こんにちは。エンリケです。
『海軍戦略500年史』の三十三回目。
今年最初の配信です。
1.加藤友三郎の「矛盾」
宗像さんも指摘されていたことですが、
非常に注目すべき、きわめて重要なポイントではな
いでしょうか?
わが国が大東亜戦争敗戦に至った経緯を把握するう
えで欠かせぬ重要なピースかもしれません。
2,地味だが大切な指摘
<艦隊決戦はほぼ起きないということが明らかに
なるのは20年後の実戦でのことである。>
日英同盟海将前の我が国では、
<イギリスに対する不満>が渦巻いていた
という史眼も、幼稚な歴史理解から脱皮するうえで
地味だが大切な指摘と感じます。
3.「ランチェスターの法則」
記事中で「ランチェスター第2法則」が取り上げら
れています。
経営戦略として知られる「ランチェスター法則」に
ついては、ご自分の会社で採用している経営者の方
もいらっしゃるのではないでしょうか?
そんななじみ深い法則は、現実の世界でどう使われ
たか?の実例もご覧ください。
さっそくどうぞ
エンリケ
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海軍戦略500年史(33)
ワシントン海軍軍縮条約
堂下哲郎(元海将)
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新年おめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
新年第1回は戦間期の話からです。第一次世界大
戦後、敗戦国ドイツには極めて懲罰的な講和条件が
課せられます。その一方で、国際連盟が創設され、
ワシントン海軍軍縮会議が開かれ、アジア・太平洋
地域の枠組みであるワシントン体制ができあがりま
す。
ワシントン海軍軍縮条約をまとめた加藤友三郎の
「矛盾」とはどういうことでしょうか。日米間の対
立は新たな段階へと進みます。
▼戦間期の軍縮──パリ平和会議
第一次世界大戦では、潜水艦、機雷、巨砲、毒ガ
ス、航空機など新しい兵器が登場して戦闘の様相が
一変した。人命の損失も前例のない規模だったが、
艦艇の損失もドイツ海軍290隻、イギリス海軍162隻
などと甚大だった。未曾有の大消耗戦の戦費は各国
の経済に重くのしかかった。
このような大戦の終結を受けて開かれたパリ平和会
議(1919年)で平和と軍縮を求める声に切実なもの
があったのは当然だろう。こうした平和への切実な
願望はヴェルサイユ条約の形となって、ドイツに対
する軍備制限を課すとともに国際的な海軍軍縮の機
運を生み出すことになった。
▼ドイツに対する軍備制限──ヴェルサイユ条約
ヴェルサイユ条約は敗戦国、特にドイツ陸海軍に
対して厳しい軍備制限を課した。新生ドイツ海軍が
保有できる艦艇は、前ド級戦艦6隻、軽巡洋艦6隻、
駆逐艦12隻、水雷艇12隻などとされ、潜水艦や海軍
航空隊の保有は禁止された。また代艦の建造も厳し
い条件が課されたので、艦艇の旧式化、弱体化は著
しかった。さらに参謀本部は廃止、兵員についても
徴兵制を禁止されたうえ1万5,000名以下に制限され、
予備員も確保できないようにされるなど徹底的な弱
化策がとられた。
連合国側はドイツに最低限の軍事力を持たせてソ
連の革命勢力に対する防波堤にしようとしたが、当
のドイツはフランスの脅威に備え、背後のポーラン
ドのけん制などのため、逆にソ連と接近してしまう。
独ソはラパッロ条約(1922年)を結び、軍事訓練の
相互協力やドイツの新兵器をソ連で開発するなどし
た。また潜水艦や航空機関係の人材を、オランダ、
スペイン、フィンランド、日本などに派遣して、そ
の技術の温存を図った。
新たなドイツ共和国海軍の任務は、飛び地となった
東プロイセンとドイツ本土間の海上交通路の確保や
フランスによる沿岸封鎖に対する防衛などであった。
フランスは、後述するワシントン海軍軍縮条約(19
22年)によって主力艦の建造を制限されたため、巡
