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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応
予備自衛官でもあります。お仕事の依頼など、問い
合わせは以下よりお気軽にどうぞ
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こんばんは、エンリケです。
昭和9年3月、信じられない事故が起こりました。
軍艦の転覆です。
しかも、最新鋭艦の引渡し後、わずか16日目のこ
とでした、、、、
あなたは「「友鶴」遭難事故」をご存じですか?
1/9に配信された「海軍戦略500年」に、
「帝国海軍軍艦「友鶴(ともづる)」の前代未聞の
遭難事故について少し触れられていました。
今日から始まる短期連載「水雷艇「友鶴」転覆事
件―その遭難から入渠まで―」は、この遭難事故の
終始を明らかにした記録よみものです。
著者の森永孝昭さんは海のプロ。フネのプロ。
船長の中の船長といわれる「ドックマスター」。
佐世保重工では最古参のドックマスターです。
「ドックマスター」は、ひとことでいえば造船所直
属の船長さん。
新造船や修理した船を実際に動かすときに舵を取る、
航海経験豊富で卓越した技術を持ち、船の全てに精
通したベテラン中のベテラン船長です。
海自新造艦の公試も行います。
豊富な航海経験が求められるので、造船所での勤務
経験の積み重ねだけでは就けない職種だそうです。
冒頭でご本人の解説もありますからぜひご覧ください。
海のプロ、フネのプロが全8回にわたって描く
「友鶴」遭難事故の終始。実に楽しみです!
・知られざる遭難事故の真実に迫る緻密で強靭な知性。
・海のプロ、フネのプロならではの専門性。
・海にまつわるたくさんの得難い知識
どれをとっても一級のよみものです。
ではさっそく初回記事をご覧ください!
エンリケ
追伸
海が好きな人は必読です。
もしお知り合いにそういう方がいらっしゃれば、
ぜひおススメください。
※おたよりはコチラから
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(新)水雷艇「友鶴」転覆事件―その遭難から入
渠まで―(1)
旋回試験で露呈した千鳥級水雷艇の欠陥
森永孝昭(ドックマスター・日本船渠長協会会員)
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□ご挨拶
今回、初めてこの場に出していただきました森永孝
昭というものでございます。
職業は、業界での通称「ドックマスター」でござい
ます。文字通り、ドックのマスターでございますが、
その「ドック」とは船を入れるドックのことで、
それは通常造船所にしかありません。このことから
私は造船所に勤務しております。
さて広義では造船所自体をドックともいいますが、
本来は船を入れて水を抜く設備のことをドックとい
います。したがってドックマスターとは、そのドッ
クの長であり、ドックを知り尽くした「マイスター」
でもあるのです。
ドックは、漢字で「船渠(せんきょ)」と書きます
から、日本語で「船渠長」ともいいます。また船の
ドックへの出し入れを、この漢字の「渠」を使って
「入渠(にゅうきょ)」「出渠(しゅっきょ)」と
かで表現します。
入渠と出渠のとき、ドックマスターは必ず船に乗
って操船指揮をします。何万トンもする大きくて高
価な船を、狭いドックに出し入れするわけですから、
ぶつけないようにするのは至難の業になります。
細心の注意を払い慎重に行なう作業を、そばで見て
いる船長さんや艦長さんは「さぞかし、はらはらさ
れているのでは」と、いつも察しています。
さて、造船所では、船を建造します。その船の試運
転には、必ずドックマスターが船長で乗船して、広
い海上で各種の試験を行ないます。そういうわけで
ドックマスターとは、造船所のおかかえ「キャプテ
ン」でもあるのです。
振り返って見ますと長い造船所勤務で、試運転船長
が230隻以上、入出渠や接岸などの操船作業で延
べ6300回ほど経験してきました。
誰もがそうであるように、年数や回数を重ねますと、
ふと同じ場所で起こった自分の過去を思い浮かべ
たりするものですが、歴史家でなくとも時間を超え
た遠い昔の出来事に思いを馳せることだってありま
す。
それと同じように、身近な海とドックで起こった前
代未聞の帝国海軍“友鶴(ともづる)”の遭難が脳
裏に浮かんできたのです。
