配信日時 2022/01/19 20:00

【海軍戦略500年史(34)】 国家戦略の喪失とロンドン海軍軍縮条約 堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の三十四回目。

とくに第一パラグラフの内容は非常に重要と感じます。

頂門の一針という言葉がありますが、
今日の記事はまさにその言葉に値する内容と思います。


さっそくどうぞ


エンリケ


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海軍戦略500年史(34)

国家戦略の喪失とロンドン海軍軍縮条約

堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

 今回はワシントン体制の成立を受けて、日本の戦
略がどのように変化したかを「帝国国防方針」を中
心に見ていきます。

国防方針の第二次改定は何が問題だったのでしょう
か。日本の国家戦略が迷走するなかで、加藤友三郎
が死去し、海軍のなかでも当時のマスコミのいう「
艦隊派」と「条約派」が対立し、ロンドン海軍軍縮
条約に臨みます。


▼「帝国国防方針」第二次改定──国家戦略の喪失

 ワシントン体制の成立により、日英米の協調によ
る新秩序が一応できあがった。日本がこの体制にあ
わせて抑制的な国家戦略をとる限りは米英は味方で
あり、仮想敵国はソ連、中国となるはずだった。

しかし、ワシントン体制を受け入れて、幣原外相の
もと「協調外交」を行なった政府と異なり、軍はワ
シントン体制を一時的な妥協と認識し、日本の海外
権益を維持拡大するそれまでの構想を放棄しようと
しなかった。また、海軍内では日米必戦論の軍令部
に対して日米戦一時回避論をとる海軍省が対立し、
陸軍内でも方針の対立があった。国家戦略をめぐる
政府と陸海軍それぞれの思想的違いは、国防方針の
もとになる国家戦略についての合意を作り上げるこ
とを困難にしていた。

 こうしたなかで1923年、国防方針が陸軍参謀
本部と海軍軍令部主導で改定された。この第二次改
定では、仮想敵国の第一がアメリカに改められ、次
いでソ連、中国とされた。また、構成も「国防の本
義、国防の方針、情勢判断、想定敵国、結論」の5
項目に変更されたが、なかでも重要な変更は、それ
まで第1項として明確な国家戦略が示されていたの
が「国防の本義」という抽象的内容に変更されたこ
とである。

 これは第二次改定の根本的問題だった。南守北進
か北守南進かで陸海軍はまとまらず、中国本土なし
では資源が確保できず陸海軍ともに困る。結局、陸
海軍が合意できる国家戦略は、東アジア全域に日本
の権益を追求することになってしまう。しかしそう
するとワシントン体制の考え方に反し、政府の考え
とは大きくかけ離れてしまうので、国家戦略とこれ
を実現するための政戦略を省略してしまい、陸海軍
間で合意できる作戦構想と所要兵力を実質的な中身
とする国防方針に単純化、矮小化することになった
のだ。

 その結果、「基本方針」には「国防の本義」とし
て国際協調、戦争抑止が「建前」として記述され、
いきなり「一朝有事に際しては、国家の全力を挙げ
て敵に当り、速に戦争の目的を達する」と短期決戦
の考え方を示したあと、作戦構想の骨子が盛り込ま
れただけの内容となった。

 このことは、初度制定の時の「国家戦略-戦略-
作戦用兵-所要兵力」という基本的な構成から逸脱
して、政戦略を一致させるという国防方針の最も重
要な役割のひとつが失われたことを意味した。

▼国防政策の迷走の始まり

 第二次改定の「用兵綱領」では漸減邀撃構想のほ
か、陸軍作戦について中国大陸での「対数国戦」に
代わって「対ソ一国戦」「対中一国戦」が別々に示
された。総力戦についても、「海外物資の輸入を確
実にして国民生活の安全を保証し、以て長期の戦争
に堪ふるの覚悟あるを要す」という一文が示された
だけだった。

