配信日時 2021/09/15 20:00

【海軍戦略500年史(18) 】ネイヴァル・ルネッサンス(1) 堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の十七回目です。

毎回面白いですねえ!

日本発の世界史を知ることがこれほど楽しい
とは思いませんでした。

戦略、技術、ビジネス、戦術、、、、

軍事を知ると時代、歴史の実相がつかめますね。

さっそくどうぞ

エンリケ


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海軍戦略500年史(18)

ネイヴァル・ルネッサンス(1)

堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

前回は、パクス・ブリタニカに関連して、フランス
が英仏抗争で負けた理由やイギリスが海上覇権を維
持できた理由について整理しました。
今回から、3回にわけてイギリスで始まった産業革
命が海軍に及ぼした技術革新の状況を見てゆきたい
と思います。これまでの海上覇権争いの歴史が帆走
海軍によるもので、現代の私たちには少し想像しに
くいところがあったかと思いますが、蒸気力海軍へ
の転換の経緯を理解すると、近代海軍によって展開
される歴史がより理解しやすくなると思います。
 
▼技術革新の時代

18世紀後半にイギリスで起こった産業革命は、19世
紀前半にはヨーロッパ大陸やアメリカに広がった。
この間に、アメリカ独立戦争(1775~83年)、フラ
ンス革命戦争(1793~1802年)、ナポレオン戦争
(1803~15年)と連続したイギリスとフランスとの
間の激しい海上覇権の争奪戦が繰り広げられていた。
長期にわたってフランス海軍を圧倒し続けたイギリ
ス海軍を支えたのが、産業革命で大きく成長したイ
ギリス経済の力だったことはいうまでもない。

その産業革命は、陸上においてはさまざまな技術革
新を起こしたが、海上においては、少なくともナポ
レオン戦争までは、海上の軍艦は木造の帆走艦であ
ったし、搭載された大砲は3世紀にわたって使われ
てきた鋳造の前装砲(先込め砲)のままだった。し
たがって海戦の様子も大きく変わることはなかった
のである。産業革命の成果が軍艦や海戦を大きく変
えてゆくには1世紀近い歳月が必要であった。

▼ネイヴァル・ルネッサンス

軍艦の構造と性格を大きく変えたのは、炸裂弾とス
クリューの発明である。まず船体の大型化にともな
い、木造では強度を保てなくなったことから鋼船に
なった。そして炸裂弾の発明で砲弾の威力が大きく
なると、それを防ぐ装甲が生まれ、さらに鋼鉄の利
用が進むという具合だ。
 
蒸気機関が現れても軍艦に搭載するには、小型、軽
量、大出力でなければならず、そのような蒸気機関
は18世紀末までは実用化されなかった。また推進装
置も、19世紀初頭に現れた外車輪は軍艦には適さな
いためスクリューの発明が必要だった。これらの条
件がそろい、軍艦の構造や搭載兵器が大きく変わっ
てくるのは1850年代のことである。

いったん技術革新の成果を取り入れた軍艦や兵器の
進歩のスピードは急激だった。どの国の海軍も新し
い技術やアイデアの実用化を急ぎ、戦力の向上に結
びつけようと躍起になった。艦砲の威力の向上と、
それに対する防御方式の開発、速力や航続力の増大、
艦載兵器の発達と複雑化により軍艦の役割が分化し、
多くの艦種が生まれた。海軍技術が著しく発達し、
海軍戦略や戦術の発達が促された「ネイヴァル・ル
ネッサンス」とでもいうべき時代の到来だ。

ところで、技術革新はイギリスがリードしたと思わ
れがちだが、その多くはフランスから起こり、イギ
リスはむしろ、おおむね受け身の姿勢で海外からの
挑戦に対応したのが現実だ。その理由としては、初
期の新技術はまったく未成熟で実用化には何十年も
かかったこと、鉄と蒸気力の利用といった分野の自
国の優位性があったため、その気になればすぐに追
いつけたこと、さらには帆走海軍として優位にあっ
たイギリスとしては、あえて不確実な技術体系に投
資することに慎重だったことなどがあげられる。

ちなみに日本は、ネイヴァル・ルネッサンスの時期
と近代海軍の発足がほぼ同時となり、帆走海軍を飛
ばして、いきなり蒸気力海軍から始めて短期間に近
代海軍を建設できた。これは、その後の日本を取り
巻く状況を考えると、まさに僥倖というべきことだ
った。

▼蒸気機関の導入

19世紀初めには蒸気船が実用化していたが、当時の
舶用機関は出力も信頼性も低く、石炭消費量が大き
かったため、もっぱら沿岸や河川用として用いられ
ていた。世界最初の蒸気機関を備えた軍艦は、1812
年戦争でイギリス海軍の封鎖を突破しようとしたア
メリカ海軍が試作した「デモロゴス(Demologos)」
であったが、完成は戦争に間に合わず、そのまま予
備艦として係留された。
 
イギリス海軍でも外車輪推進の砲艦を建造したが、
蒸気力軍艦の採用には消極的だった。この時期の蒸
気力軍艦は巨大な外車輪が艦の中ほどに取り付けら
れたため、舷側に並べられる大砲の数が減ったこ、
そして何より外車輪に被弾したら途端に動けなくな
ることが、軍艦としての致命的な欠陥と考えられた
のだ。
 
