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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。
短期連載「水雷艇「友鶴」転覆事
件―その遭難から入渠まで―」の3回目です。
きょうも、海を知る人ならではの、
緊迫感あふれる記載が続きます。
温かいお便りお待ちしています。
エンリケ
追伸
高気圧と低気圧の原理、初めて知りました。
こういう先生に理科や地学を教えてほしかったです
ねw
※おたよりはコチラから
↓
https://okigunnji.com/url/7/
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水雷艇「友鶴」転覆事件―その遭難から入渠まで―
(3)
ついに発見、波間に見えたものは?
森永孝昭(ドックマスター・日本船渠長協会会員)
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□ドックマスターのこぼれ話
「風まかせ」「風の便り」「風変り」「風来坊」「
風が吹けば桶屋がもうかる」など、風とはまったく
実態のわからない扱いが多いものです。というわけ
で、わからない風について手前勝手ながら話してみ
たいと思います。
地球は大気という保護膜で覆われて、厳しい無機質
のような宇宙環境から生命の存在を可能にしていま
す。大気のことは、人間の感覚では空気といいます
が、この無色透明の気体は意識の外にあって「空気
のような存在」という言葉もあるくらいです。
ところが空気が移動しますと、良くも悪くも影響を
受けることから、人はこれを「風」と呼んで区別し
ています。
しかし、誰も風を見たことはありませんが、我々は
普通に風がわかります。まずは肌で感じ、そして揺
れる草木、舞い飛ぶ落葉、たなびく煙、はためく日
の丸など、周囲の様子で判断できるからです。
これを利用して、その昔イギリス海軍のビューフォ
ートという人が、海面の波状態で風速を0から12
までの階級をつけて風力の可視化に成功しました。
もちろん陸上の判定も、同じく煙や木々の動きで対
応させていますし、現在では、風速計で得た数値域
を階級表に当て込んであります。たとえば、風速7
m/sだったら、階級表では「ビューフォート階級4」
とわかるようになります。つまり風速(風力)は、
間接的に見えるようになったというわけです。
ヨットやパラグライダーは「風を見る」というより、
経験上の感で「風を読む」「風をつかむ」のだと
思います。帆船時代の船乗りは、それこそ帆に風を
はらみ、大きな船で大洋を走っていたのですから、
現代人より風を嗅ぎ取る能力は研ぎ澄まされていた
でしょう。
次に、見えないが故に、風がどうして吹くのか分か
りにくいものです。空気にだって違いがあるのです
が、そんなもの人間が感じ取れるわけではありませ
ん。しかし気圧計の発明で、空気の重さを量れるよ
うになると、広範囲の各地で同時に計測すれば、重
いところと軽いところがあることがわかったのです。
これらの重いところを「高気圧」、軽いところを
「低気圧」と名づけました。これによって、空気も
水のように高いところから低いところへ流れること
がイメージできるようになったのです。
大気が、各地域で異なる自然現象の影響を受けるこ
とにより、空気の層や密度に、厚薄や濃淡などが生
じることにより気圧の差が出るわけですが、それら
が常に均等になろうとする傾向(物理的運動)が風
というわけです。
しかし、われわれは、そんな気象学的な風よりも、
極部的に吹く風が知りたいものです。ビル風のよう
な一定風であれば、身近なものとして、なんとか用
心できるでしょうが、自然界にある風の強弱は、全
く予測不可能ですから、突風に煽られて運悪く横転
するトラックだってでてきます。さらに「線」で通
過する竜巻ともなれば、まったくのお手上げですか
ら、人間とはなんと非力なものだと、思われてなり
