配信日時 2021/09/01 20:00

【海軍戦略500年史(16) 】 パクス・ブリタニカの世界(1) 堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の十六回目です。

今回も非常に学びが大きいですね。
あなたの視野も広がることでしょう。


戦略拠点という点を
シーレーンという線でつないで
わが生存・勢力圏を確保維持する。

これが海洋からの発想なんでしょうね。

さっそくどうぞ

エンリケ


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海軍戦略500年史(16)

パクス・ブリタニカの世界(1)


堂下哲郎(元海将)

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前回は、帆船の発達とその時代の戦術などについて
まとめました。
 前々回、イギリスがフランスとの長期間の抗争を
制してパクス・ブリタニカに達したところまでの話
をしましたので、今回から2回にわたってパクス・
ブリタニカとはどういうことだったのか、当時の国
際情勢や経済などの面からも整理してみたいと思い
ます。


▼パクス・ブリタニカとは

1815年までのライバル国との長期間の抗争が終わっ
た時、イギリスは他を経済的、軍事的に圧倒する強
力な国家となっていた。それまでの海軍の決定的な
勝利によってイギリスは商業貿易で莫大な利益をあ
げ、これが産業革命の起爆剤になった。産業革命は
イギリスが継続的に成長するための基盤となり、か
つてない規模の植民地とあいまって工業、商業、運
輸、保険、金融におけるイギリスの支配を推し進め
た。

イギリスの植民地は全世界に広がり「太陽の没する
ことのない」一大植民帝国を形成した。イギリスは
植民地との貿易で繁栄し、世界の海はイギリスと植
民地を結ぶ交通路となって、挑戦を受けることのな
い強大なイギリス海軍がその安全を保障していた。
この「貿易、植民地、海軍」という戦略と経済の三
角形を強固にすることによりイギリスは世界帝国と
なったのだ。

このように強大なイギリスの主導のもとに平和が維
持された状態を「パクス・ブリタニカ(Pax Britannica)」
と呼び、ナポレオン戦争が終結した1815年から第一
次世界大戦が勃発する1914年までの1世紀の間は、
まさにイギリスの世紀といってよかった。

▼パクス・ブリタニカと自由貿易主義への転換

 パクス・ブリタニカの基盤にあるものは、イギリ
スが18世紀後半以降の産業革命によって、その生産
力を飛躍的に増大させ「世界の工場」として圧倒的
優位を保持していることであった。19世紀半ばのイ
ギリスの工業生産を見ると、世界の石炭の2/3、鉄
や綿織物の1/2を生産していた。この圧倒的な工業
力をもって、イギリス製品は世界中に輸出され、世
界の新しい市場や資源の開発にはロンドンの金融筋
の投資・融資が広く行なわれ、ポンドは最も信用あ
る通貨として世界に君臨した。

イギリスは、それまでの2世紀の間、独占と国家の
力によって富を育む重商主義で拡大してきたが、そ
れによって圧倒的な勝利を収めると一転して自由貿
易主義に転換した。工業、商業、海運、金融におい
て大きなリードを掴んだイギリスは、世界貿易が拡
大すればするほど利益をあげられるような経済構造
になり、もはや重商主義で自国の産業を保護する必
要がなくなったのだ。関税を引き下げ、航海条例や
穀物法を撤廃し、植民地を持つことによりイギリス
はさらに世界経済を支配しやすくなった。他の国々
は、イギリスの変わり身の早さに当惑しつつも、自
由貿易をある程度取り入れ、それぞれに利益を得て、
新しい世界経済の仕組みに対応していった。

▼帆船から蒸気船へ──海運業の発展

19世紀前半は、高速帆船(クリッパー)の全盛時代
であり、木材資源の豊富なアメリカが世界の造船業
をリードしていた。その後、蒸気船への移行と木造
船から木鉄交造船、鉄船、さらに製鋼法の発達によ
って鋼船へと推移してゆく。耐火性、水密性に優れ
た鉄船や鋼船は木造船よりもはるかに軽量で、なに
よりも材料の調達が容易だったので急速に普及した。
イギリスでは、1860年には3割が鉄船だったが、
1916年には97%が鋼船になった。この時期、フラン
スも初めての鋼製軍艦「ルドータブル」を建造し
(1873年)、日本でも長崎造船所で鋼船「筑後川丸」
が竣工している(1890年)。

