こんにちは。エンリケです。
『海軍戦略500年史』の三十二回目。
今年最後の配信です。
年明け最初の配信は12日の予定です。
パクス・ブリタニカ終焉とパクス・アメリカーナへ
の移行は、実に面白く意義あるテーマですね。
米の覇権にはすでに揺らぎが現れてますが、
記事で当時の英の覇権の揺らぎを振り返ると、
非常に興味深いです。
当時のドイツ帝国~ナチスドイツと今の中共がダブ
りますね。
英連邦の諸国が独自海軍を持つようになった経緯も
面白かったです。
また、フィッシャー改革の「兵科・機関科統合」も
地味に響きます。興味深いですね。帝国海軍はつい
にできませんでした。
さっそくどうぞ
エンリケ
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海軍戦略500年史(32)
パクス・ブリタニカの終焉
堂下哲郎(元海将)
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□はじめに
本年最後の連載となります。
新年は1月12日から再開となりますので引き続きよろ
しくお願いします。
読者の皆様の新年のご多幸をお祈り申し上げます。
第一次世界大戦において優勢なイギリス海軍に対
するドイツ海軍の挑戦は敗北に終わりました。日本
は、総力戦の態勢を整えようとしますが、それは英
米との衝突に向かう道となってしまいました。
今回からは第一次世界大戦から第二次世界大戦まで
のシー・パワーや海軍戦略がどのように変化してい
ったかを見てゆきます。最も大きな変化は、パック
ス・ブリタニカが終わり、バクス・アメリカーナが
始まったことですが、それはどのようにして起こっ
たのでしょうか。時計の針を戻して、大戦前の世界
からもう一度見てみます。
▼パクス・ブリタニカの終焉─第一次世界大戦
パクス・ブリタニカの世界は第一次世界大戦で崩
壊した。この大戦は、シー・パワーの観点からみれ
ば、圧倒的に優勢なイギリスに対するドイツの挑戦
であった。イギリスはドイツを封鎖しその植民地を
占領していったが、ドイツは新たに実用化された潜
水艦による通商破壊戦を展開してイギリスを大いに
苦しめた。
しかし、イギリス以外の大海軍国もすべて連合国側
に立ったためにドイツの挑戦は失敗に終わった。イ
ギリス一国の海軍力で世界の海を支配し平和を保障
した時代が終わったのは明らかであったが、それは
この大戦で突如として起きたことではなく、それま
でに衰退に向かうさまざまな変化が起きていた。
▼帝国の拡大と大陸国家の発展
ナポレオン戦争から半世紀が経つと、イギリスの
海洋支配を衰退させる国際環境の変化が起きる。ま
ず、スエズ運河の開通(1869年)でインド洋や南シ
ナ海までの距離が短縮され、イギリスの植民地は世
界中に広がっていった。イギリスは拡大した帝国の
防衛のために多数の艦艇を遠方まで展開させざるを
得ず、本土防衛のためのヨーロッパ大陸に対する影
響力に限界がでてきた。
その一方で、イギリスは伝統的なライバルであるフ
ランス海軍以外にもロシア、ドイツ、アメリカ、日
本といった新興海軍力を相手にする必要が生じた。
こうして次第にイギリス単独での海洋支配が困難に
なったため、後述するように日本やアメリカといっ
た各地域で排他的な影響力を持とうとする国との協
調が必要になってゆく。
産業革命による蒸気船や鉄道の発達もイギリスの海
洋支配に大きく影響した。帆船から蒸気船になると
湾の奥深くまで進入したり大河を遡航できるように
なったため、沿岸の都市などを砲撃しやすくなり、
海軍の影響力を沿岸部から内陸部まで及ぼせるよう
になった。クリミア戦争(1853~56年)、アロー戦
争(1856~60年)、薩英戦争(1863年)、下関砲撃
事件(1864年)などがその例である。
さらに鉄道の発達で沿岸部から内陸部への物資や兵
力の大量輸送が可能となったため、海軍力と鉄道建
設が結びつく形で、イギリスはエジプトやスーダン
侵攻、インド、マラヤ半島そして南アフリカ支配を
進めていった。
このようにイギリス海軍の陸に対する影響力が強ま
った一方で、大陸国家においては19世紀半ば以降、
蒸気機関の発達で鉄道網が拡大して大陸内における
大規模な物資や兵力の移動が可能となり、アメリカ
