配信日時 2022/01/19 09:00

『陸軍工兵から施設科へ(17)】 気球から航空機へ 荒木肇

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荒木さんの最新刊

知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
警務隊で修練されている「逮捕術」を初めて明らか
にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
れました。

そのため、最高水準の逮捕術の技の連続写真が実に
多く載っています。それだけでなく、技のすべてを
QRコードを通して実際の動画をスマホで確認できる
のです!

自衛隊関係者、自衛隊ファン、憲兵ファンはもちろん、
武術家、武道家、武術ファンにも目を通してほしい
本です。

『自衛隊警務隊逮捕術』
 荒木肇(著)
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こんにちは。エンリケです。

「陸軍工兵から施設科へ」第17回です。

気球のはなし。徳川大尉といえば陸軍航空兵科創設
の立役者の一人。航空兵科といえば鮮やかな青の襟
賞、という印象です。

さて<工兵に関する最高官衙(かんが)>とは何だ
と思いますか? 記事読めば、軍事史の知識がまた
一つ増えますよ。


さっそくどうぞ。


エンリケ


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陸軍工兵から施設科へ(17)

気球から航空機へ

荒木 肇
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□はじめに

 オミクロン株が大流行、さまざまな情報があふれ、
「専門家」のお話ばかりが精選されずに垂れ流さ
れていると言うとお叱りを受けそうです。大変なの
は医療体制のひっ迫、医療関係者の方々の窮状でし
ょう。重篤化された方や亡くなった方々には申し訳
ないのですが、列国と比べるとずいぶん安心できる
状況とわたしは思います。
 
 心配なのは、またまた引き締めがされて、親しい
人たちと飲食を共にできないこと、ゆっくりと話し
合えないことです。わたしは小学生の頃、「雨ニモ
負ケズ」で有名だった宮沢賢治さんの伝記を読みま
した。そのときに心に残ったことは、賢治さんの次
の言葉です。

「わたしは人が食事をしているのを見ると、その人
を決して憎めなくなる」というものでした。正確で
はないかもしれませんが、他人と飲食をすることの
大切さをよく表していると思うのです。「生物とし
ての宿命」を負うわたしたちは、食事をするときに
はほんとうに無防備であり、他人に飾り立てた自分
を見せなくなります。

 ローマ時代に、飲食を共にしながら話し合う、そ
れがシンポジウムの言葉の起こりだと聞きました。
他人と会話しながら、食事を摂る、これができなく
なってからどれだけ経ったのでしょうか。このこと
による、他者との関係について心配になっています。

 さて、今回は工兵と航空の関係です。

▼代々木原の快挙

 1910(明治43)年12月19日、徳川好敏
(とくがわ・よしとし)工兵大尉と日野熊蔵(ひの・
くまぞう)歩兵大尉が、エンジン付きの航空機で
空を飛びました。場所といえば、渋谷区代々木公園
です。いまも「航空発祥の地」という碑が建ってい
ます。アメリカのライト兄弟の初飛行から7年後の
ことになりました。

 徳川工兵大尉は、その苗字から分かるように、日
本史教科書を読めば必ず出てくる徳川御三卿、一橋
(ひとつばし)伯爵家の嗣子(しし)に生まれまし
た。1884(明治17年)「華族令」が制定され
た時に、紀伊・尾張・水戸の御三家は、それぞれ侯
爵になり、御三卿といわれた清水・田安・一橋家は
同じく伯爵を授与されました。徳川宗家は公爵です
から、序列は厳しいものです。

 ところが、華族家の中には生活に困って、格式を
保てないということから爵位を返上する家もありま
した。徳川大尉は父親が1899(明治32)年に
爵位を辞退したために華族ではなくなったのです。
大尉は1884(明治17)年生まれですから、高
等師範附属中学校(現在の筑波大学附属高校)に在
学中のことでした。陸軍士官学校を目指して、士官
候補生第15期生として卒業します。兵科は工兵で
した。

 日野熊蔵歩兵大尉は1878(明治11)年、九
州の人吉出身。相良中学出身で、熊本英学校で学び
陸軍士官学校第10期生として卒業、歩兵第2聯隊
で任官します。銃器や兵器に関心が高く、1904
(明治37)年には「日野式自動拳銃」を発明しま
した。

 地下鉄代々木公園駅で降りて、公園西門から入っ
て南方向へ歩くと、碑と2人の胸像があります。

▼フランス製気球・工兵第一方面に

 わが陸軍も気球には高い関心をもっていました。
まず、西南戦争(1877年)に使おうとしますが、
偵察用の軽気球がなかなかうまく行かず、実戦には
間に合いませんでした。気球を連絡用に使おうと考
えたのは、普仏戦争(1870~71年)でパリに
籠城するフランス軍がドイツ軍に囲まれた中を気球
で友軍に連絡をとったということからでしょうか。

