配信日時 2022/02/23 20:00

【海軍戦略500年史(39)】 太平洋戦争 堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の三十九回目。

地政学や地経学にもとづく国家の挙動は
不思議なくらい時を超えて共通します。

宿命というのかもしれません。

自国を地政学、地経学の視座から眺める癖を
常に持つことが重要ですね。

さっそくどうぞ


エンリケ


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海軍戦略500年史(39)

太平洋戦争


堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

太平洋の戦いです。
 日本はちぐはぐな国家戦略に導かれるように無謀
な太平洋戦争への道をたどります。「ドイツも非常
に勝っていることだし、バランスということもある
ので、講和のキッカケはその間に出るだろう」と考
えて開戦したのです。

山本五十六連合艦隊司令長官が強行した真珠湾攻撃
は、太平洋戦争の大きな敗因になりました。また、
日本海軍がマハン流の艦隊決戦を信奉していたのに
対して、米海軍は対日作戦構想をマハン流から進化
させ、日本海軍は裏をかかれたのですが、どういう
ことだったのでしょうか。

少し長くなりますが開戦の経緯から見てゆきます。

▼大戦勃発─成立しない大東亜共栄圏

 日本が日中戦争の泥沼にあった1939年9月、
第二次世界大戦が勃発した。日本は東アジアにおけ
る英米中心の現状を打破して「大東亜共栄圏」を建
設することを基本方針とする「基本国策要綱」を決
定する(1940年7月)。大東亜共栄圏とは、日満支
を中心とし、おおむねインド以東、ニュージーラン
ド以北の南洋方面を含む広大な「自給圏」を建設す
る構想だ。

 基本国策要綱を受けて大本営政府連絡会議は「時
局処理要綱」として日中戦争解決の促進と南方問題
解決の二つの目標を示した。陸軍は日中戦争の行き
づまりを南方への武力行使によって打開して戦略転
換を図ろうとしたが、海軍はまず日中戦争の解決を
優先すべきとの立場をとった。海軍は、英米は不可
分なので南方での対英戦は対米戦に連動して長期戦
になる公算が高く、それを戦い抜く自信が持てない
でいた。しかし、海軍が対米戦に自信がないと明言
すると、陸軍から物資も人も寄越せと言われるから
対米戦を絶対に回避するとは主張できない弱みと矛
盾をかかえていた。

 南進にはもうひとつの重大な問題が潜んでいた。
それは蘭印における資源地帯を占領しても海上交通
線の確保は容易でなく、資源を日本に持ち帰ること
ができない可能性が大きい。そうであれば蘭印攻略
は無意味で、さらには大東亜共栄圏構想は成り立た
ないので、国策を抜本的に変更して、米英と協調す
る以外に日本の生きる道はないのではないかという
根本的な問題だった。
 
 このように基本国策要綱も時局処理要綱も、政軍
間、陸海軍間の考え方の違いを整合できないまま策
定されたので、結局、それぞれが自分に都合の良い
主観的判断によって行動を起こしてゆくことになる

 
▼日米対立の激化─日独伊三国同盟

日露戦争終結まで良好だった日米関係は、日本人移
民をめぐる問題やアメリカが「門戸開放」で目論ん
でいた満州での鉄道経営計画の頓挫などをきっかけ
に悪化していった。第一次大戦後、強大化したアメ
リカはワシントン会議を主導して、九カ国条約と海
軍軍縮条約を成立させ、日英同盟は廃棄された。

これにより日本の大陸政策は制限され関東軍による
満州事変へとつながり、主力艦の対米6割制限は日
本海軍にアメリカに対する敵意を募らせることにな
った。日本は満州国を認めない国際連盟から脱退し、
海軍軍縮条約からも離脱して国際的に孤立を深め
てゆく。日中戦争は泥沼化し、日本が樹立した汪政
権は失敗、アメリカは?介石への支援をさらに強化
したため、日本は「援?ルート」を遮断するため北
部仏印に進駐した。

