配信日時 2021/12/08 20:00

【海軍戦略500年史(30)】南進か北進か  堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の三十回目です。


政軍間での調整がないまま決定した帝国国防方針。
そこで採用された「南北併進」戦略は、国力を超え
たものであった。

政戦略と陸海軍戦略の不一致は、
我が国を破滅に至らしめた。


二度とこういうことを起こさないよう、
政治と軍事とインテリジェンスは、外野に惑わされ
ることなく、対等に真摯なコミュニケーションをと
り続け、妥当な国防軍事戦略、国家戦略をもち続け
なきゃいけませんね。


なお個人的に

<いざという時の陸海軍を協力させる機能が藩閥の
勢力の衰えとともに弱まった>

というご指摘は、大正期から昭和に至る陸海軍の激
烈ですさまじく異様にさえ見える憎悪、対立の根っ
こにある理由として腑に落ちるものでした。

さっそくどうぞ

エンリケ


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海軍戦略500年史(30)

南進か北進か

堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

 日露戦争で満州を獲得して欧米列強の仲間入りを
した日本は、自国の権益を維持、拡大するための国
家戦略作りに取り組みます。統一した国防方針と戦
後における軍備拡張の根拠となる「帝国国防方針」
を検討しますが、海軍は大陸国家的な発想で国家戦
略作りを主導しようとする陸軍と対立します。

結局、陸海軍の調整はつかず、それぞれが主体とな
る国家戦略を併記せざるを得なくなってしまいます。
つまり、陸軍が主力となる北進と、海軍が主力と
なる南進を合わせた「南北併進」が国家戦略となっ
てしまうのです。これは、日本の国力を無視し、外
交方針など政戦略の調整もされなかったもので、以
後、日本の国家戦略の致命的な問題となってゆきま
す。


▼北守南進から南北併進へ

 1903年、日本の国家方針として「北守南進」が閣
議決定された。これは、桂太郎台湾総督が提出した
「台湾統治意見書」(1896年)がもとになったもの
で、ロシアの脅威を朝鮮半島、日本海以北に阻止し
て日本の安全を確保し、台湾を立脚地として清国南
部に日本の利益圏を作り、これが完成すれば、さら
に南方諸島に発展していくという構想であった。当
時、ロシアが支配する北方よりもイギリスの支配す
る南方の植民地の方が、植民上も通商上も利益が大
きいと認識されていたのだ。

 しかし、日露戦争の勝利で満州を獲得すると、日
本は満鉄を設立し「戦後経営」として大陸の権益の
維持拡大につとめ、国家戦略の議論が進まないまま
満州問題に振り回されるかたちで「北守」が実質的
に「北進」へと変化していった。

また、日本周辺には急迫した脅威がなくなったこと
から、陸海軍が備えるべき軍備の考え方が必要とさ
れた。この点で陸軍の山県元帥は、戦後も本国に強
大な兵力を持つロシアの極東侵略の意図は変わらな
いため、日本は満州に軍隊を駐留させ、鉄道を整備
して軍備を拡張することが必要であると考えた。


▼帝国国防方針の制定

天皇は、山県元帥の進言に基づき、国防方針の統一
と戦後における軍備拡張の根拠となる「帝国国防方
針」の検討を命じた。1907年に制定された帝国国防
方針は、「基本方針」、陸海軍の作戦の指針となる
「用兵綱領」、そして作戦に必要となる「所要兵力」
から構成されていた。その基本方針では、満州と韓
国における利権とアジアの南方と太平洋に広がりつ
つある民力の発展を擁護、拡張してゆくという
「南北併進」という遠大な構想が示された。

 このような構想の背景には、戦後の日本は海外へ
発展すべきという高揚した世論と対立傾向を強める
陸海軍への配慮があった。1872年に陸海軍に分かれ
た後、「海主陸従」か「陸主海従」かの議論があり、
日露戦争直前には海軍軍令部の独立をめぐって激し
く対立したことはすでに述べた。

大陸国家的な発想で国家戦略作りを主導しようとす
る陸軍に対して、後述するように日露戦争で立場が
強くなった海軍が従属的な立場に甘んじることを拒
んだのは当然であった。このような陸海軍が国防方
針を定めるには、それぞれが主体となる国家戦略を
併記せざるを得なかったということだ。つまり、陸
軍が主力となる北進と、海軍が主力となる南進を合
わせた国家戦略が「南北併進」だったということに
なる。

 この国防方針は、実質的に軍が作成し、政府との
協議を欠いたうえに閣議にも諮(はか)られていな
いことから、策定プロセスからいって真に国家戦略
とはいいがたいものだった。さらに西園寺首相は天
皇に対して基本方針は適切なものであると答えてい
るが、北進すればロシアと、南進すればアメリカ、
フランス、ドイツ、オランダ、そして同盟国である
イギリスとさえ衝突する危険性が考えられるものだ
った。さらに南北併進という戦略が日本の国力に見
合ったものかどうか、その妥当性を政府として検討
しておらず、外交方針などとの政戦略の調整もなさ
れていないという根本的かつ致命的な問題が放置さ
れてしまった。

▼「用兵綱領」が軍備拡張の論拠?

