配信日時 2022/03/09 20:00

【海軍戦略500年史(41)】 太平洋の戦い(2)──海軍作戦の終焉と特攻の開始    堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の四十一回目。

虚報に欺かれて意思決定を誤る。

この種の失策は、今後も変わることなく永遠
に繰り返されてゆくでしょう。

完全に克服するにはすべての意思決定をAIにゆだね
るしかないでしょうが、そうなると人間社会のバラ
ンスが崩壊しますね。

「ウイズ意思決定の失敗」というかたちで、
戦略戦術判断のミスのリスクとわれわれは共存して
ゆくしかないでしょう。

それを管理する国家の手段が、
軍備でありインテリジェンスなのでしょう。


さっそくどうぞ


エンリケ


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海軍戦略500年史(41)

太平洋の戦い(2)──海軍作戦の終焉と特攻の開始


堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

前回はタンカーが不足して大東亜共栄圏が成り立た
なかった話まででしたが、ガダルカナル島争奪戦に
突入すると徴用された民間船舶は次々と沈められ、
日本軍の海上輸送は危機的な状況に陥り、部隊は飢
餓状態となったあげくに撤退します。半年間にわた
る消耗戦であったガ島争奪戦に完敗した日本は、い
よいよ国力の限界に達し始めたのでした。

日本は守勢作戦に移行しますが、連合軍は日本のシ
ー・レーンの遮断と継続的な戦略爆撃で国力を低下
させ、可能ならば日本本土に侵攻するという方針を
立てて着々と日本に攻め上がってきます。やがて、
日本は戦線を大きく後退させて「絶対国防圏」へ転
換、ほどなくそれも瓦解し、まともな海軍作戦はで
きなくなり特攻が始まります。惨憺たる敗戦への流
れを見てゆきます。

▼国力の限界に達したガダルカナル島争奪戦

 ミッドウェー海戦の大敗北を受けてFS作戦は中
止されたが、MO作戦のうち陸路による進攻とガダ
ルカナル島の飛行場建設は開始された(7月)。日
本軍の飛行場建設を知った米軍は、この飛行場を先
に使用する側が勝利すると判断し、ガダルカナル島
(ガ島)に上陸を開始し2週間足らずの間に日本軍
から奪取した飛行場を使い始めた(8月)。これに
対し、ミッドウェーの雪辱を期す山本長官は好敵出
現と見て、決戦配備を下令し部隊を急速展開させた。
 
 戦いは11月までの間、第一次~第三次ソロモン
海戦、サボ島沖夜戦、南太平洋海戦、ルンガ沖海戦
などの混戦、激戦が行なわれたが、米艦隊がガ島確
保を第一として、航空兵力の支援により日本軍の海
上補給を断つ作戦をとったため、山本長官が想定し
たような艦隊決戦は遂に生起しなかった。
 
 日本海軍が頼みとした戦艦群は、「金剛」「榛名
」がガ島ヘンダーソン飛行場への砲撃(1942年10月)
で米軍に大損害を与えたものの、「霧島」は米戦艦
2隻と夜戦で砲火を交え撃沈された(同11月)。日
本海軍の得意とする夜戦だったが、米海軍のレーダ
ー射撃が威力を発揮したのだ。ガ島以外海戦を含め
ても戦艦の働きとしては、「大和」以下戦艦4隻が
重巡などや米護衛空母1隻と駆逐艦3隻を沈めたこ
とくらいで(1944年10月)、この時「大和」は100発
撃ったものの命中弾は得られなかった。

 このガ島争奪戦での海戦そのものは五分五分とい
ってよかったが、米軍はガ島飛行場と空母部隊で島
周辺の制空権と昼間の制海権を握ったため、日本側
の輸送船の被害は甚大だった。2回行なわれた日本
軍の師団規模の総攻撃に備えた船団輸送は、1回目
はなんとか成功したが、2回目の船団では11隻中
6隻が沈没するなどしてほとんどの補給物資は海没
した。
 