 このように第二次改定では、第一次改定で示され
た長期の総力戦を重視する考え方から、むしろ初度
制定(1907年)の短期決戦思想に逆戻りした。
これは長期戦であれば国力の差から対米戦は回避す
べきとなるところを、短期決戦であれば開戦時の決
戦兵力さえ準備できれば対米戦も可能という判断に
なりやすい危険性を秘めたものだった。

また、日米戦は否応なしに米中ソ三国との戦争にな
る可能性を情勢判断の中で示していたが、陸軍がこ
の点を海軍に指摘すると、軍令部は日本の能力は対
一国戦が限界なので、対数国戦にならないようにす
るのは政治家の責任として、対米一国戦を強引に構
想の基本にしてしまった。これは海軍に限ったこと
ではないが、現実の情勢判断や見積りを軽んじて国
防方針を軍備充実の理屈づけとして用いる傾向が強
まった。

大正末期に行なわれた第二次改定は、昭和にかけて
日本の国防政策が迷走を始める出発点となった。そ
の原因は、国防方針に国家戦略を明確に示せなくな
ったこと、そして作戦構想が総力戦の時代に入った
にもかかわらず短期決戦という現実離れしたものに
なったことである。そもそも国力が乏しい日本が米
英をはじめとする列強国群と戦うことは全く無理で
あり、国家戦略はワシントン体制の枠内で米英と対
立しない範囲に抑制しなければならなかったのだ。


▼漸減邀撃構想
 アメリカを主敵にした第二次改定の用兵綱領では
漸減邀撃構想を次のように示した。海軍は開戦後す
みやかに東アジアにいるアメリカ艦隊を制圧すると
ともに、陸軍と協力してフィリピン、グアムのアメ
リカ海軍の根拠地を破壊する。その後、アメリカ海
軍の主力部隊が東アジア方面に進出するにしたがっ
て、その途上において勢力を漸減し、機をみて我が
主力艦隊をもってこれを撃破する。
 
 この構想は日本海海戦での完勝という成功体験に
もとづくもので、ミクロネシアに展開させた潜水艦
による反復襲撃の後、小笠原とマリアナ諸島西方で
巡洋艦や駆逐艦で夜戦を仕掛ける二段構えの邀撃作
戦により敵主力を日本側の7割以下に漸減させた上
で決戦を行なうというものだった。

その決戦海面は、日露戦争後は小笠原諸島付近と想
定されていたが、第一次大戦後に南洋諸島を獲得し
たことで、そこから陸上攻撃機を発進させ米艦隊を
攻撃する構想が生まれ、さらにトラック諸島を艦隊
泊地として活用することでマリアナ諸島付近まで大
きく東に移動した。

▼オレンジ・プランの進化

 対するアメリカの対日作戦構想であるオレンジ・
プランは、フィリピンとグアムに対する日本の奇襲
と攻勢、消耗戦とアメリカ軍の反攻、日本封鎖とい
う3段階からなっていた。

第2段階からは大西洋艦隊を回航して戦力を集中し
て渡洋反撃を開始し、第3段階でフィリピンとグア
ムを奪回し、ここを反攻拠点として日本本土に進攻
、日本艦隊を撃破し制海権を獲得、海上封鎖して経
済活動をマヒさせる「飢餓作戦」で降伏させるとい
うもので、日本の漸減邀撃構想の裏返しのようなも
ので両者はかみ合っていた。

 しかし、第一次世界大戦、日本の南洋諸島の領有
、パナマ運河の開通、艦船燃料の石炭から重油への
転換、航空兵力の発達などを背景として対日作戦構
想は変化する。

まず、グアムの要塞化と十分な陸海軍兵力の前方配
備が検討されたが、巨額の費用とワシントン海軍軍
縮条約で西太平洋の現状維持が取り決められたこと
から採用されなかった。また、日本の先制攻撃に対
して大西洋艦隊が来援次第、即時反攻するという「
マニラ直行便」も検討されたが、航空兵力の発達で
来援兵力の到着まで西太平洋を守り切れないことが
明らかになりこれも放棄された。最終的に、海兵隊
を活用してハワイから中部太平洋の島々を飛び石伝
いにフィリピンへ反攻する構想が採用された。

