こんにちは。エンリケです。
『海軍戦略500年史』の三十一回目です。
いまに通じる非常に重要なものの見方が
紹介されています。
自慢話ですが、
本連載もそうですが、実にレベルが高く素晴ら
しく面白い史論を様々な形でお届けできている
メルマガ「軍事情報」を心から誇りに思います。
あらためて、作者、関係者の方々に深くお礼申し
上げる次第です。
さっそくどうぞ
エンリケ
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海軍戦略500年史(31)
第一次世界大戦
堂下哲郎(元海将)
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□はじめに
前回まで日露戦争とその後の日米関係、そして日
本が帝国国防方針を定めたものの南進と北進を併記
せざるを得ず、国家戦略として根本的な問題を抱え
てしまったことを述べました。
史上初の総力戦として戦われた第一次世界大戦です
が、海の戦いはどのようなものだったのでしょうか
? そして日本は、そこから学んだ教訓を国家戦略
に生かせたのでしょうか?
▼消極的なドイツ海軍──要塞艦隊
1914年に第一次世界大戦が勃発した。英仏露
など連合国30か国とドイツを中心とした4か国か
らなる同盟国が、4年半にわたって6,000万人
以上を動員した史上初めての総力戦だった。ドイツ
のまわりには西部、東部、南部、そして海上に戦線
が開かれ、海外植民地は蹂躙され、連合国側の圧倒
的勝利に終わった。
ドイツ海軍は、優勢なイギリス海軍は当然攻勢に
出て艦隊決戦を求めてくるか、少なくともドイツ艦
隊を直接封鎖しようとするだろうと見積っていた。
このためドイツ海軍は、北海沿岸に接近してきたイ
ギリス艦隊を迎撃するため、主力艦をまとめて「ホ
ッホゼーフロッテ(大海艦隊)」として編成して、
北海側ヤーデ湾のヘルゴラント島要塞の防御範囲内
で水雷艇などとともに行動させた。名称とは裏腹に
艦隊を要塞砲で守ろうという消極的な「要塞艦隊」
の用法であるが、皇帝やティルピッツは艦隊を温存
することによって戦後の講和を有利にできるとも考
えていた。
バルト海側には旧式艦を配備して対ロシア戦に備
えさせ、バルト海の出入口にあたる海峡は機雷によ
り封鎖してしまった。陸軍との連携は不十分で、ド
ーヴァー海峡を渡るイギリス陸軍兵力の輸送艦に対
しては妨害を試みようともしなかった。
ちなみに、開戦時に地中海にあったドイツ巡洋戦
艦「ゲーベン」は中立国オスマン帝国へ脱出、同国
に譲渡されてオスマン帝国がドイツ側で参戦するき
っかけとなったが、当時の戦艦の価値を示す出来事
であった。また、ドイツ極東艦隊などは通商破壊戦
に活躍したが、開戦後ほどなく撃破されイギリスの
海上交通路に重大な脅威を与えるには至らなかった
。
▼イギリス海軍による対独経済封鎖
一方のイギリス海軍は、ドイツに対する経済封鎖
とドイツ艦隊の出撃阻止による自国の通商路保護の
ため、主力艦を集めた「グランド・フリート(大艦
隊)」を北海の出口を抑えられる艦隊泊地スカパフ
ローに配置した。そして1914年末には北海を交
戦海域と宣言して臨検態勢を強化するとともに、英
仏海軍でそれぞれ大西洋と地中海を分担して制海権
を強固なものにした。
ドイツは、産業革命を経て一大工業国に発展し物資
の多くを輸入に頼るようになっていたため、主要な
通商路である北海を封鎖されたことにより極めて大
きな打撃を受けた。封鎖は農業生産にも影響を及ぼ
し、1916年冬の配給食料は必要量の1/3に過
ぎず、戦争継続が危ぶまれるほどになった。後述す
るとおりイギリスもドイツ潜水艦による通商破壊戦
で一時は窮地に陥ったが、護衛船団方式の採用など
でかろうじて通商路を維持できたため、その影響は
ドイツに比べると小さかった。
▼ジュットランド海戦
ドイツは優勢なイギリス艦隊は艦隊決戦を求めてく
るだろうと予想していたが、イギリス側としてはス
カパフローに艦隊を配置することで対独封鎖という
任務を達成できたため、ドイツ側の新兵器である機
