こんにちは。エンリケです。
『海軍戦略500年史』の三十五回目。
記されている「戦間期英国」の事例は
極めて重要ですね。
歴史で同じことは繰り返されないが、
よく似たことは繰り返し起こる
と聞いたことがありますが、
まさにそういう感じがします。
さっそくどうぞ
エンリケ
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海軍戦略500年史(35)
無条約時代と海軍航空の発展
堂下哲郎(元海将)
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□はじめに
ドイツではヒトラーが登場してヴェルサイユ体制
が崩壊、海軍軍縮条約も破棄されて無条約時代に入
り際限のない建艦競争が始まります。こうした国際
情勢の悪化に対して戦間期の国防政策は柔軟に対応
できたのでしょうか。ここではイギリスの国防政策
の対応状況をみてみます。
また、戦間期には海軍航空が発展し第二次世界大戦
での主力となるのですが、その革新がどのように起
きたのか、英米日三国の例を取り上げます。
▼ヴェルサイユ体制の崩壊と無条約時代のはじまり
軍縮会議での各国の対立は解けず、脱退国も出る
などしたため、1930年代になると軍縮条約の効果は
低下してきた。1933年になると日本は国際連盟から
脱退、ドイツもヒトラーが政権の座につき軍縮会議
および国際連盟から脱退し、ヴェルサイユ条約軍事
条項を一方的に破棄して再軍備宣言を行なった
(1935年)。
ヒトラーは対英戦を意図していないことを示すため、
イギリスに海軍協定の締結を提案した。ドイツに
対して宥和政策をとっていたイギリスは、再軍備が
始まったばかりの独海軍の艦艇と潜水艦の保有トン
数をそれぞれイギリスの35%と45%に制限する個別
協定を結んでしまった(英独海軍協定、1935年)。
イギリスにしてみれば、日本がすでにワシントン
条約の破棄を通告(1934年)してきているなかで、
ドイツの海軍軍備が自国にとって大きな脅威になら
ないように足かせをはめ、軍拡競争の相手を減らす
ことができるのだから悪くない話であったし、海軍
軍縮体制を維持するための苦肉の策ともいえた。
しかし、イギリスには大きな脅威にならなくても、
ワシントン条約によって主力艦をイギリスの35%に
制限されているフランスには大きな脅威となった。
フランスはイタリア海軍に加えてヴェルサイユ条約
のくびきを脱したドイツ海軍の増強にも対抗する必
要が出てきたため、単独で2正面戦争を戦うことも
覚悟して主力艦の大量建造に着手した。
また、ドイツけん制のため英仏伊はストレーザ同盟
を結んでいた。イギリスは英独海軍協定について仏
伊に対する事前の協議をしなかったため、両国のイ
ギリスに対する不信感からこの同盟は短期間で崩壊
してしまった。イギリスは、軍縮協定を国際政治上
の政略として利用し自ら墓穴を掘った形となったの
である。こうしてヴェルサイユ体制は崩壊した。こ
の日、ヒトラーはレーダー海軍総司令官に対して「
わが生涯で最良の日」と語ったという。
このような情勢のもとロンドン条約の規定にもとづ
いてイギリスは第2次ロンドン会議を開催するが
(1935年)、比率主義に固執する英米側と「国防安
全感の平等および不脅威不侵略」の原則でその打破
を主張する日本との対立は折り合わず日本は会議か
ら脱退、イタリアもエチオピア侵略のため脱退した
ため、米英仏の3国のみで協定に調印した(1936年)。
日伊の脱退により、英米両国は条約の「エスカレー
ター条項」を発動して制限を緩和した艦艇の建造に
着手して軍縮条約は失効し、世界は際限のない建艦
競争の時代に突入する。
▼無条約時代における日本海軍の軍備増強
日本は、軍縮会議で軍備の大縮減を主張したが顧み
られなかったため、1936年末をもって軍縮条約から
の離脱を決めた。この時の海軍勢力は日本が約70万
トン、アメリカ約80万トン、イギリス約100万トン
であった。
無条約時代となり、日本は他の海軍国と同様にそ
れまでの制限を超えた軍備の増強を図るが、なかで
も第一に取り組んだのは戦艦の対米保有比率の向上
だった。もはや隻数では対抗できないので個艦の能
