配信日時 2021/11/10 20:00

【海軍戦略500年史(26)】日本と清国の対立 堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の二十六回目です。

海軍について徴兵制のイメージが低い理由が
いまいちわかりませんでしたが、

<技量の習得に徴兵年限では足りないため志願兵を重視>

したからだったようですね。

「技術の海軍」らしい話です。

それにしても、日清戦争前夜と今が極めて
似通った状況にあると感じるのは私だけでしょうか?


さっそくどうぞ

エンリケ


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海軍戦略500年史(26)

日本と清国の対立

堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

前回まで2回にわたって大陸国家だったアメリカが
太平洋国家になり、フィリピン、ハワイを獲得しパ
ナマ運河を建設して海洋国家として発展した道筋を
たどりました。
 今回からは日本に話を戻します。創設まもない明
治海軍は、台湾と朝鮮半島への出兵をつうじて「眠
れる獅子」清国と向き合うようになり、それまでの
仮想敵国をロシアから清国に変え、日清戦争に間に
合うよう懸命の体制づくりに取り組みます。


▼眠れる獅子──清国

 清(1644~1912年)は、18世紀には多民族を擁す
る大帝国として繁栄したが、19世紀になるとその繁
栄は翳(かげ)り、欧米列強が進出した頃には「眠
れる獅子」といわれるようになっていた。アヘン戦
争(1840~42年)やアロー戦争(1856~60年)に敗
れると、水軍の整備を訴える意見があったものの清
朝政府は関心を示さなかった。

その後、太平天国の乱(1851~64年)で鎮圧を命じ
られた曾国藩が水軍を伴わない戦いを拒んだため、
急遽大小500隻からなる湘軍水師(水軍)が新設さ
れた(1854年)。それでも戦力が不足したため、
1860年にはイギリスから軍艦7隻を購入し、あわせ
て艦長などの士官も招聘することになった。この頃
から、アヘン戦争やアロー戦争での一方的な敗北を
きっかけとして、西洋技術を取り入れ、近代化を図
ろうとする「洋務運動」が始まる。
 
発注を受けたイギリスは、清国の軍艦を利用して英
清連合艦隊を編成して中国における自国の権益を守
ることを狙って、7隻の軍艦を回航してきた英海軍
大佐にそのまま清国軍艦の指揮権を与えるよう要求
した。中国の主権を無視した交渉は当然ながら決裂
し、艦艇の引き渡しと一部の乗員が雇用されたのみ
で、近代海軍の創設は実現しなかった。

太平天国の乱が平定されると、江蘇巡撫(軍事、行
政長官)の丁日昌から大型艦6隻、中型艦10隻の北
洋水師、揚子江担当の東洋水師、広州や広東方面担
当の南洋水師の3艦隊を整備すべきとの「海洋水師
章程六条」が提案されたが(1868年)放置され、朝
廷に達したのは台湾出兵の後のことだった。
    
▼台湾出兵──初めての海外派兵

 日本では海防論が叫ばれていたにもかかわらず、
明治海軍における軍艦の建造はなかなか進まないな
か1874年には、明治政府の初めての海外派兵である
台湾出兵が行なわれた。これは、台湾に漂着した多
数の琉球漁民が原住民に殺害されたことに対応した
出兵であったが、派遣した軍艦はすべて幕府や諸藩
から引き継いだ老朽艦で、とても清国海軍に対抗で
きるようなものではなかった。

海軍の非力さを痛感した明治政府は、翌年、軍艦3
隻をイギリスに発注するとともに、3隻の国内建造
に踏み切り、海軍は創設後10年にして初めて自前の
艦を保有することになる。ちなみに、引き受け手の
いなかったこの出兵の海上輸送で活躍したのが新興
の三菱蒸汽船会社であり、同社はこの出兵でその後
のアジア航路進出の足がかりを築いた。

