こんにちは。エンリケです。
『海軍戦略500年史』の二十二回目です。
海から眺めることで、はじめて見えてくる歴史もあ
りますね。
さっそくどうぞ
エンリケ
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海軍戦略500年史(22)
鎖国の終焉
堂下哲郎(元海将)
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□はじめに
前回は、新興国海軍のひとつであるドイツ海軍の創
設から英独建艦競争までをたどりました。
今回からは、もうひとつの新興国海軍である日本海
軍の話になります。日本については、第5回で「大
航海時代と戦国日本」として鎖国政策をとったとこ
ろまででしたので、今回から少し詳しく徳川幕府以
来の対外政策や海防、明治海軍の創設の流れを見て
ゆきたいと思います。
▼ヨーロッパ諸国の東アジア進出
イギリスは、ナポレオン戦争終結後、戦争中に占領
した東インド諸島をオランダに返還したものの
(1816年)、インドからさらに東方への進出を図る。
このためマラッカ海峡を管制できるシンガポールを
ジョホール国王から獲得し(1819年)、オランダの
抗議にもかかわらず自由港市を建設して(1826年)、
イギリスの東アジアにおける貿易基地、戦略拠点と
した。なお、1770年にクックが発見したオーストラ
リアとニュージーランドには19世紀を通じてイギリ
ス人の植民が進められた。
これより前、イギリスは中国産紅茶の輸入で流出す
る銀を取り戻すため、インドでアヘン生産を開始し
(1773年)、中国や東南アジア諸国への密輸を進め
ていた。イギリスはアヘンを禁輸しようとする清国
と対立してアヘン戦争(1839~42年)を起こし、圧
倒的な海軍力で勝利して巨額の賠償金と香港の割譲
を受けるとともに(1842年)、アヘン貿易を合法、
自由化し(1858年)、さらに日本にも大きな関心を
示すようになった。
フランスは1820年代からベトナムの内戦に干渉し、
清仏戦争(1884年)を制して植民地とし、さらにカ
ンボジア、ラオスも獲得して東アジアにおける拠点
とした。
シベリアを東進してアジアに進出したロシアもま
た、18世紀以来艦隊を派遣して北太平洋で活発に行
動しており、日本に対する物資(薪水)補給を要請
するとともに、1792年にはロシア政府の遣日使節ラ
クスマンが来日し、イギリス船、フランス船の来航
がそれについだ。
▼幕府の鎖国政策の変遷──穏健策から強硬策へ
このように外国船が日本近海に出没しはじめると、
それまでのキリシタン禁制などを柱とした鎖国政策
の役割が大きく変化する。外国船(異国船)への対
処、日本人の海外渡航禁止、そして大型外洋船の所
有・建造の禁止などが重視されるようになったのだ。
幕府は4回にわたって異国船対処の方針を打ち出
し、沿岸部に領地を持つ諸大名に周知するとともに、
外国に対しては長崎在住のオランダ商館長から伝え
させた。
まず幕府が示したのは、シベリアに進出したロシア
船の来航に対応するため、食料と水・薪など必要な
物資を与えて帰帆させる穏健策である寛政令(179
1年)である。1792年にはラクスマンが日本人遭難
者(大黒屋光太夫ら)を伴って通商を求めて根室に
来航したが、親書の受け取りを拒否する。1804年に
は特使レザレフが再び強く通商を求めて長崎に来航
したが、通商を拒絶されたため、樺太、千島の日本
人在地を襲撃(私掠)するという事件が起きる。
これをうけて幕府は対露艦船打払令である文化令
(1806年)を発布する。1811年には再び特使ゴロー
ニンが国後島に来航するが、襲撃を警戒した日本側
に捕らえられた後に釈放される。その後は日本の鎖
国政策の強固さを理解したロシアからの来航はなく、
40年あまり後のプチャーチンまで平穏な日露関係が
続いた。
▼アヘン戦争の衝撃──ふたたび穏健策へ
1808年、ナポレオン戦争の余波でイギリス軍艦「フ
ェートン」が長崎のオランダ商館のオランダ国旗を
引き下ろすために来航し、奉行の制止を聞かずに上
陸、牛などを奪った事件が起きる。幕府は文政令
(1825年)を出し、外国船が沿岸に姿を現せば、た
めらうことなく大砲を撃てという「無二念打払令」
(むにねん、ためらうことなくの意)という強硬策
に出る。なお、この事件をきっかけとして官民で反
英論が起きる。
1837年には、浦賀沖に来航した船籍不明の異国船に
向け浦賀砲台が発砲し命中、船は帰帆したが鹿児島
沖でも再び打ち払いに遭う(モリソン号事件)。翌
年入ったオランダ風説書によれば、日本人漂流民の
送還のために大砲を外して非武装としたイギリス軍
艦に対する発砲は極めて遺憾、とあった。