雷、魚雷、潜水艦などが待ち受ける危険な海域にあ
えて出撃することはなかった。
見込み違いとなったドイツ海軍は、偵察部隊を出撃
させてイギリス艦隊を誘い出し、打撃を与えて戦力
を漸減させるしか方法がなくなったが、暗号を解読
されるなどしてかえってドイツ側の損失が増えるば
かりで、主力部隊による艦隊決戦はなかなか起きな
かった。
そのような状況で起きた両軍の主力による唯一の
海戦がジェトランド海戦(1915年)である。巡
洋戦艦以上だけでも106隻が参加したこの海戦で
は、20ノット以上で運動する両艦隊が1万数千メ
ートルの距離で徹甲弾を撃ち合い、相手艦の厚い装
甲を貫通して炸裂し1~2万トンを超える巨艦が一
瞬のうちに爆沈した。日本海海戦を経て大艦巨砲主
義の時代が始まり、イギリスで近代的な砲術が確立
され、ついに実戦で砲弾が装甲を撃ち破ったのだ。
この海戦の主力になったのは高速の巡洋戦艦であり、
鈍足の戦艦は戦闘に参加する機会さえ与えられな
かった。一方でイギリスの巡洋戦艦は、その防御力
の不足で3隻が爆沈している。将来の海戦では2万
メートルを超える遠距離砲戦となることが予想され
るようになり、巡洋戦艦の高速力と戦艦の攻撃力・
防御力を兼ね備えたポスト・ジュットランド型とい
われる新しい戦艦が登場することになり、さらなる
大艦巨砲化に拍車がかかった。
この海戦以降、両軍主力が積極的に行動すること
はなく、小規模な交戦が起きたのみで、北海におけ
るドイツに対するイギリスの優位、地中海における
オーストリアに対するフランス・イタリアの優位、
バルト海におけるロシアに対するドイツの優位が固
定化し、膠着状態になった。ドイツ海軍は世界第2
位の艦隊を持ちながら、イギリスの制海権に挑戦す
ることはなく、北海で要塞砲に守られて沿岸防備的
な消極的な行動に終始したのだった。
▼潜水艦との戦い
主力艦の戦いが低調であった一方で、大きな戦果
を挙げたのはドイツの潜水艦(Uボート)だった。
ドイツは開戦時に28隻の潜水艦を保有していた
が、当初は補助的な戦力と見られていた。しかし、
開戦早々、わずか1隻のUボートがイギリス装甲巡
洋艦3隻を立て続けに撃沈したことで、一躍その評
価を高めることになった。
ドイツは、イギリス海軍の海上封鎖に対抗してイギ
リス周辺海域を交戦海域と宣言し、潜水艦による無
警告の敵商船攻撃を開始した(1915年)。これ
によりイギリスの大型客船がアイルランド沖で撃沈
され1,000人以上の乗客が犠牲になるという惨
事が起きる(ルシタニア号事件、1915年)。ド
イツはこの事件で強い国際的非難を受けたため作戦
を中断するが、ティルピッツはその再開を強く主張
したため解任されてしまう(1916年)。
ドイツにとって海外貿易に依存するイギリスを効果
的に追い詰める方法は他になかったため、結局96
隻のUボートで無制限潜水艦作戦を再開する(19
17年)。ドイツ潜水艦による通商破壊戦への備え
がなかったイギリスは護衛船団方式を急遽採用し、
アメリカの援助もあってかろうじて破局を回避した
が、1917年前半においてイギリス周辺海域にお
ける制海権の維持は、未曽有の危機に直面したのだ
った。第一次世界大戦を通じて1,280万トン余
りの船舶がUボートの攻撃で失われた。これは新し
い形態の戦争であった。
通商破壊戦以外でも、潜水艦による機雷敷設と魚
雷攻撃は主力艦に対する大きな脅威となった。主要
国の巡洋艦以上の主力艦の喪失を見てみると、砲弾
によるものが24隻であったのに対して、魚雷が36隻、
機雷が16隻と水中武器によるものが大きく上回って
いる。
このように実戦における潜水艦の有効性が証明され
たため、第一次世界大戦後は各国海軍とも本格的な
潜水艦の活用に乗り出し、通商破壊戦に加えて艦隊
決戦の補助兵力として艦隊に随伴する「艦隊型潜水
艦」が発達することになる。
▼アメリカの参戦
第一次大戦に関して、戦争が南北アメリカに及ば
ない限り中立を守るというのはモンロー大統領以来
のアメリカの伝統的な政策であった。しかし、ルシ
タニア号事件で128人のアメリカ人が犠牲になっ