帆船から蒸気船への転換に乗り遅れまいとする列強
は、汽船会社に補助金を出して郵便物の輸送を定期
郵便船(パケット)に担わせることで、帆船から蒸
気船への移行をバックアップした。イギリスでは
P&O社がアジア・オセアニア方面、キュナード社が
新大陸方面の定期輸送をそれぞれ請け負った。特に
P&O社は、1858年に東インド会社が解散するとイギ
リスの「帝国の道(Empire route)」の新たな担い
手となった。

 蒸気船の普及にともない、各地に石炭の貯蔵所を
設け、石炭を補給しながら長距離を航行する仕組み
が発達し、1870年代以降、列強が石炭の貯蔵所のネ
ットワーク、航路を確保するために「海上の道路」
の主導権を奪い合う時代となった。

19世紀は世界史上、最大規模の海上の民族移動が行
なわれた世紀であった。1820年からの100年間でヨ
ーロッパからだけでも北アメリカへ3600万人、南ア
メリカへ360万人、オーストラリア、ニュージーラ
ンドに200万人がそれぞれ海をわたって移住した。

特にアメリカ大陸への移住者は大農場を一気に開発
し、大量の生鮮食品を高速で運べる冷蔵庫を備えた
蒸気船の出現とあいまって、都市人口が急増してい
たヨーロッパの新たな食料供給源となった。また、
南北戦争後にアメリカが急激な経済成長を遂げると
、ヨーロッパとアメリカ双方向のヒト・モノ・カネ
の移動が進んで海運業が大きく発展した。

 こうしてイギリスの海運業は、かつてのオランダ
に完全にとって代わり、19世紀前半に帆船から蒸気
船への切り替えを行なうことによりアメリカからの
挑戦を退け、1890年までに世界の他の国全部を合わ
せたよりも多い商船を保有した。加えてイギリス船
は国内で産出する良質炭の輸出により往路において
も稼げたので、外国船に対してさらに優位に立てた。

世界一の商船隊は広域にわたる商品流通を支配し、
そのための保険業務もロンドンに集中するようにな
り、コーヒー・ハウスから始まった保険取引所ロイ
ズの発展をみた。ロンドンの金融街シティでは、官
民の借入れ、商品売買、通貨交換、船舶のチャータ
ー、保険の手配などあらゆる経済活動が行なわれ、
これら多数の関連した部門の優位の組み合わせから
イギリス経済の世界的優位がさらに強化された。

▼戦略的要衝の獲得──地球を戸締まりする鍵

 産業革命が進展すると、まず原料の供給地や製品
の市場としての植民地が求められた。その一方で、
海上交通上のチョークポイント、艦隊の泊地や石炭
の補給地、さらには海底ケーブルの中継地といった
戦略上の観点も植民地の選定において重視された。

イギリスは、ナポレオン戦争後のウィーン会議
(1914~15年)において多くの戦略的要衝を獲得し
た。
地中海の抑えの強化としてマルタ島とイオニア諸島
(ギリシャ)、インドや東洋への航路を押さえる拠
点として大西洋のガンビア、シエラレオネ、アセン
ション島、西インド諸島のセントルシア、トバゴ、
ガイアナ、アフリカ南端のケープタウン、インド洋
ではモーリシャス、セイシェル、セイロン島、さら
に東のマラッカを得た。
 
これ以降も植民地の拡大は続き、南シナ海の入口を
抑えるシンガポール(1819年)、ホーン岬を監視する
フォークランド諸島(1833年)、紅海の入口を抑え
るアデン(1839年)、さらにはアヘン戦争(1840年)
を経て貿易拠点である香港(1841年)を加えた。さ
らに19世紀末までに、アフリカ沿岸での艦隊拠点と
なるラゴスとザンジバル、ロシアをけん制する威海
衛、その他フィジー、アレクサンドリア、モンバサ、
キプロスといった戦略的要衝を獲得した。これらの
拠点は、のちにイギリスの危機に際してその戦略的
価値を発揮することになる。

たとえば大西洋の孤島であるアセンション島は、奴
隷貿易取締りの艦艇の補給拠点や海底ケーブルの中
継基地として使用され、第二次世界大戦では飛行場
が建設された。フォークランド紛争(1982年)時に
はイギリス艦隊や爆撃機にとって不可欠の中継地と
して活用された。

