配信日時 2021/10/20 20:00

【海軍戦略500年史(23)】幕府海軍から明治海軍へ 堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の二十三回目です。

思わず読みふけりました。

幕末事情を新たな視座から俯瞰できることで、
今に活かせる知恵が養えますね。

とくに海兵については、知らなかったこともあり
非常に考えるところ多かったです。

さっそくどうぞ

エンリケ


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海軍戦略500年史(23)

幕府海軍から明治海軍へ

堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

前回は、東アジアに進出してきたヨーロッパ諸国が
日本周辺にも出没するようになり幕府の対外政策が
転換され、黒船来航を受けて開国するところまでで
した。
今回は、幕府海軍が創設され明治海軍に引き継がれ
る経緯を見てゆきます。金のかかる海軍の創設は、
なかなか思うように進まないものです。これは第二
次世界大戦後の自衛隊の創設の時にも繰り返されま
した。それにしても、今となってみれば明治の海兵
隊はもったいないことだったと思います。
 
▼幕府海軍──創設から終焉

開国を受けて、幕府はそれまでの海防体制を見直さ
ざるを得なくなった。すでに林子平は『海国兵談』
(1786年)で海軍を持つべきことを説いていた
が、鎖国体制の中では、いたずらに人心を惑わすも
のとして禁錮の刑に処せられてしまう。幕末になる
と薩摩藩などが軍艦の建造に乗り出す一方、幕府も
洋式砲の製造に取り組み、佐久間象山からはアヘン
戦争を受けての『海防八策』(1842年)の献策
を受けており、海軍創設の動きが全くないわけでは
なかった。
 
 幕府は、ほかに相談できる相手もいなかったこと
から、長崎で貿易を許されてきたオランダに意見を
求めた。オランダからは、日本へ派遣したコルベッ
ト「スンビン(Soembing)」のファビウス
艦長が幕府海軍創設の意見書を提出した(1854
年)。これを受けて幕府は、幕府海軍の創設、オラ
ンダからの軍艦購入、海軍伝習所や造船所の設置な
どに関する構想を立て、洋式海軍の設立に乗り出し
た。

ファビウスは海軍伝習所が開設される1855年に
再来日し、西洋海軍の艦内諸規律に関するもの、旗
章、艦長心得など、歴史的経緯を経て確立された欧
米海軍に共通する慣習を伝え、日本のような後発海
軍に対する配慮を見せている。なお、「スンビン」
は幕府へ献呈され「観光丸」と改名され、幕府海軍
の最初の軍艦となり、練習艦として使われた。

オランダ教官団を招いた海軍伝習所では、語学、数
学などの素養教育や、日本の身分制度と海軍の階級
との調整、そして陸上の生活習慣を艦上勤務に適応
させることなどに苦労しつつも、都合3期、各期概
ね1年半の伝習を数百人に対して行なった。しかし
1859年には大老井伊直弼の政治改革の影響で伝
習所は閉鎖されてしまう。

この一方で、海軍要員の養成を江戸で行ないたかっ
た幕府は、1857年に長崎の第1期卒業生と「観
光丸」を築地に移して「軍艦教授所」を開き、長崎
と並行して伝習所卒業の日本人を教師とする海軍教
育を開始していた。同年、オランダに注文した第一
艦のスクリュー式コルベットが長崎に着き「咸臨丸」
と命名された。「軍艦教授所」は、その後「軍艦
操練所」、「軍艦所」、「海軍所」と名を変えつつ
幕府終焉まで続く。

▼日米修好通商条約 

 和親条約に基づいて米国総領事ハリスが下田に赴
任した(1856年)。ハリスは「英仏が大艦隊を
もって日本に来航、条約締結を強要するであろう。
その時、米国は穏便な調停に労をとる」と半ば脅迫
的に修好通商条約の締結を迫った。

1858年、大老井伊の決断でアメリカとの条約を
締結し、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと
続くのだが、勅許を得ずに締結された条約だったた
め、攘夷派の反発が強まり倒幕の機運を高めてしま
う。幕府も沸騰する攘夷論を無視できず、海防強化
を各藩に指示し、自らも箱館で五稜郭の築城を開始
する。ちなみにこの条約は、治外法権、裁判権、関
税自主権において不平等であったため、以後、明治
政府はこの改正に大いに苦心することになる。

 余談ながら、本条約の批准のために日本の外交使
節が米海軍の外輪フリゲート「ポーハタン」で渡米
することになると、乗組員の訓練と国威発揚のため
「咸臨丸」を西海岸まで随伴させることになった(
1860年)。しかし、結果的にこの「挑戦」は無
謀というほかなく、日本人乗組員は船酔いや運用術
の未熟さで使い物にならず、冬の北太平洋を乗り切
れたのは全面的にアメリカ人乗員のおかげだった。
教授所での運用術の短期速成の試みは失敗に終わっ
たのだ。