力向上を図ることにし、「大和」「武蔵」を含む4
隻の世界最強の巨大戦艦を補充計画で建造すること
にした。「大和」は、その1隻で航空機1,000機が
作れるとの強い反対を退けて起工されたものの、就
役してわずか4年後には航空主兵の時代の到来を日
本海軍みずから真珠湾で証明することになる。
軍縮会議で抑えられていた潜水艦も、補充計画によ
り開戦直前までに65隻9万9,000トンが建造された。
これらの潜水艦は邀撃漸減作戦において敵主力艦を
攻撃するためのものであり、猛訓練の結果、潜水艦
の用法は完成の域に達したと考えられた。しかし太
平洋戦争において潜水艦部隊はほとんど見るべき戦
果を上げられなかった。それは行動能力において潜
水艦は水上艦艇に大きく劣り、主力艦攻撃という用
法にそもそも無理があったこと、また、哨戒機の発
達により潜水艦の行動が大きく制約されるようにな
ったことが原因だった。
戦艦や潜水艦に加えて戦間期を通じて大きく躍進し
たのが海軍航空戦力であり、特に日本海軍では艦隊
主力との決戦に先立って航空撃滅戦が想定されてい
たため、零式戦闘機(1940年採用)を登場させるな
ど海軍航空の増強に力が注がれた。
▼戦間期におけるイギリス再軍備
大戦終結後の「平和の配当」を求めがちな状況の
なかで、次の戦争に備えなければならない戦間期の
国防政策の運営は容易ではない。この点に関してイ
ギリスの例は我々に多くの示唆を与えてくれる。
第一次世界大戦で100万人近い戦死者を出したイ
ギリスでは、再び大陸の戦争には巻き込まれないと
の決意が圧倒的な世論となり、イギリス内閣は3軍
の軍備計画の前提として、次の10年間は大戦を戦わ
ず遠征軍も派遣しないという「10年ルール」を定め
た(1919年)。このルールは実質的に1934年まで継
続された。
この方針は大戦後の財政危機を乗り切るには国防
上のリスクといえども受容せざるを得ないとの考え
から決定されたもので、軍の士気や軍需産業への影
響についてはほとんど考慮されていなかった。また、
国際情勢も世界恐慌、満州事変、ヒトラーの登場、
軍縮会議の不調など悪化の方向にあったが、世論へ
の配慮もあり一度決めた方針はなかなか変更されな
かった。
ようやく変更されたのは1934年のことで、日独両
国との戦争に備えるため、累積した国防態勢の問題
を解決するために「第一次欠陥是正計画」が策定さ
れ、5カ年をかけて空軍の増強を優先することとさ
れた。その後も情勢の悪化が続いたため1935年には
「第二次欠陥是正計画」、1936年にはついに「再軍
備計画」に発展した。第二次世界大戦勃発の2年半
前のことである。
1937年には国防目的に特化した国債の発行が認めら
れたが、軍備増強は増税せずに歳入の範囲内ででき
る規模にとどめ、軍需生産体制も平時ベースで全力
を挙げることにし、それ以上の計画は1939年に国際
情勢に応じて再検討することとされた。
1938年になると情勢は急迫し、ドイツのズデーテ
ン進駐に伴う「ミュンヘン危機」に際して、英軍は
多くの欠陥を露呈したため国防態勢の全面的検討が
行なわれ、財政的制約を緩和して改善を急ぐことに
なった。当面は防空態勢の不備是正が急務とされた
が、海軍も掃海艇と護衛艦艇の不足が明らかになっ
たので、それぞれ100隻ほどを建造することにな
った。軍需生産は戦時体制がとられるようになり、
懸命の増産を図ったが、艦艇建造では熟練工の不足
に加えて装甲板と大砲の生産能力に重大な不足が生
じて建造のネックとなってしまった。
このようにイギリスの再軍備は長期にわたる怠慢
のツケで、国家的危機が現実のものとなってからの
死に物狂いの泥縄式となってしまった。その原因は、
世論におもねた政策、財政的制約、そして軍需生
産能力の制約であったことは明らかだ。
国防態勢は、平素から即応態勢を維持するのが理想
ではあるが、実際にはきわめて困難で非効率なこと
も多いだろう。したがって、平時における必要最低
限度の即応態勢の確保と一定のリードタイムをもっ
て増強される態勢の組み合わせになるのが普通であ
る。情勢の悪化に対して泥縄式になってしまった戦
間期のイギリスの例は、適当なリードタイムを確保
する的確な情勢判断と緊急時の増強に即応できる態