 日米対立を決定的にしたのが日独伊三国同盟の締
結(1940年9月)である。米内海相などの反対
論が松岡外相や陸軍の親独勢力によって押し切られ
たのだ。この同盟条約ではソ連を対象外とし、ドイ
ツが日ソの国交調整を周旋するとされていたが、松
岡外相は三国同盟にソ連を加えて四国条約に発展さ
せてアメリカの参戦を阻止しようと考えていた。

 大戦が勃発しドイツが西部戦線で大勝すると、ア
メリカでは兄弟国イギリスの危機が叫ばれファシズ
ムに対する激しい憎悪が広がっていた時期である。
そのような時に日本がヒトラーと手を結んだことは、
米英陣営を強く刺激し重大な脅威と映った。駐日
グルー米大使は、これで日米間の戦争は避けがたい
ものになったと日記に記している。
 
 極度に険悪化した日米関係を打開するため、米側
から以後の日米交渉の基本となる領土、主権の尊重、
平和原則などを含む「日米諒解案」(1941年4月)
も示されたが、軍は三国同盟と相容れないとし、松
岡外相も悪意七分として取り合わなかった。
ところがドイツが対ソ戦を開始したため(1941年6
月)、ソ連は英米側につくことになり、日本は独伊
との連携を分断されて極東に孤立することになった。

四国条約でアメリカの対日圧力を封じて大東亜共栄
圏を建設しようとした前提が崩れたのは言うまでも
ない。この結果、日本は日中戦争の泥沼にはまった
まま、南方、西太平洋正面からの米英と、北方から
のソ連に対峙するという状況に陥った。

▼国家戦略の分裂

 1941年7月の御前会議で「情勢の推移に伴ふ帝国
国策要綱」が決定されたが、これは国家中枢の意見
の分裂を反映して、優先順位を決めることなく南北
両方面への武力行使の準備を認めるものになった。
このため、海軍は対米戦備の促進に邁進し、陸軍は
援蒋ルートを遮断するために北部仏印進駐を強行し
て(1940年9月)南進を開始する一方で、関東軍特
種演習(関特演)(1941年7~8月)の名の下に対
ソ戦準備としての動員が行なわれるなど、国家戦略
は完全に分裂状態となった。
 
 1941年7月、日本は米英と開戦した場合の資源獲
得と南方作戦の拠点となる南部仏印へも進駐する。
独ソ開戦という情勢の急変を受けて、陸軍が今にも
対ソ戦に乗り出す構えを見せたため、これを抑える
代償的な意味も込めて南部仏印への進駐が認められ
たのだ。

本来なら三国同盟こそ破棄されるべきであったのに、
ドイツと袂を分かつ決断ができなかったうえにアメ
リカとの衝突を決定的なものにしてしまった。この
進駐は日本の勢力が南シナ海へ及ぶことを意味し、
海を隔てたフィリピンを植民地とするアメリカは自
国の死活的利益を侵害しかねないものとして鋭く反
応する。

日本の進駐用意が完了したところでアメリカは在米
日本資産を凍結し、マッカーサーを司令官とする極
東陸軍司令部を新設し、中国に米国軍事顧問団が設
置された。実際に進駐すると対日石油禁輸を発動し、
イギリス、オランダも歩調を合わせて禁輸措置に踏
み切った。

日本は南部仏印への進駐を1年前の北部仏印進駐の
延長くらいにしか考えておらず、アメリカの反応を
完全に読み違えていたのだ。

▼開戦への道

アメリカの対日全面禁輸により「自存」が困難にな
り対米開戦論が強まるなか、「帝国国策遂行要領」
(9月6日御前会議)として、戦争準備に並行して
外交交渉を尽くしつつ対米(英、蘭)開戦の判断を
10月上旬に行なうことを決定する。開戦の判断を
決めるといっても米英との長期戦に対する勝算、ま
た終結の目算が明確に描けていないことが最大の問
題だった。
 
日本は、対米関係の打開を図るべく日米首脳会談を
模索するが、米側からは日米諒解案の原則が前提だ
として拒絶され、行き詰まった近衛首相は戦争に自
信なしとして内閣総辞職、代わって東條内閣が成立
した(10月)。