外車輪方式の欠陥を一気に解決したのはスクリュー
の発明である。1850年頃には軍艦の蒸気機関、スク
リュー推進が定着してきたが、しばらくは10ノット
以上を出せる本格的なものと、無風時や出入港時の
み蒸気力とし、航海の大部分は帆走していた汽帆両
用艦の二種類が共存していた。また、蒸気機関の導
入により軍艦の性能は著しく向上したが、同時に石
炭の補給が行動を厳しく制約するようになり、艦隊
に給炭艦を随伴させたり、航路に沿って給炭のため
の基地を確保する必要が生まれた。

▼炸裂弾の実用化

19世紀初頭までの艦砲は一般に先込め式の鋳造砲で
あり、砲弾もまた鋳鉄の球であった。砲弾は命中の
衝撃で弾丸が砕け散り、その破片で乗組員を殺傷し
たり、上甲板の設備を破壊し、索具を切断する程度
の効果しかなかった。有効射程は300メートル程度
であったから、敵艦とは至近距離まで近づかないと
砲戦の効果はなかった。
 
ナポレオン戦争の頃までには、イギリス、フランス
両国で内部に火薬を詰めた砲弾、炸裂弾(Shell)
の実験をしていたが、敵弾が降り注ぐ艦上でうまく
導火線に点火するのが難しく、失敗すれば自爆、成
功しても殺傷効果が大きすぎて非人道的と非難され、
結局は実用化しなかった。
 
実用化に至ったのは1820年代であり、その後、各国
海軍に広まった。実戦で効果が確認されたのは、ロ
シアが炸裂弾でトルコ艦隊を全滅させたクリミア戦
争でのシノープの海戦(1853年)でのことである。

▼アームストロング砲の登場

炸裂弾が実用化されても、砲の射程や命中率には大
きな進歩はなかった。艦砲についての大きな技術革
新は、1855年にアームストロング砲が発明され
たことに始まる。それまでの砲が鋳造の一体構造で
あったものを、鋼鉄で作った砲身を二重構造で補強
し、より大きな砲弾を遠くまで発射できるようにし
たのだ。

砲弾も先のとがった円筒形とし、砲身の内側に掘っ
たらせん状の溝で回転をつけることで弾道を安定さ
せ命中率を上げた。さらに砲弾と装薬(火薬)は砲
の後ろから込められるようにしたので、素早く撃て
るようになった。
 
このアームストロング砲は1859年にイギリス海
軍に制式に採用され、各国でも改良が重ねられ、1
880年頃には大型の艦砲が主流となった。また装
薬(発射薬)が、それまでの黒色火薬から燃焼速度
を調整できる無煙火薬に切り替わったため、砲弾を
高初速で発砲でき、砲身重量を軽くすることも可能
になった。さらに、それまでの艦砲は木製の砲車に
乗せられ、人力で操作されていたが、大型化したた
め機力で動く砲塔に据えられ、敵の砲弾から防御す
る装甲を施して軍艦に搭載されるようになった。
 
▼装甲と装甲艦の誕生

産業革命で近代製鉄の技術が確立し鉄の大量生産が
始まっても、鋼船の建造はゆっくりとしか進まなか
った。鋼船は同じ大きさの木造船よりも軽く強く作
れて火災に強く、水密隔壁や二重底で安全性も増す
ことができるのだが、水より重い鉄を使うことへの
心理的抵抗感、羅針儀を狂わせる鉄の特性、炸裂弾
が命中した場合に破片が飛散して乗員に危険をもた
らすことなどが軍艦への採用をためらわせたのだ。
 
しかし、前述したシノープの海戦での炸裂弾の木造
船に対する威力が伝わると、それに対する防御を考
えざるを得なくなり、装甲艦が登場する。最初の試
みは、クリミア戦争のセヴァストポリ攻撃において
フランス海軍が投入した平底船体の自走式浮砲台で
あり、120ミリの装甲で覆われた船体に多数の砲
門を設けたものだった。
 
浮砲台の装甲が効果を発揮したことから、軍艦に装
甲を施した装甲艦(Ironcrad)が考案された。1859
年に世界初の航洋装甲艦「グロアール(Gloire)」
をフランスが建造すると、あわてたイギリスは
「ウォリアー(Warrior)」で対抗し、その後各国に
広がっていった。

装甲艦の登場により従来の主力艦であった木造の戦
列艦の価値は一気に低下し、各国はより威力のある
艦砲を搭載し、より厚い装甲で覆われた装甲艦の建
造にしのぎを削った。装甲艦の数こそが各国海軍の
戦力を測る物差しとなり、大艦巨砲主義につながる
軍艦発達史上の最大の出来事が起きたのだ。
 
▼通信、信号の技術革新

 洋上での通信方式も、海戦のあり方に大きな影響
を及ぼしたが、海軍で19世紀初頭まで用いられてい
た通信手段は視覚信号であった。艦艇間では旗によ
る信号(旗りゅう信号)、手旗(セマホア)信号、
発光信号などが用いられたが、短距離間の通信に限
られ、視界の制約を受けやすい欠点はあるものの、
簡便なので現在でも広く用いられている。