実際にはイギリス軍艦というのはアメリカ商船の誤
りだったが、翌1839年の風説書によりアヘン戦争で
イギリスが大勝したことが伝わると英国脅威論が強
まった。幕府は、イギリス海軍が「モリソン号」の
報復にやってくるに違いないと考え、このまま強硬
な打払令を続けると、海軍を持たない日本も清国と
同じ目に遭いかねないと考え避戦論に傾き、発砲せ
ず必要な物資を与えて帰帆させる穏健な天保薪水令
(1842年)に転換した。人口100万人を超える江戸
を支える物資の6割以上は江戸湾に入ってくる廻船
によって運搬されていたことから、敵の軍艦1隻で
も封鎖されるおそれもあると考えたのだ。
この政策が公布されたのは、清国がアヘン戦争に敗
れ南京条約を結ぶ1日前のことだった。幕府は長崎
のオランダ商館長に対して、天保令への転換を諸外
国に知らせるよう要請したが、日本との通商を独占
したいオランダは1851年まで諸外国に知らせなかっ
た。その一方でオランダ国王ウィレム2世は、いず
れ外国船が開国・開港を求めてくるので対外政策を
抜本的に変更すべきであるとの書簡を送っている
(1844年)。
▼捕鯨国アメリカとの出会い
19世紀初頭から西進政策を推し進めてきたアメ
リカは、太平洋岸まで領土を拡大して太平洋国家と
して出現し、太平洋の対岸にある日本に関心を持つ
ようになる。アメリカは1791年から太平洋での捕鯨
を始めたが、最盛期の1846年には出漁したアメリカ
捕鯨船数は延べ736隻、年間1万4,000頭を捕獲する
乱獲時代を迎えていた。
ちなみに1859年にはペンシンヴェニアで油田が開発
され、しばらくは灯油として鯨油と石油の併用時代
がつづくが、やがて石油に取って代わられ、捕鯨業
は衰退してゆく。いずれにせよ、この時期、日本近
海でも300隻ほどのアメリカ捕鯨船が操業し、難破
船も増えていたため、アメリカは補給と難船者の救
助のための日本の支援を必要としており、アメリカ
船の来航が急増する。
1845年、漂流日本人を送還するために浦賀に捕鯨船
「マンハッタン号」が来た。ついで1846年、アメリ
カの公的使節である米国東インド艦隊のビッドル提
督が国務長官の親書を渡たすために来航したが、親
書は受け取られなかった。さらに1849年にはアメリ
カ漂流民救出のため「プレブル号」が長崎に来航し
た。これらの問題はいずれも円満に解決したため、
幕府内では英国脅威論の一方で親米論が支配的にな
った。
超大国イギリスが各地で戦争を仕掛けて植民地を
獲得し、世界の覇権を狙っていたのに対して、アメ
リカは独立から77年目の友好的な新興国であり、
幕府としては与しやすいと考えたのだ。さらに幕府
は最初の条約の有利・不利が後続条約に引き継がれ
る「最恵国待遇」の考え方から、最初の条約相手国
の選択は決定的に重要なことも理解しており、この
点からもアメリカはふさわしいものと受け止められ
るようになった。
▼黒船来航
1853年、ペリー率いる蒸気船と帆船各2隻から
なるアメリカ東インド艦隊が、ノーフォークから喜
望峰まわりで7か月半の苦難の航海を経て日本に来
航した。シンガポール、香港、上海、琉球、父島を
経て、石炭を節約するため2日前まで帆走していた
外輪船も機走に切り替え、伊豆沖で大砲などあらゆ
る武器を準備して全艦が臨戦態勢をとって浦賀沖に
達した。黒船の来航だ。
幕府は、前年のうちにペリー艦隊来航の情報を長崎
出島のオランダ商館長から入手していたため、来航
地を長崎か浦賀のいずれかと想定し、オランダ語通
訳を浦賀奉行所にも配置するなど対応を準備してい
た。そして、老中首座の阿部正弘は、海軍を持たな
い日本としては軍事的対決を回避し外交で対処する
しかないことから、国交のないアメリカであったが、
熟慮の末、国書を受け取ることを決断する。幕府は、
ペリーらを久里浜に上陸させ大統領の国書を受け取
ると、アメリカ側は祝砲3発を撃った。
初めての黒船来航で発砲交戦は避けられたのだが、
その理由としてペリー艦隊側も発砲厳禁の大統領命
令を受けていたことがある。時のフィルモア大統領
はホイッグ党(のちの共和党)に所属していたが、
宣戦布告は民主党が牛耳る議会の権限だったので、
ペリー艦隊の行動は行政府の権限内に収める必要が
あったのだ。また、アメリカ海軍は石炭や食糧など
の補給をイギリスP&O社に頼っていたことから、
万一、日本と交戦状態になれば旧宗主国イギリスの
中立宣言は必至であり、そうなると艦隊の行動が継
続できなくなるという事情もあった。
受け取ったフィルモア大統領の国書には、(1)アメリ
カ人遭難者とその船舶の保護、(2)物資補給、海難時
の修理のための入港、無人島への貯炭所の設置、(3)
貿易のための入港などが求められていた。
