配信日時 2022/02/10 08:00

【情報機関はインテリジェンスの失敗をどう克服して きたか(2)】 真珠湾奇襲におけるインテリジェンスの失敗とその 原因  樋口敬祐(元防衛省情報本部主任分析官)

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
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こんにちは、エンリケです。

「情報機関はインテリジェンスの失敗をどう克服し
てきたか」の二回目。

初回の内容はいかがでしたか?

さて二回目の今日は、

真珠湾攻撃をインテリジェンスの目で振り返る内容です。

種々の不可解さを基に
さまざまな陰謀論が独り歩きしている
同攻撃ですが、

インテリジェンス的な
強靭で粘り強い緻密な知的分析

を見たことがありません。

もしかしたらあなたも同じかもしれません。


ではさっそくどうぞ

エンリケ



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情報機関はインテリジェンスの失敗をどう克服して
きたか(2)

真珠湾奇襲におけるインテリジェンスの失敗とその
原因

樋口敬祐(元防衛省情報本部主任分析官)

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□はじめに

2022年2月3日、米国務省のプライス報道官は記者会
見で、「ロシアがウクライナに再侵攻する口実をで
っち上げるための動画を作っているとの情報を入手
した」と明らかにしました。その上でその動画は
「ロシアの情報機関が捏造したものだ」とロシアの
行動をけん制しました。

その動画には、ウクライナ軍が国境を越えてロシア
を攻撃し、民間人の死傷者が出ている映像を含んで
おり、ロシア語を話す俳優が弔問客を演じていると
されます。

プライス氏は「ロシアに侵攻を思いとどまらせるた
めに情報を公開した」と強調しました。しかし、会
見では実際の動画を示さず、さらに米政府が入手し
ているかどうかすら明言しませんでした。

米メディアによると、動画にはトルコ(NATO加盟国)
がウクライナに供給している攻撃型ドローンも映っ
ており、NATOの関与をほのめかすつくりになってい
るとされています。

 明確なエビデンスが公開されていないことから、
現時点でオシント(公開情報)では真偽のほどは判
定できません。しかし、2014年のクリミア併合の際
にもロシアが似たような行動をとっていたこと、さ
らに近年いわゆるハイブリッド戦を駆使しているこ
とを考えれば十分に動画を作っている可能性はあり
得ます。

国際情勢の分析では、そのような多くの情報の中か
らいかに正しいと思われる情報を取捨選択しどのよ
うに分析するかが極めて重要になってきます。

ウクライナ情勢では、すでに激しい情報戦が繰り広
げられているのです。インテリジェンスの失敗は、
政策決定者の判断にも大きく影響を及ぼすはずです。

さて、1941年の真珠湾ではどうだったのでしょうか?
真珠湾における日本軍の奇襲については、すでに
多くの研究がなされています。ルーズヴェルト大統
領の陰謀論も根強く語られていますが、本メルマガ
では、もう少しインテリジェンスの視点で考察して
みたいと思います。


▼真珠湾攻撃は「完全な奇襲だった」のか?

「真珠湾でなぜ奇襲を受けたか?」は、当時、アメ
リカ国内で大きな問題となり、すぐにロバーツ調査
委員会が設けられ、原因が究明されました。その結
果、ハワイにおける海軍・陸軍の責任者であるキン
メル大将とショート中将の「職務怠慢による不適切
な対応」が原因とされ、両将軍は1942年1月に
免職されました。

しかし、この最初の調査委員会が設けられた当時は
戦時中であり、重要かつ機密の資料が公開されたわ
けではありませんでした。その後、中央の情報機関
や戦争指導者の責任も問題視されるとともに逐次資
料が公開され、必ずしも両指揮官が真珠湾に停泊中
の艦船が日本軍の航空攻撃を受けることを予測でき
たとは考えられない面も明らかになってきました。

ロバーツ委員会で調査を受けた将校は一様に「完全
な奇襲だった」と証言しています。相次ぐ爆弾の爆
裂音によってはじめて、真珠湾上で乱舞する航空機
が日本軍機であると認識した者が多かったのです。

果たして奇襲を受けた原因が両将軍の職務怠慢で片
付けられるのでしょうか? 以下、真珠湾奇襲の概
要を述べたあと、インテリジェンスに焦点を当てて
問題点を検討します。

