配信日時 2021/08/18 20:00

【海軍戦略500年史(14) 】英仏抗争の終わり──パクス・ブリタニカ 堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の十四回目です。

きょうは、英国がパックス・ブリタニカを確立させ
た時代の話です。

毎回本当に面白いですね。

特に今回は、海軍の技術が戦術・戦略に与える影響
の大きさを覚えました。

さっそくどうぞ

エンリケ

追伸
古今東西の史書や史論が伝える不変の教えの一つに、

「永遠の勝利もなければ永遠の敗北もない」

という点があるように思います。

勝ちは敗北の一里塚、負けは勝ちの一里塚。
ということでしょう。

この点を見失った国家や民族は滅ぶようです。



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海軍戦略500年史(14)

英仏抗争の終わり──パクス・ブリタニカ

堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

 前回は、アメリカ独立戦争でイギリスがヨーロッ
パ中を敵に回して、結果的にアメリカの独立を許し
てしまい、続くフランス革命戦争には頼りにならな
い同盟国と参戦した話でした。

今回は、英仏が決着をつけたナポレオン戦争と英米
が戦った1812年戦争をたどり、最終的に22年にわた
る大戦争が終結してイギリスが海上覇権を握り、パ
クス・ブリタニカを確立する話です。ネルソンが戦
死したトラファルガーでの大勝利は大変有名ですが、
イギリスをフランスの侵攻から救った海戦というの
は本当でしょうか?


▼イギリスの苦境

 戦争に疲れたフランスは、プロイセン、オランダ、
スペインと次々に講和を結んだため、イギリスの同
盟国はオーストリアのみとなり、対仏大同盟が崩れ
た(1795年)。しかもオランダを失ったことでイギ
リスは大陸への橋頭堡を失い、本土侵攻の危機にさ
らされるとともに、建艦資材を供給するバルト貿易
までも脅かされた。このため、イギリス北海艦隊は
泊地に待機するオランダ主力艦隊を4か月も監視し
ていたが、オランダ艦隊が出動するや陣形など無視
した混戦ののち降伏させた(1797年、カンパーダウ
ンの海戦)。

 これより前の1796年、戦争は5年目を迎え、27歳
のナポレオンのもとフランスは次第に優勢になり、
スペインとともにイギリス侵攻のため艦隊を集結さ
せ始めた。英地中海艦隊のネルソン戦隊は、ブレス
トに集結しようとするスペインの大艦隊を発見する
と、その主隊に突っ込み、圧倒的な勝利をおさめて、
仏西のイギリス侵攻計画を頓挫させた(セント・ヴ
ィンセント岬の海戦)。

 この海戦でネルソンは、「見敵必戦」とばかり単
縦列を命じた司令長官の命令を無視して戦列を離脱
したのだが、大勝利のおかげで命令違反は不問とさ
れたばかりか昇任さえ手に入れた。

こうしてイギリスは、当面の英本土侵攻の脅威から
逃れることができた。しかし、陸戦に強いフランス
はすでにイタリアとベルギーを制覇し、オーストリ
アと和睦し、オランダを傘下に収めている。それに
ひきかえイギリスは一国でフランスに敵対するとい
う苦境に立たされていた。

▼ナポレオンエジプト遠征軍との戦い

1797年末、ナポレオンはパリに凱旋したが、彼
はすでにアレキサンダー大王の夢を実現し、イギリ
スにも影響を及ぼせる、はるか東方のインドを見据
えていた。彼は紅海経由でインドに向かうことを考
え、まずエジプトを攻略してこの地方のオスマン・
トルコを駆逐することにし、直ちにエジプト遠征作
戦の立案にとりかかった。

 翌年、ネルソンは地中海に派遣され、ナポレオン
遠征軍に対する索敵を開始する。3か月後、ようや
くアブキール湾に錨泊しているフランス艦隊を発見
したネルソンは、直ちにフランス艦隊の錨泊列線の
至近距離に投錨し、夜を徹して猛烈な砲火を浴びせ
た(アブキールの海戦)。フランス艦が通常の艦首
錨だけだったので風に振れ回って砲撃が思うにまか
せなかったのに比べ、イギリス艦は艦首と艦尾それ
ぞれに錨を打ち、錨綱を自在に操って艦の向きを変
えながら砲撃できた。すべてはネルソンの周到な計
画にもとづく完勝だった。

