配信日時 2022/03/02 20:00

【海軍戦略500年史(40)】 太平洋の戦い(1) 堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の四十回目。

多くの学びがありました。

特にインド洋方面に関するはなしは
興味深かったです。

さっそくどうぞ


エンリケ


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海軍戦略500年史(40)

太平洋の戦い(1)


堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

 太平洋戦争は、山本五十六長官の発案したハワイ
奇襲作戦で始まります。これは極めてギャンブル的
な作戦であったことから強く反対されますが、山本
長官は職を賭す決意を示して作戦を強行します。作
戦は大成功を収めますが、戦争全体から見ると失敗
でした。

第一段作戦が予想外に進捗したために、第二段作戦
への移行にあたり細部の調整ができていなかった陸
海軍はまたもや対立します。この時、短期決戦を心
ひそかに期していた山本長官は、計画になかったミ
ッドウェー作戦をまたもや強引に組み込みます。パ
ールハーバーで取り逃がした米空母を誘い出そうと
しますが、海戦史に残る大敗を喫してしまいます。

 第一段作戦の大きな目的であった南方資源地帯か
らの日本への石油輸送は開始されますが、まもなく
タンカーの不足に直面し、国家戦略であった大東亜
共栄圏が成り立たなかったことが証明されてゆきま
す。

▼第1段作戦─ハワイ作戦

帝国国防方針第三次改訂にもとづく海軍の作戦は、
第一段作戦として東アジアの敵艦隊を撃滅するとと
もに陸軍と協同して南方資源地帯を占領し、第二段
作戦として敵主力艦隊を漸減邀撃(ぜんげんようげ
き)作戦で迎え撃つというものだった。

しかし、開戦直前になって連合艦隊の強い要求で開
戦初頭のハワイ作戦が採用された。これは、南方の
資源で長期戦を戦うという計画を非現実的と考えた
山本五十六連合艦隊司令長官が、「開戦劈頭有力な
る航空部隊を以て敵本陣に斬込み彼をして物心共に
立ち難き迄の痛撃を加ふる」ことにより、短期決戦
を成立させようと考えたものだった。

空母6隻を投入してハワイを奇襲するこの作戦は、
3,000マイルに及ぶ大艦隊の行動の秘匿、冬の北大
西洋での洋上補給、浅いパールハーバーでの魚雷攻
撃など非常な困難が見込まれ、失敗すれば開戦初日
に戦力の大半を失いかねないギャンブル的な作戦で
あったことから軍令部の強い反対にあった。これに
対して山本長官は職を賭しても断行する決意を示し
て作戦を強行したのだった(1941年12月)。

奇襲は事前の周到な準備と敵の油断にも助けられて
成功したが、山本長官の意図は部下指揮官にさえ十
分理解されておらず、「艦隊決戦一本槍でやってき
た連合艦隊はすっかりこんがらがり、またその作戦
の血の凍るような冒険性に必死にやってのけただけ
だった」というのが実情だった。(吉田俊雄『四人
の連合艦隊司令長官』)

戦術的には完ぺきで、作戦としても西太平洋の制海
権を握ることができたために南方作戦は極めて順調
に進捗した。しかし、肝心の米空母を取り逃がし、
パールハーバー基地の燃料タンクや修理施設は無傷
で残ったため、半年後のミッドウェー海戦では米空
母の急速展開を可能にして、痛恨の大敗を招くこと
になる。

戦略的には、米空母が被害を免れた一方で戦艦群が
沈められたこともあり、日本海軍が証明した航空主
兵の戦い方や戦略にいち早く変革できたのは米海軍
の方であり、その国力を活かして次第に日本を圧倒
するようになる。

何より問題だったのは、最後通牒の手交がおくれて
騙し討ちの汚名を着せられ、アメリカ国民を「リメ
ンバー・パールハーバー」の大合唱で一致団結、国
の総力を挙げて対日戦に立ち上がらせたことであり、
山本長官の意図は完全に裏目に出て、太平洋戦争
の大きな敗因となってしまった。