 幕府はまた、長崎造船所(1861年)や横浜製
鉄所(1865年)といった洋式造船所も建設し、
さらにフランスのヴェルニーを招いてツーロン軍港
を手本に横須賀製鉄所(1871年)を開設した。
幕府は15年ほどの間に45隻の洋式軍艦を保有す
るに至った。
 
▼ロシア軍艦対馬占拠事件

1861年、ロシア海軍コルベット「ボサドニック」
が対馬に来航、浅芽湾を測量のうえ上陸し、芋崎
を占拠する事件が起きる。ロシア側は「イギリスが
対馬占領を企てているので、仁義の国ロシアは日本
に味方する。芋崎を借用させてくれれば、砲50門
を差し上げる」として同地の租借を強く要求してき
た。

 ロシアは、地中海への南下を図ってトルコに侵入
したが、クリミア戦争で英仏連合軍に手痛い敗北を
喫して(1854年)、この方面での南下、不凍港
の獲得に失敗していた。今回は、清国からの沿海州
領土の割譲に成功してウラジオストク港を獲得した
ものの(1860年)、同港が冬季には凍結するた
め、極東ロシア海軍の出口である対馬海峡を抑える
不凍港として対馬を求めてきたのだ。

 一方のイギリスは、海軍水路部が世界的規模で行
なった測量の一環で、対馬が極東ロシアの南下を防
ぐ絶好の位置にあり、東西に開いた良港を有し、木
材や水が豊富で、絹生産地中国を結ぶ架け橋になり
うるとして領有願望を抱いていた。イギリスとして
は、ロシアの機先を制して対馬を占領することも検
討したが、占領による対決よりも日本をロシアの南
下を食い止める「楯」として利用することを選んだ。
 
ところがこの事件が起き、ロシアはヨーロッパで獲
得できない不凍港を得たうえに、ここを拠点として
米中間の海域における貿易で大きな利益を手にし得
る状況となった。先を越された形になったイギリス
は、ロシアの南下を阻止し、大英帝国の世界的ネッ
トワークを完成させるためにも、日本海域において
ロシアの領土獲得は絶対に認められないとして、幕
府と協議し軍艦2隻を現地に派遣して退去要求をす
ることにした。ロシアは、迅速に艦隊を派遣すれば
対馬全土を占領できるとも考えたが、最終的にイギ
リスの干渉を受けることを恐れ、不法占拠から半年
後、「ボサドニック」に退去を命令して事件は終結
した。

対馬が、英露両国の角逐により結果的にいずれの国
の属地にならずに済んだのは幸運であったが、高ま
る攘夷の動きへの対応に追われていた幕府は、非常
の際には近隣諸藩が応援すべしとだけ命じて戦略的
要衝である対馬の実質的な防衛策は何らとられずじ
まいだった。

ロシアは対馬占領には失敗したが、南下政策の一環
として日露戦争を戦い、その敗北が大きな要因とな
ってロシア帝国そのものを崩壊させた。イギリスは、
全世界的な対ロシア封鎖の一環として日露戦争前
に日英同盟を締結し、日本を代理に立ててロシアと
戦わせ、その目的を達成することになるのは40年
ほど後のことである。     

▼幕府海軍の戦いと終焉

幕府海軍は、幕末の内戦である征長戦争と戊辰戦争
で海戦を経験した。このうち征長戦争(1866年)で
は、幕府、長州藩の各艦は砲火を交えたが、両軍と
も戦果もなければ被害もなかった。戊辰戦争
(1868〜69年)では、新政府軍と旧幕府軍の間で
宮古湾や箱館湾において、やや海戦らしい海戦が
戦われたが、幕府海軍の榎本艦隊の喪失艦9隻中7
隻は座礁事故で失われており、その運用術の未熟さ
はその発足から終焉までついて回ったことは知る人
ぞ知る事実であった。

 開国にともなう物価の高騰などに対する不満や外
国に強いられて開国したとの国民感情から攘夷論が
強まり、生麦事件(1862年)など外国人殺傷事
件が頻発した。この結果、薩英戦争(1863年)
や英仏米蘭四カ国艦隊の下関砲撃事件が起き、尊皇
攘夷論の激化もあって幕府を内外から揺さぶり、や
がて大政奉還(1867年)へとつながってゆく。

王政復古の大号令に始まる明治政府の新体制確立の
プロセスが一定の秩序を保って行なわれた。また、
薩英戦争などを通じて列強の軍艦と戦うには沿岸砲
台では無理であり、軍艦には軍艦で戦うべきと痛感
されたことなどから、幕末に始まった新たな海防思
想や海軍は、基本的にそのまま幕府から明治政府に
引き継がれてゆくことになった。