 このアブキールの勝利により、イギリスは地中海
の制海権を奪回しミノルカ島を占領した。そして、
イギリス、ロシア、オーストリア、ポルトガル、ト
ルコおよびナポリからなる第二次対仏大同盟を結成
したが、ロシアは地中海への進出、オーストリアは
イタリアの旧領土の回復、トルコはエジプト内の領
土の保全という具合に各同盟国の狙いはまたもやバ
ラバラだった。

 フランスは地中海の制海権を失い、エジプトへの
兵站線を維持できなくなったため、エジプト侵攻作
戦は頓挫した。さらに、トルコがエジプト各地でナ
ポレオン軍への攻撃を始めたため、追い詰められた
ナポレオンは、フリゲートに隠れてアレクサンドリ
アから脱出した。パリにもどったナポレオンは、自
ら画策したクーデターで事実上の独裁体制を確立す
る(1799年)。

▼コペンハーゲンの海戦─ネルソンの「命令無視」

 地中海進出の野心を持つロシアはマルタ島を狙っ
ていたが、イギリスが同島を占領したことで関係が
悪化した。このためロシアは、帝国内の海港へのイ
ギリス船の出入りを禁じて、スウェーデン、デンマ
ークおよびプロイセンと同盟(第二次武装中立同盟)
を結成したため、第二次対仏大同盟は瓦解してしま
った。

 この同盟がイギリスにとって問題だったのは、バ
ルト海方面から艦艇建造資材を輸入できなくなった
ことであり、翌1801年、イギリスはロシア、スウェ
ーデン、デンマークの対仏貿易船の拿捕を警告した
のち、コペンハーゲンを攻撃するという強硬手段に
出た。

 イギリス艦隊は次席指揮官ネルソンの指揮で、多
くの陸上砲台によって守られたコペンハーゲンの敵
陣に突入した。イギリス艦隊の形勢が悪くなったた
め不安になった首席指揮官は「交戦を中止せよ」と
の信号を送ったが、ネルソンはもともと見えない右
目に望遠鏡をあて「私には何も見えない」とうそぶ
き、「信号16番(交戦せよ)は釘付けにしておけ。
それが私の応答信号だ」と怒鳴ったという逸話があ
る。やがてデンマークの砲は沈黙し、コペンハーゲ
ンの海戦はイギリス艦隊の圧倒的勝利で終わった。
ネルソンの「命令無視」は今回も問題とされなかっ
た。

 この戦争でイギリスとフランスは、それぞれ海戦
と陸戦で勝ち続けたため、なかなか講和に至らなか
ったが、1802年、アミアンの和約により10年間に及
んだフランス革命戦争は終結した。イギリスはマル
タとエジプトからの撤退を約束し、フランスはイギ
リスに占領された領域を回復することになった。

しかし、和約の取り決めはほとんど守られなかった
ばかりか、フランスがイギリス製品の締め出しを図
ったことに対抗して、イギリスがフランス船を拿捕
したことをきっかけとして両国関係は再び悪化した。

▼ナポレオンのイギリス侵攻作戦

1803年、イギリスが再度フランスへ宣戦すると、ナ
ポレオンは直ちにイギリス侵攻を決意する。

 ナポレオンは、イギリスをかく乱するために英国
王の故国ハノーヴァーとレヴァント貿易の拠点であ
るナポリへ軍を進め、オランダにイギリスへ宣戦布
告させてイギリス艦隊の勢力を分散させた。侵攻計
画は、イギリスの対岸に16万5000名の陸兵と2,000
隻近くの輸送船を用意し、ブレスト艦隊が兵力2万
をもってアイルランドに向かうことで陽動し、その
隙にツーロン艦隊が海峡の制海権を確保して主力を
上陸させるというものだった。

 作戦準備が遅れたため、1805年にようやく発動に
なったが初動であえなく失敗した。風任せの帆走軍
艦が広い海域で主作戦と陽動を同期させるのはそも
そも無理な相談で、作戦は大幅に変更される。新し
い陽動作戦は、はるか西インド諸島に主力のフラン
ス艦隊全部を派遣してイギリス艦隊の分散を強いる
という途方もないものになってしまった。

