こんにちは。エンリケです。
『海軍戦略500年史』の二十四回目です。
<もうひとつの新興国であるアメリカ>
という視点が実に新鮮です。
さっそくどうぞ
エンリケ
ご意見・ご感想・ご要望はこちらから
↓
https://okigunnji.com/url/7/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
海軍戦略500年史(24)
アメリカ海軍の誕生
堂下哲郎(元海将)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
□はじめに
前回は、幕府海軍が創設され明治海軍に引き継がれ
る経緯でした。今回は、もうひとつの新興国である
アメリカの海軍がどのように誕生したか、大陸国家
だったアメリカがどのように海洋国家になっていっ
たかを2回にわたってたどりたいと思います。
▼大陸海軍の創設と廃止
1775年にアメリカ独立戦争が起きた時、アメリカ
東部沿岸の制海権はイギリスが握っていた。英海軍
は七年戦争後の予算削減で大幅に戦力が低下してい
たとはいえ、ほとんどの植民地の主要都市に対して
妨害されることなく進攻でき、アメリカ側の海上交
通を遮断し各植民地を分断して植民地の経済に大損
害を与えた。一方のアメリカ側に英海軍を撃退する
手段はなく、海運、漁業に従事していた多くの人々
はそれぞれの船舶を武装し私掠船としてイギリスの
海上交通を攻撃したのである。
こうした状況を打破するために13植民地の代表に
よる大陸会議は海軍委員会を設置し、とりあえず
8隻の商船を買い入れて武装し、大陸海軍(Continental
Navy)を創設した(1775年)。この大陸海軍はアメ
リカ沿岸や北大西洋での通商破壊戦で活躍したほか、
沿岸要塞と連携して浮砲台としても行動したが、
最も戦果をあげたのは私掠船であった。
大陸会議は1776年に独立を宣言、同年から私掠免許
状を発行したが各州も独自に免許状を出し、開戦後
2年間に少なくとも136隻の私掠船が艤装され、
1781年にはその数が449隻に達した。アメリカの私
掠船はバルト海からカリブ海に及ぶ広大な海域で活
動し、戦争を通じてイギリス船3,000隻以上を捕ら
えており、大陸海軍が捕らえた200隻弱と比較する
とイギリスの通商に与えた脅威の大きさが分かる。
1778年にフランスが米側に立って独立戦争に参戦
すると戦況は一変し、派遣された仏艦隊は強大な英
艦隊をけん制して大陸海軍や私掠船の活動を助け、
アメリカの独立に最も貢献した海上勢力となった。
また、アメリカの私掠船はフランスの港湾を根拠地
として利用できたことから、イギリス近海で通商破
壊戦を展開し大きな戦果をあげ、創成期の米海軍を
象徴する英雄とされるジョン・ボール・ジョーンズ
のような艦長も現れた。
1783年にイギリスがアメリカ合衆国の独立を認め
た時(パリ条約)、大陸海軍の艦艇はわずかに3隻
になっており、独立を達成したアメリカ政府は当面
の財政難を乗り切るためにあっさり大陸海軍を廃止
してしまった。
▼アメリカ合衆国海軍の創設
イギリスがアメリカの独立を承認した頃、ヨーロ
ッパはナポレオン戦争の終わる1815年まで長い動乱
の時代にあった。この間、アメリカは中立国の立場
をとったため、その商船隊は世界の海を自由に行動
し莫大な利益を得ていた。
しかし、この商船隊にも危険がなかったわけではな
い。北アフリカ海域で頻繁に出没したバーバリー海
賊である。これら海賊はそれぞれの根拠地の太守の
公認で行なっているもので、その取り締まりも太守
次第ということになる。イギリスやフランスなどの
大海軍国なら自国商船を護衛できるが、それができ
ない国は太守への贈り物により安全を確保するのが
普通だった。
アメリカはすでに海運界において世界的な地位に
あったが、海軍を持たなかったため、太守への贈り
物で商船の安全を確保していた。運悪く船員が捕ら