洋艦以下の艦艇の整備に全力を注ぐことを決めてい
た。
このためドイツ海軍もフランスに対抗して巡洋艦以
下の艦艇を条約の制限内で建造した。ドイツ海軍で
は、1928年計画で「ポケット戦艦」とも呼ばれる装
甲艦「ドイッチュラント」が建造された。これは電
気溶接などで排水量を1万トンに収め、砲力では戦
艦に劣るもののディーゼル機関の採用で戦艦以上の
長大な航続力と高速を発揮するものだった。
▼一般軍縮の試み
条約がもたらしたもうひとつのものは、国際連盟
の創設と連盟規約にもとづく一般軍縮の提唱である。
このため常設陸海軍問題諮問委員会などが設置され
て軍縮についての具体案も議論されたが、各国の主
張が対立し、いずれも成立しなかった。
これに対して、ワシントン条約、ロンドン条約、
英独協定として締結された個別の海軍軍縮交渉は、
一応成立した。その理由は、第一に各国とも建艦競
争の重い財政負担を抑えたかったこと、第二に海軍
軍備は艦種、排水量、備砲などで計量化でき交渉に
なじみやすかったからである。
▼ワシントン海軍軍縮条約──ネイヴァル・ホリデ
ー
第一次大戦後のアメリカの関心は、唯一のライバ
ルとなったイギリス海軍との均勢を保つことと、東
アジアにおける権益を維持するため日本の膨張を抑
制することであった。戦勝国となった日本はドイツ
領であった南洋諸島を獲得して中部太平洋に進出し
たが、このことは米英の警戒感を高めずにはおかな
かったのだ。アメリカは、世界第3位の日本海軍を
抑え、日英同盟の排除を目指した。
イギリスの問題は、財政の窮乏で大戦間に急拡大
したアメリカ海軍との建艦競争を回避することと、
日本の脅威から極東における権益を守ることであっ
た。この頃、日米はそれぞれ「八八艦隊計画」と世
界第1位の海軍力を目指す「ダニエルズ・プラン」
にもとづいて建艦競争を繰り広げていた。イギリス
も早速シンガポールに八八艦隊を配備する計画を立
てるなど建艦競争に対抗する動きをみせた(1919年)。
こうした建艦競争に要する海軍予算は各国の財政を
圧迫し、米英で歳出の2割を超え、日本などは3割
を超えるほどであったため、ハーディング米大統領
が軍縮を呼びかけるに至ったのである。大戦で疲弊
した仏伊もこの提案に賛同し、英米日仏伊の五大海
軍国が軍備制限に関するワシントン会議を開き、お
おむね米原案に基づいて、建造中の艦艇をすべて廃
棄した上で、主力艦保有の比率を「5:5:3:
1.75:1.75」とすることに合意した。補助艦艇の制
限については、巡洋艦の排水量、備砲、航空母艦の
保有トン数などが定められ、その他の協定は再検討
されることになった。
この条約により、「二国標準主義」をとってきた
イギリス海軍が「一国標準主義」に後退し、発展著
しいアメリカ海軍と同列になるとともに、米英両国
が西太平洋における日本の海軍力を認める形になっ
た。また、かつては世界第2位の海軍国だったフラ
ンスは、二流海軍国と見ていたイタリアと同格に扱
われることになり、隣国ドイツが厳しく軍備を制限
されたため、地中海の制海権を争うイタリア海軍を
第一の仮想敵として海軍軍備を整備することになる。
主力艦の比率と同時に、日本の提案により香港を含
む太平洋上の各国要塞およびハワイ、シンガポール
を除く海軍根拠地の現状維持も定められた(要塞化
禁止条項)。このワシントン海軍軍縮条約は1922年
に調印され、有効期限の1936年までの間は建艦競争
も止み「ネイヴァル・ホリデー」の期間に入る。
ただし、条約では巡洋艦の合計トン数については
制限がなかったので、各国とも条約の制限内で可能
な限り高性能な「条約型巡洋艦」を建造したため、
この分野ではかえって建艦競争が激化した。これは
巡洋艦以下の補助艦艇の制限を取り決めるためのロ
ンドン軍縮会議につながってゆく。各国の戦艦など
も公称トン数は制限内に収まっていても実際にはオ
ーバーしていたり、条約後を見据えて巡洋艦用に大