当初の計画から1年以上の遅れで2回目の発動とな
るが、主作戦を担当するはずのブレスト艦隊はイギ
リス艦隊に封鎖され身動きできず、陽動作戦担当の
ヴィルニューヴ率いるツーロン艦隊はなんとか脱出
したものの、ネルソン率いるイギリス艦隊による追
跡を受けカディスに逃げ込んでしまい、実質的にこ
の時点で英侵攻計画は失敗した。

陸戦の天才も艦隊の運用については無知だったとい
うしかないが、ナポレオンの戦争を研究してジョミ
ニやクラウゼヴイッツが1830年代に陸戦理論を世に
問うているのに対して、ネルソンの戦法の理論づけ
は難しく、海戦理論の体系化は20世紀初頭まで待た
なければならなかった。これには帆船の原動力の不
確実さが大いに関係していると考えられるが、海軍
兵術の遅れについては後の回で論じたい。

▼トラファルガー海戦

 イギリス侵攻を諦めたナポレオンは、オーストリ
ア攻略の準備としてナポリ攻撃を計画し、ツーロン
艦隊にその支援を命じた。ナポレオンは、カディス
に封鎖されて役に立たなかったヴィルニューヴを更
迭しようとするのだが、その噂を聞きつけた本人は
大いに焦り、怯懦(きょうだ)の汚名をそそぐため
、急遽、艦隊を率いて出撃する。

 ほどなくヴィルニューヴ率いるフランス・スペイ
ン連合艦隊はトラファルガー岬沖でネルソン艦隊に
捕捉され、遭遇戦となる。トラファルガー海戦の始
まりだ。カディスに避退する動きを見せる単縦陣の
ヴィルニューヴ艦隊に対して、ネルソンは2列の縦
列で突入して5時間の激しい混戦を制した(180
5年、トラファルガーの海戦)。

トラファルガーの大勝利が当時のイギリス中を沸き
立たせ、今なお語り継がれるのは、イギリス側に喪
失艦がなかったのに対し敵が18隻という一方的な
勝利だったこと、そして祖国をフランスの侵攻から
救ったからとされる。前者の戦果は事実であるが、
後者のフランスの侵攻から救ったことは間違いとも
いえるし正しいともいえる。

すでに述べたように、ナポレオンは対英侵攻を諦め
てオーストリアに転戦していたし、撃破されたヴィ
ルニューヴ艦隊の任務もナポリ攻撃の支援だったこ
とから、歴史の後知恵として見れば間違いというこ
とになる。しかし、当時は2か月前にナポレオンが
このような決心をしていたことはイギリス側では知
るよしもなかったのだから、全く正しいともいえる
だろう。

 いずれにせよナポレオンは、トラファルガー後も
プロイセンとオーストリアを制するなど依然として
優勢で、この海戦が戦争の大勢に直接的な影響を及
ぼすことはなかったのである。

▼大陸封鎖令とナポレオンの没落

フランス艦隊はトラファルガーで惨敗し、イギリス
を攻略する物理的手段はなくなっていたので、大陸
制覇を達成したナポレオンは、イギリスを孤立させ
弱体化させるために大陸封鎖令を出す(1806年
)。これはイギリスが先に出した大陸沿岸の諸港に
対する封鎖宣言に対する対抗措置でもあり、大陸と
イギリスおよびその植民地との交易、通信を禁止す
るものだった。

 イギリス経済は不況となり、フランスの私掠船の
跳梁などもあり国内情勢が悪化した。ヨーロッパ諸
国は封鎖への参加を余儀なくされたが、各国の経済
は産業革命で工業の発達したイギリスとの通商なし
には成り立たず、離反する国が後を絶たなかった。
このため、ナポレオンはポルトガルを従わせるため
の派兵でイベリア半島戦争(1808-14年)の
泥沼にはまり、ロシアを罰するための遠征で大敗(
1812年)して没落を決定的にしてしまう。

