配信日時 2022/02/02 20:00

【海軍戦略500年史(36)】 太平洋戦争への道  堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の三十六回目。

戦略なき国防体制

国力を無視した非科学性

自組織の目的達成のため他組織と抗争する

・・・・

本連載の記事を見ていると、
国家が危うくなるのは、
上から下方向への悪影響の波及が主因であることが
よくわかります。

戦略レベルのミスは、下位レベルで取り返すこと
ができないということです。

こういう経験も、
同じ過ちを二度と起こさないための資産として徹底
的に分解して養分化し、しゃぶりつくしてその後
に活用する必要があります。

ただ、所謂戦後日本型エリートや秀才、国民にとっ
てこの種の工程は、極めてむつかしい学習のようです。

さっそくどうぞ


エンリケ


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海軍戦略500年史(36)

太平洋戦争への道

堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

 いよいよ太平洋戦争です。陸海軍は、戦争突入前
の最後の国防方針を立てますが、それは非現実的な
ものでした。

 無条約時代に入り、日本はアメリカとの国力を超
えた軍備拡張競争を行ないます。作戦は時代遅れの
漸減邀撃作戦一本槍です。日本は追い詰められた状
況のなかで無謀な開戦を決意したのでした。


▼現実離れした帝国国防方針─第三次改訂

 日本の国防政策が第二次改定の時から混迷しはじ
めていたことはすでに述べた。日本は1932年に
満州国を承認したが、この頃にはソ連が極東の軍事
力を急速に増強しつつあったので、陸軍は北方の脅
威を除いた後に南方に進出する「まず北進、そのあ
と南進」を海軍に提案してきた。これに対して海軍
はあくまで「北守南進」を前提とした南進策に固執
した。無条約時代に入った海軍としては、対米軍備
を早急に完成するための南進策という面もあったた
め、陸海軍の主張は平行線をたどった。
 
 国防方針の改定にあたって、満州事変の結果とし
て想定敵国が増えたことに加え、対一国戦と対数国
戦、短期決戦と長期持久戦の問題がまたも焦点とな
った。陸海軍は基本的にそれまでの主張を繰り返し
対立が続いたため、陸軍側の主導者であった石原莞
爾参謀本部第2課長(作戦)は海軍との調整をあき
らめて以後は部下に任せ、要求した陸軍の所要兵力
が認められることを条件に国防方針の第三次改定が
成立した(1936年)。日本はこの第三次改定で
太平洋戦争に突入することになる。
 
 第三次改定の「基本方針」は、短期決戦を基本と
して開戦初動の兵力を大きくすることを重視し、ア
メリカ、ソ連、中国、イギリスを想定敵国として「
所要兵力」へのつなぎとなっている。長期戦への覚
悟と準備には一言触れているのみである。「用兵綱
領」は、短期決戦思想を示して、それぞれの想定敵
国と単独に戦う場合の作戦目的と作戦要領の骨子を
示している。この改定は、主敵を米ソ同等として、
所要兵力に陸軍の要求を取り入れた以外は、対一国
戦、短期決戦という海軍側の考え方が色濃く反映さ
れた現実離れしたものだった。

 国防方針の改定と並行して、「国策大綱」が陸海
軍、外務省、大蔵省の合意で定められた。このよう
に政軍間の合意ができあがったのは初めてで画期的
なことであったが、問題は内容にあった。

国策の基準は南進に重点があるとも南北併進ともと
れるような玉虫色であったが、外交方針は北進に重
点がおかれ、整合されていなかった。このことは陸
海軍の軍備についても同様で、陸軍の対ソ軍備と海
軍の対米軍備をそれぞれ併記したに過ぎないものだ
った。また国防方針は、複数国との持久戦争となる
時代にあって、一国に対する短期決戦の構想が示さ
れただけだった。このことは、その後の対外政策の
展開のなかで致命的な欠陥となってあらわれること
になった。
 
▼海軍の軍備構想

 海軍は、西太平洋において今後10年間は対米比
率7~8割を保持できる軍備として、戦艦12隻、
空母10隻、巡洋艦28隻など約130万トンの艦艇と、
基地航空65コ隊(戦時1,402機)などの兵力を保有
するとした。いうまでもなく、漸減邀撃作戦を成功
させるための戦力量だった。しかし、この対米比率
の算定は、日本は軍縮条約に拘束されずに増強する
一方で、アメリカは条約下の整備ペースを維持する
という都合の良い前提でなされており、重大な誤算
を含んでいた。