一方の清国は、和議の結果、日本軍の出兵を国民保
護のための義挙と認めて賠償金を支払ったうえに朝
貢を受けていた琉球まで放棄しなければならなかっ
た。清朝が「蛮狄小邦」と見下していた日本に戦わ
ずして敗れた衝?は大きく、先に丁日昌が提案した
「海洋水師章程六条」を取り上げ、ただちに北洋・
東洋(のちに福建、広東の2水師)・南洋の3水師の
創設を決め(1875年)、対日戦争に備えて北洋水師
の整備を優先することにした。
 
ベトナムをめぐって戦われた清仏戦争(1884年)ま
での10年間に、北洋水師が8隻、南洋水師が6隻、広
東水師が1隻の外国軍艦を購入したが、各水師は各
地の総督の指揮下にある軍閥の水師であり、清国海
軍としての統一した指揮系統はなかった。
 
このため清仏戦争で福建水師がフランス極東艦隊と
の決戦で大被害を受けた時、最大の北洋水師に支援
を求めたものの同水師が動くことはなかった。また、
各水師はバラバラに艦艇を調達したため、船体や武
器が統一されておらず、随所でピンハネと手抜きが
行なわれたため、数年にして廃棄された艦もあった
という。
 
▼清国、仮想敵国となる──主権線と利益線

1880年代になると、日本は朝鮮問題で清国と対立す
るようになる。1882年、朝鮮で起きた暴動(壬午の
変)に日清両国は出兵するのだが、清国は袁世凱を
派遣して事実上の朝鮮国王代理として実権を握って
しまう。日本軍は軍事力において劣るため、清国軍
との衝突を避けざるを得なかった。危機感を強めた
政府は、それまでの仮想敵国をロシアから清国に転
換して軍備増強を始め、海軍については増税による
財源を充てて8か年計画で増強することにした。

 この後、第1回帝国議会(1890年)において、首
相で陸軍のリーダーでもあった山県有朋は施政方針
演説において「国家独立自営の道に二途あり、第一
に主権線を守護すること、第二には利益線を保護す
ることである」と論じて、陸海軍予算の増額を求め
た。「主権線」とは国境線であり、「利益線」とは
国境線の防衛に密接に関係する区域のことであり、
山県が具体的にあげたのは朝鮮半島であった。

なお、当面の仮想敵国から外されたロシアであった
が、清国から領土の割譲を得てアムール州(1858年)
や沿海州(1860年)とし、一貫して東アジア東岸を
南下する構えを見せていた。
    
▼北洋水師来航の衝撃

清国は、ドイツから最新鋭甲鉄艦「定遠」「鎮遠」
(7,400トン、30.5センチ連装砲2基)、防護巡洋艦
「済遠」「威遠」(2,450トン)などを購入した(188
5年)。そしてその翌年、丁汝昌が「定遠」以下4
隻を率い、修理補給のためとして長崎に入港してき
たが、実際には示威も目的としていたと思われる。

当時の日本には防護巡洋艦「高千穂」と「浪速」が
イギリスから到着し、木製巡洋艦「天龍」が竣工し
たばかりで、清国艦隊に立ち向かえる軍艦はなかっ
た。長崎では、上陸した清国の水兵が市内で暴れ回
り、駆けつけた巡査らとの間に乱闘が起き、双方に
死者が出た(長崎事件)。軍事力に劣る日本は、清
国水兵を取り締まった日本警察の行為を「喧嘩」と
して処理し、両国が慈善基金を出し合い、互いの死
傷者に配分する案で妥協せざるを得なかった。

この結果、国民の間に清国に対する強い危機感と敵
愾心が高まり、海軍は北洋艦隊の戦力と遠洋航海力
に衝撃を受けた。明治海軍の現状は清国海軍に比べ
てあまりに劣るとして、政府は当時の海軍予算の3
倍以上の海軍公債を発行し54隻6万トンあまりを建
造することにした(1886年、第1期軍備拡張計画)。