の大陸横断鉄道(1869年)、ドイツ統一(1871年)
による鉄道発展、ロシアのシベリア横断鉄道(1905
年)などと飛躍的に国力を発展させる契機となった。
こうした大陸国家に対してイギリスの海軍力が影響
力を及ぼせる範囲は限られてゆき、鉄道の発達はイ
ギリスの海洋支配の構図を弱めることになった。
▼二国標準政策とその限界
19世紀後半になると、イギリスが信頼を寄せる海
軍の強大さも揺らいできた。それは、第一に装甲艦
の誕生以来、フランス、ロシアなどのヨーロッパ各
国が急ピッチで建造を進めた結果、イギリス海軍の
優位が相対的に低下したことによる。
ナポレオン戦争までのイギリスは、しばしば複数
の大陸国を相手に戦争をしてきた。一対一なら優位
でも複数の国が敵になった場合には劣勢となる可能
性がでてきた。また、当時イギリスは多くの艦艇を
世界各地の植民地に派遣し、本国海域の勢力は少な
くなっていたのでなおさらである。
第二には、イギリスにとって最大の仮想敵国フラ
ンスが水雷艇を増強して通商破壊戦に重点をおいた
ことだ。イギリスでは食糧の約8割を輸入に頼るほ
ど貿易依存度が高くなっており、フランスはこの脆
弱性を狙ったのだ。これに対して、イギリス海軍は、
あくまでも敵艦隊を封鎖する作戦にこだわる姿勢
を見せたが、小型で発見されにくい水雷艇を完全に
封鎖することは難しく、帆船時代の戦い方が転換点
にきたのは明らかだった。
1880年代に入ると、フランスの軍艦建造のピッチが
速まりイギリスとの差が縮まってきたが、ちょうど
そのころイギリス海軍の有事即応態勢に欠陥がある
との海軍省秘密文書が明るみに出て、海軍を増強す
べきとの声が高まった。
このような背景で成立した海軍国防法(Naval
Defence Act、1889年)は、イギリス海軍の主力艦
の勢力を世界第2位と第3位の勢力を合わせたもの
以上にするというもので「二国標準主義(Two Powers
Standard)」といわれた。この建艦計画は、第2位
のフランス、第3位のロシアの建艦計画が進むにつ
れ拡張、継続され、従来の2倍近くの予算をつぎ込
む建艦競争となったが、水雷艇に対抗する新しい艦
種である駆逐艦も多数建造され、イギリス海軍の地
位を一旦は安定させた。
▼イギリス海軍と新しい戦略環境
しかし、建艦競争は列強国すべてに広がっていった
ため、世界全体の海軍勢力に占めるイギリスの割合
は逆に低下した。この頃出版されたマハンの『海上
権力史論』(1890年)が、各国の海軍関係者や政府
指導者に大きな影響を与え、海軍力増強の理論的根
拠を提供し、世界を大艦巨砲主義の時代へ導く契機
となったことも一因であった。
1890年代からはドイツとアメリカの急速な海軍増強
により、フランスとロシアを想定した「二国標準」
がドイツやアメリカに置き換わる情勢となり、際限
なく拡大を続ける建艦予算はイギリス経済を圧迫す
るようになったため、イギリスは根本から戦略を再
検討しなければならなくなった。
イギリス海軍が最も警戒したのは、三国干渉(1895
年)を行なったロシア、フランス、ドイツの大陸国
家三カ国が連携して敵対してくることであった。独
立戦争や1812年戦争(第二次米英戦争)などの記憶
からアメリカのイギリスに対する警戒感や不信感は
強く、19世紀を通じて米英間は緊張関係にあったが、
これらヨーロッパの大国と敵対するような余裕をな
くしていたイギリスは、アメリカとの和解を模索せ
ざるを得なくなる。
▼パクス・アメリカーナへの移行のはじまり
ヴェネズエラ国境紛争(1895~96年)で英米は戦争
直前の緊張状態までいったが、危機を回避できたの
はイギリス側が譲歩したからであり、その後両国は
友好関係を構築する。イギリスは拡大を続けるドイ
ツ海軍に対抗するために自国海軍の艦艇をヨーロッ
パ海域に集結させるためには中南米で紛争を起こす
余裕はなかったのだ。
イギリスの譲歩の背景には、南北戦争後のアメリカ
の国力の発展で英米間のパワーバランスが変化した
こと、米西戦争におけるイギリスの対米支持とボー
ア戦争におけるアメリカの好意的な中立、そもそも
アメリカが大西洋を越えてイギリス本土を武力攻撃
することは考えにくかったことに加えて、「血は海