 イギリスは、これらの拠点のうち重要な港湾には
艦艇を常駐させ、貯炭所やドックなどの造修施設を
造り、さらにこれらを守るための要塞や砲台を建設
した。帆船から蒸気船の時代に移ると、有事におい
てはイギリスの敵対国の艦隊は石炭の補給ができな
くなるばかりか、イギリスの拠点港に包囲され、そ
の行動が制約された。日露戦争時にロシアのバルチ
ック艦隊が、日英同盟のために石炭の補給に難渋さ
せられたのはその例である。
 
これらの基地は、19世紀末までに海底ケーブルで結
ばれ、世界中の情報が短時間でイギリス本国に伝え
られ、世界のどこで紛争が起こっても、本国から速
やかに必要な命令が発せられイギリスの軍艦が急行
できる態勢ができあがった。この海底ケーブル網と
新しい無線電信技術の組み合わせでグローバルな通
信網が作られ、大英帝国の統治だけでなく、経済や
情報サービスに革新をもたらした。こうして英海軍
の優勢が強化されると、貿易、植民地、海軍の三角
形はさらに強固なものになった。これら世界に広が
る戦略上の拠点を、第一海軍卿のフィッシャーは
「地球を戸締まりする鍵」と呼んだ。

▼植民地内陸部の開発

イギリスは、植民地に対して資本と技術を投入して
鉱山の開発や食料、工芸作物などの農場を拓き、原
住民を労働力として用い、港湾や鉄道の整備を進め
た。そして植民地の事業が広範囲に広がり、市場と
して安定するには現地の政治の安定が求められるよ
うになり、宗主国としての支配力が沿岸の都市部か
ら内陸部に及ぶようになっていった。

イギリスの場合、オーストラリアとニュージーラン
ドを除くと、インドの大部分、五大湖以西のカナダ、
ケープタウンの広大な後背地などは貿易や海軍の戦
略上の要求とはあまり関係なく、土地を求める白人
入植者、辺境地帯を平定するという軍事的理由から
獲得されていった。特に1870年代以降になると、ヨ
ーロッパ諸国によるアフリカ内陸部の分割が盛んに
行なわれ、イギリスとフランスが対立しながら勢力
を拡大し、新たにドイツとイタリアが植民地獲得競
争に加わった。

▼植民地政策の変化──非公式の帝国

自由貿易主義の結果として市場や資源が世界に開か
れることになると、それまでの植民地帝国に対する
考え方にも変化が生じた。植民地を自国の統治下に
置くことは、その行政や防衛の経費がイギリス国民
にのしかかる「重荷」ともなるので、海外入植地を
植民地化するよりも国として自立してくれるとイギ
リスにとって一層利益になるという考え方だ。

この考え方の背景には、イギリスが生産する工業製
品、特に繊維製品は国内と海外植民地で消費できる
量をはるかに超えていたので、植民地以外の新たな
市場の開拓が求められたことがある。こうして開拓
されたのは、植民地に含まれない東南アジア、ブラ
ジル、アルゼンチン、アフリカ西岸、オーストラリ
ア、中米、南米西岸の国々であった。

これらの国々は、イギリスによる公式な統治を受け
るのではなく、イギリスとの貿易がもたらす商業利
益と海軍の砲艦外交の「飴と鞭」による影響力で
「非公式の帝国」に組み込まれていった。「自由貿
易帝国主義」だ。
 
 
▼海軍の役割の変化──砲艦外交

 17、8世紀の貿易は主として本国と植民地の間に
おいて、東インド会社のような独占的な会社や国家
の保護育成政策のもと行なわれており、海軍の任務
はこれを直接保護することであった。

 しかし、自由貿易のもとでは相手は植民地とは限
らず、広く諸外国を含むようになった。このような
変化を受け、海軍の任務は自由貿易を可能とする海
洋の平和とイギリスにとって望ましい秩序を維持す
ることであって、平時における軍艦の行動は外交の
重要な一環として重要性を増した。武力をちらつか
せて交渉を進める砲艦外交は、平時における海軍の
重要な任務となったのだ。