ません。
なぜ風にこだわるといえば、やはり職業上の理由で
す。大きな船を造船所の狭い水域で、さらに狭いド
ックへの入出渠をやるわけですから、風がいちばん
気になるのです。
▼捜 索
0430「今から捜索を開始する」とし、5マイル前方
にいた“龍田”はすぐに反転、見失ったとした大立
(おおだて)島の180度6マイルへ単独で急行した。
巡洋艦といえども、ローリングはひどく最大傾斜25
度にも達するなか、0515現場付近に到達した。
“龍田”の艦橋では当然ながら楽観論で「“友鶴”
は何をしているのか?」という雰囲気であった。
あらゆる照明を駆使して乗員多数が見張りに就き“
友鶴”を捜した。消失した海面から1マイル南下し
て大きな弧を描いて回頭反転し、今度は3.5マイ
ルを北上しながら捜索、またもや南に向かって旋回
反転し、南北に長い楕円の2周目となった。目を皿
にして海面を見るが、暗夜の細雨の中、波浪は牙を
むき、波頭はちぎれて飛沫となって、さらに視界を
悪くしていた。
今度は、北側の折返し点を消失現場から4マイルと
し、さらに1マイル西にずらして北上した。北側で
反転するころ、やっと夜が明け始め、視界は良好で
はないものの全体が見渡せるようになった。波頭の
白さがまだ風の強さを表していた。0655小立島の南
1.2マイルに達したところで反転し、南下を開始した。
すると0737、右舷12センチ双眼鏡の見張り員が突然
「右舷前方、海面変色あり黒い」と叫んだ。一斉に
その方向に目をやると、なんと大量の重油が帯状に
浮遊し、そこだけ波頂が丸みをおびて少し凪いでい
るように見えた。瞬時に「これはただごとではない」
と誰もが不吉な予感を覚えた。
0740鈴木司令官は、佐世保鎮守府司令長官米内光政
中将宛「“友鶴”を見失いたるの報を受け、捜索に
従事したるも0737油らしき浮遊物を発見したるほか
何物をも認めず」のウナ電を発した。
0900視界ゼロとなり捜索を断念、“龍田”は0925に
一旦寺島水道泊地に帰投した。
連絡を受けた佐世保鎮守府は、艦艇と飛行機による
大がかりな捜索を開始することとし、その手配と準
備で忙しくなった。
1109視界が回復し、“龍田”は捜索を再開するため
泊地を出た。まず現場へ急行し一辺2マイルの菱形
を描くように左回りで消失場所を一周したが、何物
も発見できなかった。
風向と波浪、それに潮流を経過時間とともに計算し、
捜索範囲を思い切って北へ移動すべきとして針路を
北北西(ほぼ345度)とした。ちょうど江ノ島と大
立島の間を抜けるコースである。漂流者、浮流物と
いったものがないか必死で海面を見つめた。大立島
と江ノ島間を抜けると右舷前方に平戸島が大きく広
がって見え、とくに海岸線からわずかのところに剣
のようにそびえ立つ高さ347mの志々伎山が目に入っ
てきた。
北上中の“龍田”は、1400右舷前方に志々伎山を背
にして漂う何物かを発見した。最初は木切れかと思
って近づいて見ると、なんと水船(みずぶね)とな
った内火艇であった。それをまさに回収せんとした
時、「左90度、距離5000、漂流物見える」と見張り
員が叫んだ。
一斉に艦橋の全員が見つめると、波間に見え隠れす
る何かがある。見た瞬間に、今度は大きいと思った。
「測距はじめ」、艦橋の2.5m測距儀が目標を捉らえ
距離の計測が始まった。
自艦の揺れの中、見え隠れする対象物を捉らえ映像
を符合させるのは至難の業であったが、古参の一曹
が測距に成功「距離6300」と報じた、3.4マイルで
ある。すぐに「取舵、前進半速」と艦長は令し、
9ノットまで速力をあげながら発見物に艦首を向け
た。
30分後、信じられない光景を見て、乗員全員が息
を呑んだ。
それは船底を上にして艦首側が2mくらい浮き、艦
尾に行くに従いプロペラのブレード1枚と舵板がわ
ずかに水面から出ている状態で転覆漂流している“
友鶴”の姿であった。
波がまるで潜水艦のデッキを洗うように船底に寄せ
ては落ち、落ちては寄せている。御神島から190度
