配信日時 2022/02/16 09:00

【陸軍工兵から施設科へ(21)】 自由気球の話  荒木肇

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荒木さんの最新刊

知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
警務隊で修練されている「逮捕術」を初めて明らか
にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
れました。

そのため、最高水準の逮捕術の技の連続写真が実に
多く載っています。それだけでなく、技のすべてを
QRコードを通して実際の動画をスマホで確認できる
のです!

自衛隊関係者、自衛隊ファン、憲兵ファンはもちろん、
武術家、武道家、武術ファンにも目を通してほしい
本です。

『自衛隊警務隊逮捕術』
 荒木肇(著)
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こんにちは。エンリケです。

「陸軍工兵から施設科へ」第21回です。

空軍草創期の非常に貴重な記録ですね。
でも思わず笑ってしまいます。

さっそくどうぞ。


エンリケ


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陸軍工兵から施設科へ(21)

自由気球の話

荒木 肇

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□はじめに

 先日の雪では、公共交通機関も十分な用意をされ
たせいか、わたしの身の周りでは大きな混乱はあり
ませんでした。コロナの感染者の方々の数も高止ま
りになっているようです。経口治療薬の認可も間近
になり、春に向けて少しずつ明るい見通しになって
きたように思います。

 とにかく消費の回復、とりわけ酒食を共にしての
仲間とのやりとり、心の交流の機会が大切だと思う
のです。皆さまも益々ご自愛ください。今日は、脱
線ですが新藤中佐の自由気球の話が貴重なのでお知
らせします。


▼勇躍、気球隊に赴任する

 とにかく飛行機を操縦したい、そう思っていたの
に、新藤常右衛門歩兵少尉に発令されたのは気球隊
付でした。いったい気球隊はどこにあるのか、平時
編制表を先輩と一緒になって引っ張り出します。あ
った、あった、所在地は埼玉県所沢町、所属は近衛
師団でした。やあ、憧れの近衛だったか、さっそく
近衛の帽章を買い込んで濱田の聯隊を後にしました。

 近衛兵は当時、それ固有の帽章を付けています。
星を桜の枝で囲んだ、現在の陸上自衛隊の帽章も参
考にした独特のものでした。一般部隊はとがった五
稜星だけです。たしかに気球隊は陸軍常備団体配備
表によれば、この時期、立川の飛行第5大隊ととも
に近衛師団の下にありました。しかし、これは管理
面での区処(くしょ)を受けるだけで、近衛部隊で
はありませんでした。

 東京九段の偕行社に宿をとると、さっそく同期生
から「近衛の帽章はつけられないよ」と指摘され、
「田舎っぺえだなあ」と笑われたそうです。少尉任
官が1924(大正13)年10月のこと、航空兵
科発足は翌年5月でした。新藤歩兵少尉は兵科色の
紅の襟のままに気球隊に着任します。

 時代は第一次世界大戦での航空機の発達が著しく、
空軍独立論も論議されるようになっていました。
気球は要塞戦か都市や要地の防空にしか役立たない
だろうと言われていたようです。要塞の内部視察や、
攻城砲の弾着観測には確かに繋留気球が有効でした。
また、当時の飛行機は上昇限度も5000メートル
くらいで、爆弾を積むと3000メートルくらいに
しか上がることができません。爆撃高度も1500~
2000メートルくらいでした。したがって、飛行
経路に高度2000メートルくらいで気球をあげて
おく、そうして爆撃を避けようという考え方があり
ました。これを阻塞(そさい)気球といいます。

▼フランス製気球

 まず、気球からの偵察を修業しました。搭乗した
のは水素ガス1000立方メートルを充填した紡錘
形(ぼうすいけい)の気嚢(きのう)の下に、吊籠
(ゴンドラ)をぶら下げたものです。ゴンドラは縦
横1.5メートル、深さが1.2メートルの籐(と
う)で編んだものでした。「籐」などというと、若
い人にはなじみがないと思います。わたしが子ども
の頃には「籐椅子」などといって、ツルツルした丈
夫な籐を編んだ夏用の椅子もあり、通気性も良いの
で籐の枕もありました。

 手元の事典で調べると、籐とはヤシ科の蔓植物の
総称だそうです。茎は弾力があって強靭・・・とあ
ります。主に熱帯アジアやオーストラリア北部で生
産され、籐細工に使われるとのこと。おそらく、ど
こからかの輸入品で編んだ籠だったのでしょう。

 気嚢は全体を青緑色に塗り、胴体両側に日の丸が
描いてありました。気嚢の前、3分の1くらいのと
ころに鋼索を取りつけて、地上の繋留(けいりゅう)
自動車につなぎます。自動車はフランスから輸入
したルノーで自重が約6トンもあったそうです。こ
の気球は佐山氏のご著書から調べると、フランス製
の「R型繋留気球」と思われます。

