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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。
短期連載「水雷艇「友鶴」転覆事件―その遭難から
入渠まで―」の5回目です。
時と場所を超えて心の痛みを分かち合える。
そんな人間であり続けたいです。
エンリケ
※おたよりはコチラから
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水雷艇「友鶴」転覆事件―その遭難から入渠まで―
(5)
必死の作業と祈る人々
森永孝昭(ドックマスター・日本船渠長協会会員)
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□ドックマスターのこぼれ話
KY様。「現場の苦悩、焦り、臨場感までも、伝わ
ってくるようです」とのご感想ありがとうございま
す。また、業界の片隅で仕事をしているドックマス
ターの存在を知っていただく機会を与えて下さった
メルマガ「軍事情報」さんに心より感謝申し上げま
す。
さて、第2回に、1969年と1970年に大型船が、大波
を受けて沈没したことを書きましたが、思うところ
があってやや詳しく書いてみようと考えました。
その2隻の船名は「ぼりばあ丸」と「かりふおるに
あ丸」ですが、今回は「ぼりばあ丸」(ばら積み貨
物船)の事故を紹介したいと思います。
遠路はるばる南米ぺルーから鉱石を積んで、日本の
玄関先までやって来た「ぼりばあ丸」は、大時化
(おおしけ)の中、船首方向から次々と寄せくる大
波の衝撃を避けるため、ゆっくりとした速度で東京
湾に向けてひたすら進んでいました。乗員は、明日
にでも家族と会えるのを楽しみにして、繰り返され
る大揺れを堪え忍びながら日常業務を続けていまし
た。
それでも何回となく強い衝撃を受けていたのですが、
「フォクスル(船首)がなくなった」という悲痛な
叫びが船内にあっという間に広がりました。直ちに
遭難信号(SOS)が発せられ、「総員退船、短艇部
署につけ」の放送が響き渡りました。
全員が救命胴衣を着けてボートデッキに集合し、人
員点呼を済ませ今から救命艇の降下作業にかかると
ころでした。船は中央から折れても簡単には沈まな
いように設計されていますから、まだ十分余裕があ
るはずです。やがて救助にきた船も見えてきました。
最初に駆けつけた「健島(たてしま)丸」は、波飛
沫(なみしぶき)で視界不良の中にやや前のめり姿
の「ぼりばあ丸」を見つけたのです。「もう少しだ、
これで全員救助できる」と確信できる所まで来た
のです。接近している「健島丸」のブリッジでは、
今か今かと気をもみながら救命艇降下が始まるのを
見つめていました。
しかし双眼鏡を通して目に入ったのは、信じられな
い光景でした。それは船首方向を根元のようにして
棒立ちになったかと思うと、その垂直になった姿は
見る見るうちに海中に吸い込まれていったからです。
この冬場に、海に投げ出されたらひとたまりもない
ことは、分かり切っています。
この一部始終を見た「健島丸」は、きっと浮遊者が
大勢いるはずだと、現場に急行して目を皿にして捜
索しました。荒波の海上であれば、見つけるのは至
難の業ですが、奇跡的に2名を発見して、救助に成
功したのです。
さらに「もんてびでお丸」「豊和丸」が捜索に加わ
りました。しかし救命浮環や救命いかだ(大型ゴム
ボート)などを見つけただけで、どんなに捜しても
あとの31名の乗員は見つからなかったのです。
船首が折れた時刻は10時30分で、沈没したのは11時
27分ですから、わずかに船首側に傾斜していたもの
の、ほぼ1時間浮いていたのです。このような状態
がもっと続くと誰もが信じていたはずですが、なぜ
急激に沈んだのでしょうか? 専門家の意見も様々