たことをきっかけとして参戦の世論が強まった。地
上戦が長期化するなかドイツが戦局を打開するため
に無制限潜水艦戦を再開すると、ついにアメリカ議
会は参戦を決議する(1917年)。
アメリカは対潜護衛のため駆逐艦を派遣、次いでド
級戦艦5隻をイギリスのグランド・フリートに編入
させた。大戦中のアメリカ艦艇の喪失は少なく、主
要艦艇では装甲巡洋艦1隻と駆逐艦2隻だけだった。
アメリカは連合国の兵器工場の役割を果たし、進
行中のダニエルズ計画を遅らせて戦時計画として駆
逐艦200隻以上を急造してヨーロッパに送り込ん
だ。
▼日本海軍の参戦
日本は日英同盟にもとづいてドイツに宣戦した。
日本海軍はドイツ海軍勢力を太平洋から駆逐する一
方で、陸軍はドイツ東洋艦隊の根拠地である青島要
塞を攻略した。
日本海軍は戦艦など10隻余りを派遣し、南洋群
島の占領、オーストラリア軍のヨーロッパへの輸送
保護、インド洋におけるドイツの通商破壊戦への対
応にあたった。1917年からは、地中海と南アフ
リカ方面の海上交通保護などのために艦隊を派遣し
たが、これはドイツの無制限潜水艦作戦による通商
破壊でイギリスの食糧事情が極度に悪化したことか
ら要請されたものだった。このうち地中海に派遣さ
れた第二特務艦隊は、休戦までの1年半にわたりマ
ルタ軍港を根拠地として単独で実施しただけでも3
50回に及ぶ船団護衛にあたった。
▼学ばれなかった通商破壊戦の教訓
第一次世界大戦は19世紀に起こった戦争の犠牲
者総数の2倍にあたる900万人近くの戦死者を出
す未曽有の大戦争であり、潜水艦、航空機、毒ガス
などが登場し、その戦況は凄惨を極めた。
なかでも潜水艦による通商破壊戦は、総力戦のなか
で新しく出現した作戦の形であった。日本海軍は連
合国軍側に立って戦い、この作戦が島国に及ぼしう
る影響と対応の困難さを体験したにもかかわらず、
戦後その対策がとられることはなかった。代わりに
自らは参加しなかったジェトランド海戦における主
力艦同士の砲戦には十分すぎる注意を向け、教訓を
くみ取ろうとした。
たしかに海軍は臨時委員会などを設置し、海軍の参
考になるものはすべて調査しようとしたが、その重
点は艦船、兵器の近代化、艦隊編成の成果など軍備
計画に関するものに向けられた。これはたまたま八
八艦隊の建設が始まる時期にあたっていたこともあ
るが、島国が総力戦を戦うとどうなるかということ
を学ぶことなく、のちの太平洋戦争でアメリカの通
商破壊戦に息の根を止められる遠因ともなったので
ある。
▼ドイツの敗北と艦隊の最期
1918年夏には地上戦でもドイツの敗色は濃厚
となり、皇帝の退位と革命を求める世論が強まるな
か、ドイツはアメリカに休戦を打診する。ドイツ海
軍は講和条件を少しでも有利にするため、大海艦隊
をテームズ河口に進出させ、イギリス艦隊との決戦
に持ち込もうとした。ところが革命思想と厭戦気分
が広まっていたドイツ艦隊の水兵たちは、これを終
戦間際の無謀な出撃とみて反乱を起こし、ストライ
キに突入した。こうしてドイツ海軍最後の出撃は潰
え、兵士たちの反乱はまたたく間にドイツ全土での
革命へと発展し、ヴィルヘルム2世はオランダに亡
命、ドイツは敗北し第一次大戦は終結した。
連合国側はすべてのドイツ艦艇の抑留を決定しス
カパフローへ回航させたが、ドイツ側は艦艇が返還
されることに望みを抱いていた。しかし、ヴェルサ
イユ条約で潜水艦の保有を禁じられ、戦艦も旧式艦
6隻の保有だけが許されるということが明らかにな
ると、スカパフローのドイツ艦隊は連合国側に接収
される屈辱を逃れるために指揮官の号令一下、艦底
弁を開き一斉に自沈してしまった。世界第二位を誇
ったドイツ艦隊の最期だった。
▼戦争ルールの変化──潜水艦による通商破壊戦
第一次世界大戦では通商破壊戦が勝敗を左右する
重要な戦いとなった。私掠船などによる通商破壊戦
は数百年の歴史があるが、19世紀後半になると世
界的な商船数、貿易量の増加を背景として、中立国
船舶の保護のためのルール作りに関心が高まってき