口径砲を砲塔ごと交換する準備を進めていたりと水
面下の建艦競争が続いた。
▼対米7割の根拠──「ランチェスター第2法則」
条約の交渉では、強硬に対米7割を求める日本と、
関係が悪化していたイギリスと開戦した場合に日英
同盟に基づき日英が連合することを警戒して6割を
主張するアメリカが激しく対立した。結局、日本は
要塞化禁止条項などを条件に全権の加藤友三郎海相
の判断で6割を受け入れて決着した。加藤は「国防
は軍人の専有物にあらず」として、八八艦隊が計画
どおり完成しても財政的に維持できずこれ以上の軍
拡に国力がたえられないこと、軍縮に応じることで
仮想敵国との戦力比を固定でき国際平和にも資する
との冷静な判断を下していたのだ。
そもそも日本が対米6割ではなく7割という比率に
こだわった理由は何だったのか。敵味方の勝敗を予
想する数理モデルに「ランチェスター第2法則」が
あるが、これは敵味方の兵力それぞれの2乗の差の
平方根が1会戦後の残存兵力となるというものであ
る。日本海軍は対米開戦時の比率を「10:7」に
したいと考えていた。
数字を当てはめると分かるとおり、米国が全艦隊
「10」のうち半分の太平洋艦隊の「5」と日本の
「7」が会敵すれば、日本側は米側を全滅させて、
さらにほぼ「5」の兵力が残ることになる。これが
「6」だと残存兵力はほぼ「3」に減ってしまう。
またこれとは別に、艦隊は1,000マイル進出するご
とに戦闘力が約10%消耗するという一般論があり、
ハワイから5,000マイルほどの極東海域で会敵でき
れば十分互角の戦いになり得るとの読みもあった。
佐藤鉄太郎が、攻者は防者に対し数的に優位である
べきことを論じて日本海軍の戦術思想に影響を与え
たことはすでに述べた。米国が最初に「オレンジ計
画」を策定し、グレート・ホワイト・フリート(19
08年)が日本に示威をかけた頃なら、フィリピンを
守るために来攻する米艦隊を極東水域で迎え撃つ決
戦シナリオは妥当性があったかもしれない。
しかし、日本海軍がこのシナリオに固執して大艦
巨砲、艦隊邀撃作戦一本槍だった一方で、アメリカ
は艦隊決戦よりも日本と南方との分断、そして本土
封鎖を重視するようになっていった。日米の戦いが
航空機や潜水艦を主役とする局地的な遭遇戦の連続
で、艦隊決戦はほぼ起きないということが明らかに
なるのは20年後の実戦でのことである。
▼ワシントン体制──四カ国条約、九カ国条約
ワシントン会議では、海軍軍縮条約のほか四カ国
条約と九カ国条約が締結され、アジア・太平洋地域
の国際秩序を維持する体制がつくられた(ワシント
ン体制)。
四カ国条約(1921年)は、日英米仏が太平洋地域に
持つ領土や権益を相互に尊重し軍事基地化せず現状
維持を図るというもので、ハワイとフィリピンの間
の中部太平洋の旧ドイツ領南洋諸島を日本が委任統
治領として獲得したことによる脅威論の高まりなど
を背景として結ばれた。有効期間は10年間とされた。
この条約の結果、満期のきた日英同盟はアメリカや
カナダの強い要求で更新されずに破棄された。
日本では同盟国イギリスの不誠実、すなわちパリ講
和会議での人種差別撤廃条項の否決、日本を仮想敵
国としたジェリコ報告の公表、ワシントン条約締結
時の英米が結託しての差別的比率の強制、中国の権
益をめぐる利害の対立などからイギリスに対する不
満が高まっていた。さらに日英同盟の破棄とその直
後に始められたシンガポールの築城に対して「忘恩
の国イギリス」とのイメージが国民に植え付けられ
た。
中国に関しては、日本の対華21カ条要求(191
5年)で中国の反日感情が悪化し、アメリカの警戒
感も強まったが、大戦中は「石井・ランシング協定
」で双方の立場を認め合って争いを回避した。大戦
末期に起きたロシア革命(1917年)に対しては
、連合国側は革命干渉に踏み切り、日本も英米仏伊
とともにシベリア出兵に参加したが、これに対して
