こんにちは。エンリケです。
『海軍戦略500年史』の二十回目です。
技術の話も面白いです。
さっそくどうぞ
エンリケ
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海軍戦略500年史(20)
ネイヴァル・ルネッサンス(3)
堂下哲郎(元海将)
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□お知らせ
今月号の月刊『HANADA』誌に、櫻井よしこさ
ん司会による「陸海空自衛隊元最高幹部大座談会」
が掲載されています。岩田清文元陸幕長、織田邦男
元空将とともに「台湾有事」「尖閣問題」について
大いに論じてきました。
月刊Hanada2021年11月号
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今号は、ネイヴァル・ルネッサンスの最終回で、こ
の時期に大きく発達した軍艦や兵器についてまとめ
てみます。
▼近代戦艦の誕生──大艦巨砲主義の到来
1880年代には、砲塔の重さが100トンにも達する巨
砲搭載艦が出現したが、重心を下げるため低い位置
に装備したため、時化(しけ)ると波をかぶって射
撃できなくなる欠陥があった。この対策として砲身
のみを甲板上にむき出しで取り付け、砲の作動装置
は装甲で囲んで船体の内部に埋めるバーベッド
(barbette)艦が建造された。イギリスの「ロイヤ
ル・サブリン(Royal Sovereign)」級6隻(1892~
94年竣工)である。
この級のように、乾舷を高くした凌波性のある船体
の前部と後部に口径30センチほどの大口径砲2門
ずつを主砲として装備し、左右の舷側に数門ずつの
中口径速射砲を置いて水雷艇に対する兵器とするの
が世界の装甲艦の標準となり、戦艦(Battle ship)
と呼ばれた。
その後も戦艦の技術革新は進み、バーベットの上の
砲身の基部は、クルップ鋼などの強度が高く軽い特
殊鋼装甲の厚い天蓋(hood)で覆われ防御力を高め
た。これらの戦艦は数千メートルの射程で数百キロ
の重量の砲弾を相手に撃ち込める能力を持つように
なった。この威力が実戦で証明されるのが日露戦争
(1904~05年)であり、より大きな攻撃力と防御力
を求めて戦艦はさらに発達することになる。大艦巨
砲主義の時代の到来である。
▼大艦巨砲主義への道――日本海海戦
日露戦争における日本海海戦(1905年)では、ロシ
ア艦隊の主力艦がすべて撃沈、捕獲されたのに対し、
日本艦隊は水雷艇3隻のみを失うに過ぎない海戦史
に残るパーフェクトゲームとなった。これは測距儀
や砲術用計算機の実用化などで近代砲術が進歩して、
戦艦の大口径砲が威力を発揮できるようになったこ
とが大きく貢献している。
この戦いでは、厚い装甲によって防御された戦艦が
はじめて砲弾によって撃沈されたが、日本側の砲弾
がロシア戦艦の装甲を貫徹したのではなく、非装甲
部分に命中炸裂して火災や砲弾の破片による被害を
起こして戦闘力を奪ったのが原因だった。さらにロ
シア側を不利にしたのは石炭の過搭載で復元力が低
下した上に、吃水が深くなり舷側の装甲帯がほとん
ど水線下になり、装甲の薄い部分への命中弾ででき
た破孔からの浸水で転覆・沈没した例が多かったこ
とである。
このように戦艦同士の対戦は、大口径砲対装甲の競
争という単純な図式のみではなく、非装甲部分の損
害に対する考慮、火災、浸水を局限するための設備
など総合的なダメージ・コントロールの考え方が重
要視されるようになる。また、両軍とも単縦陣で対
戦したが、日本艦隊が2~3ノットの優速を活かし
て常に有利な位置を占め、戦闘の主導権を握ったこ
とも勝因の一つであった。
こうして大口径砲の撃ちあいによる艦隊決戦とい
う大艦巨砲主義が到来し、主砲の大口径化と防御の
ための重装甲化、そして有利な位置を占めるための