▼マレー沖海戦─航空機対戦艦の戦い

真珠湾攻撃とほぼ同時に陸軍部隊がマレー上陸作戦
を開始したのに対して、英東洋艦隊主力がこれを阻
止しようと出撃し、英最新鋭戦艦など2隻が日本海
軍の攻撃機により撃沈された(マレー沖海戦)。ハ
ワイ作戦に続く大勝利で、付近海域の制海権は完全
に確保されてマレー攻略作戦の海上輸送は順調に行
なわれシンガポール陥落につながり、第一段作戦の
展開に大きく寄与した。

この海戦は「航空機対戦艦」という海戦史上初の組
み合わせになったが、結果は戦艦の完敗に終わった。
航空機は遠距離の基地から発進し、攻撃効果が限ら
れる逐次攻撃になるという不利な条件であったが、
被害はわずか3機に過ぎなかったこと、撃沈された
「プリンスオブウェールズ」は対空装備も極めて優
秀な最新鋭の高速戦艦であったことを考えあわせる
と、航空機の絶対優位が実証されたことは明らかで
あった。マレー方面と同時に着手された比島作戦も
順調で、進撃した陸軍は占領地において基地を整備
して制空権を南方に広げてゆき、ジャワ島上陸が開
始された。

カムラン湾とミンダナオ島から東西に分かれてジャ
ワ海に入った日本上陸部隊と、それを阻止しようと
した米英豪蘭連合海軍部隊との遭遇戦がスラバヤ沖
海戦(1942年2月)とバダビア沖海戦(同年3
月)であり、日本が勝利しジャワ島を含む南方要域
の占領という作戦目的を達成した。この間、アッツ
島、グアム島、ビルマなどの攻略にも成功し、開戦
後100日間あまりで西太平洋を勢力範囲に収める
ことができた。

▼インド洋作戦─イギリス東洋艦隊を退ける

 第一段作戦完了時の西側の防衛ラインを、ビルマ、
アンダマン諸島、ニコバル諸島、スマトラ島を結
ぶ線とするため、日本海軍はイギリス東洋艦隊の根
拠地であるセイロン島を攻撃するとともに、カルカ
ッタからビルマへの補給ルートを妨害するための通
商破壊戦をベンガル湾で行ない商船21隻を撃沈し
た(インド洋作戦、1942年4月)。

 戦いは日本側の圧勝に終わり、イギリス東洋艦隊
はアフリカへ後退し艦隊保全策をとった。東洋艦隊
が戦艦や空母で再び増強されるのは、1944年後半に
なってドイツ海軍の戦力が激減してからであり、名
称も太平洋艦隊と改めて対日戦に臨むことになる。

 この作戦では艦爆隊の驚異的な命中率など日本機
動部隊の威力が発揮されたが、一方で索敵機の報告
ミス、攻撃機の爆弾と魚雷の転換遅れ、陸上機の奇
襲を受けるなどの問題が起きたが対策がとられるこ
とはなく、ミッドウェー海戦の大敗の原因となって
しまう。

▼アメリカの対応

 パールハーバー奇襲を受けて、アメリカは即日、
対日無制限潜水艦戦を開始した。フィリピンとグア
ムを失った米軍は、オーストラリアの脱落を防ぐた
めに兵力増強を支援するとともに、同国を反撃の根
拠地とするため、米豪連絡線の確保に全力をあげる
が、このためにはフィジーやニューカレドニアなど
仏領の南太平洋諸島を防衛しなければならなかった。
米海軍はすでに日本海軍の暗号を解読しており、
日本のFS(フィジー・サモア)作戦の情報を得て
いたのだ。

しかし、ハワイの戦艦部隊が壊滅し、「レインボー
5」に基づく「連合国統合戦略計画ABC-1」では対
独戦が優先され対日戦は後回しだったので、必然的
に当面の対日戦は太平洋所在部隊による守勢的作戦
とならざるを得なかった。

一方で合衆国艦隊司令長官のキングは、米豪連絡線
の強化に加えて日本のオーストラリア侵攻を阻止し、
日本軍の戦力を消耗させて反攻のきっかけを作る
ために、ツラギ島とガダルカナル島を日本軍から奪
還する計画(ウォッチタワー作戦)を統合参謀長会
議に認めさせた(1942年7月)。この作戦で水陸両
用戦を担当する海兵隊は、それまでの機動性を重視
した海兵旅団から戦闘単位としてより自己完結性の
高い海兵師団に増強して作戦に臨むことになった。