1793年にはフランスで腕木の形で文字を表現する信
号機が考案され、パリとブレストやツーロンといっ
た海軍基地の間に配置され、通信文をすばやく中継・
伝達できるようになった。イギリス海軍は、19世紀
後半には腕木式信号機を艦艇にも装備した。
 
1844年、アメリカ人モールスが電信の実用化に成功
し、ヨーロッパ、アメリカ大陸は電信網で覆われた。
1847年にドーバー海峡を、1866年には北大西洋をそ
れぞれ横断する海底電信線が開通し、各国間の即時
通信が可能となり、海軍も世界各地の出来事に対し
素早い対応がとれるようになった。
一方で、艦艇がいったん海上に出てしまうと陸上と
の通信手段がなくなることは帆船時代と変わらなか
った。
 
これを解決したのが1896年にイタリア人マルコーニ
が発明した無線電信である。マルコーニの発明はイ
ギリスで特許を取得し、無線電信の実用化への研究
はイギリスを中心に行なわれることになった。
イギリス海軍が初めて艦隊で無線電信を使ったのは
1899年であり、改良を重ねて20世紀に入ると無線通
信は海軍にとって不可欠のものとなった。
 
日本海海戦(1905年)では、日本海軍は駆逐艦以上
のすべての艦艇と朝鮮海峡に面した主な望楼などに
無線電信機を装備して、世界で初めて海戦に無線を
活用した。この海戦は、世界初めてのネットワーク
中心の戦い(NCW: Network Centric Warfare)と
いわれている。
 
▼石炭から石油へ──燃料の確保

 蒸気機関が海軍艦艇に搭載されて以来、燃料であ
る石炭もまた海戦のあり方を左右する重要な要因に
なった。イギリスには高熱量、無煙の優れた舶用石
炭(カーディフ炭)が産出したし、多くの海軍国に
おいて石炭は国内自給可能な燃料であった。

 しかし、石炭を軍艦に搭載するのは重労働であり、
ボイラーへの投入はさらに重労働である上に熟練を
要する作業であった。またボイラーは数時間ごとに
消火して石炭殻や灰をかき出す必要がある手のかか
る燃料でもあった。これが液体である重油に置き換
われば、これらの重労働から乗組員は解放されるし、
ボイラーの出力向上にもつながる良いことづくめで
あったのだが、致命的な欠点として石油資源の偏在
と自国への運搬の問題があった。
 
 重油化推進の旗を振ったのはイギリスの第一海軍
卿フィッシャーであり、まず小型で大馬力の機関が
要求される駆逐艦のボイラーを重油専焼とした。当
時、イギリスでは石油は一滴も出なかったのでロシ
アのバクー油田から鉄道で黒海まで運び、そこで船
積みしてダーダネルス海峡、地中海を経由して輸入
していた。19世紀後半のロシアといえばイギリス
の仮想敵国であったことから、戦時の安定供給が大
きな課題となった。さらに、イギリス海軍自身が国
内産の良質炭の大口顧客であり、石炭業界との利害
関係から石油の全面採用に踏み切りにくいという事
情もあった。
 
 この課題に取り組んだのが、1912年当時海軍
大臣であったチャーチルであり、海軍の動力源とし
て石炭から逐次石油に代えること、安定供給のでき
る油田を獲得することを決断した。こうしてイギリ
スは、第一次世界大戦が勃発した1914年8月、
中東での石油開発に成功していたアングロ・ペルシ
ャ石油会社に資本参加して同社の支配権を握ること
にした。中東石油に対する最初のヨーロッパ資本の
参加は、海軍艦艇用の燃料確保のためだったのであ
る。
 
 油田は確保しても、戦時の輸送には懸念が残る。
フィッシャー卿は戦時消費量の4年分の備蓄を提案
したが、1913年には予算の制約から6か月分の
備蓄目標とされ、実際には4.5か月分が当面の水
準とされてしまう。懸念は的中し、第一次世界大戦
が始まり、ドイツ潜水艦がイギリスの通商破壊戦に
猛威をふるった1917年にはイギリス海軍の石油
備蓄は3週間分まで落ち込み、艦隊は出動を抑制さ
れたばかりか、駆逐艦の最高速力は20ノットに制
限された。近代戦における海軍の石油消費量は開戦
前には想像もできない大きなものとなったのである。


(つづく)


【主要参考資料】
ポール・ケネディ著
『イギリス海上覇権の盛衰 上、下』
山本文史訳(中央公論新社、2020年)

青木栄一著
『シーパワーの世界史(2)』
(出版共同社、1983年)

小林幸雄著
『イングランド海軍の歴史』
(原書房、2007年)

伊藤和雄
「まさにNCWであった日本海海戦」
『波濤』(兵術同好会、2008年9月)

田所昌幸編
『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリ
タニカ』(有斐閣、2006年)

藤井哲博著
『長崎海軍伝習所』(中公新書、1991年)




(どうした・てつろう)



【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。


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