高速化のために主力艦はますます大型化してゆくこ
とになる。
▼ドレッドノート革命
19世紀後半の海軍にとって、砲の大型化により射
程が伸びたものの命中率が低下したことが大きな問
題になったことはすでに述べた。これを解決したの
がイギリス海軍のスコットであり、彼は艦の全主砲
を同時に発射(斉射:Salvo)して一定の弾着の範
囲(散布界)内に敵艦を捉えて命中弾を得る射撃法
を考案した。この射撃法は、射撃計算盤(Fire
control table)という専用の機械式計算機(1906
年)と艦の動揺を補正するジャイロスコープ(1916
年)が開発されたことにより改良され、近代的な砲
術が確立された。
このような斉射をするためには一艦に同一種類の重
砲をできるだけ多く搭載することが望ましい。当時
の戦艦の主砲は4門ほどであったが、これを10門に
増やしたのがイギリス海軍の戦艦「ドレッドノート
(Dreadnought)」だ。同艦は、1906年に登場した
12インチ(30センチ)砲10門、装甲の厚さ11インチ
(約28センチ)、蒸気タービンを世界で最初に採用
し戦艦としては未曽有の21ノットという高速を発揮
した画期的な戦艦だ。
引き続きイギリス海軍が建造したのが巡洋戦艦「イ
ンヴィンシブル(Invincible)」であり、12インチ
砲8門、装甲を減らしたかわりに25ノットという高
速を発揮し、戦艦なみの攻撃力と巡洋艦をしのぐ高
速力で世界の注目を浴びた。
「ドレッドノート」と「インヴィンシブル」の登場
により、すでに就役していた世界中の戦艦と装甲巡
洋艦は一挙に時代遅れとなった。これはイギリス海
軍を含め、世界の海軍は新たな建艦競争のスタート
ラインにつくことを意味した。
以後建造される12インチ(30センチ)砲搭載艦をド
レッドノート型(ド級)戦艦、13.5インチ(34セン
チ)以上の砲を搭載した艦を超ドレッドノート型
(超ド級)戦艦と呼んだ。第一次大戦終結までに世
界11か国でド級戦艦が66隻、超ド級戦艦が42隻建造
されたが、このうちイギリスが47隻で最も多く、次
いでドイツが26隻であり英独間の建艦競争の激しさ
を示している。
第一次大戦で最も活躍したのは高速を発揮した巡洋
戦艦であったが、防御力の弱さから被害も多かった。
低速の戦艦は参戦の機会が少なかったこともあり、
大戦後の戦艦設計の流れは高い攻撃力と防御力を兼
ね備えた25ノット以上の高速戦艦となっていく。
▼巡洋艦の変遷
では巡洋戦艦はどのように誕生したのか? 帆走海
軍時代に通商破壊戦や商船保護に活躍したフリゲー
トは、木造帆船のまま蒸気機関を搭載し高速化と航
続力を向上させた。1870年代には速力15ノット以上
で、中小口径の速射砲を備えた鉄製航洋艦に発達し、
各国でフリゲートあるいはコルベットという艦種で
多数建造された。
これら高速で長大な航続力をもつ艦が巡洋艦(Cr
uiser)と呼ばれるようになるのは1880年代からで
ある。薄い装甲で機関や弾薬庫を覆っていたのが防
護巡洋艦(Protected cruiser)、舷側水線部の装
甲を強化したのが装甲巡洋艦(Armored cruiser)
だ。当初、装甲巡洋艦は敵の防護巡洋艦を撃破する
目的であったが、攻撃力と防御力を強化して最終的
には戦艦なみの12インチ砲をもつようになり、戦艦
に次ぐ準主力艦として巡洋戦艦と呼ばれるようにな
った。
1910年前後には、排水量2,500~6,000トン程度で、
軽装甲ながら25ノット以上の高速を出す軽巡洋艦
(Light cruiser)が登場し、通商破壊戦や商船保
護に加え、主力艦隊の哨戒、駆逐艦部隊の旗艦など
多方面に活躍した。
▼水雷兵器の発達
敵艦を沈めるには水線下に穴を開けて海水を入れる
のが手っ取り早い方法だ。従来は衝角突撃でやって
きたが、軍艦が高速化、装甲化されるなかで次第に
難しい戦術となり、リッサ海戦を最後に姿を消した