やがてその事故の中身を紐解いていくと、そこには
悲愴な中にも必死で繰り広げられた、今も昔も変わ
らぬ人命救助の姿が見えてきたのです。
これらがどのような経過をたどっていったのか、下
記の順序で計8回の連載で紹介していきたいと思い
ます。なおこの記事は、船渠長協会の会誌「ドック
マスター」に平成23年(2011年)に寄稿したものを
再編集したものです。
1、水雷艇「友鶴」
2、第21水雷隊
3、訓練の日々
4、決 行
5、消息不明
6、捜 索
7、曳 航
8、逡 巡
9、庵 崎(港内錨地)
10、新聞報道
11、反転盤木
12、錨地からドック
13、入 渠
14、艦 内
15、判 明
16、上 奏
17、その後
▼はじめに
昭和9年3月、信じられない事故が起こった。軍艦
の転覆(てんぷく)である。しかも、最新鋭艦の引
渡し後、わずか16日目のことだった。
そして、この扱いが海軍として画期的だったのは
「操艦ミスや荒天による海難事故ではなくして、艦
政本部の技術陣が軍令部の過酷な要求に妥協し復原
(ふくげん)性に問題のある欠陥船を造った」と糾
弾したことである。いわゆる「友鶴(ともづる)事
件」である。
ここでは訓練から転覆、そして入渠に至るまでの様
子を記してみる。
▼水雷艇「友鶴」
昭和5年に締結されたロンドン条約の結果、駆逐艦
の保有量にも制限を加えられた。しかし「基準排水
量600トン未満の艦艇には制限がない」ということ
に着目し、600トン未満の艦に駆逐艦なみの武器を
装備する計画をした。これが“千鳥級”の4隻で
“友鶴”はこの中に属していた。
舞鶴要港部工作部で1番艦“千鳥”を建造中、すぐ
に問題が発生する。重心査定を行なったところ予想
以上のG(重心)の上昇である。この原因はわかり
きっていた。実際の工程が進むにつれ各部の重量増
加が累積し、船殻(せんこく)重量からして35トン
もオーバーしていたのである。これは計画の161ト
ンに対して20%増の196トンもあったのである。
その他艤装(ぎそう)品から機関、各種兵装にいた
るまで10%以上のオーバーとなっており、設計者の
意図に反して、合計で78トンの超過重量となり、
計算上GM(重心から浮力の作用する点M『メタセン
ター』の高さ)が20センチ以上減少していることが
わかった。
工作部は復原力不足を憂慮し艦政本部と協議した結
果、艤装配備位置の変更および装備品の一部陸揚げ、
さらに船底に仮バラスト40トンを搭載し、とりあえ
ず海上予行運転を行なってデータ収集の上、対策を
講じることにした。
その結果、旋回試験において、速力28ノットで舵角
25度を取ったところ、船体傾斜が20度を越した。こ
れは危険と判断され、最大舵角35度の試験は取止め
となり、残りの主だった試験も中止して工作部に帰
った。
この欠陥露見により、本格的対策工事として急きょ
舷側水防区画(バルジ)が増設されることとなり、
それに伴い40トンの船底固定バラストを8トンだ
けを残して陸揚げした。
また、旋回時の傾斜対策として舵板面積の縮小が図
られ、2.90平方メートルあった舵面積を20%減らし
2.33平方メートルとした。
そして、昭和8年10月9、 10日に行なわれた
“千鳥”の公式試運転においては、舵角35度で最大
傾斜は20度と改善された。また速力は29.3ノットで
0.7ノットの低減をみたが、対策処置による許容の
範囲とみなされ艦政本部は了承した。そして11月20
日、1番艦“千鳥”が竣工したのである。
この“千鳥級”は、53.3センチ魚雷発射管連装2基
のほか、砲塔式の12.7センチ砲(駆逐艦の標準装備
砲)連装、単装各1基を搭載した時点で実体は二等
駆逐艦であるのだが、これを駆逐艦と称すれば条約
違反になるので、大正13年以降廃止となっていた艦
種名称を復活し「水雷艇」と称した。
同じ舞鶴工作部の船台にあった同部1番艦“友鶴”
は、1番艦の不具合から最初からバルジを装着し、
進水後も錨鎖庫、蓄電バッテリー室、冷蔵庫などを
、1デッキ下げ極力重心降下につとめた。
“友鶴”の船体の完成重量は609トン、公試排水量
は737トンで、その時のGM は0.696m、復原範囲67.4
度、吃水2.24mであった。
公試排水量は計画より100トン以上もオーバー、条
約の基準排水トンは少なく見積もっても630トンは
あるはずで、結果的ではあるが条約との兼合いは微
妙になっている。
いずれにしてもほぼ同仕様によって、昭和9年2月
24日“友鶴”が竣工した。また藤永田造船所で建造