▼第二段作戦(攻勢作戦)への転移─戦争構想の大
転換

 第一段作戦が終わった時点で陸海軍間の第二段作
戦の細部の調整はできていなかった。米軍を短期決
戦で撃滅することは困難で、米側も当面ヨーロッパ
正面を優先するので極東方面はしばらく防勢をとる
だろうと見積もり、第一段作戦を達成したら長期持
久の作戦に移ることがもともとの構想だった。

ところが、少なくとも5カ月を要するとみられてい
た南方資源地帯の占領をわずか3カ月で達成した陸
海軍は、次期作戦の方針で対立する。陸軍は、既定
の方針に基づいて南方の兵力を中国大陸に転用して
支那事変の早期解決を目指した。一方、海軍は開戦
以来の連勝の勢いをかって、ハワイ、豪州、セイロ
ン島攻略を狙い、現われる敵艦隊を片端から撃破し
て西太平洋からインド洋までの制海権を握ろうと考
えた。「対米英蘭?戦争終末促進に関する腹案」で
は戦争終結の時期として南方作戦の主要段落を考え
ていたのに、逆に戦線を大拡大しようとしたのだ。

これは、短期決戦を心ひそかに期していた山本長官
の考えでもあった。海軍は緒戦の大戦果を拡大し、
ハワイ、豪州、セイロン島攻略を含む積極作戦によ
る短期決戦を主張したが、陸軍は攻勢限界点を超え
るとしてあくまでも長期持久態勢の確立を主張して
対立した。

 結局、両者の主張を併記した「今後とるべき戦争
指導の大綱」(1942年3月)が決められ、海軍
はハワイ攻略などを断念する代わりに一部の豪州方
面への積極攻勢作戦を実施することになった。陸軍
は既定方針どおり南方の部隊を縮小して持久作戦に
移行し、再び大陸方面を志向するというようにそれ
ぞれに行動した。

▼ミッドウェー作戦の登場─ドゥーリットル空襲

 この大綱を受けてポートモレスビー攻略作戦(M
O作戦)が発令され(4月)、次いで米豪間の連絡
線を遮断するためのフィジー・サモア諸島攻略作戦
(FS作戦)が決定した(5月)。

ところが山本長官は、FS作戦は作戦地域が遠すぎ
るとして消極的で、計画になかったミッドウェー島
を攻略して米艦隊を誘出するためのミッドウェー作
戦を計画し、軍令部の反対を押し切り、再び強引に
FS作戦の前に組み込んだ。山本長官は、パールハ
ーバーで取り逃がした米空母を積極作戦で誘い出し
て撃滅することを狙っていたのだ。

 このミッドウェー作戦の計画中に降ってわいたよ
うなドゥーリットル空襲(4月)が起こる。開戦以
来日本に押されていた米国が一矢を報い、米国民の
戦意高揚を狙ったものだった。房総沖500マイルの
米空母からB-25爆撃機16機を発進させ、東京など主
要都市を爆撃し、その後は中国大陸に着陸するとい
う極めて冒険的な作戦であった。爆撃の被害は小さ
なものだったが、真珠湾奇襲からわずか100日で敢
行された日本本土への奇襲に日本国民は大きな衝撃
を受け、ミッドウェー作戦の重要性が改めて認識さ
れることになった。

▼珊瑚海海戦─史上初の空母対決

 日本軍のMO作戦を暗号解読で察知した米豪連合
海軍部隊が、その阻止のために起きたのが珊瑚海海
戦であり(5月)、史上初めての空母部隊同士の対
決となった。日本海軍は、雷撃機と急降下爆撃機の
組み合わせによる戦法をとったが、米空母部隊の輪
形陣からの対空火器に阻まれて、米空母1隻を撃沈
するにとどまった。日本側も軽空母1隻を失ってい
るが、追撃の好機を活かさずMO作戦を延期してし
まったため、連合軍側が作戦の目的を達成した形と
なった。