た。最初の試みは、イギリスとフランスが中心とな
って作られたクリミア戦争後のパリ宣言(1856
年)であり、私掠船を禁止するものだったが、大海
軍国を利し弱小海軍国に制約を課すものとしてアメ
リカは反対した。
さらに中立国船舶や中立国所有商品の保護などのた
めに、船舶の捕獲に厳しい制限と手続きが求められ
るようになった。このようなルールは、世界最大の
海軍力と商船隊を持つイギリスに有利なルールであ
り、その後も第二次ハーグ会議(1907年)、ロ
ンドン宣言(1909年)で補強されていったが、
第一次世界大戦で潜水艦が実用段階になり、ドイツ
海軍が無制限潜水艦作戦を開始したため、もろくも
崩壊することになる。
戦時国際法の規定では、交戦海域を航行する商船を
攻撃する場合、潜水艦は浮上して商船に停止を命じ、
船内を臨検して戦時禁制品積載の有無を調べ、積
載していれば没収するか、乗員を離船・避難させた
後撃沈することになっている。
「無制限潜水艦作戦」とは、イギリスに向かう商船
がドイツの指定する航路を外れて航行する場合に潜
航したままのドイツ潜水艦の無警告の攻撃の対象に
なるというものであり、作戦開始日と対象水域が公
表された。この作戦の実施にはドイツ国内でも異論
が出たが、国際ルールどおりだと潜水艦自身を危険
にさらすことになることに加え、国家総力戦となり
戦闘員と非戦闘員、前線と後方の区別があいまいと
なり、勝利のために最も効果的な戦闘方式をとるこ
とに躊躇しなくなった結果、採用されたものである。
無制限潜水艦作戦は、第二次世界大戦では連合国側、
枢軸国側とも実施した。
パクス・ブリタニカのもと大海軍国イギリスの利害
を反映して作られた19世紀後半の戦争ルールが変
化してゆくのは、海戦の形が変容する歴史の流れで
あったといえる。
▼対潜作戦と護衛船団制度
通商破壊戦で潜水艦が猛威をふるったことで、そ
の対抗手段として潜水艦を探知するための水中聴音
器(ソーナー)や攻撃兵器として爆雷が開発(19
17年頃)され、広く駆逐艦に装備された。
対潜戦術としては、敵潜水艦による被害を防ぐため
に護衛船団方式が採用された。大戦前半においては、
大部分の商船は平時と同様に単独航海をし、兵員、
弾薬などを運搬する船だけに護衛がつけられた。
1916年になると地中海で潜水艦による被害が増
加したため、一部、護衛船団が編成されるようにな
った。
ドイツが無制限潜水艦戦を開始して被害が急増す
ると、イギリス海軍は北大西洋航路に船団を一定間
隔で運航するようになり駆逐艦を護衛につけるよう
になった。アメリカの参戦で多数の駆逐艦が護衛に
加わり、連合軍の船団制度が拡大され船団加入率が
高まると、ドイツ潜水艦による被害は減少した。
潜水艦の脅威の増大に対して新たな対潜兵器や対
戦戦術の開発がなされるという現代に続くシーソー
ゲームが始まったのだ。
▼帝国国防方針への総力戦思想の導入
日本海軍が第一次世界大戦から軍備計画に関する
教訓を得たことはすでに述べたが、国家レベルの教
訓はどのように学んだのだろうか。
第一次大戦に関するさまざまな調査の結果、陸海
軍が共通して提唱したのは、資源や国力に乏しい日
本が総力戦を戦うための国家総動員態勢を基礎とす
る戦備の必要性と、不足する資源を中国に求め大陸
との交通連絡を確保する「日支自給自足体制」を確
立することだった。
それまで「南北併進」で陸海軍の戦略的関心が南
と北に分かれていたが、中国大陸を中心とした東ア
ジア全域を対象として国家戦略を描く共通の基盤が
できたのだ。国防上からの「日支自給自足体制」は
国の経済政策としての「日支経済提携」として推進
され、日本が中国全土において権益の獲得を追求す
る国家目標が政軍間において一致したことの意義は
大きかった。このことは明治四十年に初度制定され
た帝国国防方針との重要な違いであった。
▼国防方針第一次改定──短期戦と総力戦の併存
1918年には総力戦思想にもとづいて国防方針
が見直された(第一次改定)。この国防方針は成案
が残されていないが、黒野耐『日本を滅ぼした国防
方針』の推測によれば、海軍はアメリカ一国だけを