アメリカは日本の大陸進出への警戒心を強めた。
九カ国条約は中国の主権を尊重し、門戸開放、機会
均等の原則を承認するというもので、太平洋と極東
に領土を持つ9カ国間で結ばれたが、中国に大きな
影響力を及ぼし得るソ連を含んでいなかった。この
条約で中国における従来からの日本の権益は認めら
れたが、その後の大陸進出には足かせとなった。
大戦の結果、アジア・太平洋地域からドイツ勢力
が消え、疲弊したヨーロッパ諸国の地位が後退する
と、日米の対立が大きく浮上してくるのだが、日本
はワシントン体制のもと国際秩序を維持する「協調
外交」をとる。1920年代は、日本はシベリア出
兵や関東大震災で国力を消耗し、欧米諸国も大戦後
の復興や世界恐慌で戦争どころではなかったのだ。
しかし、群雄割拠状態の中国で国民党の?介石が北
伐を開始(1926年)すると、日本は居留民保護
のため山東省に出兵(山東出兵)し、中国の反日感
情をさらに悪化させる。日本陸軍は総力戦を戦う資
源を得るために満州を武力制圧することを狙ってお
り、関東軍はついに満州事変(1931年)を起こ
し、満州国建国(1932年)、支那事変(193
7年?)に至ってワシントン体制は崩壊する。
▼加藤友三郎の矛盾
加藤友三郎は、日本の国力ではアメリカとの総力
戦を戦えないと判断して、大局的見地から軍縮条約
を締結したことはすでに述べた。ただし彼の考えは、
対米戦を永久に回避するのではなく、軍備を整え国
力を涵養するまでの間、当面戦争を避けるというも
のだった。なぜか?
海軍が日米不戦という立場をとれば、アメリカ海
軍を目標に大海軍を建設してきた自らの存在意義を
否定することになる。国家戦略は米英と衝突する可
能性の小さい「南守北進」となり、日本の国防は「
陸主海従」となってしまい、海軍の目指してきた「
海主陸従」と反してしまう。
さらに、加藤は将来戦を総力戦と認識しながらも、
対米作戦構想は明治末期以来の迎撃決戦という、加
藤寛治らの考える短期決戦思想の枠から出ていない
という矛盾を抱えていた。これでは、艦隊派の対米
作戦構想、所要兵力と同じになってしまう。
黒野耐は『日本を滅ぼした国防方針』において、「
加藤友三郎の思想が総力戦、日米不戦を基本とする
ならば、米英と衝突しない方面への日本の発展を考
え、海洋正面において守勢を堅持する新たな海軍戦
略を構想して提示すべきであった」と指摘している
。
(つづく)
【主要参考資料】
黒野耐著『日本を滅ぼした国防方針』
(文春新書、2002年)
内田一臣「懐かしの海軍」(『水交』12-4)
外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』
(原書房、1979年)
外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』
(原書房、1979年)
平間洋一著『第一次世界大戦と日本海軍』
(慶応義塾大学出版会、1998年)
石津朋之・ウィリアムソン・マーレー編
『日米戦略思想史』(彩流社、2005年)
青木栄一著『シーパワーの世界史(2)』
(出版共同社、1983年)
(どうした・てつろう)
◇おしらせ
2021年11月号の月刊『HANADA』誌に、
櫻井よしこさん司会による「陸海空自衛隊元最高幹
部大座談会」が掲載されています。岩田清文元陸幕
長、織田邦男元空将とともに「台湾有事」「尖閣問
題」について大いに論じてきました。
月刊Hanada2021年11月号
https://amzn.to/3lZ0ial
【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。
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(代表・エンリケ航海王子)
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