 全長27.5メートル、最大中径8.3メートル、
重量約480キログラム、吊籠重量は300キロ
グラム、搭乗員は2人です。繋留車はラチール4輪
駆動自動車、自重5.4トンとありますから、ほぼ
これに間違いないでしょう。

 上昇する時には鋼索を巻いてある繋留車の巻取器
(まきとりき)のクラッチを外しました。降下の時
には繋留車のエンジンで巻取器を回して引き下げま
す。乗員が2人では1000メートルまで上がれ、
1人では1500メートルまで上昇できました。地
上との連絡は鋼索の中心に巻き込んだ電話線で行な
います。


▼籐製吊籠(とうせい・つりかご)

初めての搭乗は風のない気流の良い日が選ばれまし
た。天候が悪いと初心者はたちまち酔っぱらったか
らのようです。教官と2人で吊籠に乗り込みます。
「砂嚢(さのう)を外せ」の号令で吊籠の周りにぶ
らさげてあった砂嚢を外しました。ただし、吊籠内
にある砂嚢はそのまま、これは繋留索が切れたとき
に命の綱となるものだそうです。

 「放せ!」の号令で吊籠を支える兵たちがいっせ
いに手を離すと、気球は5、6メートル前に進み、
空中に浮かびました。気球はスーッとしっぽをふっ
て頭部を風に向けます。空中に吊籠が浮かんでみる
と、『なにか足の下がフワフワしており、いまにも
籠の底を踏みぬきそうで気持が悪い』(新藤中佐の
原文・以下同じ)

 教官が、「上昇1000メートル」と命ずると、
地上指揮官が「上昇1000メートル昇せ」と復唱
します。巻取機のクラッチが外されて、水素の浮力
で『ざーっと繋留索を引きながら上昇する。5、6
00メートルまでは、じつに早いが、だんだん上昇
力がにぶって1000メートル近くになると、ゆっ
くり昇り、いつ1000メートルに停止したか分か
らない。綱一本で地面とつながっているだけだから、
四周まるみえである。なるほどこれでは、偵察や
砲兵の射弾観測にはもってこいだなと感心した』

 ただ、2、3回搭乗して気球になれるまでには、
足の下を踏み抜きそうな気がしたそうです。そのた
めいつも吊籠のふちから片手を離せなかったと告白
されています。また、風速が毎秒15メートル(つ
まり時速54キロメートル)を超えると、揺れるば
かりか30度以上も傾いたそうです。


▼楽しかった自由気球の訓練

 自由気球の訓練は楽しかったと書かれています。
風と共に流れるので、どんな強風でも無風と同じで
動揺は少しもなかったそうです。この気球は球形で、
800立方メートルの水素をつめた黄色に塗られ
たものでした。この下に吊籠が下げられます。繋留
気球の鋼索が事故で切断されたとき、安全に着陸す
るための訓練でした。

 これは晴天で風速も10メートル以下の日を選び
ます。大きさは気嚢容積が800立方メートルのも
のなので、水素ガスを前部放出するのに時間もかか
る、その間、吊籠は引きずられて搭乗者に危険が及
ぶからとされていたからです。これも佐山氏のご著
書によると、後に「一型自由気球」とされたもので
しょうか。

 自由気球を上げる前には、上空各層の100メー
トルごとの風向、風速などを観測気球を飛ばして情
報を集めました。そうしてから、北風のときは「所
沢から厚木平地」、南風のときには「宇都宮平地」
などとおおよそ着陸の見当をつけました。

 気球が上昇して望んだ風向に合うと、気球のてっ
ぺんについた排気弁を吊籠の中から綱を引っ張って
水素を放出します。これも佐山氏が詳しく解説して
くれていました。水素を出し過ぎて降下がしそうに
なると、吊籠内の砂嚢の砂を捨てて調整します。そ
うやって適当な風向の風に乗って、予定の着陸地点
付近に飛びました。

 気球も飛行機も、離陸より着陸が難しかったよう
です。水素を抜いて、だんだんと高度を下げてゆき
ますが、抜き方が問題だったそうです。一度に水素
を抜き過ぎると、降下速度がつき過ぎて、慣性でど
んどん高度が下がってゆきます。あわてて砂嚢から
砂を捨てても、降下がとまらない。では水素の放出
が少ないとどうなるか。降下速度は遅くなり、その
間に風に流されて、危険な場所に近づいてしまう、
あるいは電気の高圧線にぶつかりかねません。

 降下の速度が分かるような計器がないので、勘で
水素を抜いたのです。水素を抜いて降りてゆく、砂
を捨てて降下の慣性を止めます。この操作を何回も
繰り返し、初めてジワーッと地面に近づきました。
そこで、この砂が気球搭乗者の命の綱になったので
す。

 次回は偵察教育を2カ月あまり受けた後、ついに
自由気球の訓練に入った新藤少尉の恐ろしい体験。
T少佐教育部長との同乗飛行をいっしょに読んでみ
ましょう。


(つづく)


(あらき・はじめ)


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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
 

『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
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