このミクロネシアの島々を水陸両用戦で奪って島伝
いに日本本土に迫るという新しい戦い方を「海兵隊
作戦計画712D」(1921年)として具体化さ
せたのが米海兵隊のエリス少佐であり、以後海兵隊
はひたすら両用戦能力の向上に努め、部隊編成、装
備、ドクトリンなどを進化させていった。これは軍
縮のたびに「不要兵力」として削減されがちだった
海兵隊の存在理由を証明しようとするものでもあり
、対日戦反攻の主兵力として重視されるようになる
と海兵隊は増員、拡充された。

日本海軍はアメリカ海軍が島を前進基地として活用
する可能性を認識していたが、小笠原やミクロネシ
アに艦隊のための港湾、支援施設や要塞の建設はほ
とんど行なわなかった。これは委任統治や太平洋防
備制限条項を遵守したというよりも、そもそも艦隊
決戦一本槍で正面装備を重視する日本海軍の体質と
いうべきで、開戦までのミクロネシア方面の部隊の
増強や前進基地の建設も緩慢だった。

▼「導火線」となった海の「生命線」

 第一次大戦後に日本が委任統治を託された南洋群
島をめぐる状況はどうだったのか。統治が始まって
しばらくはおおむね平穏に経過したが、1920年
にフィリピンとグアムの中間にあるヤップ島をめぐ
って事件が起きる。同島には海底電信線の中継所が
あったのだが、日本が占領直後に電信線を遮断した
ため、アメリカが同島を国際管理下に置くべきと主
張したのだ。交渉の結果、日本の統治を認める代わ
りにアメリカは電信線を自由に使用できることにな
ったが、互いを仮想敵としていた日米間の対立が垣
間見えた事件であった。

 のちに満州事変をきっかけに日本が国際連盟から
の脱退宣言(1932年)をすると平穏な南洋群島
に転機が訪れる。連盟脱退に伴い南洋群島の委任統
治の受任国としての資格を失うのではないかという
声が上がり、海軍が「海の生命線」というキャンペ
ーンを映画、書籍、歌謡曲などで展開したのだ。

 海軍省が発行した国民向けの啓蒙冊子『海の生命
線』(1933年)は、「南洋群島が不幸敵に利用
されたら、飛石伝いに敵は我本土に近寄るであろう
。その時は西太平洋から帝国海軍の威力が失われる
であろう。砦が陥り壕が埋められては本城は到底持
ち耐えることが出来まい」と書いて、南洋諸島の重
要性を訴えている。まさにエリス少佐の作戦構想を
「予言」したかのようなキャンペーンであった。こ
うした海軍の心配をよそに、実際には日本の統治は
強い反対もなくそのまま続けられ、太平洋戦争期に
は島民人口の倍の日本人移民が生活していた。

 日独伊三国同盟が締結されると(1940年)、
南洋群島がドイツから日本に譲渡された。そもそも
ドイツは同群島に執着していなかったのだが、日本
海軍が軍事基地化を欲しているという「価値」に気
づくと、海軍の首脳陣から英米協調派が一掃された
タイミングで海軍を揺さぶり、日本をナチスドイツ
との軍事同盟へ引き込むのに使ったのだ。海軍は、
アメリカ艦隊を攻撃する航空機、艦艇の出撃基地と
するために本格的な飛行場や港湾施設の建設を始め
るが、島の要塞化は進まなかった。艦隊決戦一本槍
の海軍は、キャンペーンでは「海の生命線」といい
ながら、太平洋の戦いが島の争奪戦になることに真
剣に備えてはいなかったのだ。