 この所要兵力を整備するための「第三次補充計画
((3)計画)」は1937年度に着手したが、その前の
(2)計画は造船能力の限界と友鶴事件や第四艦隊事
件に伴う多数の大改装工事が立て込んでいたため、
すでに1~3年遅延していた。

いずれにせよ、(3)計画の目玉は大艦巨砲の象徴と
もいえる超ド級戦艦「大和」「武蔵」の建造であり、
アメリカにパナマ運河の拡幅または太平洋専属の大
型戦艦の建造を強要することを狙ったものだった。
これは隻数で太刀打ちできない日本が英米の最新戦
艦を圧倒するために一点豪華主義で建造した艦隊決
戦派の新兵器だったが、結果的に「無用の長物」と
なったのは戦史が証明することになる。

▼アメリカに引き離された軍備拡張競争

 日中戦争が拡大するなか、アメリカではローズヴ
ェルト大統領がファシズムに対抗できる軍備の必要
性を訴えて「新ヴィンソン海軍拡張計画(第二次ヴ
ィンソン案)」に署名し(1938年)、大々的な海軍
拡張に乗り出した。この計画が予定の1941年に完成
すると戦艦24隻、空母8隻を含む190万トン、航空
機3,000機の大海軍に膨れ上がり、(3)計画下の日本
海軍の対米比率は64%まで低下することが見込まれ
た。
 
 年々緊張感が増し、恐怖の均衡に駆り立てられた
日本海軍は「昭和14年度海軍軍備充実計画((4)計
画)」を策定し、1931年度スタートの(1)計画以来
最大の軍拡計画がスタートすることになった。この
計画は「大和」型戦艦2隻を含む80隻32万トンの艦
艇を1944年度までに、航空機1,511機を1943年度ま
でにそれぞれ整備し、対米比率を8割に戻すはずの
ものだった。
 
しかし、(4)計画は非力な国力に加えて日中戦争の
泥沼化で無理に無理を重ねた計画であり、たとえば
航空機の生産を達成するには、その前の(3)計画の
「大和」「武蔵」の建造を中止しなければ成り立た
ないものだった。
 
 アメリカでは(4)計画に対抗して「第三次ヴィン
ソン案」が承認され(1940年)、その直後には壮大
な「スターク計画」が可決された。これは、当時の
日本の年間GNPを1割近く上回る100億ドルを投入し
て1946年までに艦艇を7割増強し、航空機1万5,000
機を整備するという途方もないもので、太平洋で日
本と、大西洋で独伊との二正面作戦が可能になるま
さに「両洋艦隊案」であった。この計画が完成すれ
ば、(4)計画が完成した1944年の日本海軍と1946年
のアメリカ海軍の比率は43%にまで低下することに
なる計算だった。
 
 日本海軍はこの後、(5)計画を策定しようとする
が、すでに軍備拡張競争の勝負は明らかで、開戦を
迎えるのは(5)計画着手前の計画段階のことだった。
 
▼時代遅れの漸減邀撃構想と「新軍備計画論」

 海軍が必死に取り組んだ軍備増強は、30年前に
一路ウラジオストクを目指すバルチック艦隊を対馬
海峡で邀撃撃滅した日本海海戦をそのまま対米戦に
引き写したものだった。これは広大な太平洋を隔て
て対峙する日米艦隊とは条件が全く違う上、主力艦
中心の艦隊決戦は起こりにくくなっているという海
軍戦略の変化を見落とした時代遅れのものだった。

この原因のひとつとして、海戦要務令が時代遅れで
艦隊戦術をミスリードしたとの指摘がある。海戦要
務令は海軍最高の戦術規範として天皇の允裁(いん
さい)を仰いで公布され、海軍参謀の虎の巻であっ
た。その初版は米国留学から帰国した秋山真之大尉
の「海戦に関する綱領」を取り込んで1901年に
公布され、その後、八八艦隊の整備、日英海軍軍事
協約、ジュットランド海戦の教訓、航空機や潜水艦
の発達などを受けて太平洋戦争開戦までに4回改定
された。