 この頃にイギリスが行なった砲艦外交はアジアに
関するものだけでも、清国に対するアヘン戦争(1
839?42年)やアロー号事件(1857年)、日本に対す
る薩英戦争(1863年)や四ヵ国艦隊下関砲撃(1864
年)などがあった。

これ以外にもイギリスは、ラテン・アメリカで広が
ったイスパニアに対する独立運動へのヨーロッパ諸
国の干渉を排除するための軍艦増派、ギリシャ独立
支援のためフランス、ロシア艦隊とともにトルコ艦
隊を撃滅(ナヴァリノの海戦、1827年)、ロシアに
対するトルコ支援のため艦隊を黒海へ派遣しセヴァ
ストポリを攻撃・占領(クリミア戦争、1853年)、
サルディニア王国によるイタリア統一運動の支援な
ど積極的に海軍を使っている。

このようにイギリス海軍は、被圧迫民族の独立支援
、ヨーロッパ諸国間の勢力均衡の維持、アジア・ア
フリカにおける市場開拓の拠点としての植民地の獲
得などに活躍し、外交政策の主要な担い手となった


▼二国標準主義

 イギリス海軍は長期にわたったナポレオン戦争で
大幅に拡大された結果、1815年には214隻の戦列艦
と792隻のフリゲート等という途方もない規模に達
していた。

フランスとの抗争に勝利して大規模な艦隊を維持す
る必要はなくなったため、イギリス海軍は第2位と
3位の海軍国を合わせたものに対処できる規模
(「二国標準主義」)として戦列艦100隻とフリゲー
トなど160隻を持つことにした。これにより1820年
までに550隻以上の軍艦が処分された結果、現役に
適する戦列艦は1817年の80隻から1835年には58隻に
急減してしまった。それでも第2位のフランス海軍
は整備状況の悪い戦列艦50隻を保有するにすぎなか
ったため、イギリス海軍の優位はゆるがなかった。
 
 イギリス海軍は、圧倒的とはいえないが十分な規
模の艦隊により、注意深く選定された戦略拠点を活
用して拡大を続ける貿易を保護した。そして政府の
統治が不十分な地域では、イギリスの国益を擁護し、
ある程度においては警察官の役割を果たし、また調
査官やガイドの役割も果たした。拡大を続ける植民
地が海軍に活動拠点を提供し、はるかに大きな非公
式の帝国とともに天然資源の供給元や市場となり、
イギリスの力の源泉となっていたのだ。

▼奴隷貿易の取締り

この時期のイギリス海軍の活動として特筆されるべ
きものに奴隷貿易の取締りがある。最大の奴隷貿易
国であったイギリスでは、国内の奴隷制度廃止運動
を受けて1807年に奴隷貿易が禁じられ、奴隷制その
ものも1833年に廃止されたため、海軍は奴隷貿易の
取締りに乗り出した。1847年までにイギリス海軍の
1/3の兵力を西アフリカ小艦隊に投入したにもかか
わらず、他国政府や狡猾な奴隷商人たちとの妨害で
なかなか成果が上がらなかった。

実際に効果が現れるのは、リンカーンがアメリカ籍
船に対する捜索を許可(1861年)してからであるが、
その後のペルシャ湾における奴隷取締は第一次世界
大戦後まで続いたし、オーストラリア小艦隊は太平
洋海域において20世紀を迎える頃まで活動した。

ケネディはシニカルな見方と断りつつ、この奴隷貿
易取締りは、奴隷貿易から大きな利益を得ていたイ
ギリス自身の良心の呵責の軽減以外にも、イギリス
の軍艦を継続的に派遣し、沿岸国に強制力を及ぼし、
海軍の拠点を確保するというパーマストン外交の代
名詞でもある「砲艦外交」の一面があったとも見る
ことができるとしている。(ケネディ2020年、319-20頁)


【主要参考資料】
ポール・ケネディ著
『イギリス海上覇権の盛衰 上』
山本文史訳(中央公論新社、2020年)

宮崎正勝著『海からの世界史』
(角川選書、2005年)

青木栄一著『シーパワーの世界史(1)』
(出版共同社、1982年)

小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』
(原書房、2007年)

田所昌幸編
『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリタニカ』
(有斐閣、2006年)

James Cable, GUNBOAT DIPLOMACY, 1919-1991 3rd
edition, New York: Palgrave Macmillan, 1994



(つづく)





(どうした・てつろう)



【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。


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