに固定して角材の浮上防止
とした。
海側は1層高い艦首側が乗るので、逆に盤木は高さ
6.6m、横幅6m、前後幅1.5mとやや小型ですんだ。
そして14時間後の13日1530に、ついに堂々とした特
製反転盤木が完成した。
それから器材や資材を、クレーンを使って渠底から
揚げる作業が続き、やっと終了して注水を開始した
のが1610であった。満水に要する時間は2時間30分
であるから、1840には満水となる。したがって、
1900の受入れには十分間に合う。
なおここで再度書くが、この日の満潮時刻は1920で
ある。
(入渠の手順)
(1)転覆した“友鶴”を、水船を抱いたままドックの
右側に入れこむ
(2)扉船(とびらせん)※を閉鎖する
(3)反転した“友鶴”をロープで、右から左へと横移
動し反転盤木上にもって来る
(4)排水を開始する
(5)“友鶴”のデッキが、反転盤木にタッチし、据付
(すえつけ)が完了する
(6)直ぐに船底に穴を開けて救出を開始する
(※扉船:ドックの扉。厚みがあって中に多くの仕
切りタンクがあり、内部に注排水して浮揚と沈下の
操作で開閉する。浮くと船のように移動できること
からこの名称となった)
▼錨地からドック
すべてが、時間との勝負であった。1分1秒が命の分
かれ目になっている。「急がなければ」と、かかわ
っている者は誰もがそう思っていた。
庵埼から第5ドックまで3.4マイル(6300m)ある。
1920(13日)の満潮時に合わせて、2時間以上の余
裕をとって曳航開始時を1630と決めて作業をしてい
た。
大小6隻の曳航タグがすでに固めて、いつでも移動
できる態勢になっていたが、肝心の水中作業がまだ
終わっていなかった。
1630になったが、潜水夫は「あと1時間待ってくだ
さい。かならず全部切り取ります」と懇願ともとれ
る声で言った。この時刻になっても、前部の三脚マ
スト切断は完了しなかったのである。不安を覚えた
指揮官の松野大佐は、田中特務少尉を呼びつけ、曳
船の舟夫長に「1730に出ても間に合うか」と尋ねさ
せた。舟夫長は「1時間半あれば着きます」と長年
の職業上の勘から答えた。1時間半ならば到着時刻
は1900なのでギリギリで間に合う。大佐は「よし、
1時間延期、1730発とする」と決めた。
余談ではあるが、曳船乗員は軍人ではなく傭人であ
って職名は「舟夫」である。この呼称は技能者の自
尊心を損なうとして数年後「操船手」と改称される。
マスト切断中、別の潜水夫が木片にメモを書いたも
のを、ロープに縛り先端にフロートをつけて後部兵
員室に送った。「元気を出してこのロープを伝わっ
てこい」と。しかし誰も出てこなかった。
1715切断作業の潜水夫があがってきた。「取れたか」
「ダメです、2本は完全に切断しましたが、残り
1本は皮1枚の状態です。あと30分あれば大丈夫で
すが」、さらに悪いことには上部艦橋にある測距儀
台の取り付けボルト32本のうち1本だけが、どうし
ても取れないという。さすがの松野大佐もここにき
て狼狽(ろうばい)した。
「時間がない」、満潮時刻の19時20分がすべての関
係者の頭によぎる。
「走ればマストは折れて外れるさ」と誰からともな
く言いふらされるなか、松野大佐は決断に迫られた。
「もうダメだ、これ以上の延期は許さん、ドックへ
移動だ」と命じた。
1720またもや後部兵員室に「今から2時間後にドッ
クに入るから安心せよ」と書いて送り、これが庵埼
での最後の潜水作業となった。
「移動開始」。すでに揚錨を終わっていた曳船が、
あらかじめ指名されていた田中特務少尉の合図で動
き出した。曳船は6隻で、もちろん“友鶴”は舵と
ペラ側が進行方向である。また水船が4隻付いてい
るので、計10隻が張り付いていることになる。
バージや曳船の扱いに長じ操船に手慣れた田中特務
少尉は、進行方向に向かって右舷トモの曳船“第2
佐世保”にあって、口頭で「前進微速」「停止」
「後進微速」「前進一杯」だとかの指示を出した。