ことはすでに述べた。
もう一つの方法は爆発物を使う方法で、19世紀中頃
には爆薬を詰めた容器を一定の水深に沈めておき、
その上を通過する艦艇の水線下に穴を開ける方法が
実用化する。機械水雷(Mechanical mine)、略し
て機雷の登場だ。
機雷には取り付けた触角に艦がぶつかることにより
起爆する方式(Contact mine)と、陸上からの遠隔
操作で起爆させる方式(Control mine)があった。
クリミア戦争(1854~56年)や南北戦争(1861~65
年)では港湾や沿岸防備に用いられ戦果をあげた。
ちなみに機雷は「貧者の兵器」とか「沈黙の兵器」
とも呼ばれ、安価で大きな攻撃力を発揮できる兵器
として起爆方式などの改良を繰り返しながら今日も
さまざまなタイプが各国で量産されている。
このような防御的な用法に加えて、南北戦争では攻
撃的にも使われた。小型艇や潜水艇で敵艦に近づき
、爆薬を取り付けた長い棒をぶつける外装水雷(s
par torpedo)で、実際に両軍とも戦果をあげたが、
攻撃側も被害を受ける危険極まりない戦法であった。
1868年にはイギリス人ホワイトヘッドが自走水雷
(Locomotive torpedo)を開発し、その形から魚形
水雷(Fish torpedo、単にtorpedo)、略して魚雷
という用語が定着した。翌年にはイギリス海軍が取
り入れて実験が重ねられた。
▼水雷艇、駆逐艦の登場
その後、魚雷は急速に発達し、初期の有効射程が数
百メートルだったものが第一次大戦勃発の頃には28
ノットで射程1万ヤード(9,000メートル)という高
い性能を発揮した。この魚雷を主な兵装とする高速
の小型艦艇が水雷艇だ。水雷艇は、小型、安価であ
りながら大型の装甲艦を撃沈できる能力があったた
め、1880年代には各国海軍は競って建造した。1896
年末には七つの大海軍国のみで1,200隻以上に達し
たため、各国はその対抗手段をとることを迫られた。
当初は小型の高速砲艦で対抗しようとしたがうまく
ゆかず、次第に砲と魚雷の両方を備えたより大型、
高速の水雷艇が建造されるようになった。この大型
の水雷艇は水雷艇駆逐艦(Torpedo-boat destroyer)
と呼ばれ、のちには単に駆逐艦(Destroyer)と呼
ばれるようになった。この駆逐艦は急速に各国海軍
に採用され、従来の水雷艇は次第にその数を減らし
ていった。
駆逐艦は、蒸気タービン機関の小型化により数百ト
ンの船体ながら30ノットの高速を出せた。その後、
攻撃力、航洋性を高めるために次第に大型化し、
第一次大戦時には1,000トンほどの大きさになり、
なかには旗艦設備を持つ、より大型の嚮導駆逐艦
(Flotilla leader)も登場した。1900年代になる
と駆逐艦は、水雷艇を駆逐するだけでなく、それ自
体で敵艦隊に対する魚雷攻撃、潜水艦に対する攻撃、
機雷掃海など極めて幅広い任務に活躍するようにな
る。
▼水中兵器の威力──フランス青年学派
水中に設置される機雷に始まった水中兵器は、外装
水雷を経て魚雷が実用化されたことにより、その威
力を発揮し始める。
魚雷で装甲艦を沈めた世界初の戦例としては、チリ
革命戦争(1891年)で政府軍の水雷砲艦が発射
した5発の魚雷のうち1発が停泊中の革命軍装甲艦
に命中しあっけなく沈没させたことがある。また、
大規模な魚雷攻撃としては、日清戦争で日本の水雷
艇が威海衛に停泊していた清国の装甲艦など4隻を
撃沈した(1895年)。また、黄海海戦(1894年)で
砲弾200発が命中しても沈まなかった装甲艦「定遠」
が、36センチ魚雷1発の命中で沈没したことは各国
海軍に大きな衝撃を与えた。
このように小型の水雷艇の魚雷で大型の装甲艦の水
線下に破孔を開けると簡単に沈められることが実証
されたため、海戦戦術や建艦計画にも大きな影響を
与えた。特に1880年代のフランス海軍では、