想定敵国としていたのを米ロ中三国を主敵とするよ
うになり、これはロシア一国を主敵としていた陸軍
も同様だった。
当時、帝政ロシアは崩壊して混乱のさなかであり、
アメリカは極東から遠く大兵力の投入は困難、中
国一国では日本に対抗できないため、米中が提携し
て日本と戦い、ロシアがその隙を狙って参戦すると
の見積りであった。極東においては日本と欧米列強
の利害が錯綜していたことから、複数の国を想定敵
国とせざるを得なかったのだ。
そして、日本としては開戦初頭の攻勢により短期決
戦を追求するものの、結局は長期戦とならざるをえ
ないため、必要な地域を占領して自給自足体制を確
立する、その上で所要の方面で決戦を求め、長期間
の総力戦を戦い抜くという、短期戦と長期間の総力
戦が併存した考え方となった。
海軍は、最低限の国防目標を本土の防衛、本土と
大陸との連絡保持、南シナ海の保安に置いた。有事
には少なくとも東アジア海域を管制し、大陸からの
物資の輸入を確保して長期戦を戦い、米艦隊の来攻
を待っておもむろに屈服させるという戦略構想であ
った。
このための海軍の所要兵力は、「八八艦隊」にさ
らに1個艦隊を増強して、3個艦隊(「八八八艦隊」)
を基幹とする途方もないものになった。問題は、
「八八艦隊」すら予算のメドも立っていないのに、
さらに1個艦隊を増加できるのかという点にあった。
1920年度予算では、当時の財政状況、国力に
沿った整備要領を立てることになり、海軍は経過的
措置として「八六艦隊」の建設で我慢すること、陸
海軍間の兵力整備の優先順位を当面は海軍に置き、
海軍の計画が完了する1927年以降に陸軍の計画
を実行に移すことで合意が成立した。これは日露戦
争以降の予算獲得をめぐる陸海軍間の競争、対立の
歴史のなかで、唯一ともいえる大局的見地に立った
合意の成立だった。
▼戦略の拡大と国際的孤立の始まり
日本は総力戦を戦うための具体的な施策として軍
需工業動員法を制定し(1918年)、新兵器の導
入に踏み出した。しかし開始早々、資源が少なく工
業生産能力が欧米列強に比較して劣るという日本の
根本的な脆弱性が浮き彫りになってきた。
この弱点を補うため、日支自給自足体制の確立のた
めの国家戦略の対象地域を中国本土を含む東アジア
全域に拡大することになった。この結果、日本は中
国のみならず、東アジア全域に進出した欧米列強を
すべて敵としかねない国際的孤立のなかに陥って行
くことになる。
この戦略の見直しこそ日本が英米との協調をでき
なくする第一次大戦後における最大の転換点だった。
イギリス、フランスがアメリカの支援によって長
期間の総力戦を戦い抜いたように、日本も英米両国
との連携を保てる限度に戦略を抑制して、新たな戦
争に備えるべきだったのだ。
(つづく)
【主要参考資料】
木村靖二著『第一次世界大戦』
(ちくま新書、2014年)
外山三郎著『日清・日露・大東亜海戦史』
(原書房、1979年)
青木栄一著『シーパワーの世界史(2)』
(出版共同社、1983年)
ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 下』
山本文史訳(中央公論新社、2020年)
宮崎正勝著『海からの世界史』
(角川選書、2005年)
黒野耐著『日本を滅ぼした国防方針』
(文春新書、2002年)
(どうした・てつろう)
◇おしらせ
2021年11月号の月刊『HANADA』誌に、
櫻井よしこさん司会による「陸海空自衛隊元最高幹
部大座談会」が掲載されています。岩田清文元陸幕
長、織田邦男元空将とともに「台湾有事」「尖閣問
題」について大いに論じてきました。
月刊Hanada2021年11月号
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【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。
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