だと思います。
実は船首部分は、離脱してなく海中でぶら下がって
いたのではなかろうか、とも憶測されるのです。や
がて船首の荷重に耐えかねた竜骨鋼板が、バナナの
皮のように船底全体に剥ぎ取られていって一気に沈
没したのでは、とも考えられないでしょうか。
1969年(昭和44年)1月5日の出来事です。
「ぼりばあ丸」は33000総トン、長さ223メートルで、
「健島丸」が8800総トン、長さ152メートルでした。
なぜ4倍近い大船が沈んで、在来の貨物船が何事も
なく航海できたのか、普通の人は驚き不思議に思っ
たのです。
このあと「船体強度と堪航性(たんこうせい)」
「海洋の波の特性」などに注意が払われ、より安全
な船が目指されたのです。
ところが、驚くべきことに同じような事故が、
1年後にも発生したのでした。(次回へ続く)
▼庵埼(港内錨地)の続き
(水船固縛)
満水状態で待機していた水船4隻(うち2隻は重油
船の代用)の横抱き固縛作業を、0840から開始した。
まず艦尾側両舷に水船(200トンと150トン積み)を
抱いた。“友鶴”との間には長さ6mほどの丸太を
数本垂直にかませて、フェンダー代わりとした。固
縛するのにも潜水夫が船体に大回しで40mmと32mmの
ワイヤを渡さなければならない。
水船の内側から下方に出したワイヤは、水中にある
友鶴のデッキと相手水船の船底を通過して外側に渡
す。同じく外側から出したワイヤは、船底から“友
鶴”の甲板を経由して相手水船と“友鶴”との間を
抜け、相手水船のデッキで固定する。このようにし
て、水船の前後に2本ずつ計4本で固縛した。同じ
く前部の重油船代用の水船(300トン積み)2隻も
1220に終了し、4隻で包み込むような形が出来上が
った。
水船の合計積水重量は950トンである。“友鶴”の
排水量は700トンあり、それに船底露出部から推量
した船体浸入海水の付加重量は900トンを優に超す
と計算されるので、反転総重量は1600トン以上ある
ことになる。
仮に4隻の水船の950トンを、排水できて全量が浮
力に置き換えられると、2m近くの喫水上昇を得る
ことになる。
いざ排水を開始すると、すぐに200トンと150トン水
船は内側に傾きはじめ、300トンの重油船も傾くの
は時間の問題となった。破断力80トンのワイヤを数
カ所のビット(係柱)に分散して捲(ま)いたが、
過重のかかったワイヤはビットを甲板からもぎ取る
か、切断して人間を弾き飛ばしそうであった。もと
もと水船の甲板仕様では、到底このような集中加重
に耐えられるものではなかった。しかも水中調査で
わかったが、ワイヤが“友鶴”の甲板と外板の角
(ガンネル)に食い込んでいるという。いずれにし
ても、危険回避の妥協点で排水を中止せざるを得な
かった。
それでも部分的に0.5~0.6mの浮上があったので、
水船作戦は空気注入と合わせてドック到着までの沈
下時間稼ぎの効果はあった。
(脱出者)
そんななか、思わぬ奇跡が起こった。1215船体後部
の昇降口から艦内送気作業のため、内部をうかがっ
ていた潜水夫めがけて、3名の乗員が素潜りで迫っ
て来て自力脱出に成功した。
一等機関兵「松田利男」(大分)、三等機関兵「河
村清八」(愛媛)、同兵「高橋武市」(香川)の三
氏であって、かなり元気な口調で「まだ8名が内部
に生存しています」と告げた。
水温12度の水中から気温7.6度の船上に出てきた三
人は、ガタガタと身震いしていたが、服を脱がされ
ると同時に目保護のため目隠しをされ、体を入念に
拭かれて毛布に包まれたあと、三條善郎軍医大尉の
応急処置を受けて海軍病院に移送された。
三人が出てきたおかげで、第3運用科倉庫の昇降口
蓋が垂れ下がり完全に開放となった。これにより残
り8名が生存しているという第3運用科倉庫に、直
接空気と酸素を交互に送り、その他食料、飲料水、