 もちろん、連絡用だけでなく、敵の手が届かない
高度から周囲を偵察することはひどく便利なことで
ありました。1891(明治24)年のことです。
研究員をフランスに送ろうということになり、パリ
のヨーン軍用気球製造所から完成品一式を買い上げ
ました。

 国内に持って来られた気球とその繋留車、ガス発
生機などは当時の「工兵第一方面」に渡されて野戦
用繋留気球として研究を続けることになります(『
日本の軍用気球』佐山二郎氏・光人社NF文庫)。
この工兵第一方面とは何か。調べてみると、187
9(明治12)年の「陸軍職制」をみると、砲兵方
面、工兵方面という言葉があります。

 その文書を読むと、「砲工二兵は、おのおのその
管地を分けて、兵器弾薬の貯蔵、建築の作業を区処
する」とあります。各方面はその兵科の大佐、もし
くは中佐を「提理」として砲兵は武器弾薬庫を管理
する、工兵は方面の中の工事を指導・監督させると
いうのが概要説明です。

 そうして1889(明治22)年の「工兵方面条
例」をみると分かりました。「工兵方面は要塞(よ
うさい)堡塁(ほうるい)砲台及附属営造物の建築
修繕監視その他の、これに関する工兵事業をつかさ
どる」とあり、工兵方面は2つに分けるとありまし
た。

 第一方面は本署を東京に置いて、第1、同2、同
3師管と北海道を管轄する、第二方面は本署を大阪
に置いて、第4、同5、同6師管を管轄するとあり
ます。東日本の工兵に関する最高官衙(かんが)で
あったわけです。要塞などの建造物は工兵、そこに
置かれる備砲や兵器は砲兵方面が担当するといった
ことが分かります。


▼陸軍工兵会議と気球隊

 今度は工兵会議です。1896(明治29)年に
は航空機の研究が必要だとされました。なお、航空
機とは気球、飛行船やエンジン付きのもの、グライ
ダーのような無動力なものすべてを含みます。

 工兵会議とは、1891(明治24)年の条例に
ありました。工兵器具材料、国防に関する工兵事業
と工兵の教育や技術について審議・議定する組織で
す。議長は工兵監でした。あくまでも会議ですから
官衙ではありません。ただし、陸軍大臣に直隷し、
その諮問に応じる組織です。

 会議はきたる日露戦争に備えて研究を始めます。
1902(明治35)年参謀本部は気球隊の編制を
定めました。初めは気球隊を鉄道隊に付ける計画で
したが、独立隊になります。ただし、管轄者は近衛
師団長となり経理や衛生を統括されました。

 平時の気球隊は1個隊だが、戦時動員では3個隊
になる。平時にはガス製造所を設ける。平時の気球
隊には毎年、全国の工兵大隊から士官3名を分遣す
る。気球に関する学術を修めたこの士官たちは戦時
の要員となる。動員された気球隊は、野戦気球隊と
ガス縦列で編成される。縦列とは中隊規模の支援部
隊です。戦時の気球隊は、凧(たこ)式気球2個、
球状気球1個を保有する。

 気球隊の指揮官は工兵中(少佐・大尉でも可)佐
、それに工兵中(少尉も可)尉2名、曹長1名、軍
曹8名、上等兵9、1・2等卒が60名でした。ま
た、輸送員という運搬専門集団がいます。砲兵下士
1名と同上等兵4、同1・2等卒32名、砲兵輸卒
が6名です。これに隊付の看護長(衛生下士)、看
護手(のちの衛生上等兵)、計手(経理部下士)、
馬卒が各1名ずつ、合計で定員は129名でした。

 この下につくガス縦列は工兵中尉もしくは少尉の
長と下士4名、兵卒20名、輸送員その他が49名
の合計73名でした。つまり気球隊は212名にな
りました。

 車輌がまた興味深いです。輓馬4頭でひく気球車
1輌、ガス管車6輌(各4頭の輓馬)、そうして汽
動轆轤(ろくろ)車が2輌(輓馬各6頭)、これに
炭水車1輌(輓馬4頭)です。
汽動ですから蒸気機関、炭水車がついているはずで
した。轆轤は上昇した気球を降ろすためのものです。


次回は工兵の戦いの一部、日露戦争の気球隊の様子
を知りましょう。
 



(つづく)


(あらき・はじめ)


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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
 

『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
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