 「用兵綱領」に示された海外攻勢戦略は、ロシア
に対する大陸攻勢戦略とアメリカ、ドイツ、フラン
スに対する海洋攻勢戦略からなっていた。大陸攻勢
は、満州方面のロシア軍を撃破した後、戦力を転用
してウラジオストク要塞を攻略するという戦略であ
った。一方の海洋攻勢では、敵の根拠地と艦隊の撃
破の二本柱で考えられており、たとえばアメリカに
対してはその極東艦隊を撃滅し、根拠地であるフィ
リピンを攻略し、来攻する米主力艦隊を迎撃する戦
略を構想していた。

 しかし、この戦略と現実の国際情勢には明らかな
食い違いがあった。当時の国際情勢は、世界的には
日英仏露と独墺伊が対立し、極東では日露と米が対
立していた。したがって、日本が東アジアで備える
べき主敵は米、独であり、ロシアを主敵とする考え
とは乖離している。軍備の重点は海軍となるはずで
あり、戦時50個師団が必要という陸軍の軍備は説
明しにくい。

黒野耐は『日本を滅ぼした国防方針』において、方
針の策定を主導する陸軍が、対露陸軍軍備が後回し
にならないように、現実の国際情勢ではなく地政学
的条件を重視して、極東に大陸軍を投入できる唯一
の国ロシアと大海軍を展開できるアメリカを主敵と
する論理を導入したと推測している。つまり国防方
針制定の目的が、実質的に軍備拡張の論拠とすり替
わってしまったのだ。

▼「八八艦隊」の登場

「所要兵力」について、西園寺首相は天皇に対して
財政状況が厳しいので整備に時間がかかる旨、説明
しているがどんなものだったのか。

 海軍は、東アジアへ来攻するアメリカ海軍に対抗
するために戦艦8隻、装甲巡洋艦8隻からなる八八
艦隊を基幹とする兵力が必要だとした。当時、日本
海軍は対米戦略を完全には確立していなかったが、
日本近海において遠来の敵を迎撃するには最小限の
兵力として敵の7割があれば足りるとの考え方があ
った。アメリカ海軍が日本に向けられる主力艦を2
5隻とすれば、そのおおよそ7割に相当するのが八
八艦隊16隻ということになる。一方、陸軍の所要
兵力は、有事にロシアが極東に展開できる50個師
団と同数の師団を保有するために、平時は25個師
団を保有し、戦時に倍増させて50個師団にすると
いうものだった。

 ちなみにこの「八八艦隊」は佐藤鉄太郎大佐(の
ち中将)が『海防史論』(1907年)や『帝国国防史
論』(1908年)において提示していた艦隊編制だっ
たとされている。佐藤は日本の国力に見合った戦略
的守勢をとるための戦力を構想し、侵攻艦隊は迎撃
艦隊に5割以上の比較優位性を必要とするとの前提
に立って、戦略的守勢に立つ「防守艦隊」は、想定
敵国の艦隊に対して少なくとも7割を確保する必要
があると考えたのだ。

 さらに佐藤は、攻撃力と運動力を特に重視して局
地優勢主義と質によって量を補う「劣勢艦隊」の論
理を展開しているが、このような思想が日本海軍の
提督らに浸透していった。千早正隆は『日本海軍の
戦略発想』において「日本海軍の戦術家と言われた
佐藤鉄太郎中将はエネルギーの法則をもじって、F
orce=1/2MV2  (M:兵力量、V:術力)だとして、劣を
もって優を破るには精鋭でなくてはならないとした。
結論には誤りないのであるが、エネルギーの法則を
十分に検討せずに引用して、実力が1.5倍以上であ
れば大軍にも対抗しうるとしたところに、誤りがあ
ったといわなければならない」と指摘している。

▼国力を超えた帝国国防方針

 ともかくも日本は八八艦隊で大海軍の建設に乗り
出すことになった。ところが日露戦争直後からド級
戦艦の時代に移行したことで戦艦の建造コストはう
なぎのぼりで、膨大な予算確保に難渋する。

しかも建造をつかさどる艦政本部長などの収賄でシ
ーメンス事件(1913年)が起き、海軍建設の立役者
であった山本権兵衛内閣を崩壊させたため、八四艦
隊、八六艦隊と段階的に予算を組まざるを得なくな
り、八八艦隊の予算がようやく成立したのは1920年
で、完成は1927年と見込まれた。