「青年学派(Jeune Ecole)」と称される戦術研究
グループが魚雷の威力により装甲艦優位の時代は終
わったとして、戦艦を作る予算で多数の小型艦艇を
保有する方が有利だと主張した。
これは、世界第2位のフランス海軍が巨額の建造費
をつぎ込んで装甲艦を作っても第1位のイギリス海
軍にはなかなか追いつけないうえに、そもそも装甲
艦が現実の海戦においてさっぱり相手を沈めること
ができないという現実があった。
フランス海軍としては非対称戦略をとって、より安
価な費用でイギリス海軍の優位を打ち破りたいと考
えたのだが、この戦略を一貫して追求することはな
く、過度に小型艦を重視する傾向を強め、戦艦が海
軍軍備の中心であった時代にあってフランス海軍の
地位は低下した。ドイツ陸軍との対抗上もフランス
では海軍は第二義的な意義づけしか与えられず、建
艦能力でも劣っていたこともあり、ドイツ海軍はも
ちろん日本やイタリアと比べても見劣りするものと
なっていった。
日露戦争では、開戦直後に駆逐艦10隻でロシア太平
洋艦隊の基地旅順を奇襲し、戦艦2隻などに魚雷を
命中させている。黄海海戦(1904年)では日本駆逐
艦による大規模な洋上襲撃が行なわれたが失敗に終
わった。しかし日本海海戦(1905年)では、駆逐艦
と水雷艇で戦艦2隻撃沈など大きな戦果をあげた。
魚雷の戦果も大きかったが、日露戦争で最も戦果を
あげた水中兵器は機雷であった。両国艦隊が対峙し
た遼東半島の沿岸では、互いに相手艦艇の航路上に
多数の繋維機雷が敷設され、日本は戦艦など11隻、
ロシアも戦艦など3隻を失っている。
▼潜水艦の登場と発達
潜水艦は、現代でこそ水中を自由に行動し強大な攻
撃力を誇っているが、その動力源、潜航・浮上方式、
水中攻撃兵器などの開発には長い年月を要した。
潜没状態で航行した世界最初の潜水艦は、アメリカ
独立戦争(1776年)時に作られたアメリカの
「タートル(Turtle)」である。一人乗りの同艦は
人力でスクリューを回して移動し、艇に取り付けら
れた爆薬で敵艦の艦底に穴を開けようというものだ
ったが、成功しなかった。
幾多の試作、実験を経て、実用的潜水艦の原型とな
ったのが、アメリカ人ホランドが1899年に建造した
「ホランド(Holland)」であり、翌年以降アメリ
カ海軍で排水量122トンの「A型」として建造された。
このホランド型はイギリスや日本が採用したほか、
フランス海軍は独自の潜水艦の開発に熱心に取り組
んだ。
第一次大戦直前には、主要海軍国7か国だけで200隻
以上の潜水艦を保有していた。この頃の潜水艦は数
百トン程度の大きさが主流となり、ディーゼルエン
ジンで水上を航行し、攻撃時には潜航して蓄電池と
モーターで行動することで洋上の作戦が可能になっ
た。この推進方式は、原子力潜水艦の登場まで基本
的に変わらず、第一次大戦では、艦船攻撃、通商破
壊戦など多くの任務に投入されることになる。
(つづく)
【主要参考資料】
ポール・ケネディ著
『イギリス海上覇権の盛衰 上、下』
山本文史訳(中央公論新社、2020年)
青木栄一著
『シーパワーの世界史(2)』
(出版共同社、1983年)
小林幸雄著
『イングランド海軍の歴史』
(原書房、2007年)
田所昌幸編
『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリ
タニカ』(有斐閣、2006年)
藤井哲博著
『長崎海軍伝習所』(中公新書、1991年)
黛治夫著『海軍砲戦史談』
(原書房、1972年)
水交会編『帝国海軍提督たちの遺稿
小柳資料』(水交会、2010年)
(どうした・てつろう)
【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。
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