勢を平時から確保することの難しさを示している。
▼戦間期における海軍航空戦力の発展
第一次世界大戦での教訓から、各国は戦艦を中心
とした艦隊の整備に莫大な資源を投下した。海軍軍
縮でも主力艦が主なターゲットとなったのはその証
左でもある。第二次世界大戦の海戦における主役は
戦艦ではなく空母部隊になるのだが、戦間期の主要
国海軍では将来の航空機や空母部隊の将来性に確信
が持てず、軍縮の影響もあり空母への資源配分は非
常に難しかったのが現実だった。
海軍航空戦力に着目していた日米英のうち、十分
に戦力化できたのは日米のみであり、日本海軍は太
平洋戦争開戦当初のハワイ作戦でその有効性を証明
して西太平洋で圧倒的な優位に立ったが、実際に航
空機中心の海軍に移行したのはむしろ米海軍のほう
であった。
▼イギリスの海軍航空
空母を世界で最初に実用化したのは英海軍であり、
第一次世界大戦直後に空母「ハーミス」を就役させ、
その後も追加建造して、日米をリードしていた。イ
ギリスは1918年に陸海軍の航空部隊を独立させ空軍
の創設を決定したのだが、この時に航空機の開発生
産や教育訓練など関連するすべての権限が空軍に集
中させられ、海軍のパイロットも空軍に移籍してし
まった。
イギリスは、進水前の客船を改造して世界初の全通
甲板を有する空母「アーガス」を就役させ(1918年)、
海軍航空部も再建されたが(1921年)、1927年まで
海軍士官が部隊を指揮することはなく、海軍部内に
おける航空出身者の影響力は限られたものであり、
海軍航空の発展を妨げた。こうした組織的な理由に
加えて、イギリスの戦間期の戦略環境からは通商保
護が第一とされ、空母は単艦で艦隊に配備され巡洋
艦などとともに海上交通の保護を任務とされていた。
こうした状況を受けて第二次世界大戦の開戦時(19
39年)の艦載機は性能の劣るものが200機あまり
しかなく、同時期の日米とは大きく引き離されてい
た。
▼アメリカの海軍航空
空母を開発したのがイギリスなら、停泊中の巡洋
艦の仮設甲板を使って初めて艦艇から航空機を発着
艦させたのは米海軍である(発艦1910年、着艦1911
年)。初期の海軍の航空機は洋上偵察や戦艦の弾着
観測用に用いられていたため、米海軍では離着水す
る水上機を艦上クレーンで上げ下ろしする水上機母
艦が建造された。艦上から水上機を射出するカタパ
ルトが実用化されると(1915年)、すべての戦艦と
巡洋艦に装備され弾着観測に活躍した。大艦巨砲主
義の時代、航空機はあくまでも砲戦の補助的な存在
だったのだ。
第一次世界大戦では、航空機は陸上の航空基地か
ら発進して船団護衛や潜水艦捜索にも用いられるよ
うになる。開戦時のアメリカは、航空機54機とパイ
ロット43名を擁するのみだったが、終戦時には航空
機2,000機以上、飛行船15機、パイロット3,049名に
拡大していた。
英海軍における空母の発達に触発され、米海軍で
も海軍航空の増強がはじまる。イギリスと同様、空
軍を独立させ海軍航空もその一部とすべきとする議
論があったが、空母の将来性を重視する海軍大学校
長のシムズらはこれに反対して、海軍航空を海軍内
にとどめることに成功する。
米海軍は、のちに「海軍航空の父」と呼ばれるモ
フェット少将を長とする航空局を創設し(1921年)、
空母部隊の建設と運用構想の形成に重要な役割を担
わせた。また、航空出身者に上級指揮官のポストが
用意されたため、彼らの海軍部内における影響力も
増大していった。
米海軍最初の空母は、給炭艦を改造した「ラングレ
イ」であり(1922年)、主に実験艦として用いられ
た。本格的な空母の建造は、ワシントン海軍軍縮条
約の制限を受けて建造中の巡洋戦艦を改造した「レ
キシントン」級空母2隻(1927年)として実現した。
この空母は120機もの搭載機と33ノットという高速
を活かして空母と艦載機の運用方法の開発に重要な
役割を果たすことになる。
米海軍では1923年から1940年にかけ21回の大規模
な艦隊演習(フリートプロブレム)が行なわれ、さ
まざまなシナリオのもと空母の作戦への活用法が研
究された。1930年代には高速の空母と艦載機を攻撃
に活用する戦術が進歩してきたため、戦艦部隊から
