こんにちは。エンリケです。
『海軍戦略500年史』の三十八回目。
歴史は勝者が書き換えるといいますが、
相当程度事実かもしれませんね。
アシカ作戦については、ゲーレンが回顧録で
「ヒトラーは英侵攻を初めから考えてなかった」
と書いてましたね。実際のところどうだったのか、
興味深いところです。
さっそくどうぞ
エンリケ
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海軍戦略500年史(38)
大西洋の戦い(2)
堂下哲郎(元海将)
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□はじめに
ドイツ海軍はUボート戦で戦果を上げてゆきまし
た。一方でヒトラーは、当初の戦略とは異なり独ソ
戦の前に英本土上陸作戦を企てます。ドイツ海軍は
懸命にヒトラーの要求に応えようとしますが、結局
は資源の無駄遣いに終わります。ただでさえ戦力不
足なのに、このように国家戦略のレベルで振り回さ
れたのではたまりません。
連合国側にとってUボートとの戦いは科学技術の戦
いでもありました。様々なセンサーや兵器が登場し
て戦術が開発され、Uボートを追い詰めてゆきます。
どれも現代の対潜戦につながっています。
「ドイツも勝っていることだし…」として、太平洋
戦争に突入した日本海軍の真珠湾攻撃がUボート戦
に与えた影響とはどういうものだったのでしょうか。
ドイツ海軍は、地中海、大西洋、北極圏で奮戦しま
すが、その最後の戦いの様子はどのようなものだっ
たのでしょうか。ヒトラーによりレーダー海軍総司
令官は解任され、その座をデーニッツに譲ります。
そのデーニッツがヒトラーの後継者になるとは誰
が予想したでしょうか。「ヒトラーの海軍」と大西
洋の戦いの終わりを見てゆきます。
▼フランスの降伏と英本土上陸作戦
1940年6月、フランスが降伏するとドイツは大西
洋岸に基地を持つことになった。ヒトラーはソ連打
倒に着手するため、大陸を封鎖しようとするイギリ
スとの決着を急いで和平を呼びかけたが、チャーチ
ル率いる英国が屈服しなかったため、英本土上陸作
戦(「アシカ作戦」)の準備を各軍に命じた。
レーダー海軍総司令官はフランス占領という好機を
とらえて地中海の制海権を握り、ジブラルタル、マ
ルタ、スエズの交通線を遮断すればイギリスを追い
つめられると考えたが、ヒトラーの認めるところと
ならなかった。ちなみに、この地中海への展開構想
はデーニッツからも戦力の分散を招くとして反対さ
れる。デーニッツは、海軍の戦果はUボートによる
ものでレーダーの重視する主力艦は役に立っておら
ず、Uボートを他作戦への支援などへ「転用」せず
、大西洋の通商破壊戦に専念させるべきだとしてレ
ーダーを批判し、両者は対立を深めてゆく。
ヒトラーの上陸作戦は、ドーバー海峡の制空権を握
った上で、機雷堰で作った回廊に沿って陸軍の大部
隊を送り込むというものだった。このため、イギリ
ス本土への揚陸戦用の艦艇を保有していなかったド
イツ海軍ではUボートや艦艇の建造を中止して、か
き集めた商船や艀などを上陸作戦用に改造する作業
を急ピッチで行なった。
しかし結局、上陸作戦は発動されなかった。ドイ
ツ空軍が3ヵ月あまりにわたった英本土航空戦
(「バトル・オブ・ブリテン」)に勝利できず、制
空権を確保できなかったからだ。この理由としては、
洋上の制空戦における双方の空軍機の優劣やパイロ
ットの救難態勢、イギリスの革新的な本土防空態勢、
独機のロンドン誤爆で両国の対都市無差別爆撃が始
まったこと、英空軍への外国人パイロットの参戦、
そしてなにより英国民の不屈の抗戦意志などが挙げ
られる。
いずれにせよアシカ作戦の準備は壮大な無駄となっ
たが、もし作戦が発動されていたら、英独海軍の圧
倒的な戦力差を考えると、ドーバー海峡においてノ
ルウェー作戦を上回る大被害が生じてドイツ海軍は
壊滅の危機に瀕しただろう。10月、ヒトラーは正式
に上陸作戦の延期を命じたが、彼の関心はこのと
きすでにソ連に向けられていた。イギリスは持ちこ