中の同型2番艦“真鶴”も、昭和9年1月31日に竣
工していたので、厳密には“友鶴”は3番艦となる。
▼第21水雷隊
“友鶴”は昭和9年2月26日、多くの海軍工作部の
人々の見送りを受け、晴れて舞鶴を出港した。
艇長の岩瀬奥市少佐は、艤装員長として赴任してか
ら“友鶴”の工事に立会い、命を託すべき船の出来
をつぶさに見てきたこの5か月近い日々の中で、苦
楽を共にした舞鶴工作部の人々との別れは、それな
りに感慨深いものがあった。
山陰の山々を左舷に見て日本海を西進するが、機関
も好調でとくにトラブルもなく、27日博多に到着し
た。ちょっとしたお披露目を行なうと共に、同乗の
工廠員による機関、機器の点検と調整等を行ない、
配置先の佐世保入港に備えた。
28日早朝、博多を出港、港外へ出るとすぐに20ノッ
トまで増速、佐世保へ向けての航海が始まった。
烏帽子島灯台を過ぎ、壱岐水道を通過し西進すると、
わずか2時間半で生月(いきつき)島の北端の大バ
エ鼻の沖に達する。ここから針路を南へ向け、生月、
平戸の断崖絶壁を遠望しながら1時間も南下すると、
平戸島の西南端から少し離れた所に、おむすび形の
島が見えてくる。ほとんど岩ばかりであるが、上半
分は島特有の背の低い草木で覆われている標高71m
の頂部に5mの灯台が立っている御神(おがみ)島
(尾上島)である。
御神島を左正横に通過してから、徐々に東寄りにな
るよう左に変針すると、すぐに平戸島最南端の志々
伎(しじき)埼になり、いよいよ佐世保港口まで最
終コースとなる。「オガミを回った」といえば関係
者は「あと1時間もすれば佐世保港口に来る」とわ
かる位置である。
同日(28日)の午前10時、無事に佐世保港の岸
壁に着き、舞鶴からの回港を果たした。さっそく佐
世保警備戦隊の初代司令官鈴木義一少将はじめ第2
1水雷隊司令の橋本信太郎中佐、それに“千鳥”の
艇長山田勇助少佐と“真鶴”の艇長篠原弘少佐(こ
の二人と岩瀬少佐は同期、兵48期)、その他多く
の海軍関係者が出迎えてくれた。“友鶴”艇長岩瀬
奥市少佐は橋本司令に“友鶴”の配属着任の報告を
なした。
「第21水雷隊」は先の“千鳥”“真鶴”につぎ
“友鶴”が加わり3隻となり、これをもって事実上、
昭和初の3隻隊の「水雷隊」が誕生したのであった。
もともとその上位部隊の「警備戦隊」も昭和8年12
月に横須賀、呉、佐世保に新設されたばかりの組織
であって、それぞれの鎮守府に所属している。鎮守
府は、さしずめ現代の海上自衛隊地方総監部にあた
るので、警備戦隊とは「地方隊に所属する部隊にあ
たる」といえばわかりやすい。
旗艦は軽巡“龍田(たつた)”(基準排水トン32
30トン、長さ142.6m幅12.3m、艦長大島四郎大佐)、
他に「第21駆逐隊」などから成る。ちなみに佐世保
鎮守府司令長官は米内光政中将(30代)である。
3月の1日から5日までは、乗員は、上陸、家族と
の団欒など、久しぶりのひと時を過ごしたが、竣工
して初めての訓練が6日から始まるので、その打合
せや連絡、照合、事前会議、装備品確認、食料積込
みなど、忙しい日が続いた。
▼訓練の日々
昭和9年3月、警備戦隊創設以来の連合訓練がいよ
いよ始まった。
6日(火)1日目
第21水雷隊の3隻は、0900(24時間制時刻表記。以
下同じ)から順次離岸し、第21駆逐隊(初春、子日
〔ねのひ〕、澤風〔さわかぜ〕)および第24潜水隊
(呂号潜水艦3隻)との連合訓練が実施される五島
列島と西彼杵(にしそのぎ)半島にかこまれる海域
を目指した。鈴木司令官は旗艦“龍田”に座乗して
いる。
港外に出ると水上艦7隻は単横陣(横1列)となり
回転数整合を行ない、その後、各種の隊列や陣形を
取りながら直衛配備訓練、蛇行運動、攻撃訓練、潜
水艦攻撃訓練などが続いた。陣形の変換は旗艦“龍
田”からの旗旒(きりゅう)信号で指示される。各
隊各艦は旗信に常時張り詰めなければならない。陣
形運動は駆逐艦や水雷艇の基本中の基本であり、得
意中の得意でなければ、敵艦に肉迫し一斉に魚雷を
発射し一斉に退避することができない。
基準艦である“龍田”は何度となく「出遅れている
ー」「距離を保て」「どこを向いとるのか」「操艦
者知らせー」と、矢継ぎ早に叱責するのである。
それでも1930には初日訓練をすべて終了し、潜水艦
も含めて全艦が寺島水道泊地に予定通り投錨した。
この泊地とは、北に崎戸島、大島、寺島、東に西彼
杵半島の陸地、南に松島と “コの字”に囲まれた
錨泊には適した海域である。
7日(水)2日目
この日、潜水艦を除く全艦が0030抜錨し無灯出港し