 1920年代頃までは、海戦要務令の説くところ
が最高の戦法であったと思われるし、戦術の固定化
が戒められてもいたが、時代が下り、海軍のドクト
リンとして画一的に教育されるなかで硬直化が進ん
だ。また、要務令の改定は海軍戦術の進歩に後れが
ちで、艦隊決戦に大きな比重を置いていたため「艦
隊決戦要務令」といわれていたほどだった。
 
1930年頃には航空戦力が進歩してきたが、海戦
要務令(航空戦の部)の草案が作成されたのは19
40年のことであり、結局、太平洋戦争に間に合わ
なかった。この草案では全体の半分が航空決戦に充
てられており、奇襲索敵の重視、空母の分散配備、
敵空母の攻撃は爆撃によるのを例とする等としてい
たが、ミッドウェー海戦(1942年)ではことご
とくこの逆を行なって歴史的な大敗を喫したのだっ
た。

結果的に海戦要務令は日本海軍の戦略、戦術思想を
画一的に縛り、より重大な過ちはこれに基づいて軍
備をしたことであった。漸減邀撃作戦での艦隊決戦
を唯一の目標としていたから、艦隊はそれを目標と
して建造されたのだ。
 
 邀撃構想の問題については、当時から航空関係者
を中心に個別に指摘されていたが、航空本部長であ
った井上成美はより包括的に「新軍備計画論」とし
てまとめ、海相に提出した(1941年)。その要
点は次のとおりである。
 
・航空機の発達により主力艦隊同士の決戦は絶対に
起こらない。
・十分な航空兵力があれば戦艦でも皆沈めることが
できる。
・空母は脆弱だが、陸上航空基地は不沈なので基地
航空兵力を中心にすべきである。
・対米戦は太平洋の島々の争奪戦が主作戦になるこ
とを断言する。
・基地の要塞化を急ぎ、主力艦を犠牲にしてでも基
地航空兵力を整備充実すべきである。
・第2に海上交通の確保のため海上護衛兵力を、第
3に潜水艦を充実すべきである。
 
 この意見は、太平洋戦争の実際の推移を予言した
ともいえる卓見であったが、開戦を直前に控え、す
でに手遅れというしかなかった。しかも、島の基地
航空兵力が「不沈」だとしても機動力のある敵の固
定目標となりうる。この欠点を補うために一連の島
々に隙間なく「海のマジノ線」を作ったとしても広
大な海域では容易に迂回され、陸のマジノ線の運命
を逃れることはできないだろう。

そもそも当時の日本の貧弱な基地建設能力では井上
が考えるような基地建設は不可能であり、第4艦隊
司令長官となり南洋諸島防備にあたった彼自身が能
力の不足に驚き、苦労した点でもあった。また、実
際にも基地建設途中で米軍に奪われたガダルカナル
島を奪回するために航空消耗戦に引きずり込まれ、
日本は戦力を回復できずに国力の限界に達したのだ。

▼進化したレインボー計画

 対日戦争計画オレンジ・プランは、1938年ま
で改訂を繰り返したが、第二次世界大戦直前、連合
国対枢軸国の枠組みを前提とした新しい戦争計画と
して一連のレインボー計画が承認された。このうち
欧州戦線を優先し同盟国とともに対日戦を戦う計画
が「レインボー No5」であった。真珠湾攻撃の
直後、この計画にもとづいて英米首脳間で合意した
のがドイツ打倒を優先する連合国統合戦略計画「A
BC-1」だった。

 真珠湾攻撃で戦艦部隊を失った米海軍の反攻は遅
れ、フィリピンとグアムは放棄せざるを得なかった。
米海軍はオーストラリアを反撃の根拠地と考え、
ハワイ~サモア~オーストラリア連絡線の防衛に全
力をあげる。その後のミッドウェー作戦で日本海軍
は完敗し、引き続く大消耗戦の後、米軍が島伝いの
渡洋反攻を始めると旧オレンジ・プランのシナリオ
どおりの展開となっていった。おそらく事前の想定
と異なったのは、マッカーサーの南西太平洋作戦と
日本の特攻作戦であっただろう。
 