それは誰に言っているのかというと、横に一時も離
れず付いている手旗とホイッスルをもった信号員の
水兵に、である。
信号員は「前進微速(スローアヘッド)」と令され
ると復唱ののち、対象の曳船に向かってホイッスル
を吹鳴し白旗を2回振るという方法で伝達した。振
る回数でエンジン・モーションを表し、振り続けれ
ば「いっぱい」、赤白同時は「ストップ」、赤旗は
「後進(アスターン)」を表わす。
受ける側の曳船は、海軍の信号員が乗船しておれば
受信は楽で責任もないが、いなければ緊張し責任も
大きいので苦労することになる。いずれにしても、
トランシーバーでの交信ではないので、指示の不明
確さとタイムラグは発生するうえ、レシプロ機関の
反応も遅いので全体の移動がやや乱れたりすること
もあった。
しかし特別な指示がない限り、大きな移動は主曳船
に任せることが普通であるから、首向した後は曳船
がドックまで上手にもって行った。
1827が日没である。今まで夜間の入渠の実績はない
うえに、港務部は一貫して「夜間入渠は禁止だ」と
拒否してきた経緯がある。今ここに至って、人命救
助を最優先として、自らがそのルールを破り、夜間
作業に従事するとは思いもしなかったことだ。
それでも操船者は、少しでも明るい内にドックまで
持っていきたい、という気持ちが通じたのか、それ
とも障害物が外れたのか、曳航作業はことのほか順
調に運び、1時間20分後の1850にはドック前面に到
着した。
第5ドックの方位は272度(ほぼ真西)なので、真
正面の丘の稜線が日没後30分までは見えるのだが、
この日は曇りであったため、それも見えなくなって
いた。
悪いことには、なんと肝心の扉船(ドックゲート)
が開いていなかった。ドック前で立ち往生させられ
た操船者の田中特務少尉は困惑の表情をし、松野大
佐は怒り心頭に発し、所かまわずどなりちらした。
ドックでは1610に注水開始したのだから、所要時間
からして1840には満水となるはずであった。しかし
注水を急ぐあまり扉船のバルブを全開したところ、
5か所の注水口から海水が滝のように落ち、激流と
なってドックに流れ込み、渠口から35mも離れた海
側の6.6m特製盤木に勢いよく当たる流水量を見て、
倒壊のおそれを感じた船渠主任はバルブを絞り注水
レートを落としたのだ。
やがて水位の上昇とともに、絞っていた注水口バル
ブは流勢を見ながら全開としていったが、今度は角
材で層組みしている櫓状の特製盤木に浮力を生じ、
十分に頑丈であったはずなのだがあちこちに不都合
が生じ、そのつど手直しをするため停止と再注を繰
り返したので、時間は少しずつ遅れていった。
この分では予定の1900には満水になりそうもなかっ
たが、ドック側は「庵埼出発が1時間遅れているの
で到着も遅れる」と勝手に思い込んでいたが、時間
通りにドック前に現れたので、結果的にドックの受
入れ準備が間に合わない形となったのである。
▼入 渠
待ち時間を利用して、潜水夫が船体確認のため潜っ
た。すると予想に反してマストは屈曲しただけで外
れていなかったし、測距儀台もボルト1本のままで
残っていることがわかった。
予想が外れた港務部の面々は、状況がどんどん不利
になっていくので、不安が増幅していったが、もは
や躊躇(ちゅうちょ)する場合ではなかった。
何度も言うが満潮時刻は19時20分である。まさに待
たされている今なのである。
この種の作業は、上げ潮時に取りかかり、満潮時直
前をもって終了するのが常識である。下げ潮になっ
たら状況は急転直下悪くなり、できなかったら次の
満潮を待つことになるが、人命にかかわる今回だけ
は、絶対に延期は許されないのだ。
とにかく、ここで船尾曳きしてきた大型曳船“第4
佐世保”を切り離し、ドックで4点保持索と連結す
るロープを前後左右の水船に用意して入渠を待った。
1935注目の扉船がやっと浮上した。ドックの作業員
が扉船からの数本のワイヤを上手にキャップスタン
で操作すると、扉船はゆっくりと左方の岸壁に沿っ