た。沖に出ると、水雷隊と駆逐隊とは甲軍、乙軍と
に分かれ交互に夜間攻撃をしかける訓練を行なった。
この後“龍田”は単艦で、五島の福江港の奥深く侵
入すべく、艦首を多々良(たたら)島に向け針路2
90度で進行、サザエ島を左舷に見て通過し左回頭
、サザエ島と福江の間の水域に0500、人知れず投錨
した。直ちに陸戦隊が2隻のカッターに分乗し、福
江に密かに上陸を果たした。予定通りに進んだこと
によって、夜間無灯入港上陸の訓練は、成功裡に終
了した。
レーダーが装備されていない当時、かすかな島の輪
郭、ほのかな町の明かりなどを極力利用して予定錨
地に到達するのは至難のわざであったろう。そのあ
と、夜明けとともに同錨地に潜水艦が進入、“龍田
”を攻撃するという訓練が行なわれて、この日の予
定は終了した。“龍田”以外の水上艦は、夜明け後
の0700ころまでに福江沖に投錨した。
早朝の福江町住民は、いつのまにか間近に多数の軍
艦が停泊しているのを見てビックリした。町の人々
にとって、潜水艦を含む10隻もの艦艇が湾内にそろ
ったことは大変珍しかったのだ。「海軍さんが来た
ぞ」と町中が賑やかになり、周囲の島々からも多く
の島民が大小の舟で漕ぎ寄せ、見学にやって来た。
8日(木)3日目
0800掃海具を備えている水雷艇3隻は、他艦より先
に揚錨し前路掃海作業訓練を行ないながら福江港外
に出た。その後“龍田”と駆逐艦3隻および潜水艦
3隻が掃海済み水路を出てきた。沖にでると潜水艦
は潜航を開始した。そのあとを追って水雷隊と駆逐
隊とで交互に探信儀(ソナー)を使用して水面下を
探索、発見し次第攻撃、という訓練を行なった。
昼前に飛行機3機が上空に現れ、これらに対して防
空訓練が行なわれた。午後も引き続き各艦の探信儀
の能力調査などを行ない、1900までに再び寺島水道
泊地に投錨した。
なお潜水艦部隊は、予定の訓練を終了したので、そ
のまま佐世保に帰投している。
9日(金)4日目
各艦は錨泊したまま、内火艇攻撃訓練、航空機3機
による在泊艦への攻撃および防空訓練を行なったが、
あとは次の訓練の準備や整備だけで中休みの日とな
った。また参加していた“澤風”が揚錨して、単艦
で佐世保へ帰港した。
10日(土)5日目
この日は、各艦艇の自主に任せる単独訓練となった
。
第21駆逐隊の“初春”と“子日”も、昼ごろには佐
世保へ帰っていった。あれだけ多数の艦艇で賑やか
であった寺島水道泊地は水雷艇3隻と“龍田”の4
隻のみとなってしまったのである。
また“友鶴”に“龍田”座乗の司令官鈴木義一少将
が巡視のため、予定の1000に来艇したので艇長以下
軍装略授のうえ緊張して少将を出迎えた。ひと通り
の儀礼と巡視が済むと狭いながらも士官公室で茶を
飲み歓談となった。
11日(日)6日目
この日も単独訓練だったが、日曜日であったから実
質の休みであった。非番の乗員は上陸して、つかの
間の時間を楽しんだ。また4隻の力自慢の豪傑たち
による相撲チーム戦と個人戦の大会が行なわれると
、乗員も村人も大いに盛り上がり、娯楽のない村は
しばしの賑わいを見せた。
やがて1600過ぎには上陸員はすべて帰艦したが
、その後の装載艇の揚収時には、すでに南からの風
が強まっていたので作業には大変苦労することにな
る。
12日(月)7日目
訓練最終日、この日は夜間の訓練で3項目の訓練
を実施することになっていた。(1)防雷具曳航前路掃
海 (2)攻撃訓練 (3)照射訓練である。順調にいけば
夜明け前に全訓練が終了し、佐世保にそのまま帰投
する予定となっていた。
(つづく)
(もりなが・たかあき)
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【著者紹介】
森永孝昭(もりなが・たかあき)
1949年2月26日、佐世保にて誕生
1972年、長崎大学水産学部卒業
1972年、神戸、広海汽船 航海士
1982年、甲種船長免状(現:1級海技士)受有
1983年、佐世保重工株式会社 ドックマスター
2009年、定年、常勤嘱託ドックマスター
2020年、非常勤嘱託ドックマスター 現在に至る
実績:233隻の新造船試運転船長。延べ約6300隻の
操船(自衛艦、米艦、貨物船、タンカー、コンテナ
船、客船、特殊船など)
現在:一般財団法人 日本船渠長協会会員
過去の外部委嘱:西部海難防止協会専門委員、佐世
保水先人会監事
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