 八八艦隊を建設するための1920年度の海軍費は国
家予算の26.5%を占め、その後も年々増加し、完成
後には40%にも達することが見込まれ、現実問題と
して維持することが不可能で、明らかに日本の国力
を超えた要求であった。結局この計画はのちのワシ
ントン海軍軍縮条約の締結(1921年)で中止となる。

一方の陸軍は、常備25個師団増強のための2個師団
増をめぐって陸軍と内閣が対立し、陸相が辞任して
内閣が倒れるという政変を引き起こした。このよう
な日露戦争後の軍備増強をめぐる問題は、帝国国防
方針に日本の財政能力を無視して陸海軍の要求する
兵力を単に書き並べた結果であり、日露戦争を増税
と公債で切り抜け、戦後の満州などへの投資もしな
ければならない日本にとって実行できる計画ではな
かった。

帝国国防方針は、政軍間での調整がないまま決定し
た南北併進という戦略を規定してしまったが、それ
が国力を超えたものであることは、所要兵力の面か
らみても明らかであった。この方針は、以後、第一
次世界大戦末期の1918年、ワシントン軍縮会議後の
1923年、国際連盟を脱退した1936年に改正されるが、
この政戦略と陸海軍戦略の不一致が根本的に解決さ
れることはなく、国家戦略としての妥当性を欠いた
まま最終的に日本を破滅させることになってゆく。

▼海軍と陸軍の対立

 国防方針の策定において、陸海軍戦略が整合され
なかったという根本的な問題があったが、陸海軍の
力関係という点からは、海軍として海洋国家として
の立場から主張し、陸軍に対して対等の立場を保つ
ことができたといえる。

この背景としては、まず山本権兵衛海相の存在があ
る。兵部省が海軍省と陸軍省に分離して「海陸軍」
が「陸海軍」になった時、陸軍の西郷や山県に匹敵
するような人材は海軍にいなかったが、日清戦争開
戦前になると、大佐となった山本が「海上権」につ
いて陸軍首脳に説いたエピソードはすでに述べたと
おりである。山本は1898年に海相に就任すると、7年
余りにわたって海軍建設の第一人者として活躍し、
「日清戦争も日露戦争も五十パーセントまでは山本
の力で勝ったといっても過言ではない」(伊藤正徳
『大海軍を想う』)といわれるほどの存在になり、
のちには総理大臣を務めるなどその影響力は極めて
大きくなっていた。

 また、日露戦争において海軍が挙げた戦功もその
発言力を強めた。それまで明治天皇の臨幸は、陸海
軍を問わず常に陸軍の制服であったが、日露戦争後
の凱旋観艦式(横浜沖)では、はじめて海軍大元帥
の制服で臨幸された。これは、山本海相の奏上によ
るものだったが、このことに象徴されるように海軍
が陸軍に対し堂々と胸を張れるようになるのは、日
露戦争以降だったといわれている。

 このように日露戦争で海軍は陸軍と対等の立場に
なったが、それまでは陸軍のリーダーである山県有
朋が海軍建設に努力したし、陸軍首脳らは山本の
「海上権」を理解して一致協力して国難に立ち向か
ってもきた。これは、北岡伸一によれば「彼らは、
薩長や組織に分かれて激しく争ったが、明治国家の
建設を担ってきたという自負と責任感から、いざと
いう場合には協力することを忘れなかった」からで
あり、彼らの大部分は元武士だったため、軍事に対
する偏見もためらいもなかったからでもあった。

しかし、日露戦争以後は次第に陸海軍の対立が激化
するようになる。それは、北岡が「藩閥型のシヴィ
リアン・コントロール」と呼ぶ、いざという時の陸
海軍を協力させる機能が藩閥の勢力の衰えとともに
弱まったからであり、帝国国防方針に象徴される陸
海軍戦略の不一致が放置され続けたからでもあった。


(つづく)
 
 
【主要参考資料】

黒野耐著『日本を滅ぼした国防方針』
(文春新書、2002年)

常廣栄一「海陸軍が陸海軍になった日」
(「水交」20-3・4)

伊藤正徳著『大海軍を想う』
(光人社NF文庫、2002年)

森本忠夫著『魔性の歴史』
(文藝春秋、1985年)

千早正隆『日本海軍の戦略発想』
(プレジデント社、1982年)

北岡伸一「海洋国家日本の戦略-福沢諭吉から吉田
茂まで」石津朋之、ウィリアムソン・マーレー編
『日米戦略思想史』(彩流社、2005年)



(どうした・てつろう)


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【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。


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