て移動し、1940完全にドックゲート開放となった。
前部の小型曳船2隻を放すと、綱取りボートがセン
ター捲込み索を、いつもより遠くながらも持ってき
て、舵軸に取付けた台付けロープと繋いでくれた。
捲込み索が張ったところで、後部両舷の曳船2隻を
前進フルとして渠口に迫り、相当の前進行脚(ゆき
あし)をつけたところで最後の曳船2隻を放した。
だれもが、この行脚(前進力)であったら絶対に中
まで突っ込むと思ったが、渠口に差しかかったとこ
ろで、見る見る行脚が落ち、船体の半分が突っ込ん
だところで止まってしまった。
このとき1957ですでに満潮時より37分も経過してい
ることから、「渠口の底に当たっている」と誰もが
思った。
渠口から15m入ったところまでの渠底は、扉船当込
み用のため構造的に内部の本渠底より1.4mも高くな
っている最浅部で、この満潮時で計算上11.36mなの
である。測距儀台が取れていないのなら反転喫水は
11.8mであるから、すでに下げ潮になっていること
を考え合わせると、完全に当たっていることになる。
思案する時ではない。田中特務少尉は近くに待機中
の“第6佐世保”“第2佐世保”と100トン曳船を呼
び、「頭を押せ」と命じた。各曳船は団子になって、
なり振り構わず“友鶴”と水船2隻と、それらを固
縛したワイヤなど、どこでもいいから当たるところ
に当てて全速で押し、捲込み索も張力いっぱいに引
き効かせた。
押し始めて5分後、ゴトゴトと鈍い音をたてながら
入口の最浅箇所を通過し、2015とうとうドックに入
れ込むことに成功した。
特製盤木にたずさわった者は“友鶴”の艦橋が中央
付近を通過したのを見ていたので、だれもが倒壊し
ているだろうと思って肩を落とした。
念のため潜りを入れたが、やはり一番手前の盤木が
山側に倒れていた。
これで工廠船渠の計画は、すべて水の泡となってし
まい、「特製盤木に反転上架」という世界で初めて
ともいえる快挙をあきらめ、そのまま排水をして、
とにかく船体を着底させ人命の救助にあたることに
なった。
2020すぐに扉船を渠口に当て込み、沈降作業にかか
りながら誰もが「やれやれここまで来たか」と安堵
(あんど)している矢先、扉船がいつもより下がら
ないことが判明した。
扉当り(渠口の敷居)に障害物があるのは明白であ
り、またもやすぐに複数の潜水夫が飛び込んだ。暗
い海底で水中ライトの先に眼にしたものは、佐世保
港内をマストの先端で引きずってきた、おびただし
い数の電線、ワイヤ、ロープのたぐいであった。
潜水夫は疲れ切った体で小物を取り除いていったが、
手に負えないものは曳船から海底にフックをさげて
もらい、曳船で沖側に引いてかわした。またこのと
きボルト1本でもっていた測距儀台が脱離して、渠
内に転がっているのが潜水夫によって確認された。
そして、とうとう1時間以上経った2155扉船の沈降
閉鎖が完了し、2158待ちに待ったドック排水が開始
された。
転覆してから約42時間が経過し、移動距離は42.5マ
イル(79km)である。
(つづく)
(もりなが・たかあき)
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【著者紹介】
森永孝昭(もりなが・たかあき)
1949年2月26日、佐世保にて誕生
1972年、長崎大学水産学部卒業
1972年、神戸、広海汽船 航海士
1982年、甲種船長免状(現:1級海技士)受有
1983年、佐世保重工株式会社 ドックマスター
2009年、定年、常勤嘱託ドックマスター
2020年、非常勤嘱託ドックマスター 現在に至る
実績:233隻の新造船試運転船長。延べ約6300隻の
操船(自衛艦、米艦、貨物船、タンカー、コンテナ
船、客船、特殊船など)
現在:一般財団法人 日本船渠長協会会員
過去の外部委嘱:西部海難防止協会専門委員、佐世
保水先人会監事
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