▼真珠湾奇襲のタイムライン

真珠湾攻撃は、ハワイ時間の1941年12月7日(日)
(日本時間:8日(月))、アメリカのハワイ・
オアフ島の真珠湾にあった米海軍太平洋艦隊の艦艇
と基地に対して、日本海軍が行なった航空機および
潜航艇による奇襲攻撃です。

これらの活動を時系列的に述べると、まず、11月26
日(日本時間)、6隻の航空母艦を中心に戦艦2隻、
巡洋艦3隻、駆逐艦9隻、補給艦8隻からなる日本
海軍の機動部隊が、択捉島の単冠(ヒトカップ)湾
からハワイに向け出撃しました。

 航行中の艦艇は、日本との通信はもちろん艦艇同
士の電波も封止し、一般の商業用の太平洋航路とは
異なる航路を使用しました。そのため、機動部隊は
、他国の船に発見されることもなくハワイに接近す
ることができました。

 12月7日7時52分(ハワイ時間)、第一派として
空母艦載機183機が攻撃開始、ついで9時2分、第
二派167機が真珠湾在泊中のアメリカ太平洋艦隊艦
艇、真珠湾周辺の飛行場や施設などを攻撃しました。
攻撃は2時間弱で終了し、13時52分までには、全攻
撃隊が母艦に収容されました。

米側の損害は、艦艇:戦艦アリゾナなど13隻が撃沈
または大破、4~5隻中破、航空機:500機中231機
撃破、死者:2402人、負傷者:1382人でした。

それに対し、日本側の損害は、航空機:作戦に参加
した350機中29機が未帰還、特殊潜航艇:5隻参加
中5隻とも未帰還、死者:(未帰還)航空搭乗員
46~65人。特殊潜航艇乗員9人でした。

結果として日本軍の特殊潜航艇による攻撃は、うま
くいかなかったものの、航空機による攻撃は大成功
でした。米側のインテリジェンス機関からみれば大
失態ですが、このような日本軍の攻撃の可能性につ
いて当時何も考えられておらず対策はとられていな
かったのでしょうか?

▼的確な「統合見積り」

1941年当時、ハワイの防護に対して脅威を具体化し
たもの、つまり情報見積りがなかったかというとそ
うではありません。すでにハワイにおいては、脅威
となる敵の攻撃(可能行動)に関する統合見積りは
存在していました。

それは、同年3月31日付で作成されており、ハワイ
陸軍航空隊司令官マーチン少将と海軍哨戒機隊司官
ベリンジャー少将が署名したものです。ハワイに対
する敵の攻撃様相については、次のようなものです。

【統合見積りにおける敵の可能行動の概要】

1 最初に考えられる敵の行動としては、
(1) 作戦区域における艦船に対する潜水艦による奇
襲攻撃
(2) 真珠湾内の艦船および施設に対する攻撃を含む
オアフ島における奇襲攻撃
(3) 前(1)、(2)項の複合的攻撃

2 オアフ島に対する最も可能性があり危険な攻撃
は、航空機によるものと思われる。現在、このよう
な航空機は恐らく300マイル(480キロメートル(マ
マ))以内に接近した1隻、あるいは複数の航空母
艦から発進すると見積られている。

3 潜水艦による攻撃は、いかなる場合も恐らく空
母を伴う高速艦からなる未発見のかなりの規模の水
上部隊の存在を示しているものと思われる。

4 払暁[明けがた]航空攻撃は、わが軍が哨戒し
ていても、われわれの反撃開始が遅くなるような態
勢の時期を選定して攻撃してくることが予想され、
完全な奇襲となる公算[可能性]が高い。

このように一般的にハワイが攻撃されるとすれば、
どのような可能性があるかという視点から驚くほど
的確に分析は行なわれていました。すなわち、危険
なのは1隻または複数の空母からの航空機による攻
撃の可能性を見積り、しかも払暁時期の攻撃は完全
な奇襲となり得る公算が高いとされていたのです。
そして、その統合見積りは陸海軍の部隊に配布され
ていました。

その見積りに基づき、対策として日々の航空哨戒を
可能な限り、海上に対して全周行なうことが必要で
あるとの提言さえなされていました。

ただし、この対策は最も望ましいものではあるが、
現実的には現在の人員、機材では短期間しか実施で
きない。そのため、ほかの情報収集手段で、敵の攻
撃の兆候を発見したあとに、限定した地域でこのよ
うな哨戒を行なわざるを得ないということまで分析
されていました。

では、実際の情報収集や警戒活動はどのように行な
われていたのでしょうか?