これらの輸送船の多くは軍に徴用された民間船舶で
あり、作戦終了後は徴用解除となり本来の南方資源
の輸送などに活躍するはずのものだった。しかし、
次々と撃沈されたため徴用解除どころか新規徴用が
間断なく行なわれるという悪夢のような海上輸送の
危機が起き始めていた。輸送船による船団輸送が事
実上できなくなってくると、陸軍輸送は駆逐艦によ
る「鼠輸送」や「ドラム缶輸送」、上陸用舟艇によ
る「蟻輸送」、潜水艦による「もぐら輸送」などと
なってゆき、日ごとに補給が細った結果、12月に
は島奪回の見込みはなくなり、翌年、飢餓に追い込
まれた残留部隊は撤退した。

 この島の争奪戦の結果、日本海軍は第一線機892機、
搭乗員2,362名を喪失した。これは大敗したミッド
ウェー海戦での喪失機数の3倍、搭乗員に至っては
10倍という戦慄すべき損失だった。この戦いで失わ
れた艦艇は日米とも29隻だったが、この頃から新造
艦が増える米海軍は増勢に転じ、日本は艦艇も商船
も減少し始める。

ガ島争奪戦に日本海軍が全力を傾け、結果として未
曾有の消耗戦に引きずり込まれたことは、ミッドウ
ェーでの大敗後という状況のもとでの冷静な情勢判
断の結果とはいえず、山本長官の「意地の戦」(外
山三郎『日清・日露・大東亜海戦史』)ということ
ではなかったか。ガ島の飛行場建設で敵に先手を打
たれたなら、日本としてラバウル以北の勢力圏で戦
略を再構築することも考えるべきだっただろう。半
年間にわたる航空消耗戦であったガ島争奪戦に完敗
した日本は、いよいよ国力の限界に達し始めたのだ
った。

▼第3段作戦(守勢作戦)への移行

ニューギニアの日本軍が守勢になると、大本営はガ
島からの撤退と引き換えにニューギニア東北部の作
戦拠点の攻略確保を決定した。これは、ポートモレ
スビーからガダルカナル島に至る第一線を後退させ
るものだが、同時にニューギニアについてはポート
モレスビーに始まった消耗戦をニューギニア大陸に
移すものであり、ソロモンについては守勢作戦とい
う名で航空消耗戦を続けることになってしまう。

 1943年3月、大本営は守勢作戦である第3段作戦
に移行し、海軍作戦はニューギニア・ソロモン及び
ビスマルク諸島方面における現勢を確保することに
なった。これに対して連合軍は「日本打倒のための
戦略計画」(1943年5月)として、日本のシー・レ
ーンの遮断と継続的な戦略爆撃で国力を低下させ、
可能ならば日本本土に侵攻するという方針を立てた。
 
ニミッツが指揮する中部太平洋では日本軍占領下の
ミクロネシアを攻略して西進し、マッカーサーが指
揮する南西太平洋ではニューギニアを経てフィリピ
ンに向かって西進北上して、それぞれ日本本土を目
指すこととされた。このように攻勢軸がひとつだっ
た「レインボー5計画」と異なる2つになったのは、
米海軍の構想とマッカーサーの強い主張を「調整」
した結果だったが、兵力を分散させる二軸でも国力
の低下した日本との継戦は可能と判断されたのだ。

 米海軍はラバウルを重要目標としてソロモン諸島
伝いに、米陸軍はニューギニア南端から各地の日本
軍拠点を島伝いにそれぞれ進撃した。日本海軍は残
された航空兵力を集め、山本長官自ら指揮して「い」
号作戦として航空撃滅戦を戦ったが、米軍の急進撃
を止めることはできなかった(1943年4月)。この
作戦終結直後、前線視察に向かった山本長官は搭乗
機が撃墜されて戦死する。

▼絶対国防圏への転換

 1943年8月、日本軍は中部ソロモンからの撤退を
決定し、連合軍がラバウルへの航空戦を強めるなか、
9月には戦線を大きく後退させて「絶対国防圏」へ
転換する。ラバウル航空隊は、周辺の要地が連合軍
に占領され孤立し、トラック島へ引き揚げた(1944
年2月)。こうしてラバウルの無力化を成し遂げた
連合軍は、日本本土への反攻を加速させることにな
る。

ニューギニア戦線では、マッカーサーの反撃が始ま
り、制空権を握られた中で日本軍の作戦は困難を極
め、1944年7月までに日本軍は撃破された。この作
戦で海軍はまたも航空消耗戦を強いられ、喪失機数
は7,000機にものぼり、日本海軍の航空戦力はつい
に枯渇した。

