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荒木さんの最新刊
知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
警務隊で修練されている「逮捕術」を初めて明らか
にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
れました。
そのため、最高水準の逮捕術の技の連続写真が実に
多く載っています。それだけでなく、技のすべてを
QRコードを通して実際の動画をスマホで確認できる
のです!
自衛隊関係者、自衛隊ファン、憲兵ファンはもちろん、
武術家、武道家、武術ファンにも目を通してほしい
本です。
『自衛隊警務隊逮捕術』
荒木肇(著)
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こんにちは。エンリケです。
「陸軍工兵から施設科へ」第20回です。
気球のはなしはおもしろいですね!
気球の「のんびり感」と、熾烈な軍事行動のミスマ
ッチというところもあるのでしょうか。
陸軍航空ばなしでは必ず名前が出てくる
新藤常右衛門陸軍中佐のはなしも出てきて、
静かにうれしさをかみしめています。
さっそくどうぞ。
エンリケ
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陸軍工兵から施設科へ(20)
陸軍の気球の発展
荒木 肇
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□はじめに
陸海軍の合同機関「臨時軍用気球研究会」は、陸・
海軍の路線の違いが明らかになってきます。空を
自由に飛べる航空機の発達によるものです。陸軍は
陸上から発進する飛行機が主流だし、海軍は水上と
いう大きな飛行場設備の要らないフロート(浮舟)
つきの水上滑走機に関心を持ちます。
そうした発足時の違いは、空軍という独立軍種が
できなかったことにも関わりますし、航空母艦の発
着を基本とする海軍機と、主に草原から離着陸する
陸軍機の運用に違いを見せ、そこから機体の構造に
も大きな関係をもってきます。
今回は、陸軍の気球の発展について見てみましょ
う。
▼四三式繋留気球
繋留気球はその名の通り、地上に繋留され、ただ
高く上がるだけでした。当時の用語では上昇するこ
とを「昇騰(しょうとう)」という勇ましい言葉を
使いました。「騰」という字は「揚がる」という意
味で、馬が躍り上がる様子を表すそうです(三省堂
『大明解漢和辞典』)。いまも「やかんのお湯が沸
騰する」とか「物価が騰貴した」などと使います。
言葉と異なってなどというと、先人に失礼ですが、
気球はけっこうゆったりと上昇しました。気球隊
が陣地進入してから1時間もかかったそうです。ま
た、降りるときも繋留索(つなぐためのロープ)を
人力で巻いたので、しごくゆっくりと地上にかえっ
たといいます。
1908(明治41)年6月に、陸軍技術審査部
長有坂成章(ありさか・なりあき)は陸相寺内正毅
に日本式気球一式の試作について上申しました。有
坂は、「三十年式歩兵銃・騎兵銃」を設計した造兵
将校です。
この技術審査部は1903(明治36)年にそれま
での砲兵会議、工兵会議が、常設の官衙(かんが)
になりました。第1条に、砲工兵技術兵器材料に関
する事項を研究調査して陸軍大臣に意見を具申し、
また大臣の諮詢(しじゅん)に応じるとあります。
また部長は陸軍大臣に隷し、会議の議長となると定
められていました。この組織がのちに1919(大
正8)年には陸軍技術本部に発展します。
この研究された気球は、「山田式日本凧式気球」と
いわれました。佐山二郎氏の著作によれば、大きさ
は全長25メートル、最大中径7.2メートル、高
さ9.3メートル、容積は630立方メートルとの
こと。現在でいえば、大型トレーラー3台が2階建
ての家を運んでいるという感じです。「日本凧」と
いうのも、気嚢(きのう)の下部には大きな「舵」
が付いています。
7月には千葉県下志津原(現在の陸上自衛隊高射学
校付近の広大な演習地)で気球隊の演習が行なわれ
ました。気球に対する三八式野砲の実弾曳火(えい
か)射撃もしたといいます。曳火射撃というのは、
榴霰(りゅうさん)弾に時限信管をつけて撃つこと
をいいます。指向性に優れた霰弾射撃です。直撃を
狙うのではなく、おおよそのところで炸裂させて小
さな弾子で傷つけるという考え方でしょう。
1911(明治44)年には、審査を終えて制式化
しました。そこで「四四式」とされたという資料も
あるそうですが、佐山氏によれば公文書では未確認
とのことです。興味深いのは上昇する高度で、最大
で800メートル。であれば、観測角度は10度と
して視察距離は8000メートルにしかなりません。
当時、ようやく射程が世界水準の8350メートル
に達していたわが国の三八式野砲としてはあまり役
に立ちません。
当時の国軍砲兵は、一連の「三八式」といわれた新
鋭火砲を装備しました。中でも10センチ加農(か
のん)は最大射程1万800メートルでしたから、
将来を考えれば800メートルの上昇高度は不満を