▼明治海軍、海兵隊の創設

幕府瓦解の後、1868年3月(9月に明治に改元)、
新政府の海陸軍の統括者として軍務官が置かれ、
ロシアの南下や清国を侵略した列強の脅威に対処
するために「四面環海の我が国防のため海軍力強化
が急務」との太政官あての建議がなされた。
 
1869年5月、箱館における旧幕府軍降伏により
戊辰戦争が終結すると、同年7月、軍務官に代わっ
て海陸軍を統括する兵部省が設置される。兵部省は
「おおいに海軍を創立すべきの儀」という太政官あ
ての建白書(1870年)で、歳入の1/8を20
年間支出して「軍艦大小合わせて200隻、常備人
員25,000人」に拡大しようという壮大な計画
を提案したが予算が成立するはずもなかった。18
71年7月には廃藩置県の一大改革が断行され、各
藩の艦船はすべて政府に拠出されて一元化、軍艦、
輸送船あわせて17隻、人員1,800名、13,
000トン余の勢力で、新生日本海軍が誕生した。

太政官布告で「海軍は英国式」と決められ(187
0年)、雇い入れられたイギリス人教官団からの意
見で「要港を守衛し水戦の事を掌る」とされた海兵
隊も士族出身者100名で創設された(1871年)。海
兵隊は、「佐賀の乱」(1874年)、台湾出兵(同
年)、江華島事件(1875年)などの実戦に参加し
たが、建艦費の捻出と、海兵隊の仕事は艦船乗組
員で十分賄えるとしてあっけなく廃止された
(1876年)。列国のような帆船時代の接舷切り込
み戦闘のような海兵の歴史がない日本では執着は
なかったのであろう。
 
 兵部省の建白書は「軍艦ハ士官ヲ以テ精神トス」
として、海軍の基礎として人材、特に士官の養成が
重要視された。旧幕府の海軍操練所(築地)は18
69年に再開され、海軍兵学寮、海軍兵学校(18
88年に江田島に移転)と改称され、英海軍から教
官団を招聘して世界最強のイギリス海軍仕込みの教
育を行なった。その他、海軍大学校、海軍機関学校、
海軍経理学校、海軍軍医学校、専門術科を教育す
る砲術学校、水雷学校、通信学校、航海学校、工機
学校などが順次設立された。

▼海陸軍から陸海軍へ

兵部省は海軍省と陸軍省に分離するが(1872年)、
その翌年には海軍卿勝安芳(海舟)から甲鉄艦26隻
を含む104隻の建艦計画が出され、左院(のちの元
老院、当時の立法府)から「国防軍建設の要諦は専
ら海軍を拡張するにあり、陸軍はこれに次ぐ」とし
て海主陸従の方針が示されたが閣議では顧みられな
かった。

このように海軍建設優先の方針は示されたものの、
当時、廃藩置県や戊辰戦争後の後始末で財政上の余
裕はなく、かつ新政府としての権威と中央集権体制
の確立が急がれるなか、治安維持のための陸軍の整
備を優先すべきとする陸主海従の政策がとられたの
が現実だった。

さらに海軍が、同じ島国で世界最強、薩摩や新政府
との関係が良好なイギリス式を採用した一方で、陸
軍は幕府時代のフランス式から普仏戦争でのプロシ
ア大勝を受けてドイツ式に変わっていった。日本の
なかに海洋国家思想に立つ海軍と大陸国家思想に立
つ陸軍の誕生という戦略思想の異なる軍事組織が誕
生したのだ。

すでに組織、予算において海軍に優っていた陸軍が、
陸軍省、海軍省分離の機会を捉えて「陸海軍官員
順序の儀これまでまちまち…、今後陸軍を上とし海
軍を下にし」と上申し、それまでの海主陸従の「海
陸軍」という呼称は正式に「陸海軍」に統一された。
陸軍には西郷隆盛や山縣有朋などの錚々たる人材
が多くいたが、海軍にはこれに匹敵する人材は見当
たらなかったことも大きく影響した。のちに山本権
兵衛が登場して海軍建設に活躍するのは1890年
代のことであり、当時、彼は海軍兵学寮生徒でしか
なかった。「おおいに海軍を創立すべきの儀」に始
まる「海陸軍」もわずか4年でその幕を閉じること
になった。

(つづく)
 
 
【主要参考資料】



(つづく)


【主要参考資料】

外山三郎著『日本海軍史』
(教育社歴史新書、1980年)

加藤祐三著『幕末外交と開国』
(講談社学術文庫、2012年)

常廣栄一
「幕末における露国の対馬占領事件(上)(下)」
『東郷』21-4,5

常廣栄一「海陸軍が陸海軍になった日」
『水交』20-3,4

常廣栄一「幻の海兵隊」
(「東郷」20-1/2)

藤井哲博著『長崎海軍伝習所』
(中公新書、1991年)

篠原宏著『日本海軍お雇い外人』
(中公新書、1988年)




(どうした・てつろう)


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【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。


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