 日本海軍が艦隊決戦一本槍だった一方で、アメリ
カはマハン流の艦隊決戦から脱皮して、広大な海域
における海洋総力戦を航空兵力と海兵隊による水陸
両用戦により海から陸を屈服させる戦い方に進化し
ていたのだ。

▼無謀な開戦へ

 開戦2か月前の1941年9月、山本五十六連合艦隊
司令長官は永野修身軍令部総長に対して、戦備の不
備はあるものの初期の段階では「相当なる戦」がで
きると確信していること、しかし間違いなく長期戦
となり戦争継続は次第に困難となり、国民生活は非
常に窮乏するため、第三者としての立場からは、そ
のような成算の小さい戦争は為すべきではないとの
意見を吐露している。
 
 しかし、日本海軍は開戦を決意した。その理由は、
日米間で日を追って戦力の格差が広がってゆくこ
とに加え、石油の枯渇に象徴される戦力の「立ち枯
れ」の問題があったからだった。1941年7月、日本
の強引な南部仏印進駐を契機に、アメリカはついに
日本の生命線ともいえる石油の全面禁輸を打ち出し
ていたのだ。同年9月の石油備蓄量は940万バレルで
あり、2年足らずしかもたない計算だった。こうし
た追い詰められるような状況のなかで、結果的には
山本五十六を含めて戦を急ぐことになった。
 
 これより先、開戦13か月前の1940年11月、海軍大
臣は遅れている戦備計画を促進するために出師(出
兵)準備を発令している。しかし、この出師準備は、
実際には開戦時においてさえ完成せず、特に弾薬、
魚雷などの充足率は1~3割に過ぎなかった。苦し
まぎれに不足していた航空用魚雷を艦船用魚雷から
転換しようとしたが、かえって魚雷の生産が数か月
間も全面的に停止してしまうなど戦時生産体制はあ
まりにもお粗末だった。

また、開戦直前に算定した(5)計画完成のための所
要資材のうち、鋼材は70%、アルミが50%、ニッケ
ルは15%しか取得の見込みがなかった。このような
海軍内の問題に加えて、陸軍と海軍との物資取得を
めぐる「分捕り合戦」はまさに「無政府状態」(戦
史叢書『海軍軍戦備』(1))というべき状況とな
っていた。

 1941年11月、天皇に拝謁した嶋田繁太郎海相は、
「海軍大臣として、総ての準備は完了したと考える
か」と問われ、「人員、物資は十分に整備を終わり、
大命の下るのをお待ちいたしております」と奉答し
たのだった。
 
確かに戦争資材の不足とは裏腹に、猛訓練に明け暮
れる連合艦隊の士気、練度は極めて高く、その戦力
はかつてないほど高まっていた。しかし累次の戦備
計画に示された460隻にのぼる艦艇は1944年度を待
たねば完成せず、3,000機もの航空機は1943年度に
ならなければできあがらない「仕掛かりの戦力」で
あり「虚の戦力」であった。日本の国力で十分な戦
備を整えるには余りに時間が足りなかったのだ。

(つづく)
 
 
【主要参考資料】

高木惣吉著『私観太平洋戦争』
(光人社NF文庫、1998年)
https://amzn.to/3ogIb1D

森本忠夫著
『魔性の歴史 マクロ経済学からみた太平洋戦争』
(文藝春秋社、1985年)
https://amzn.to/3KXkvsN

戦史叢書「海軍軍戦備(1)昭和十六年十一月まで」
(朝雲新聞社、1969年)

寺部甲子男『「帝国海軍と海戦要務令(上・下)」
(『波濤』6-5~7)

黒野耐著『日本を滅ぼした国防方針』
(文春新書、2002年)
https://amzn.to/3obk2cY

外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』
(原書房、1979年)
https://amzn.to/3nzAnrD









(どうした・てつろう)


◇おしらせ
2021年11月号の月刊『HANADA』誌に、
櫻井よしこさん司会による「陸海空自衛隊元最高幹
部大座談会」が掲載されています。岩田清文元陸幕
長、織田邦男元空将とともに「台湾有事」「尖閣問
題」について大いに論じてきました。

月刊Hanada2021年11月号
https://amzn.to/3lZ0ial



【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。


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発行:
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