たえ、危機を脱したのだ。
▼不利になるUボート戦
バトル・オブ・ブリテン(1940年7~10月)の終結
にともない多数の航空機が船団護衛の強化に回され
るようになり、Uボートの行動が制限され始める。
1941年以降は、それまでのアスディック(音波探知
機、ソーナー)に加えて無線方位測定装置、レーダ
ーなどが登場し、さらにエニグマ暗号が解読された
ことなどからドイツのUボート戦は不利になってい
った。
日本が真珠湾を奇襲してアメリカが参戦(1941年
2月)すると、デーニッツはアメリカの商船が無防
備で米海軍も対潜戦に不慣れなうちに打撃を与える
好機と判断し、はやくも翌年1月からアメリカ東海
岸からメキシコ湾、カリブ海までUボートを展開さ
せて大戦果を上げた(太鼓連打作戦)。
デーニッツは、最小のコスト(Uボートの喪失)
で最大の成果(船舶撃沈トン数)を上げられそうな
海域を選んで行動させるという方針をとっていたた
め、1942年になると船団護衛態勢が強化されたアメ
リカ海域から相対的に護衛態勢のゆるい大西洋にU
ボートを戻した。
その頃、北アフリカ戦線のロンメル率いる独アフリ
カ軍団は、マルタ島を基地とする英潜水艦などによ
りその補給線を攻撃され、一時は独船団の70%を沈
められるほどだった。ヒトラーは、この危機を打開
するためにデーニッツの反対を押し切り、またもや
Uボートを地中海へ「転用」して英海軍に大打撃を
与えるが、Uボートのほとんども撃沈されてしまう
(「ジブラルタルのネズミ捕り」)。これにより大
西洋の通商破壊戦は一時下火となり、イギリスの生
命線は息を吹き返すことになった。
▼地中海の戦い
フランスが劣勢となり、降伏が迫ったのに乗じた
イタリアは連合国に対して宣戦布告し(1940年6
月)、地中海の要衝マルタ島を空爆するとともに、
連合国の海上交通路を脅かすようになる。
その頃の地中海の海軍勢力は、水上艦艇については
英仏海軍と伊海軍がおおむねパリティで、潜水艦に
ついては伊海軍が凌駕しており、その一部をデーニ
ッツの指揮下に入れた時期もある。また、英海軍は
おおむね1~3隻の空母を地中海に展開していたが
、前述のとおり欠陥のあった英空母戦力でも、地中
海においては伊海軍が海上における航空兵力をほと
んど持たず、独空軍も独ソ戦が始まると主力をソ連
戦線に移動させたため、相対的に優勢を保って積極
的な作戦を展開できた。
特に、地中海中央に位置しイタリアから至近距離
にあるマルタ島は、北アフリカ戦線のロンメル軍団
への補給線を管制できる位置にあるため、同島への
航空機の輸送や船団護衛にあたっては英空母が活躍
した。
英海軍に補給線を攻撃されたドイツは、前述のとお
り地中海へ「転用」したUボートにより英空母2隻
を撃沈している。海上補給路の攻防は激しく、イギ
リスはエジプトへの派遣軍に対して地中海経由での
戦力増強ができなかったため、アフリカ南端を回り
紅海側から補給支援を行なったこともあるほどだ。
イギリスは多大の犠牲を払ってマルタ島を守り抜
き、そのおかげで北アフリカのロンメルの進撃を食
い止めることができ、ジブラルタルからスエズ運河
までの海上交通路を守ることができた。やがて連合
軍は反攻に転じ、北アフリカ戦線でのイタリア軍も
敗北、ムッソリーニは解任されイタリアは降伏(1
943年9月)、地中海の戦いは終わった。
▼大西洋での通商破壊戦
「アシカ作戦」が中止され、ドイツ海軍は再び通商
破壊戦に専念しようとするが、もともと少なかった
主力艦がノルウェー攻略でさらに失われてしまった
ので、ドイツ海軍は行動可能な重巡などを単艦で行
動させることにした。
イギリスは多数の船団を広大な海域で運航させた
結果、護衛兵力が分散してしまい、配備された護衛
兵力の小さい船団ではドイツの通商破壊艦が大きな
戦果を上げ、そのような場合、他の船団の運航も一
時中断せざるを得ない状況に陥った。また、神出鬼
没のドイツ艦を捕捉することは困難であり、圧倒的
な兵力をもつイギリス海軍をしても大いに振り回さ