▼兆候を見逃した米陸海軍

艦船による港湾内の哨戒は定期的になされていまし
た。真珠湾奇襲の2か月ほど前、キンメル海軍大将
(太平洋艦隊司令官、現地海軍司令官)は幕僚宛秘
密文書で日本軍の奇襲攻撃の公算が大きいことを強
調し、仮に潜水艦の攻撃があった場合は、空母随伴
の高速艦で構成する相当数の水上艦部隊が存在する
可能性を指摘していました。

それに備え、ハワイ第14海軍区は、特別防潜網警
戒(防潜網:港湾の出入り口などに潜水艦の侵入防
止用の網)のほかに継続的な港湾哨戒を行なってい
ました。3隻の沿岸警備隊の警備艇と駆逐艦1隻が
常時待機、掃海艇2隻が港口掃海を日常業務として
いたのです。

それらは当然12月7日早朝も行なわれていて、駆
逐艦ウォードが真珠湾口の沖合を警戒していました。
また、2隻の掃海艇は湾口の定期夜間掃海を行な
っており、午前4時頃、掃海艇の1隻が潜航中の潜
水艦を発見し報告しましたが、駆逐艦はそれを探知
できませんでした。

 ところが、その後オアフ島沿岸を哨戒していた哨
戒機が真珠湾口沖で潜水艦を発見し、6時45分、
付近を航行中のウォードがこれを撃沈、その旨を直
ちに海軍航空隊当直参謀に打電しました。当時、報
告・通報は「緊急時には平文によれ」との指示がな
されていましたが、なぜか暗号で打電されたために
復元に時間を要し、午前7時12分つまり真珠湾奇
襲の40分前まで、その報告の内容は伝わりません
でした。

復元された電文の内容を承知した当直参謀はすぐに
キンメル太平洋艦隊司令官に電話しましたが、電話
が輻輳(集中)していたなどの理由で司令官が了解
したのは午前7時40分頃でした。

すぐに、海軍航空隊の当直参謀は、指揮センターで
航空機の哨戒計画を作成しましたが、そもそも誤報
ではないかと疑っていたほどです。本当の戦争だと
気づいたのは、日本軍の航空機の第一撃が始まった
のを見てからという有様でした。

一方、陸軍によるレーダーによる監視は、11月2
7日以降はワシントンからの戦争警報を受け、日曜
日以外は払暁を重点に午前4時から午前11時まで
実施されていました。しかし、日曜日は午前4時か
ら午前7時までしか要員が配置されていなかったの
です。

それでも、12月7日(日)はたまたま午前7時過
ぎても監視を続けていたオアフ島北端に位置するオ
パナ・レーダー監視所の2人の操作員は、7時2分
にオアフ島北132海里に「何かまったく普通でな
いもの」を発見し、しばらく航跡を追跡したあと、
7時20分に陸軍防空情報センターに報告しました。

情報センターには、業務見習い中のタイラー中尉の
みが、正規の交代要員の来る8時まで残るように指
示を受けていました。タイラー中尉は、レーダーに
映った機影はおそらく米本土から午前8時に飛来予
定のB-17と判断し、「気にするな」と監視所の
操作員に指示しました。オパナ監視所の要員はそれ
を聞き安心し、7時45分に監視を終了しています。

 以上のように、実は海軍による潜水艦の発見とそ
れに対する攻撃、陸軍のレーダーによる航空機の捕
捉という極めて重大な戦争の兆候があったのです。

にもかかわらず、対応が遅れたのは、ハワイという
海に囲まれ脅威の少ない環境では、航空母艦の接近
の情報がない限り、いきなり航空機による攻撃など
考えられないという思い込みがあった。さらに当日
が日曜日だったため、兆候があっても迅速な対空措
置をとることができず、日本軍の航空攻撃を受ける
こととなったというのが、現場における直接的な原
因と考えられます。