えられたら身代金を払うことにし、贈り物と合わせ
た経費が海軍を持つ経費より少なくて済めばよし、
と考えていたのだ。
このような「割り切り」をしていたアメリカ政府
も、1793年以降フランスの私掠船が西インド諸島に
現れ、フランス以外のヨーロッパ諸国に向かう商船
の捕獲を始めると海軍の必要性を認めざるを得なく
なった。1794年、フリゲート6隻の建造を認める海
軍法(Naval Act)が議会に承認され、およそ10年
の空白を経てアメリカに海軍が再建された。
その後も海賊の脅威が一段落すると海軍不要論が再
燃する場面があったが、1798年にフランスとの間で
私掠船問題についての交渉が決裂すると、それまで
消極的だった議会もついに海軍増強を急務と考える
ようになり、国防省(War Department)から海軍省
(Navy Department)を独立させるとともに、アメリ
カ沿岸のフランス軍艦と私掠船に海軍で対処するこ
とを決議した。
その後、財務省の下に設けられたコーストガードの
前身である税関監視船隊(Revenue Marine)とも密
接に協力しつつ、海軍工廠の建設や関連する産業の
育成を含む海軍の建設が進められた。大きく発展し
た商船隊は熟練した軍艦乗組員の供給源としても重
要な役割を果たした。
▼ジェファーソン軍縮とトリポリ戦争
1800年、フランスとの和約が成立した年の大統領
選挙では軍縮主義の共和党が勝利した。対フランス
戦で膨張した海軍予算はたちまち大ナタを振るわれ、
多くの軍艦が売却され士官も整理された。
しかし、ジェファーソンが大統領に就任した1801年
には、早くも次の戦争を戦わなければならなかった。
トリポリの太守との間で海賊取り締まりとそれに対
する代償金の交渉が決裂したことによるトリポリ戦
争である。アメリカ艦隊は地中海に入り、トリポリ
を封鎖した。遠征艦隊の隻数は十分でなく有能な艦
長も不足していたが、1805年にはトリポリの太守が
大幅な譲歩を行ない、戦争は終結した。
▼1812年戦争とアメリカ海軍
1812年、アメリカはイギリスとの戦争に再び突入
した。すでに双方の軍艦の小競合いが起き、英海軍
は慢性的な乗員不足の解消のためアメリカ商船を臨
検してイギリス国籍を持つ船員を片端から拉致し、
1万名以上のアメリカ人船員を英海軍に強制的に入隊
させていたため、アメリカ国民の対英感情は極めて
悪くなっていた。
これらの背景に加えて、アメリカはカナダに対する
領土的野心を持っていたことが対英宣戦を決定的に
した。フランスとの長年の戦争でイギリスは新大陸
を顧みる余裕がないだろうとの判断もあった。しか
し、ナポレオンがモスクワ遠征に失敗すると、情勢
は急速にイギリスに有利となり、強力な艦隊がアメ
リカ沿岸へ展開し厳重な封鎖を行なうとともに、カ
ナダの英陸軍は南下してアメリカ国内に侵入する態
勢をとった。
英海軍の封鎖は厳しかったものの、トリポリ戦争
で経験を積んだ艦長らは全力でイギリス商船に対す
る通商破壊戦を展開し、その海域は大西洋全域から
一部は南太平洋に及んだ。この戦争でも私掠船約2
00隻が出撃して商船1,300隻以上を捕らえた。
カナダから南下を図る英軍によって米陸軍はしば
しば危険な状態に陥ったが、アメリカの湖上艦隊は
エリー湖海戦、シャンプレイン湖海戦でイギリス艦
隊を撃破し、その侵入を阻止した。1815年、両国と
も決定的な勝利を収めることなく、カナダとアメリ
カ、メイン州との国境を画定して、このまったく得
るところのなかった戦争に終止符を打った。
ちなみに、この戦争では首都ワシントンが陥落し、
焼け落ちた大統領府を白く塗装したことからホワイ
トハウスと呼ばれるようになった。また、アメリカ
私掠船の根拠地であったバルチモアにあるマクヘン
リー要塞の戦いは最もし烈な戦いとなり、その様子
がアメリカ国歌「星条旗」に歌われている。
▼ナポレオン戦争後の海軍政策論争
1812年戦争は無益な戦いであったが、大西洋での