ミルクなどをブイ付きロープで供給した。
(加藤少佐)
1230かすかな反応ではあったが、前部の第2運用科
倉庫にも生存者がいることが判明した。しかしこの
区画は、後部のようには単純でなかった。艦首から
4分の1の長さのところ艦橋部のやや前方の最底部
にあって、艦橋を含む艦首から3分の1はデッキが
1層多く船首楼甲板を構成しているので、その分、
深くて遠くなっているからだ。
潜水夫が、煙突横のデッキから、第1士官室に至る
通路口のヘビードアを開けて、無理を承知でなんと
か行こうとしたが、わずか5mほどしか進めなかっ
た。
目的場所までは、さらに10m奥まで行き、今度は下
へ行く昇降口を開けて2デッキも進まなければなら
ない。やがて潜水夫が海面に上がって来て、「無理
です。吸気ホースが届きません。艦内は暗いうえに
狭く、多数の物が浮遊しています」と言った。
理論的には空気の艦内装?は、生存者の呼吸を助け
るとともに船体の浮力を増すことになるので、ホー
スを数カ所に突っ込み送気を続けることになったが、
艦内は迷路のようになってしかも閉鎖区画が多く、
せっかく時間をかけて供給した空気も、あちこちの
通路や思わぬ部屋で気泡となって停留し、また逆
に戻ってきたりするので、目的の区画にまで達して
いるとは到底思えなかった。
そんななか、1600になって伊63潜水艦長、加
藤行雄少佐が異様な格好で現れた。
それは、ほとんどの人が初めて見る姿であった。誰
しも、潜水服といえば、宇宙服のような、前と横に
丸い覗き窓があるドーム型ヘルメットのものしか見
慣れていなかった。しかし加藤少佐のそれは、目に
ゴーグルを付けただけで、体の前後ろに膨らみのあ
るライフジャケットのようなものを着て、そこから
口にくわえるパイプが出ており、背中には長くて細
いホースが、船上の手押しポンプと連結するように
なって付いていた。
果たしてあんなもので潜れるのかと疑問に思う者も
いたが、水中メガネ(マスク)と顔面または口周り
だけに送気する方法をマスク式潜水といい、日本で
も独自に大正、昭和と漁業者やサルベージ関係者に
より開発がなされていたのだった。
第1次世界大戦のおり、地中海で沈没した日本郵船
の“八坂丸”の金貨が、1925年(大正14年)に日本
人の手で、実に80mもの深さから回収された話は有
名であるが、このときに大串式潜水具(マスク式)
を使って世界を驚かせている。
体全体に送気するヘルメット型と違ってマスク型は、
口部にだけ給気するので水上でのポンプ(人力)の
負荷は少なくて済むうえ、潜水夫の動きは容易とな
り機動力は飛躍的に伸びることになった。この頃
(昭和8~10年)には、軽便潜水衣と称され普及が
始まり、海軍にも導入されてきたのである。
加藤少佐は、この最新式をもって艦内奥深く潜入し、
生存者を救出しようというものであった。これで
あれば現代のスキューバダイビングに近い動きがで
きるし、水面下で救助を待つ乗員と出会い、マウス
ピースから直接相手の口に給気しながら抱いて救助
できるかもしれない。ロープやホースも意のままに
艦内に導き、空気や食料の供給も効率よくなるだろ
う。
しかし、準備が済んだにもかかわらず、目と鼻の先
で潜水中止となった。加藤少佐はあくまで潜水によ
る救助を主張したが、ドックへの移動時刻の1630ま
であと30分と迫っているいま、かなりの時間を要す
るであろう奥深くへの立ち入り潜水作業に、周囲の
者は誰も賭けることができなかったのである。
(友鶴救難作業の所見)
救難作業にあたった港務部は報告書の最後に所見を
述べているが、これは裏を返せば何が思い通り進ま
なかったのか、何が必要なのかなどが見えてくる。
記
1、救難作業としては水中にて鉄板等を切断する場
合多し、この方面の研究を積み迅速に目的を果す方
法を講じ置く必要あり
2、通信連絡は最も必要なるところ救難に従事すべ