▼難航する海軍建設

この拡張計画には、「定遠」などに対抗するための
「三景艦」3隻などが含まれた。これは「定遠」
1隻の建造費が日本海軍の年間建艦予算に匹敵する
ほどだったため、小型艦に無理やり巨砲を搭載して
低予算の艦で対抗しようとしたものだったが、砲が
大きすぎて旋回させると艦が傾いてしまい実戦では
使いものにならなかった。このような苦心をしつつ
第一線兵力の充実に努めたが、軍港などのインフラ
整備は立ち後れたままだった。

 この状況に、なお不足する海防費を補うために明
治天皇が皇室費の一部を下賜すると(1887年)、全
国から巨額の海防献金が集まった。この献金も含め
て海軍は5カ年で46隻の艦艇等を建造する計画(第
二期軍備拡張案)を立て、高速巡洋艦をイギリスに
発注するなどしたが、それでも海軍予算の成立は思
うに任せず、軍艦建造はなかなか進まなかった。

 海軍建設が進まない事態を憂慮した天皇は、再び
皇室費の一部を下賜して政府と議会の協力を求める
と、大臣や国会議員なども俸給の一部を献金するこ
ととなり、1893年度以降の海軍整備予算がよう
やく成立した。
 
▼「旧式士官」の整理

艦隊の整備に加えて、海軍の組織改革も急がれた。
なかでも幕府海軍以来の海軍士官の人事の刷新と海
軍軍令部の独立は、海軍大臣官房主事の山本権兵衛
大佐の剛腕で実現したものだ。
 
創設期の明治海軍は箱館湾海戦(1869年)の凱旋後、
台湾出兵、西南戦争(1877年)、壬午の変の時にち
ょっと動いたくらいで政府の経費節減で大方の軍艦
は錨を下ろしっぱなしで、軍艦というものはまず動
かないものと思われていたほどだった。オランダ式
だった長崎海軍伝習所、操練所出身の士官は「旧式
士官」と呼ばれ、イギリス式に変わった海軍に適応
できなかったり、維新の功績だけで昇任した者も多
かった。

1883年頃からイギリス式軍規をみっちり仕込まれた
兵学校出身の気鋭の士官が数的にも優勢になってき
たことから、海軍省は海軍士官学術検査を行なって
旧式士官を篩(ふるい)にかけ、まとめて淘汰した。
海軍内の反発は無論大きかったが、これで「薩摩の
海軍」が日本海軍へと脱皮することになった。また、
明治政府は徴兵制をとったが(1873年)、海軍は技
量の習得に徴兵年限では足りないため志願兵を重視
し、彼らに士官への道を開くなどして優秀な人材の
確保に努めた。

▼海軍軍令部の独立

 もうひとつの組織改革は軍令に関するものであり、
それまで陸軍参謀本部の海軍部で取り扱われていた
海軍の用兵を陸軍から独立させたことである。山本
は「島国の国防は海上権を先にすべきであるのに、
日本は逆に陸を主としている。が、いまは主従を争
わない、対等にすべきだ、『車の両輪』であるべき
だ」と主張した。

戦時大本営条例(1893年)では、陸軍参謀総長が大
本営における天皇の幕僚長となることが定められて
いたが、それを陸軍参謀総長と海軍軍令部長が対等
に天皇を補佐するよう提案したのである。陸軍は猛
烈に反対したが山本は屈せず、各方面に説き回って
陸海対等で天皇を補佐するようにし、海軍軍令部を
独立させた(1903年)。

こうして日本海軍は人的な基盤や陸軍との連携体制
を整え、約6万トンの兵力をもって実戦的な技量を
高め、東海・西海両鎮守府の開設(1876年)、常備
艦隊の編成(1889年)など近代海軍としての体制作
りを進めて、日清戦争に間に合わせることができた。
 
しかし本格的な装甲艦の就役は間に合わず、
8万5,000トンの兵力を有し、練度も日本海軍を凌駕
するとみられた清国海軍との差は歴然としていた。
常備艦隊はその後も新たな就役艦を加えて練度の向
上に努め、日清戦争直前には初めての連合艦隊が編
成される。