 中部太平洋では、日本軍により強固に防備された
島々を攻略し遠距離洋上進攻を目的とする米海軍第
5艦隊が新たに編成され、大規模な水陸両用作戦が
展開された。この艦隊は大小空母19隻、艦載機890
機、戦艦12隻を含む535隻からなる「無敵艦隊」と
でもいうべき巨大な戦力であり、もはや大した反撃
力がなくなった日本軍を片端から殲滅していった。

米軍の作戦はマキンとタラワを占領するギルバート
作戦により開始され(1943年11月)、引き続きメジ
ュロ、クェゼリン、エニトゥク、サイパン、テニア
ン、硫黄島と島伝いに着々と進攻していった。

 「絶対国防圏」は、千島、小笠原、内南洋及び西
部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む太平洋及び
インド洋を絶対確保要域とし、この地域内での海上
交通を確保するというものであったが、その中核を
なすマリアナが突破されたため、空文となってしま
った。

 マリアナが失われたのはマリアナ沖海戦(1944年
6月)の敗北によるのだが、それに先立ち絶対国防
圏の拠点で「太平洋のジブラルタル」といわれたト
ラック島が米第5艦隊の攻撃を受け(1944年2月)、
在泊艦艇11隻、航空機270機、虎の子のタンカーを
含む輸送船30隻以上などを失う大打撃を受けた(海
軍丁事件)。マリアナ諸島の陸上防備態勢はトラッ
ク島が攻撃を受けた後にサイパン、テニアン、グア
ム島などに陸軍部隊の配備が行なわれたほどで、す
べては手遅れで中部太平洋の防衛は総崩れとなって
いった。

 なお北太平洋では、日本軍は太平洋の哨戒線を東
側に拡大するために、ミッドウェー作戦と同時にキ
スカ、アッツ島を占領したが、米軍の攻撃でアッツ
島は玉砕(1943年5月)、キスカ島は奇跡的に米軍
に発見されることなく全部隊を撤収できた(同年7
月)。

▼絶対国防圏の瓦解

 中部太平洋の進攻を担当した第5艦隊は、サイパ
ン、グアム、テニアンに次々と砲爆撃、掃海に続い
て海兵隊を強襲上陸させ、日本軍は玉砕していった
(1944年6?8月)。マリアナ諸島を手に入れた米
軍は、海軍設営部隊(シー・ビーズ)の活躍で戦略
爆撃機B-29用の飛行場を速成させ、10月からは対
日戦略爆撃を開始することになる。

 日本海軍は、中部太平洋からフィリピン方面に現
われた敵艦隊との決戦のための「あ」号作戦を発令
した。日本側は、敵艦隊の攻撃圏の外から先制攻撃
を加えて敵空母の飛行甲板を使用不能に陥れるとい
うアウトレンジ戦法を採用したが、米艦隊に到達す
る前にレーダーで捕捉、撃墜され惨敗に終わった
(マリアナ沖海戦、1944年)。

 これは、ガ島、ソロモンで壊滅した航空戦力を速
成した搭乗員で補わざるを得ず、長距離の戦闘飛行
に堪える練度や戦術技量が全く不十分だったことが
原因であり、「マリアナの七面鳥撃ち」といわれる
ほどだった。また、協同するはずの基地航空部隊が、
直前の米軍のビアク島上陸でけん制され壊滅した
ことも大きかった。今や日本海軍に残されたのは水
上部隊だけとなり、絶対国防圏は瓦解した。

 マッカーサーの南西太平洋進攻軸は、島伝いにル
ソン島に上陸しフィリピン全土を解放し、彼の「ア
イ・シャル・リターン」を実現しようとするものだ
ったが、マリアナ攻略で発揮された第5艦隊の戦力
を用いれば、一挙にニミッツが率いる中部太平洋軸
の目指す台湾へ進攻できるのではないかとの戦略論
争を米軍内に引き起こした。結局のところ、フィリ
ピンを空襲してみて判明した日本軍の防衛態勢の貧
弱さから、マッカーサーの主張するレイテ島に、途
中の島伝いを省略して上陸することに決着した(1
944年10月)。