 しかし、その根源には当時の「情報」というもの
に対する、軍における認識や位置づけにも問題があ
ったようです。

▼情報将校の業務とその地位の低さ

第二次世界大戦当時の情報業務に対する一般的な考
え方は「情報業務に与えられた権威は低く、その[
権威]どおりに地位は従属的でした。情報に敏感に
なるまで長く情報業務に従事している将校がいると
すれば例外でした。というのは、情報部門にいると
いうことは、たいして才能がないためだと思われる
ことだったからです。

部隊を指揮する能力のあるものは情報業務には深入
りしないというのが、普通の考え方でした。情報の
仕事にとどまっても、評価という微妙な仕事を任さ
れることは少なかった」と『パールハーバー―トッ
プは情報洪水の中でいかに決断すべきか 』(ロベ
ルタウールステッター、1987年)にも当時の状
況が記述してあります。

 つまり、情報部門は作戦部門に従属するものであ
り、優秀な将校が行くべきところでも長年とどまる
べき部門でもないと考えられていました。

 たとえば現地レベルの海軍の情報将校に求められ
ていたのは、敵艦隊の構成を詳細に調べることであ
り、インフォメーションを評価し敵の可能行動を見
積るのは、戦争計画部の仕事でした。そのため「そ
れ[敵の攻撃を予想]を行なうことは越権行為にな
るとして実施しなかった」としています。

一方で現地の陸軍のインテリジェンス活動の中心は、
ハワイ在住日本人の調査、いわゆるカウンターイン
テリジェンス任務が主体でした。さらに「ワシン
トンから国際情勢に関する情報をもらった記憶はな
く、日本陸海軍の行動予想に関する唯一の情報源は
[現地の]海軍だった」としています。

 しかし、その陸軍に頼りにされていた海軍におい
てすら、1941年になってワシントンに、(日本
の秘密の外交電報、軍事電報を解読した)マジック
情報を常時送ってくれるように頼みましたが、艦隊
の行動に直接影響のあるもの以外は必要ないとして、
情報提供を拒否されています。それでも現地の海
軍は、現地の陸軍に比べれば限定的ながら関連マジ
ック情報も保有しており、日米の緊迫状況などにつ
いてもある程度理解していました。

 今のアメリカでは、分析の相乗効果を高めるため
には、情報共有が極めて重要だとされていますが、
1941年当時は、陸海軍の情報部の恒常的な連携
や重要な情報の共有はほとんどなかったというのが
実態のようです。さらに上述したように情報要員は
作戦要員に比べて一段地位が低く、業務として集め
た情報を分析や評価する権限もなかったようです。

『真珠湾は眠っていたか』の著者ゴードン・ブラン
ゲは「雑音の混乱の中から大事な情報を取り出す作
業には、仮説の助けを借りることが多く、そのため
には広い知識のバックグランドが必要である。対日
秘密交渉の進展に関する情報や、日本軍の動向に応
ずるアメリカの態度といった知識が情報収集者にも
必要だった。残念なことに、出先の情報担当者に対
する外交交渉や外交計画の情報の提供は拒否されて
いた。この情報拒否は、秘密情報源の秘匿と計画の
漏洩防止という要請によるものであった。しかし戦
争切迫の警報の正しい理解のためには、このような
知識が不可欠であった」としています。

このように、厳しく管理されていたマジック情報は
、当時の日本の状況をどの程度把握していたのでし
ょうか。次回はこのあたりから始めたいと思います。


(つづく)


(ひぐちけいすけ(インテリジェンスを日常生活に
役立てる研究家))



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【著者紹介】

樋口敬祐(ひぐち・けいすけ)
1956年長崎県生まれ。拓殖大学大学院非常勤講師。
NPO法人外交政策センター事務局長。元防衛省情報
本部分析部主任分析官。防衛大学校卒業後、1979年
に陸上自衛隊入隊。95年統合幕僚会議事務局(第2
幕僚室)勤務以降、情報関係職に従事。陸上自衛隊
調査学校情報教官、防衛省情報本部分析部分析官な
どとして勤務。その間に拓殖大学博士前期課程修了。
修士(安全保障)。拓殖大学大学院博士後期課程修
了。博士(安全保障)。2020年定年退官。著書に
『国際政治の変容と新しい国際政治学』(共著・志
學社)、『2021年パワーポリティクスの時代』(共
著・創成社)、『インテリジェンス用語事典』(共
著・並木書房)


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発行:
おきらく軍事研究会
(代表・エンリケ航海王子)

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