通商破壊戦における英米のフリゲートの一騎打ちで
の「武勇伝」は国民の間に広く伝えられ、海軍の存
在意義を強く印象づけたことは確かであった。この
こともあり、戦後は海軍の拡張に関して積極論と消
極論の違いこそあれ、海軍不要論のような極端な議
論はもはやなくなった。
議会で海軍の拡張を支持したのは、主として海外貿
易や漁業が盛んなニューイングランド諸州から選出
された議員であり、内陸部や南部諸州の議員の海軍
に対する関心は薄かった。積極論者は、戦列艦を多
く建造して主要な港湾や交通上の要地に配備するこ
とが敵の封鎖や上陸作戦を阻止する最良の方法であ
るとし、この考え方で初めての長期建艦計画が18
16年に承認された。
これに対して消極論者は、軍艦より海岸の要塞を建
設したほうが良いとか、平時は海賊対処用の小型軍
艦を保有し有事には大型艦を緊急建造すればよいな
どと主張した。積極論者にせよ消極論者にせよ、沿
岸要地の防衛と外洋における通商破壊戦を戦時の海
軍の主任務と考えていることは共通していた。また、
多数の戦列艦の建造を主張しても、その用法は各
要地の防衛に分散配備することであり、これを集中
させて艦隊を編成し敵の主力艦隊の撃滅を図るとい
う艦隊決戦の考え方はまだ見られなかった。
▼海軍組織の発達
米海軍は当初から文民の海軍長官のもと、シビリ
アンコントロールの仕組みをもった初めての海軍と
いわれている。海軍の成長にあわせて、その運営の
ための組織として海軍長官のもとに海軍委員局(B
oard of Navy Commissioners)が設置され、3名の
海軍士官が海軍委員に任命された(1815年)。海軍
の基本的政策を決めるのはあくまで政治の仕事とし
つつも、軍艦の建造から運用、維持管理、人事、予
算に関することは海軍委員が担当し、必要に応じて
海軍長官に助言したのである。
アメリカ商船隊の行動海域の拡大に合わせて軍艦
の海外派遣も増えたが、1812年戦争後は海域ごとに
配備された戦隊(squadron)から派遣されるように
なった。地中海戦隊と西インド戦隊はそれぞれ北ア
フリカ諸国とメキシコ湾・カリブ海の海賊対処のた
めに、アフリカ戦隊は奴隷貿易船取り締まりのため
にそれぞれ編成、配備され、そのほか太平洋戦隊、
ブラジル・南大西洋戦隊、東インド戦隊が配備され
た。
▼南北戦争におけるアメリカ海軍
南北戦争(1861~65年)開戦時、海軍の大部分は
北軍に属することになり、海上の戦いの主導権を握
った。圧倒的に優勢な北軍はすべての南部港湾に対
する封鎖作戦を行ない、その経済活動に打撃を与え
るとともに兵器調達を妨害した。封鎖に対する南部
の反撃は散発的だったが、実験的ながらも水雷、機
雷、水雷艇、潜水艇、気球などの新兵器が用いられ
た。
特に封鎖作戦には沿岸用の装甲砲艦が投入され、そ
れまでの海戦の様相を変えてしまった。北軍の「モ
ニター」と南軍の「ヴァージニア」である。これら
は、ごく低い乾舷と構造物を持った蒸気機関で走る
装甲艦であった。在来の木造帆船は装甲艦の砲火と
衝角突撃の前には無力であり、南北の砲艦同士が砲
火を交えても双方とも砲弾は船体を貫通せず、装甲
の効果を立証した。
このほか、ミシシッピー川やテネシー川では陸軍
と協同した蒸気力河用砲艦が活躍し北軍が水路を掌
握した。また南軍は、当初は私掠船により、のちに
はヨーロッパで購入した船体をバハマ諸島で武装し
て軍艦に仕立てて北軍に対する通商破壊戦を行なっ
たが、大勢を変えるには至らなかった。
▼進歩から取り残されたアメリカ海軍
南北戦争が終わった時、アメリカ海軍の艦艇勢力
は約700隻、50万トンに達していた。その内訳は、
沿岸防備用のモニター型沿岸用装甲砲艦と通商保護・
破壊戦用の在来型の汽帆両用木造フリゲートなどで
あった。これらの艦艇は戦後急速に削減されたのだ
が、ちょうどネイヴァル・ルネッサンス全盛の時代
でもあったので、アメリカ海軍が世界の技術革新か