れ、ドイツ海軍が意図した通商破壊戦の間接的な効
果が発揮された。
一方で、少数の主力艦しか保有しないドイツ海軍
が圧倒的に優勢な英海軍に圧力をかけるには、兵力
を極力温存しつつ出撃を繰り返さなければならなか
ったので、艦の喪失はもちろん、被害を受けること
も恐れる傾向が強く、護衛兵力が強力な船団に対し
ては戦闘を避けるという方針で臨んだ。このためド
イツ艦艇は、腰の引けたような行動を繰り返すこと
となり、海軍に対するヒトラーの不信感を募らせる
ことになった。
1941年に入るとドイツ海軍は前年に占領したノル
ウェーとフランスのブレスト港をイギリス攻撃の基
地として活用するようになり、水上艦による通商破
壊戦は成果を上げ、同時期のUボートの戦果を若干
上回るほどになった。
対する英軍はブレスト港に空襲を繰り返し、港外に
は機雷を敷設してドイツ艦隊の行動を妨害した。出
撃したドイツ艦には執拗な追跡と攻撃を行ない、ド
イツ側の被害は増え戦果は上がらなくなった。また、
ドイツ海軍の暗号を解読した英海軍は、洋上に秘
密裡に配置されたドイツ通商破壊艦用の補給船を次
々に撃沈したため、水上艦による通商破壊戦は困難
となった。第一次大戦の戦訓から、フランスの港湾
を利用して英国の海上交通路を脅かすというドイツ
海軍の作戦は、航空機の発達により成り立ちにくい
ものとなったのだ。
一方のUボート戦も苦戦を強いられるようになっ
てくる。大西洋には連合国の陸上哨戒機が到達でき
ない海域があり、Uボートが活動しやすい危険な海
域(「ブラック・ピット」)となっていた。この対
策として、1943年頃からは船団に小型の護衛空母を
つけて艦載機で海域を哨戒できるようになり「プラ
ック・ピット」が消滅するとともに、Uボート狩り
のための新兵器の登場や「ハンター・キラー戦術」
も確立したことから、Uボート戦は終焉に向かうこ
とになる。
連合国をあげて取り組んだ対潜戦能力の向上が、
Uボートの性能向上と狼群戦術を上回った結果であ
るが、ドイツが早期にUボートを増勢しなかったこ
と、また常に不足していたUボートがさらにほかの
作戦に「転用」されることが多く通商破壊戦に専念
できなかったことも大きな失敗だった。
▼「チャンネル・ダッシュ」─大西洋の戦いの終焉
ヒトラーは、勢いを増した連合軍がノルウェーを
奪還し、バルト海経由でドイツの背後から襲いかか
ってくることを恐れて、戦果の上がらない通商破壊
艦をブレストからドイツに回航させノルウェーの守
りを固めようとする。
レーダーは、英仏海峡の回航はリスクも大きいので
通商破壊戦の続行を訴えたが、ヒトラーの命令でド
イツ艦隊のブレストからの脱出、回航が行なわれた。
この撤退作戦は、英仏海峡を白昼突破するという大
胆な行動で成功するが(「チャンネル・ダッシュ」、
1942年2月)、またしても機雷によって戦艦2隻が
損傷してしまった。この作戦で脱出を許した英海軍
が面目を失ったことはいうまでもないが、基本的に
ドイツ艦隊の撤退作戦であり、大西洋の戦いは実質
的に英海軍の勝利で幕を下ろすことになった。
▼独ソ戦の開始と北極圏の戦い
1941年6月、ヒトラーはスウェーデンなどからの資
源確保のためのレニングラード(クロンシュタット
軍港)の占領や「生存圏」拡大のためのウクライナ
攻略を戦略目標として独ソ戦を開始した(バルバロ
ッサ作戦)。ドイツ軍は初期段階でソ連軍を撃破で
きず、戦略目標の優先順位も不明確のまま冬を迎え
て敗退し、戦争の決定的な転機となった作戦である。
イギリスはソ連を支援するため援ソ船団を北極圏の
ムルマンスクなどに送り続けた。ドイツ海軍は、ブ
レストから回航した戦艦などを含む主力艦で船団を
攻撃し、空軍機やUボートとの連携で大きな戦果を
上げ、イギリスは一時船団の運航を中断するほどだ
った。しかし、水上艦艇だけの船団攻撃(虹作戦、
1942年12月)において、ヒトラーの「危険は冒す
な」との命令で好機を活かせず撤退したことから作
戦は失敗に終わってしまう(バレンツ海海戦)。
▼レーダーの解任と「ティルピッツ」による待機艦