2.5マイルの位置であった。この時すでに10時間が
経過しており、消息不明海域から北北西へ14マイル
(26キロ)も流されていた。
1435鈴木司令官は、機密電を鎮守府司令長官へ打っ
た。「友鶴転覆浮流せるを発見す」。
艦船のほか、航空機7機による捜索が始まろうとし
ているときであったので、範囲も具体化し、平戸の
南沖を集中的に始めることにした。大島、崎戸、松
島、平戸、平島、江ノ島、それに五島の各村々の村
長には長崎県警から漂着者の捜索と保護の依頼がと
んだ。
▼曳 航
“龍田”は“友鶴”を一周したあと沈没しないこと
を確認し、乗員の中から10名を選び内火艇で、まだ
波の高い中を“友鶴”に派遣した。
大きく上下運動する中、内火艇からタイミングをみ
て1人、2人とまだ真新しいままの船底に乗り移っ
て這いつくばった。これは危険だと判断した内火艇
艇長は“友鶴”の艦尾部に回り、そこから3人が水
面に飛び込むようにして乗り移り、舵板やシャフト
につかまった。
しかしここも危険だとすぐにわかった。押し寄せる
波にペラは翻弄され、時折回転するのであった。い
ずれにしても5人が船底中央にたどり着きロープで
身体を連結し合い、すべり落ちても引き揚げられる
ようにしたあと、ハンマーで船底を叩いた。すると
すぐに内部から打ち返す音が聞こえた。1人が船底
に立ち上がり“龍田”に向け、両腕を使った手旗で
「艇内に生存者あり」との信号を送った。
“龍田”では、どよめきが起こり、「生存者ある模
様」との電信を鎮守府に発した。こうなると一刻も
早く救助しなければならない。
このままでは北に圧流されて平戸島に擱坐(かくざ)
するおそれもあり、早く曳航準備をしなければな
らない。内火艇は“龍田”と“友鶴”とを何往復も
し、とうとう24mmのワイヤをシャフト支柱に取り付
けることに成功した。このワイヤに56mmの麻綱ホー
サーをシャックルで連結し、150mまで伸ばして曳航
準備完了となったのが1620であった。
1625から曳航に移ったが、開始してみると“友鶴”
の水没部の抵抗と波浪の影響は大きく、両舷前進微
速で1ノットがやっとであった。「もっと速くなら
ないのか」と艦長もイラついたが、「これ以上速度
を上げたら曳索が切断しまーす」と聞くと、どうし
ようもなかった。
結局のところ、平戸島に流されるのをかろうじて防
止するにとどまり、佐世保から来る曳船を待つ形に
なった。
“友鶴”遭難は、明白な事実であったが、海軍では
最初、公表すべきかどうか迷った。しかし、大規模
な行動は目立つ上、事の重大さからして隠すもので
はないと判断、当日12日の1700、東京の海軍省記者
クラブ「黒潮会」で「“友鶴”は遭難大破漂流中な
るを発見、もっか救難作業中、殉職者多数の見込み」
と公表、ほかに「乗組み士官の名前と履歴」「艇の
要目」も発表した。
日没直前の1815、“友鶴”監視中の乗員数人が“友
鶴”から降って湧いたように出てきた2人の頭を波
間に見た。「脱出者がいるー」。“龍田”は下ろし
たままの内火艇と、応援に駆けつけた“千鳥”を早
速、救助に向かわせた。ところが近づいたところ、
最後の力を振り絞って出てきたであろう2人を、夕
闇迫る中、どこにも見つけることはできなかった。
“龍田”の艦橋に暗い影を落とした。「一刻を争う
事態だ、早くドックへ入れなければ、せっかくの命
が助からない」と皆が思った。
その後1830、待ちに待った曳船“第4佐世保”が
到着し、打ち合せのために港務部の内藤中佐が“龍
田”に乗り移った。
打ち合せの結果、このまま“龍田”で曳航した方が
時間の短縮になると判断、曳索の強度を増すため麻
綱からマニラに取り替え、さらに40mmのワイヤを追
加することに決まった。
今度は曳船が運んできた作業員31人が、2隻の作業
ボートに分乗して作業をこなしたので、4時間はか
かる作業が2時間後の2043に終了した。
“龍田”は、徐々に曳索の張り具合を見極めながら
曳き始めると「今度は行ける」と思った。しかも曳