ら取り残される一因となった。
アメリカは、19世紀前半に急速に領土を拡大し、大
陸国家としてのかたちを整えた。南北戦争後は、ホ
ームステッド法(5年間の開拓で160エーカー(約6
5ha)の土地を無償で得られる)でヨーロッパから
の大量の移民を呼び込んで西部開拓を進めた。
移民の輸送は折からの蒸気船時代が支えた。西部開
拓では鉄道建設などのインフラ整備を進めた結果、
急激な経済成長を遂げ、1880年代に入り、アメリカ
はそれまでの農業国からカーネギーやロックフェラ
ーの成功に象徴されるような大工業国となり、ヨー
ロッパと対等の世界的勢力として発展した。
進歩から取り残された海軍についても近代化の必
要性が認識され、いったんはハント海軍長官のもと
で68隻の鋼鉄艦の建造計画が立てられたが、ガー
フィールド大統領暗殺の余波で頓挫してしまった。
結局、建造されたのは、防護巡洋艦アトランタ(A
tlanta)、ボストン(Boston)、シカゴ(Chicago)と
通報艦ドルフィン(Dolphin)の4隻のみで、頭文字
をとって「ABCDシップス」と呼ばれた。この4隻の
建造によって「ニュー・ネイヴィー」の再建が始ま
ることになる。
(つづく)
【主要参考資料】
青木栄一著『シーパワーの世界史(1)』
(出版共同社、1982年)
青木栄一著『シーパワーの世界史(2)』
(出版共同社、1983年)
堀元美著『帆船時代のアメリカ 上、下』
(原書房、1982年)
田所昌幸・阿川尚之編『海洋国家としてのアメリカ
パクス・アメリカーナへの道』
(千倉書房、2013年)
(どうした・てつろう)
◇おしらせ
2021年11月号の月刊『HANADA』誌に、
櫻井よしこさん司会による「陸海空自衛隊元最高幹
部大座談会」が掲載されています。岩田清文元陸幕
長、織田邦男元空将とともに「台湾有事」「尖閣問
題」について大いに論じてきました。
月刊Hanada2021年11月号
https://amzn.to/3lZ0ial
【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。
▼きょうの記事への、あなたの感想や疑問・質問、
ご意見は、ここからお知らせください。
⇒
https://okigunnji.com/url/7/
PS
弊マガジンへのご意見、投稿は、投稿者氏名等の個
人情報を伏せたうえで、メルマガ誌上及びメールマ
ガジン「軍事情報」が主催運営するインターネット
上のサービス(携帯サイトを含む)で紹介させて頂
くことがございます。あらかじめご了承ください。
PPS
投稿文の著作権は各投稿者に帰属します。
その他すべての文章・記事の著作権はメールマガジ
ン「軍事情報」発行人に帰属します。
最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝し
ています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感
謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、
心から感謝しています。ありがとうございました。
●配信停止はこちらから
https://1lejend.com/d.php?t=test&m=example%40example.com
-----------------------
発行:
おきらく軍事研究会
(代表・エンリケ航海王子)
■メルマガバックナンバーはこちら
http://okigunnji.com/url/105/
メインサイト
https://okigunnji.com/
問い合わせはこちら
https://okigunnji.com/url/7/
-----------------------
Copyright(c) 2000-2021 Gunjijouhou.All rights reserved