 アメリカは、ハワイとフィリピンの連絡線を遮断
する形で軍事基地化される日本の南洋群島を脅威に
感じ、日本もまたアメリカの南洋群島に対する野心
を疑い、日米の相互不信を不可避的なものにしてい
った。のちにニミッツは日本が統治する南洋諸島を
「太平洋に張られた巨大な熱帯グモの巣」と呼んだ


やがて太平洋戦争においてアメリカは、島伝いに日
本本土に迫り爆撃機の発進基地を建設し、日本を海
上封鎖し都市を焦土と化した。日本は南洋群島を領
有したがために、結果的に本土からはるか遠くに防
衛線を持つことになり、それがアメリカとの衝突を
招き、「「生命線」は国家を丸焼けにする「導火線
」になってしまった」(井上)のだ。

▼「艦隊派」と「条約派」

 ワシントン体制については加藤友三郎海相らの海
軍主流(「条約派」と通称されたが派閥的な実態は
希薄)が基本的に是認して英米との協調を重視して
いた反面、加藤寛治軍令部次長らに同調する勢力(
通称「艦隊派」)はこの体制を否定し日米必戦の考
えを抱いていたものの、加藤海相の力量で一応の統
一を保っていた。しかし、加藤友三郎が病没し(1
923年)、加藤寛治が軍令部長に就任すると(1
929年)ロンドン軍縮条約を翌年に控えて海軍中
央で両派の意見が対立する。

 「艦隊派」の対米作戦構想は、漸減邀撃構想その
ものであり、対米6割に抑えられた主力艦の不足を
補助艦の増強で補うことが絶対条件と考えていた。
あわせてパナマ運河を通航できない大型戦艦を日本
が保有することにより、アメリカに太平洋正面専属
の大型戦艦の建造を強要して資源を消耗させ、この
間に日本の国力を増進させると考えた。長期総力戦
の時代に1、2回の艦隊決戦で決着をつけられると
考え、アメリカの巨大な建艦能力を甘く見ていた点
で大きな欠陥のある考え方だった。

 「条約派」の考え方の原点は、すでに述べた加藤
友三郎の思想であったが、彼の後継者たちは次の軍
備制限に備えた「軍備制限対策研究」報告書(19
28年)を新たな守勢的海軍戦略として提示した。
それは、極東海面において、英米のどちらか一国が
使用できる海軍力に対抗でき、かつ少なくとも台湾
海峡以北のアジア大陸との交通線を維持するのに必
要な海軍軍備を整備するというもので、長期間の総
力戦を強く意識したものだった。

 それまでの戦略は、戦時に東アジア海域を管制で
きる軍備の建設に努めるが、国力がこれを許さない
場合でも、最小限、本土の防衛、本土と大陸との連
絡保持、南シナ海の保安ができる軍備を保持すると
いうもので、加藤海相が1917年に示して以来、
継承されてきた。

この報告書では、従来の構想から南シナ海の保安を
はずし、管制海域を東アジア海域から極東海域に狭
めていたのだ。管制海域を狭めたことは、日本の生
存上必要な地域を総力戦に必要な資源を満州と中国
本土に求めることを国策としたためであろう。この
ことは、海軍が満蒙を含む中国大陸への発展を国策
として認め、海軍の役割をこれに寄与する日本周辺
の防衛と大陸との交通線確保という守勢的任務に置
いたことを意味し、西太平洋の制海権確保を目指す
「艦隊派」とは明らかに異なる戦略であった。

 しかし、この「条約派」が起案した報告書の内容
は、1929年のロンドン会議に対する訓令案では
、「極東海域」が「西太平洋」に置き換わり、「台
湾海峡以北のアジア大陸との交通線を維持する」と
いう目標が削除されていた。軍令部の首脳が「艦隊
派」に交代したためである。