阿部は前代未聞のことながら、開国について各界の
意見を広く募った。諸大名などの多数意見は、アメ
リカの要求を拒絶し現状を維持すべしとするもので、
その他には石炭供給程度の妥協で年限を決めて貿
易を始めるという部分的な開国論から、陸上の砲台
による旧来の海防ではなく海軍を持つべしとする積
極的なものまで様々だった。
この中で大型船建造を解禁すべきとの意見が多かっ
たことを受けて、ペリー艦隊来航の3か月後には大
型船解禁の老中通達を出し、同時に幕府はオランダ
商館へ蒸気船を発注した。また、海外渡航も解禁さ
れた。なお、ペリーから1か月半おくれで、ロシア
使節プチャーチンが条約締結のために長崎に来航し
たが、幕府は対米交渉を優先する方針を固めていた
ため、ロシアに対しては引き延ばし策をとった。
▼鎖国体制の終焉
1854年、ペリー艦隊が再来し横浜沖に投錨した。今
度は3隻の蒸気船を含む9隻の艦隊だ。横浜に応接
所を設定するのに時間がかかり、苛立ったペリーが
「条約の締結が受け入れられない場合、戦争になる
かもしれない。当方は近海に50隻の軍艦を待機させ
ており、カリフォルニアにはさらに50隻ある。これ
ら100隻は20日間で到着する」とブラフをかける場
面もあったが、日本側は動じることもなく交渉に臨
んだ。
およそ1か月間の協議の結果、下田、箱館を避難
港として開港、漂流民の救助経費の相互負担、漂流
民の取り扱い、アメリカに対する最恵国待遇が明記
された全12か条からなる日米和親条約を締結、調
印した。同様の条約は、順次、イギリス、ロシア、
オランダと締結された。アメリカ側から要求のあっ
た開港、貿易、居留などは和親条約から削除され、
将来の通商条約の交渉に持ち越されたため、そのた
めのアメリカ外交官の下田駐在があわせて明記され
た。こうして200年以上続いた鎖国体制は幕を閉じた。
ちなみに、おくれてロシアのプチャーチンも再来
するが、クリミア戦争中であったので、英仏の目を
避けて軍艦1隻のみで内海の大坂に入港する。その
後下田に回航させられ、懸案の領土問題が協議され、
千島においては択捉島と得撫島との間を国境線とす
る日露和親条約(下田条約、1855年)が締結された。
▼清国との違い
19世紀の帝国主義の世界ではインドはイギリスの
植民地に、インドネシアはオランダの植民地となっ
ていた。列強が仕掛ける戦争で敗戦した側は、植民
地にされるか不平等条約を強いられるのが普通だっ
た。清国は、南京条約により領土割譲(香港)と巨
額の賠償金が課せられたが、その後も度重なる不平
等条約を強いられて、ついに財政破綻した。アヘン
戦争にはじまり第二次世界大戦に続く屈従の歴史は、
中国人にとって耐えがたいものであり、この歴史
に根ざした「中華民族の偉大な復興」という「中国
の夢」に突き動かされているのが、現在の中国であ
る。
これに対して、日米和親条約は平和的な交渉により
結ばれた。黒船に恐れをなした幕府が条約締結を強
いられたというのではなく、極めて限られた海外情
報からアメリカを最初の条約締結国に選び、交渉を
行なって締結に至ったことは一定の外交能力を示し
たといえる。イギリスでなくアヘン禁輸の立場をと
っていたアメリカと一発の発砲もなく最初の条約を
結べたことで、日本はアヘンの被害を受けずにすん
だことも重要だった。
ペリー艦隊が来航したのは、アメリカが「明白なる
天命(manifest destiny)」を唱
えて西進政策を進め、太平洋国家となったわずか5
年後のことだった。開国して列強の仲間入りを目指
してゆく日本と海洋国家として発展するアメリカは、
太平洋を挟んだ隣国として新たな日米関係を構築し
てゆくことになる。
(つづく)
【主要参考資料】
田所昌幸・阿川尚之編
『海洋国家としてのアメリカ
パクス・アメリカーナへの道』
(千倉書房、2013年)
加藤祐三著『幕末外交と開国』
(講談社学術文庫、2012年)
青木栄一著『シーパワーの世界史(2)』
(出版共同社、1983年)
松方冬子著『オランダ風説書』
(中公新書、2010年)
松尾晋一著『江戸幕府と国防』
(講談社選書メチエ、2013年)
(どうした・てつろう)
◇おしらせ
2021年11月号の月刊『HANADA』誌に、
櫻井よしこさん司会による「陸海空自衛隊元最高幹
部大座談会」が掲載されています。岩田清文元陸幕
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【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。
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