き船艇(雑役船)における無線電信装置は概して貧
弱なり、至急改装新設を要す
3、救難船小型に過ぎまた旧式にして劣速、急の場
に適さざるを認む、曳船兼救難船の強力なるものを
建造する要あり(帝国サルベージ会社の祐捷丸の如
きものを可とす)右は内火式機械装置を要す
4、転覆又は沈没船内に送気するため船底または舷
側に穿孔すると同時にこれに圧搾空気を送る方法を
研究しておくこと必要なるを痛感せり
これらから「(1)水中切断が容易でなかったこと、(2)
救助船同士の連絡通信がうまくいかなかったこと、
(3)曳船の速度も遅く曳航力も乏しかったこと、(4)機
関のスタンバイに長時間を要したこと、(5)水中での
艦内送気が思ったようにいかなかったこと」がわか
る。
帝国サルベージは、同年9月に東京サルベージと合
併し、日本サルベージとなって現在に至っている。
また内火式とは、内燃機関、ディーゼル機関のこと
で、このころは「石炭燃焼の蒸気レシプロ」がスタ
ンバイに最低3時間を要したのに対し、瞬時にスタ
ンバイできる内燃機関が切望される時代になってき
ていた。
▼新聞報道
12日の夕方から、救助作業の様子は逐次報道関係
に公表された。したがって13日の各社朝刊には第
一面トップで「友鶴遭難」の記事が掲載され、国民
は驚きをもって知ることとなる。以下に記事に関す
るものを取り上げてみた。
(主な見出し)
「遭難の友鶴乗組員、百十余名生死不明」
「最新水雷艇友鶴、転覆漂流中、平戸島南方で発見
さる」
「水雷艇友鶴転覆、全乗組員まったく絶望、長崎志
々伎湾の惨劇」
「空、海から大捜索」
「飛行機七台出動、軍医、看護婦も出動」
「軍艦龍田が佐世保に曳航中」
「転覆して赤い腹、目撃した発動機船の話」
「ノックに悲壮な応答、三時間後には絶える」
「ハッチ全部密閉、遭難者はほとんど艦内?」
「我が海軍の誇り、沈まぬ艦艇、建造した舞鶴要港
部の驚き」
「当夜は大変な嵐で海水甲板を乗り越す、僚艇“千
鳥”の副長、遭難の光景語る」
「不祥事の惹起、恐縮に耐えない、海軍大臣談」
「原因究明に調査会設置、当局事件を重大視」
一つだけ大島機関特務少尉の夫人「ムメ子」氏(40)
の「虫の知らせか、すごい風の音」という見出しの
記事を次に紹介する。
「ただ今鎮守府の方からお知らせをいただいたばか
りです。主人は昨年12月11日、第30駆逐隊“如月
(きさらぎ)”から“友鶴”に移ったばかりで、遭
難時刻と思われる4時ごろ、あまり風がひどく外か
ら誰か開けているのではないか、と思ったくらいで
神様にお燈明を上げた程でありますが、これも何か
のお知らせがあったのかも知れません。今晩あたり
上陸すると思って食事の用意をしていたのでありま
した」
(士官関連)
全乗組員の氏名114名が発表されたが、その中の
准士官以上7名はやや大きめの文字で掲載された。
艇 長 少 佐 岩瀬奥市
35歳 愛知県
副長兼航海長 中 尉 吉村正禅
24歳 佐賀県
機関長 機関中尉 古谷萬太郎
28歳 鳥取県
掌砲長 特務少尉 吉武喜重郎
46歳 福岡県
機械長兼掌機長 機関特務少尉 大島喜兵衛
46歳 鹿児島県
掌機雷長 兵 曹 長 安廣六郎
福岡県
罐 長 機関特務兵曹長 野村長太郎
愛媛県
上記の上から3名の士官だけが顔写真入りであった
が、吉武氏と大島氏は少尉であるが、「特務士官」
と称して別扱いになっていた。「それはなぜであろ
うか」と思われるかもしれないが、年齢を見て推察
していただきたい。これは、海軍にだけ存在した階
級制度であるが、この件については内容とは無関係
なのでこれ以上は論じない。
この中で掌砲長の吉武喜重郎特務少尉は、家族の急
病により出港直前に下艦、郷里福岡に帰省していた
ので乗艦していなかった。
海軍はすぐに訂正を出したが13日の朝刊には間に
合わなかった。各社は夕刊以降には「吉武特務少尉
は看護帰省中のため遭難をまぬがれた」と報じた。