これを受けて連合艦隊は、本土、南西諸島、台湾、
フィリピンに敵の進攻が行なわれる場合の「捷作戦」
を発令した。これは空母機動部隊が囮となって敵
機動部隊を北へけん制する一方で、基地航空部隊の
支援を受けた遊撃部隊が敵の上陸地点へ突入すると
いうものだった。機動部隊を攻撃に使わなかったの
は、マリアナ沖海戦で母艦搭乗員がすでに壊滅して
いたからである。囮部隊は米機動部隊の北方への誘
引に成功したが、肝心の遊撃部隊がマニラ湾口40
マイルに迫りながら敵機動部隊発見との虚報にもと
づいて反転してしまい、作戦は失敗に終わった(レ
イテ海戦、1944年10月)。この海戦で連合艦隊は実
質的に壊滅して、以後組織的な作戦の実施は不可能
となった。

▼海軍作戦の終焉と特攻の開始

 レイテ海戦以後、日本海軍の邀撃作戦の中心とな
ったのは特攻であった。特攻が初めて実施されたの
はレイテ海戦であり、空母などを撃沈しており、圧
倒的な勝勢にある敵艦隊を恐怖に陥れた。航空機に
よる特攻は終戦まで続けられ、海軍機は主として敵
機動部隊を、陸軍機は敵輸送船団を目標として2,
482機が出撃した。

 この特攻が当時の日本が置かれた状況のもとで万
やむを得ず行なわれたとしても、通常の作戦として
とり得る方策が尽きた時点で終戦に持ち込めなかっ
たことは、戦争の見通しを持たず、終結要領を決め
ずに開戦したことのあまりにも重い結果であった。

 1945年4月、米軍はフィリピン戦を終え硫黄
島を占領した勢いで沖縄に来攻し、初日に5万の米
軍がほぼ無傷で上陸し飛行場を占領して橋頭保を確
保してしまった。進攻兵力は、米第5艦隊を中心と
する艦艇318隻、艦載機約1,000機、海兵隊
6万人、陸軍6万人という巨大な兵力だった。

 これに対する日本軍は陸軍6万7,000名、海
軍9,000名、航空部隊3,275機、現地編成
部隊2万4,000名をもって「天一号」作戦を発
動した。連合艦隊は、わずかに残された戦艦「大和
」を中心とした海上特攻隊を編成して沖縄突入作戦
を実施したが、圧倒的な敵航空優勢のもと「大和」
は撃沈され、成算のほとんどなかった作戦は失敗し
た(1945年4月)。

▼本土決戦準備と敗戦 

 本土決戦は「決号作戦」として、決戦に先立つ1
0日間ほどで米艦艇の半数以上を海上で撃滅すると
して準備が進められた。まともな海上戦力は残され
ていなかったので、小型潜水艇「蛟竜」「海龍」、
人間魚雷「回天」、爆装ボート「震洋」などを含む
航空、水上、水中における特攻が中心にならざるを
得なかった。すでに連合艦隊は海軍総隊となり、そ
の下に特攻戦隊が編成され全国に分散配備された。

日本は8月14日、ポツダム宣言を受諾、大本営が
自衛戦闘を除く即時停戦を命令して(16日)「決
号作戦」は発動されなかった。8月22日、全海軍
部隊は停戦し惨憺たる敗北のなかに海軍作戦は終結
した。連合艦隊は解隊され(10月10日)、海軍
省も明治以来70余年の歴史に幕を閉じた(11月
30日)。





(つづく)
 
 

【主要参考資料】
外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』
(原書房、1979年)

吉田俊雄著『四人の連合艦隊司令長官』
(文藝春秋社、1981年)

森本忠夫著『魔性の歴史 マクロ経済学からみた太
平洋戦争』(文藝春秋社、1985年)

野中郁次郎著『アメリカ海兵隊 非営利型組織の自
己革新』(中公新書、1995年)

井上亮著『忘れられた島々 「南洋群島」の現代史』
(平凡社新書、2015年)

大井篤著『海上護衛戦』(学研M文庫、2001年)

大内健二著『戦う民間船』
(光人社NF文庫、2006年)
 









(どうした・てつろう)


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櫻井よしこさん司会による「陸海空自衛隊元最高幹
部大座談会」が掲載されています。岩田清文元陸幕
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【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。


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