このような「艦隊派」の行動に対して、「条約派」
は日米不戦の信念を持ちつつもアメリカ海軍に対抗
できる大海軍を建設するという海軍としての組織的
要求に縛られていたため、明確な論理で対抗しなか
った。黒野は、「条約派のかかえた問題は、総力戦
時代に入った海軍が、圧倒的な国力の差から戦って
も勝てないアメリカを主想定敵国として、大海軍の
建設に邁進してきた組織の矛盾そのものであった」
と述べている。(黒野)

 このような問題は陸軍内でも起きていたが、ワシ
ントン体制後の日本の国家戦略についての合意を形
成することなく、国防方針を制定した結果でもあっ
た。この結果、日本は列強に対する一貫性のある戦
略を持たないまま国際的に孤立していくことになる


▼ロンドン海軍軍縮条約

 ワシントン軍縮条約は締結されたものの、イギリ
スは対米パリティを余儀なくされ、アメリカは太平
洋防備制限への不安を抱き、日本は6割という「劣
勢比率」を押し付けられたことなどから、おのずと
各国間で補助艦艇建造競争が激化した。このため、
アメリカの提唱で1927年に第二次軍縮会議が開
催されたが、仏伊の不参加と日米英の対立で行き詰
まってしまう。ワシントン会議で生じた各国間の不
信感が露呈したのだ。

1928年に成立した不戦条約と英米間の予備交渉
(ラピタン協定)が行なわれたことで行き詰まりが
打開され、世界恐慌(1929年)で各国は莫大な
建艦予算の抑制が急がれたこともあり軍縮会議が開
かれ、ロンドン海軍軍縮条約が成立した(1930
年)。これにより、英米日の補助艦比率は「10:
10:7」とされ、日本の主張はおおむね容れられ
たが、仏伊両国の不満は解決されなかったため両国
は条約に参加しなかった。

会議では日米間で再び「7割」か「6割」かで厳し
い折衝が行なわれ、最終的に全体として「6.97
割」で妥結した。当時の日本の財政状況は「国家の
すべての施設を停止して一切の費用を海軍に振り向
けてもなお足りない状況」(戦史叢書)にあり、会
議を決裂に追い込む選択肢はなかったのだ。
 
それでも、またも「劣勢比率」を押し付けられたと
してアメリカに対する敵対意識が増幅されるととも
に、日本国内にも対立を生じさせ、統帥権干犯問題
(1930年)や五・一五事件(1932年)など
の軍縮の波紋を引き起こし、昭和動乱の原点となっ
た。
 
 もう一つの軍縮の余波は、条約対策として重装備
軽量化が行き過ぎ、復元性能や船体強度の不足をき
たし友鶴事件(1934年)や第四艦隊事件(19
35年)を引き起こしたことである。艦艇は新旧を
問わず設計の再検討とそれに基づく改造工事を行な
わなければならなくなり、ただでさえ遅れ気味の建
艦計画をさらに遅らせることになってしまった。



(つづく)
 
 
【主要参考資料】

黒野耐著『日本を滅ぼした国防方針』
(文春新書、2002年)
https://amzn.to/328AMtv

池田清「シーパワーと軍縮」
『世界の艦船』1987.4

井上亮著『忘れられた島々「南洋群島」の現代史』
(平凡社新書、2015年)
https://amzn.to/33nkIVs

外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』
(原書房、1979年)
https://amzn.to/3nzAnrD

石津朋之・ウィリアムソン・マーレー編
『日米戦略思想史』(彩流社、2005年)
https://amzn.to/3tGTV17

青木栄一著『シーパワーの世界史(2)』
(出版共同社、1983年)

戦史叢書『海軍軍戦備』〈1〉



(どうした・てつろう)


◇おしらせ
2021年11月号の月刊『HANADA』誌に、
櫻井よしこさん司会による「陸海空自衛隊元最高幹
部大座談会」が掲載されています。岩田清文元陸幕
長、織田邦男元空将とともに「台湾有事」「尖閣問
題」について大いに論じてきました。

月刊Hanada2021年11月号
https://amzn.to/3lZ0ial



【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。


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