 内閣の交代を機に、戦争の見通しが立たないこと
に非常な不安を覚えた天皇は「帝国国策遂行要領」
を白紙に戻しての再検討を命じたが、11月の御前
会議で決まったのは実質的に前回の遂行要領の開戦
時期を12月初頭に改めたことだけだった。この段
階では、日本は経済制裁に屈して中国から撤退する
か、武力行使であくまでも国策を遂行するかの選択
肢しかなくなっていた。
 
 遂行要領では「自存自衛」と「大東亜の新秩序建
設」という両極端の目標を掲げていたが、この時点
でなすべきは日本が自存自立するために必要な最小
限の条件を明らかにして、そのための外交、軍事の
方策を明確化すべきだったのだ。間もなく事実上の
最後通牒となるハル・ノートが示され(11月26日)、
日本は確たる戦争の見通しを持たないまま開戦を決
定した(12月1日)。

▼戦争指導構想

開戦わずか1カ月前に大本営政府連絡会議が決定し
た「対米英蘭?戦争終末促進に関する腹案」では戦
争指導を次のように構想した。

1 すみやかに東アジアにおける米英蘭の根拠地を
覆滅し、重要資源地帯と海上交通線を確保して長期
持久戦のための自給自足態勢を整えるとともに、蒋
介石政権を屈服させる。
2 イギリスを屈服させるために、日本はイギリス
と豪印の連絡を遮断しビルマやインドの独立を図る
一方、独伊は近東、北アフリカ、スエズ作戦でイギ
リスを封鎖し、イギリス本土上陸を目指す。
3 アメリカの戦意を喪失させるために、米海軍主
力を誘出、撃滅するとともに、フィリピン占領後、
アメリカを懐柔する。また、対米通商破壊戦を徹底
し、中国や南方資源の対米流出を阻止する。独伊は、
大西洋、インド洋、中南米において攻勢を強化する。
4 戦争終結の時期としては、南方作戦の主要段落、
蒋介石の屈服、独ソ戦の終結や英本土陥落などの欧
州戦局の好機などとし、南米諸国、スウェーデン、
ポルトガル、ローマ法王などの斡旋を期待する。

 この「腹案」は対米戦に勝算がないため、アメリ
カの継戦意思をいかに喪失させるかに主眼が置かれ
たものであった。確かに開戦初期の南方作戦で自給
自足態勢を確立できる可能性はあったが、そのため
の海上交通線の防衛は無為無策であったし、米海軍
主力の誘出、撃滅という短期決戦の考え方も混在し
ていた。

また、戦争終結にしても、蒋介石の屈服は、それが
できないから米英と開戦することになったのだから
本末転倒であった。さらに、独伊への期待も他力本
願的で、この頃にはドイツの勢いは大戦当初より弱
まり英本土上陸などの可能性はなくなっていた。緒
戦の南方作戦の勝利にしても、そもそもアメリカは
大西洋正面を優先し、その後に太平洋正面での戦い
に勝利するという戦略だったので、講和に応じると
は考えにくかった。

 開戦時の軍令部第一課長(作戦)であった富岡定
俊は、「この戦争は、敵に大損害を与えて、勢力の
均衡をかちとり、そこで妥協点を見出し、日本が再
び起ちうる余力を残したところで講和する、という
のが、私たちのはじめからの考えであった。だが、
そうはいっても、講和の希望にたいする裏付けが、
とくにあったわけではない。しかし、当時は、欧州
でも大戦が進行しており、最高指導者の間ではドイ
ツも非常に勝っていることだし、バランスというこ
ともあるので、講和のキッカケはその間に出るだろ
う、と考えられていた」と戦後に述べている。
 
▼作戦構想─艦隊決戦の強要?