水より濃い」というスローガンでアングロサクソン
主義に基づいた英米提携論が浸透したことなどがあ
った。
また、アメリカはイギリスと共にパナマ運河を建設
にすることを決めていたが(1850年)、これはモン
ロー主義を否定するものとしてアメリカ国内で批判
され続けていた。アメリカは米西戦争(1898年)の
勝利を受けて、イギリスに対して同運河の独自建設
を認めさせることに成功する(ヘイ=ポンスファー
ト条約、1901年)。これはアメリカに対するイギリ
スの影響力を排除した象徴的な出来事であり、パク
ス・ブリタニカからパクス・アメリカーナへの移行
の始まりを意味するものであった。
▼「光栄ある孤立」から英仏協商、日英同盟へ
20世紀に入る頃にはアメリカに加えてフランス
やロシアなどの経済が急速に成長し、同時にドイツ、
イタリア、日本などの新興国が帝国主義国家の仲間
入りをし、パクス・ブリタニカの基盤が揺らぎ始め
た。
イギリスは、ドイツによるなりふり構わぬ植民地
獲得や急速な海軍拡張に対して脅威を感じ始めた。
また、ロシアのアフガニスタンや満洲への進出に対
しても対策が必要になった。ここにおいてすでにア
メリカとの協調路線を選んでいたイギリスは孤立政
策を捨て、新興ドイツ海軍の拡張に備えて、積年の
ライバルであったフランスとの対立を英仏協商(19
04年)で緩和し、極東水域では日本海軍との協力の
ために日英同盟(1902年)を結んだ。
▼フィッシャー改革
第一海軍卿のフィッシャー大将は、これらの政策
変更にもとづき、それまでイギリス海峡と地中海に
配備された二つの艦隊(Fleet)と世界各地に派遣
された七つの戦隊(Squadron)を整理、集約した。
ヨーロッパ海域に海峡艦隊、大西洋艦隊、地中海艦
隊の三つの艦隊、ドーバー、ジブラルタル、アレク
サンドリア、ケープタウン、シンガポールといった
イギリスにとって重要な戦略拠点に五つの戦隊を配
備した(1904年)。
この艦隊配備の集約が始まると、海外の自治領や植
民地付近の海域での海軍力が低下したため、イギリ
ス政府は自治領となった地域では自らの予算で海軍
を設立するよう要求した。各自治領はイギリス海軍
の自治領海域の警備について分担金を支払うように
なっていたが、1909年、カナダとオーストラリアが
海軍の創設を決定した。ニュージーランド海軍の創
設は第一次大戦後の1921年となった。
このほか、フィッシャーは兵学校制度の確立、兵科・
機関科の統合、砲術の進歩、艦艇燃料の転換などを
リードし、一連の改革は「フィッシャー改革」と呼
ばれた。戦艦ドレッドノートの建造のリーダーシッ
プをとったのも彼であり、ド級、超ド級戦艦時代の
幕開けとなった。
▼日露戦争後の変化
日本海海戦(1905年)でロシアのバルチック艦隊が
撃破されるとイギリス海軍にとって北海におけるロ
シア海軍の脅威がほぼ消失するとともにフランスも
海軍大国の地位から大きく後退する。
代わってイギリスの最大の脅威となったのは海軍力
を急速に増強し始めたドイツだった。そもそもフラ
ンスやロシアと国境を接しているドイツにとっては、
地上兵力こそが中核的な戦力であり、大規模な海
軍力は不要なはずだった。莫大な予算を使って建設
される巨大なドイツ海軍は、フランスやロシアに対
してというよりも、イギリスに対抗しようとするも
のと考えるのが自然であり、この頃からイギリス海
軍はドイツ海軍を最大の仮想敵国と考えるようにな
る。フィッシャーはイギリスが唯一恐れるべきもの
はドイツとアメリカの同盟であるとして、それを避
けるようにアメリカとの協調を進めてドイツに対抗
してゆく。
▼海洋大国アメリカの発展
第一次世界大戦を経て海洋国家アメリカは大きく発
展し、第二次世界大戦後のパクス・アメリカーナへ
向けて海の世界を変化させた。
第一次世界大戦以前においては、全世界の海上貿易
の約半分をイギリス船が担っており、第2位のアメ
リカ船は1割ほどに過ぎなかった。また、アメリカ
船の多くはイギリスで建造されており、造船業での
世界シェアもイギリスが圧倒的だった。
ところが、第一次世界大戦でイギリスが経済的に疲
弊した一方、戦場にならなかったアメリカは世界の
兵器工場、食糧庫となり、驚異的な経済成長を遂げ