隊戦略
自らの命令で失敗したバレンツ海海戦であったにも
かかわらず、海軍不信と怒りが頂点に達したヒトラ
ーは、ついに水上艦艇部隊の解散を命じてしまう。
役に立たない主力艦はスクラップとし、その砲は沿
岸砲台として利用し、人員や生産力を水上艦より効
率的なUボートなどに回すというのだ。この後、艦
隊の解散に反対するレーダーは海軍トップとして10
年あまり仕えたヒトラーから解任され、海軍総司令
官をデーニッツに交代させられる。
デーニッツはかねてから、通商破壊戦にはUボート
が適していると主張してきたが、艦隊の解散は英海
軍の行動の自由を増し対日戦にも悪影響を及ぼすこ
と、また荒れる北極圏での船団攻撃には水上艦が必
要であるとしてヒトラーを説得し、結局、解散命令
は撤回され水上艦は「練習艦」として存続を許され
た。
こうして、ドイツの水上艦艇部隊は辛うじて存続し
たが、アメリカが参戦し英海軍も新型戦艦を就役さ
せたため、ドイツ海軍と連合国海軍の戦力差は大き
くなる一方だった。
ドイツの燃料事情は悪化の一途を辿っていたため、
1943年12月の船団攻撃で巡洋戦艦を撃沈されたのを
最後に戦略を見直し、戦艦「ティルピッツ」をノル
ウェーのフィヨルドの奥に待機させ、援ソ船団をけ
ん制するという文字どおりの待機艦隊(現存艦隊)戦
略へと移行した。
▼最後の戦い
「ティルピッツ」は、英海軍にとって最後の大きな
脅威となり、このため新型戦艦を本国海域にとどめ
ることになり、対日戦への参加を遅らせる効果も生
んだ。英海軍は特殊潜航艇も使ってフィヨルドの厳
重な守りを突破し、艦載機や重爆撃機の空襲を繰り
返し「ティルピッツ」の撃沈に成功した。待機艦隊
戦略も、その艦艇が停泊、待機しているだけであれ
ば発達した航空兵力の格好の標的となることは当然
である。
1944年になるとドイツ本土に迫るソ連軍への防衛戦
に重巡が投入され、沿岸地帯ではその巨砲が威力を
発揮した。同年末以降、ドイツ艦隊は、包囲、孤立
した陸軍部隊や民間人の救出作戦をバルト海で展開
する。戦前の粛清で弱体化していたソ連軍の水上艦
艇からの妨害はほとんどなかったものの、潜水艦の
攻撃では大きな被害が出た。同年6月の連合軍のノ
ルマンディー上陸作戦では、ドイツ海軍はわずかに
水雷艇3隻が出撃し、駆逐艦1隻を撃沈したのみで
あった。
1945年4月に入ると、連合軍空軍によりバルト海に
展開した主力艦は次々と撃沈されていった。4月30
日、ドイツ海軍総司令官デーニッツが突然ヒトラー
の後継者に指名され総統に就任、デーニッツは5月
2日、連合軍に降伏を申し出た。「ヒトラーの海軍」
の終焉である。
ドイツ海軍は最期には自沈する計画を立てていたが
、その前に東部戦線からの人員の救出作戦に全力を
挙げ、5月9日の終戦までに兵員と避難民約211万
人もの救出に成功したのだった。
(つづく)
【主要参考資料】
谷光太郎著『ドイツ海軍興亡史』
(芙蓉書房出版、2020年)
https://amzn.to/3J7MnIX
『図説ドイツ海軍全史』(学習研究社、2006年)
https://amzn.to/3BaKA3i
『歴史群像大西洋戦争』(学習研究社、1998年)
https://amzn.to/3rufjot
(どうした・てつろう)
◇おしらせ
2021年11月号の月刊『HANADA』誌に、
櫻井よしこさん司会による「陸海空自衛隊元最高幹
部大座談会」が掲載されています。岩田清文元陸幕
長、織田邦男元空将とともに「台湾有事」「尖閣問
題」について大いに論じてきました。
月刊Hanada2021年11月号
https://amzn.to/3lZ0ial
【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。
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(代表・エンリケ航海王子)
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