 太平洋戦争の作戦計画のもととなった「昭和十六
年度帝国海軍作戦計画」は現存していないが、前年
の昭和十五年度計画からその作戦構想は推測できる。

 それによると、第一段作戦として、開戦初頭、す
みやかに東洋にある敵を撃滅して東洋海面を制圧す
るとともに、陸軍と協同してルソン島などの要地、
香港を攻略し、仏領インドシナの要地、グアム島を
占領する。さらに状況が許せば、英領ボルネオやマ
レーの要地を占領し、シンガポールを攻略する。ま
た、敵主力艦隊の動静を探り、敵勢の減殺に努め、
主としてインド洋方面における敵海上交通を破壊す
る。続く第二段作戦では、連合艦隊主力は敵艦隊主
力が東洋方面に進出してくるのを待って邀撃、撃滅
するとしていた。

この邀撃決戦を第二段作戦として後回しにしたこと
は、敵の主力艦隊が健在のまま第一段作戦での各地
の攻略や占領のための陸軍の海上輸送作戦を行なう
ことを意味し、その後の海上補給支援も脅かされか
ねない危険な構想であったが、このことは実戦で証
明されてゆく。

 また日本の邀撃構想も日本海海戦での完勝という
成功体験にもとづくもので、開戦初頭にフィリピン
などを攻撃することでアメリカ海軍主力を誘出し、
艦隊決戦を強要しようとするものだった。しかし、
そもそも艦隊決戦は、敵に決戦を強要する手段がな
ければ成立しないものであり、日本海軍は日露戦争
で旅順に立てこもったロシア艦隊を引き出すのに苦
労したし、ドイツ海軍は第一次大戦でスカパフロー
の英艦隊を決戦に誘い出すことはできなかった。さ
かのぼって第一次英蘭戦争では、沿岸にとどまるオ
ランダ艦隊を決戦に引き出すためにイギリスはオラ
ンダに対する通商破壊に乗り出したのだった。自給
自足できる大国アメリカには通商破壊戦は通じない
ので、開戦初頭にフィリピンを攻略することにした
のだ。

当初はアメリカ側の「オレンジ・プラン」もこれに
かみ合う艦隊決戦型の作戦構想だったが、ミクロネ
シアの島々を水陸両用戦で奪って島伝いに日本本土
に迫るという構想に進化したことから、艦隊決戦構
想は日本海軍独りよがりのものとなってしまった。
 
言い換えれば、日本海軍がマハン流の艦隊決戦を愚
直に信奉していたのに対して、米海軍は対日作戦構
想をマハン流から進化させたのであり、日本海軍は
裏をかかれたのだ。
 

▼戦争指導の混乱

 このような戦争指導構想や作戦構想に対して、山
本五十六連合艦隊司令長官は、長期持久戦を戦い抜
くという構想は日本の国力から非常に無理があると
して、開戦初頭に米艦隊主力を撃滅してアメリカの
継戦意思を喪失させる作戦を構想する。

それは明治末期から約30年間積み重ねてきた海軍
の邀撃決戦思想を否定する真珠湾攻撃だった。山本
長官は、1940年末に行なわれた図上演習の教訓
として兵力の不足を痛感し、南方資源を確保するた
めの補給線に対する脅威を除くため、開戦初頭に真
珠湾のアメリカ艦隊に大打撃を与えることを構想し、
あわせて米国民の戦意を失わせて早期講和のチャ
ンスを得ようとしたのである。

確かに日本海軍は、開戦初日に真珠湾のアメリカ太
平洋艦隊主力を見事に撃滅したが、戦争は短期間で
終結するどころか、「リメンバー・パールハーバー」
の大合唱のもと米国民を一致団結、立ち上がらせ、
長期の総力戦が始まったに過ぎなかった。山本長官
は第一段作戦終了後も、アメリカ艦隊との決戦を求
めてミッドウェー作戦、MO作戦などと、持久戦の地
域的範囲から逸脱した作戦を強行して、戦力を消耗
させてゆくことになる。



(つづく)
 
 
【主要参考資料】

富岡定俊『開戦と終戦 人と機構と計画』
(毎日新聞社、1968年)

戦史叢書「大本営海軍部・連合艦隊(1)」

黒野耐著『日本を滅ぼした国防方針』
(文春新書、2002年)

外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』
(原書房、1979年)




(どうした・てつろう)


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【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。


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発行:
おきらく軍事研究会
(代表・エンリケ航海王子)

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