もたれるものでした。
▼自由気球の発達
これまでのような地上に固定されて上昇する気球
を繋留気球といいました。それに対して、いわゆる
飛行する気球を「自由気球」といいます。あの普仏
戦争で包囲下にあったパリから飛んだ気球は、望む
ところに飛ぶ自由飛行をしていました。
1910(明治43)年9月には、小型エンジン
(出力14馬力)を積んだ「山田式第1号飛行船」
が東京の空を飛びました。飛んだといっても現在の
品川区山手線大崎駅近くから目黒区駒場(こまば)
の往復です。途中でガスが漏れて目黒区恵比寿(え
びす)に不時着しましたが、修理の上で飛行再開。
無事に大崎に帰還します。
これに先立つこと2カ月前、気球隊は栃木県那須
野原下石橋で自由飛行に挑みました。この飛行に使
ったのは、ロシアからの鹵獲品の「球状気球」だっ
たそうです。気球といえば丸い物という、そのイメ
ージ通りでした。徳永工兵少佐と伊藤工兵中尉が乗
り組み、飛行した距離は900メートル、最大高度
は70メートル、時間は20分だったそうです。そ
の頃の正しい名称は「球状気球」で、自由気球と改
称されたのは1914(大正3)年のことでした。
▼操縦学生の前は気球隊付
時間の進行を速めます。今はMF文庫に入ってい
ますが、1971(昭和46)年にわたしは楽しい
本に出会いました。著者は新藤常右衛門陸軍中佐、
『あゝ疾風戦闘隊』という題名です。手に取るまで
は大東亜戦争中の陸軍四式戦闘機(愛称:疾風)の
戦記かと思いましたが、実際は新藤中佐の回顧録で
した。
中佐は明治38(1905)年生まれ、陸士第36
期生でした。歩兵少尉任官は1924(大正13)
年10月です。これは航空兵科創設前の人でした。
空色の襟章ができたのは翌14年5月です。いった
いいつ転科したのだろう、そうした疑問から読み始
めました。
鳥取県倉吉市の倉吉中学から大阪陸軍幼年学校、
陸軍中央幼年学校卒業後、歩兵に指定されて隊付候
補生生活は島根県濱田町の歩兵第21聯隊でした。
詳しい方ならご存じでしょうが、「濱田か鯖江か村
松か、飛ばされそうで気にかかる」と陸士の生徒に
歌われた「三大僻(へき)地歩兵聯隊」の1つです。
濱田は日本海に面した田舎町、鯖江歩兵第36聯
隊は福井県鯖江町、村松歩兵第30聯隊は新潟県中
蒲原郡村松町にありました。いずれも城下町の後で
したが、濱田はポツンと孤立した地、鯖江は大きな
城下町の福井よりずっと小さく、村松にいたっては
近隣の新発田(しばた)や高田に比べると、ほんと
うに寂しい田舎町でした。
大正時代は中央幼年学校(後に士官学校予科とな
る学校、東京の市ヶ谷・現防衛省にあった)で幼年
学校卒業生と中学校卒業者は集合教育を受けました。
その後、兵科、任地に分かれて半年の隊付士官候
補生生活を送ります。将校にとって、その発表が生
涯を決めるといって言い過ぎではありません。上等
兵、伍長、軍曹と2カ月ごとに階級が進められ、軍
曹になって士官学校に帰ります。その後、課程をお
えて原隊(げんたい・隊付した部隊)に帰り、曹長
に進み、見習士官(みならいしかん)の勤務をおえ
て少尉に任官しました。
新藤歩兵少尉はすぐに聯隊長に申し出ます。飛行
機乗りになりたいという青年士官に賛成する人はい
ませんでした。先輩、上司からはもちろん、家族も
とりわけお母さんが猛反対されたそうです。
大正時代の末のころ、飛行機乗りにはお嫁にやらぬ、
今日の花嫁、明日の後家(未亡人のこと)と歌わ
れていたといいます。新藤少尉はそれでも飛行機に
乗りたかったのです。
▼気球教育の思い出
所沢の気球隊に配属されました。操縦志願だった
ので、気球隊など眼中にはなく、埼玉県所沢にある
ことも平時編制表を見るまで知らなかったそうです。
着任すると、まず、気球の上からの偵察術を教育
されました。乗ったのは水素ガス1000立方メー
トルが入り、紡錘形で青緑色に塗られていたそうで
す。2人乗りで1000メートル、1人乗りなら1
500メートルまで上昇しました。地上とつながっ
た鋼索の中心には電話線が巻きこんであります。吊
籠(つりかご・ゴンドラ)の偵察者はこれで地上と
連絡しました。
風が強くて気流の悪い時には、暴風雨の荒海に漂
う小舟のように気球は揺れに揺れたそうです。初心
者はたちまち酔っぱらってしまったのです。この気
球は、第1次世界大戦の戦時賠償としてドイツから
日本に渡されたツェッペリン飛行船の格納庫を所沢
に移設したものの中に2個入っていました。
浮揚する時には気球の周囲に多くの兵隊が取りつ
いて、地面すれすれに飛行場の西北隅に運び出しま
す。繋留索を取りつけて、吊籠(ゴンドラ)をぶら
下げました。この吊籠の中と周りには、気球の浮力
と釣り合うだけの数十個の砂嚢(さのう)が積みこ
まれたり、ぶら下げられたりします。
こうして搭乗者は吊籠に乗り込みました。次回は
この訓練と自由気球の飛行訓練の様子をご紹介しま
す。まあ、今から見れば無茶苦茶としか言えません。
(つづく)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
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