この海戦では、敵空母に対する索敵の重要性、一発
の爆弾でも飛行甲板が使用不能となれば空母の機能
が失われること、そのために先制攻撃が重要となる
こと、敵基地航空圏内での作戦は不利であることな
どの空母戦の特質が明らかとなった。しかし、連合
艦隊は敗因を井上成美長官の弱気にもとづく過早な
作戦中止にあるとのみ見たため真の教訓をつかみ得
ず、次のミッドウェー海戦に反映させることはでき
なかった。

▼転換点となったミッドウェー海戦

 連合艦隊のミッドウェー島攻略を阻止する米機動
部隊との戦いがミッドウェー海戦(1942年6月)で
あり、主力空母4隻を多数の熟練搭乗員とともに一
挙に失うという世界の海戦史に残る大敗となり、太
平洋戦争の大きな転換点となった。

この作戦は予定外のものとして計画されたため、作
戦の準備や搭乗員の訓練、部隊の事前展開に無理が
あったうえに、作戦の主目的もミッドウェー島の攻
略なのか米空母の誘出なのか混乱が生じていた。さ
らには、ミッドウェー作戦の採用と引き換えに軍令
部の主張するアリューシャン作戦を追加してしまい、
兵力の分散という重大な誤りを犯してしまった。

 作戦の要領もハワイ作戦と同じようなものだった
ので、軍令部からはそれを繰り返すことは「古来兵
法の戒しむるところ」と批判された。ニミッツ元帥
も戦後、「日本海軍は奇襲を必要としない場合にも
奇襲に依存するという錯誤をおかした」と指摘して
いる。

 加えて日本側には緒戦からの連戦連勝による油断
や驕(おご)りが蔓延していた。事前の図上演習で
は、実戦と同じような空母の損害が出たものの、参
謀長は「そうならないようにするから心配ない」と
して作戦計画などは修正されなかったうえに、秘密
保持にも緩みが生じ、現場の部隊では敵空母は現れ
ないのではないかとの先入観にとらわれて情勢判断
を誤って敗北したのだった。

 対する米海軍側は、日本の暗号解読により作戦の
全貌を把握しており、無傷のパールハーバーの兵站
支援能力を発揮させて兵力の急速集結を行なってい
た。また、空母の数で劣る米海軍はミッドウェー島
の基地航空兵力をフルに活用して航空戦力比を逆転
させることにも成功した。米軍の勝利には幸運も大
いにあったと考えられるが、日本側はインド洋作戦
や珊瑚海海戦で得られたはずの教訓がすべて敗因と
なったほか、多くの戦術的な過ちを犯した。

ミッドウェー海戦後、日本海軍では艦隊編成を空母
が中心となるように変更し、戦術も戦艦などを空母
の前方に前衛として配置するように全面的に見直さ
れた。建艦計画も大幅に見直し、戦艦の建造中止と
空母への改装、空母の大量建造、航空隊の大増勢に
舵を切ったが、資材や生産力の限界からすでに手遅
れであった。
 
▼不足するタンカー

 第一段作戦の大きな目的であった南方資源地帯か
ら日本への石油輸送は1942年4月から開始された。
待望の石油は入手できるようになったものの、肝心
のタンカーが不足し、国内沿岸用タンカーの半数以
上が南方に差し向けられたほどであった。

 1943年に入ると、17万トンものタンカーが撃沈さ
れる。米潜水艦部隊が日本のタンカー攻撃を最優先
するようになったためだ。1944年には82万トンが沈
められ、この年の新造62万トンなどがなかったら、
タンカーはゼロとなっていたところだった。

1945年は、南方からの石油輸送が遮断されたために
喪失は36万トンに留まったが、新造もわずか9万ト
ンに過ぎず、タンカーの作戦用海軍艦艇への改造が
行なわれたことで32万トンものタンカーが姿を消し
た。終戦時のタンカーは27万トンで、開戦時の58万
トンの半分以下となったうえ、就航可能なものはわ
ずか9万トンという惨状を呈した。開戦前の大東亜
共栄圏に対する心配は的中したのだ。



(つづく)
 
 

【主要参考資料】

外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』
(原書房、1979年)

吉田俊雄『四人の連合艦隊司令長官』
(文藝春秋社、1981年)

森本忠夫著『魔性の歴史 マクロ経済学からみた太
平洋戦争』(文藝春秋社、1985年)






(どうした・てつろう)


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【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。


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発行:
おきらく軍事研究会
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