独立した空母機動部隊として行動させる新たな運用
方法も考案された。
しかし当時はまだまだ大艦巨砲主義が主流であり、
空母の隻数も少なかったことから、従来の戦艦中心
の部隊の一部として空母を運用すべきとの意見が支
配的で、空母の潜在能力を十分に発揮させられずに
いた。皮肉にもこのような課題を一挙に解決する契
機となったのは日本海軍の真珠湾攻撃(1941年)で
あり、米海軍の戦艦群が一挙に撃沈された一方で空
母は無傷だったため、米海軍を航空中心の海軍へ急
速に変革させる結果になった。
▼日本の海軍航空
日本海軍も早くから航空戦力に着目しており、太
平洋戦争開戦時の真珠湾攻撃を成功させる空母機動
部隊の建設に成功した。この原動力になったのは砲
術出身の山本五十六であり、航空機の将来性に早く
から関心を示し、大佐になって海軍航空に直接関わ
るようになった。山本はロンドン軍縮会議からの帰
国後、海軍航空本部技術部長として主力艦の「劣勢
比率」を補うために条約の制約を受けない航空戦力
の増強に邁進する。
1932年には海軍航空敞が設立され、山本は「国産、
全金属、単葉機」を海軍機の条件として民間航空機
メーカーを競わせ、優秀な航空機を開発する体制を
敷いた。高性能の航空機が登場し、航空戦術の進歩
とあいまって艦艇に対する有力な攻撃兵力として認
識されるようになったのは、この頃からである。
日本初の空母は「鳳翔」(1922年就役)であり、
当初から空母として建造された世界最初のものだっ
た。八八艦隊計画では「鳳翔」より一回り大型の空
母2隻が予定されていたが、ワシントン軍縮条約を
受け、巡洋戦艦「赤城」と戦艦「加賀」を空母に改
造(それぞれ1927,1928年)したため、いきなり巨
大な空母が誕生したことになる。これは米海軍にお
いても同じで、「レキシントン」級2隻とともに世
界の四巨艦と称された。
日本海軍は1928年には世界初の航空戦隊を編成し、
上海事変(1932年)では「鳳翔」の艦載機が日本海
軍航空史上初の空中戦を戦い、支那事変(1937年)
では済州島や台北に展開した攻撃機が上海、南京に
対する渡洋爆撃を敢行、1940年には零式戦闘機が中
国戦線に投入され大戦果を収めた。太平洋戦争開戦
前には中国での作戦を打ち切り、主力空母6隻(編
成当初は4隻)からなる航空艦隊(空母機動部隊)
を編成した(1941年)。
このように急速に発展してきた海軍航空であった
が、依然海上兵力の根幹は戦艦であり海軍力の象徴
として「無形の効果」を持ち、たとえ戦闘機1,000
機でもこのような効果は望めないとの考え方が日本
海軍の支配的な考え方であり、当時の世界の海軍に
共通したものだった。
(つづく)
【主要参考資料】
中村悌次「第一次、第二次両大戦間における英国国
防政策の教訓(1)」『波濤』(戦術同好会、62.3)
福井静夫著『日本空母物語』(光人社、2009年)
https://amzn.to/3KFTjib
塚本勝也「戦間期における海軍航空戦力の発展-山
本五十六と軍事革新」『戦史研究年報第七号』(防
衛研究所、2004年)
八木浩二「アメリカ海軍における空母の誕生と発展」
田所昌幸、阿川尚之編『海洋国家としてのアメリカ』
(千倉書房、2013年)
https://amzn.to/3nXaQsp
池田清「シーパワーと軍縮」
『世界の艦船』1987.4
外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』
(原書房、1979年)
https://amzn.to/3nzAnrD
(どうした・てつろう)
◇おしらせ
2021年11月号の月刊『HANADA』誌に、
櫻井よしこさん司会による「陸海空自衛隊元最高幹
部大座談会」が掲載されています。岩田清文元陸幕
長、織田邦男元空将とともに「台湾有事」「尖閣問
題」について大いに論じてきました。
月刊Hanada2021年11月号
https://amzn.to/3lZ0ial
【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。
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