▼山本権兵衛の「海上権」

海軍の体制づくりは進んだが、山本が「車の両輪」
と呼んだ陸軍との作戦面の調整はどうだったのか。
日清戦争開戦直前の「海上権」についてのエピソー
ドが残されている。

陸海軍の作戦方針を聞く重要閣議の席で、陸軍の川
上操六参謀次長が、あえて直隷平野(渤海湾に面す
る北京東方の平野)への敵前上陸をも辞さないかの
ような口ぶりで滔々と陸軍の作戦計画を論述した。
これに対して山本権兵衛は、陸軍を大陸に送るのに
工兵隊で九州呼子港から朝鮮の釜山に架橋したらど
うかと問い、「およそ海国にあって兵を論じる際、
いやしくも海を越えて敵に対抗しようとするなら、
まずもってその海上権を制するのを第一義といたし
ます」と指摘した。
 
それまで「陸主海従」として海軍を軍隊輸送の護衛
をするだけの補助兵力としてしか見ていなかった陸
軍の認識不足を、制海権を意味する「海上権」の主
張により転換させるきっかけとなったのだ。山本は
「清国という東亜の大国に対して、わが国家の総力
をあげてことに従うべき秋です。海陸各般の計画施
設に関し、よろしく協力一致して以って齟齬違算な
きを期さねばならぬと考えます」と結んだ。

こうして翌日、大山巌陸相の求めに応じて山本は陸
軍参謀本部で「海上権」と海軍の作戦計画の詳細を
説明し、陸海軍作戦の調整が行なわれたのだった。

▼進まない清国海軍の改革

日本海軍は日清対決に向け懸命の体制づくりに取り
組んだが、対する清国はどうだったか。清朝内部で
も、清仏戦争終結後、海軍の増強と指揮系統の統一
などの海防論が高まっていた。しかし、清国では1
888年以降日清戦争までの間、1隻の軍艦も増えなか
った。その理由は、満洲出身の西太后が漢人である
李鴻章の私兵的な北洋水師の勢力を強化することを
好まず、李鴻章も西太后の猜疑を受けることを恐れ、
清朝への忠節を示すために艦隊の増強を差し控えた
のだ。こうして軍艦建造予算の大半が、西太后の居
所である頤和園の修築に流用されてしまった。

こうした状況にもかかわらず、日清戦争開戦時にお
ける清国海軍の戦力は、ドイツから輸入した巨大装
甲艦「定遠」「鎮遠」を保有する北洋水師のほか、
南洋水師、福建水師、広東水師を合わせると海軍総
兵力は軍艦82隻、水雷艇25隻、総トン数8万5,000
トンを保有し、日本海軍の軍艦22隻、水雷艇24隻、
総トン数5万9,000トンを凌駕していた。

しかし、このうち日清戦争に参加したのは、
軍艦22隻、水雷艇12隻からなる北洋水師と南洋水師
に属しながら給料未払いのため北洋水師に寄食して
いた砲艦3隻だけだった。その他の水師は、対外戦争
よりも軍閥としての兵力温存を重視し、清仏戦争の
時と同様、戦うことはなかったのだ。
 
後述するように、日清戦争での海戦は、日本海軍の
辛勝だった。清国海軍の建艦予算が流用されず、他
の水師も一丸となって参戦していたら結果はどうな
っていただろうか。


(つづく)


【主要参考資料】

上田信著『海と帝国 明清時代』
(講談社学術文庫、2021年)

外山三郎著『日本海軍史』
(教育社歴史新書、1980年)

平間洋一「中国海軍の過去・現在・未来」
『波濤』10.7 1998年

江藤淳著『海は甦える 第一部』
(文春文庫、1986年)

伊藤正徳著『大海軍を想う』
(光人社、2002年)


(どうした・てつろう)


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【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。


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