船“第6佐世保”と“猿橋”の2隻も到着して、合
計3隻の曳船が周囲を取り囲んで伴走したので心強
いものになった。再度脱出者があった場合に、すぐ
に収容できる態勢もとっていた。
“龍田”は “友鶴”の船底と周囲を探照灯で照らし
続け、見張りを厳重にしながら、再び両舷前進微速
とし、細長い岩だけがそそり立った帆揚岩(ほあげ
いわ)方向へ向かった。今度は実速3~4ノットで航
走できた。帆揚岩を過ぎ黒島の南にかかるころ、日
付が変わって13日となった。「このままで行くと、
佐世保港口には3時には着くな」と誰しもが思った。
12日の1945には港務部から「“友鶴”は入港後、直
ちに第5船渠に入渠予定、入渠準備完成す、明朝07
00の高潮時を利用し入渠すべし」との連絡を受けて
いたので、とにかく急ぐ必要があった。
ところが0145、白瀬(しらせ)灯台の280度2.8マイ
ル、港口まであと5マイルという地点で曳索が、2
本ともプロペラとの繰り返し接触により切断した。
すぐに港務部の作業艇と“龍田”のカッターとで、
またもや連結作業が必死で行なわれた。
今度も同じホーサーとワイヤを使って2本立てダブ
ルとしたが、ペラと接触しないように舵軸から取り
、長さも100mと短縮した。このとき“友鶴”は曳航
惰力と西寄りの風により白瀬や蟹瀬(かにせ)へ流
されていたので“龍田”は気が気ではなかったが、
0435白瀬の西、わずか1マイルのところで曳索の準
備が完了した。
“龍田”は曳航を開始しようとしたが、もはや暗夜
で浅瀬の付近であったため、自力での回頭は不可能
と判断し、曳船“第6佐世保”(800馬力)の曳索
を急いで取り、艦首が北に向くよう左舷側に前進
一杯で引かせた。
やがて安全水深へ向いた“龍田”は、助けの曳船を
放して、再び自力で慎重に前進微速でもって進行し
、様子を見ながら速度を上げていった。
この時点で0700の満潮での入渠には間に合わないよ
うになったが、もともと曳索が切れなくとも無理で
あったのだ。それは“友鶴”の船底からマスト先端
まで22m、艦橋まで13.5mであるため、上部構造物
すべてが水面下にある状態では水深20m以内の湾奥
には、入り込めないからである。
“龍田”は曳航状態のまま、日出時刻ちょうどの
0624に佐世保港口を通過した。
佐世保港口の水深は55mであるが、漸次水深は浅
くなり港内を2.5マイルも進行すると20m等深線に至
る。最初、港口すぐ近くの水深38mの俵ケ浦(たわ
らがうら)という入江で港務部へ引き渡す予定にな
っていたが、佐世保港の水深を入念に調べあげてい
た“龍田”は曳航状態がよいため、そのまま奥の庵
埼(いおりざき)まで進行することにした。
そしてとうとう0725、“龍田”は庵埼の120度1300
m水深23mの位置に投錨した。
ここで“友鶴”を曳船“第4佐世保”に引き渡すと、
“龍田”は再び救難活動を行なうため佐世保港外へ
出て行った。
庵埼では待機中のおびただしい各種大小の作業船が
“友鶴”を取り囲み、これから港務部と海軍工廠の
手で作業が進められることになる。
(つづく)
(もりなが・たかあき)
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【著者紹介】
森永孝昭(もりなが・たかあき)
1949年2月26日、佐世保にて誕生
1972年、長崎大学水産学部卒業
1972年、神戸、広海汽船 航海士
1982年、甲種船長免状(現:1級海技士)受有
1983年、佐世保重工株式会社 ドックマスター
2009年、定年、常勤嘱託ドックマスター
2020年、非常勤嘱託ドックマスター 現在に至る
実績:233隻の新造船試運転船長。延べ約6300隻の
操船(自衛艦、米艦、貨物船、タンカー、コンテナ
船、客船、特殊船など)
現在:一般財団法人 日本船渠長協会会員
過去の外部委嘱:西部海難防止協会専門委員、佐世
保水先人会監事
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