た。海運の面では戦争初期こそ他国船舶に依存して
いたが、1916年に船舶法(Shipping Act)が制定さ
れて国防と商業の両目的にかなった商船隊を建設す
ることがうたわれると、国を挙げての造船所の拡充
に乗り出し、外航船の建造量は23万トン(1913年)
から300万トン(1919年)に急増した。
全世界で大戦中に失われた船舶は約1,200万トンで
あったが、アメリカは900万トンもの船舶を建造し、
1920年には1,240万トンの商船隊を有する大海運国
となった。しかし、依然としてイギリスは世界中に
艦隊の根拠地や給炭施設のネットワークを維持して
おり、それを持たないアメリカにとってイギリスと
の協力関係は重要な意味を持っていた。
▼パナマ運河の戦略的価値
大戦勃発直後に完成していたパナマ運河は、スエズ
運河とともに世界の海上交通に重要な役割を果たし、
アメリカの太平洋と東アジアへの進出を助けた。
同運河により、商工業の中心地である東海岸と太平
洋岸が結び付けられ、マハンが説いた太平洋の海洋
帝国建設の目標が急速に進むことになった。
太平洋世界の支配を目指すアメリカにとって大西
洋と太平洋を結ぶ運河の建設は必須の条件だった。
パナマ運河がなければ、アメリカがフィリピンやグ
アムを維持することはより困難だったし、中国大陸
に対する「門戸開放」宣言も単なる声明に終わった
かもしれない。
そして、戦間期の日米対立の深まりにも間接的なが
ら影響を与えたと考えられる。なぜなら、大戦後の
ワシントン会議を経て日英同盟が廃止されると、東
アジアの既得権益の維持・拡大を図る日本と中国へ
の進出を目指すアメリカとの間で対立が激化したか
らだ。運河の建設が地政学と現実の戦略に影響を与
えたのだ。
パナマ運河の開通によりアメリカの海洋戦略は勢い
を増し、1919年に太平洋艦隊を編成するとハワイの
基地機能や貯油能力が拡充され、従来のミッドウェ
ー島に加えてウェーク島にも通信中継所が置かれた。
いよいよ「両洋艦隊」が実現したのだ。
1922年には、ドイツの敗戦とイギリスの衰退を受け
て米海軍の主力を大西洋から太平洋に移すため、太
平洋艦隊を最大の勢力を持つ戦闘部隊(Battle Force)
と基地部隊(Base Force)に、大西洋艦隊を偵察部
隊(Scouting Force)と制海部隊(Control Force)
にそれぞれ再編した。さらに後述する軍縮条約後の
「ネイヴァル・ホリデー」の間にも再編が行なわれ、
1932年には大西洋側の訓練部隊を除き兵力の大部分
を太平洋側へ集中させた。
のちにドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が
始まると、海軍兵力は太平洋艦隊と大西洋艦隊にバ
ランスよく再配分されて太平洋戦争に突入すること
になる。
(つづく)
【主要参考資料】
青木栄一著『シーパワーの世界史(2)』
(出版共同社、1983年)
田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリ
タニカ』(有斐閣、2006年)
ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 下』
山本文史訳(中央公論新社、2020年)
宮崎正勝著『海図の世界史 「海上の道」が歴史を
変えた』(新潮選書、2012年)
(どうした・てつろう)
◇おしらせ
2021年11月号の月刊『HANADA』誌に、
櫻井よしこさん司会による「陸海空自衛隊元最高幹
部大座談会」が掲載されています。岩田清文元陸幕
長、織田邦男元空将とともに「台湾有事」「尖閣問
題」について大いに論じてきました。
月刊Hanada2021年11月号
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【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。
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(代表・エンリケ航海王子)
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