したがって実際の乗員総数は113名であった。
(艇長夫人のコメント)
艇長の岩瀬奥市少佐の夫人「れい子」氏(26)へ
のインタビュー記事を各社が載せているが、内容が
微妙に異なるので参考までに4社を比較されたい。
A社
「昨日の嵐で気掛りでならず、一晩中まんじりとも
せず夫の安全を祈り今朝も“真鶴”艇長夫人と市場
で出合い、うわさし合ったことでしたが、たとえ死
んでもお船と生死をともにしたのだから本懐だと思
っています」
B社
「私は3月3日、真知子(4歳)を連れて来たばか
り主人も着任したばかりで、昨夜は荒天だったので
何事かなければよいがと“真鶴”艇長の奥さんと心
配しながら語っていたところです」
C社
「軍人の妻である以上かねてより覚悟していました
が、これが戦争であったならと思います。ただ今の
ところ詳しいことは判りませんが助かるものとは思
っておりません」
D社
「軍人の妻である以上かねてから覚悟はしていまし
たが、まさかこんなことになろうとは思いませんで
した」
(脱出3名の談話)
さらに14日の朝刊には、庵埼で自力脱出した3名
の談話がさっそく載っているので、原文のまま記載
してみる。
「歓喜の三機関兵、遭難刹那(せつな)を語る、暗
黒中に悲壮な誓い」
「油によごれた作業服のまま艇底の強力なる水圧を
一気に押し切って“友鶴”から一斉に飛び出した三
名の機関兵は海軍病院に入院、静養しているが来島
鎮守府先任副官が13日夜病院を訪れ水船の艇内に
圧搾空気と圧搾酸素を送った時の身体の様子を軍医
と共に聞きだした。三人は交互に次のように語った」
『僕らがいた後部兵員室は右舷を下げてぐっと傾斜
し、その底部は少量の海水が浸入、同室には僕らの
ほかなお8名の生存者がいた。しかし非常に憔悴
(しょうすい)して力なくほとんど今や死を待つの
みの有様であったので、果たしてあれから数時間を
経過した今、生きているかどうか心配でならない。
どうか早く助けて下さい』
『13日の正午すぎ、少し息苦しくなった。間もな
く急に呼吸が楽になりました。この時が外部から空
気を送られた時でしょう』
『楽になると感じると急に元気が出て思わずハッチ
から三人力を揃えて飛び出しました』
『一つはその時潜水夫が腹にブイをつけて手招きす
る姿が見えたので曳船も来て救助作業を進めている
と知りました、その時のうれしさは何とたとえてい
いのかわかりません』
『一度転覆するや同室の兵員は暗黒中にお互いの名
を呼びつつ手を握り身体をさぐり合って、ひしと抱
き合い艇と運命を共にすることを誓いました。今に
して思えば生きていたのが不思議でたまらない』
(つづく)
(もりなが・たかあき)
※森永さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
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【著者紹介】
森永孝昭(もりなが・たかあき)
1949年2月26日、佐世保にて誕生
1972年、長崎大学水産学部卒業
1972年、神戸、広海汽船 航海士
1982年、甲種船長免状(現:1級海技士)受有
1983年、佐世保重工株式会社 ドックマスター
2009年、定年、常勤嘱託ドックマスター
2020年、非常勤嘱託ドックマスター 現在に至る
実績:233隻の新造船試運転船長。延べ約6300隻の
操船(自衛艦、米艦、貨物船、タンカー、コンテナ
船、客船、特殊船など)
現在:一般財団法人 日本船渠長協会会員
過去の外部委嘱:西部海難防止協会専門委員、佐世
保水先人会監事
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(代表・エンリケ航海王子)
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