▼1812年戦争

アメリカはナポレオン戦争に中立の立場をとってい
たが、英海軍は米海軍と軍艦同士の小競り合いを起
こしたり、アメリカ商船を臨検して「イギリス国籍
」の船員1万名以上を拉致して強制的に入隊させた
りしたので、米国民の対英感情は極めて悪化してい
た。アメリカは、ナポレオン戦争の隙にカナダをイ
ギリスから奪うことを考え、1812年、イギリス
に宣戦した(1812年戦争)。

 開戦時の米海軍の航洋艦はわずか10隻で戦列艦
はなかった。ナポレオンがモスクワ遠征に失敗する
と、英海軍は強力な艦隊をアメリカ大陸沿岸に振り
向け厳重な封鎖を行なうとともに、カナダに展開し
ていたイギリス陸軍は南下を開始した。英海軍の封
鎖により大西洋で活躍したアメリカ商船隊は影を潜
め、代わりに封鎖を突破したアメリカの軍艦や私掠
船が通商破壊戦に全力をあげ、その活動範囲は大西
洋全域と一部は南太平洋に及んだ。

ちなみに、米海軍のモットーである「艦を見捨てる
な!」という言葉は、米フリゲート「チェサピーク
」艦長のローレンスが、ボストン沖で英フリゲート
「シャノン」と一騎打ちの戦闘となったとき(18
13年)、死に際に叫んだ言葉とされている。

 五大湖方面では、アメリカの湖上艦隊はイギリス
艦隊を撃破し、カナダから南下してくるイギリス陸
軍を阻止できたが、戦争の目的であったカナダ侵略
は達成できなかった。1815年、両国とも決定的
な勝利を収めることなく、カナダとアメリカの国境
を画定して(ゲントの和約)戦争に終止符を打った


▼パックス・ブリタニカへの道

22年にわたる大戦争におけるトラファルガーまで
の数回の大海戦において、ネルソンをはじめとする
イギリス艦隊の司令長官たちは戦術準則の束縛から
離れ、積極果敢に敵艦列に突入して勝利を重ね、海
上におけるイギリスの制海権をゆるぎないものにし
た。

トラファルガーの後、仏米などの少数の軍艦や私掠
船がイギリス海軍の隙をついて大西洋やインド洋で
行なう通商破壊戦はかなりの戦果をあげたが、圧倒
的な戦力となったイギリス海軍に正面から挑戦でき
る海軍はもはやなくなっていた。

 イギリス海軍は、フランス革命戦争とナポレオン
戦争を戦い抜く間に大拡張された。アメリカ独立戦
争終結時(1783年)、戦列艦58隻、フリゲー
ト198隻だったものが、フランス革命戦争開戦時
(1793年)にはそれぞれ135隻と133隻、
そしてナポレオン戦争終結時(1815年)には2
02隻と277隻となっていた。人員は1794年
の約85,000人から1813年の約130,0
00人に増加した。

このような大拡張を支えた海軍予算は、1793年
の240万ポンド(国家予算の12%)から181
5年には2,280万ポンド(同20%)に急増し
ているが、この莫大な予算は、イギリスが世界に先
駆けて成し遂げた産業革命のもたらした経済力によ
ってまかなわれたことは言うまでもない。

イギリスは製鉄、繊維、機械、造船などで大きく成
長しており、輸出額は戦争中にもかかわらず、1,
357万ポンド(1793年)から4,489万ポ
ンド(1815年)に急伸、税収も295万ポンド
から950万ポンドに増加した。海軍予算は一般の
税収に加えて国債でもまかなわれた。国債発行残高
は1793年の2億9,900万ポンドから、18
15年には8億3,400万ポンドに増えているが
、当時のイギリス経済にはこのような巨額の国債引
き受け能力があったということだ。

イギリス海軍による海上覇権の確立により、海上貿
易はナポレオンに制圧されたヨーロッパ大陸とアメ
リカ合衆国を除けば、イギリス商船隊の独占に近い
ものとなった。ナポレオン戦争の頃には、テームズ
川の両岸に貿易相手先ごとに多くの桟橋が作られ、
ロンドン港は大いに繁栄した。イギリス経済の高度
成長のおかげで拡張された海軍力は世界の海で覇権
を確立し、そのことがイギリスの貿易を伸ばして高
度経済成長の基盤となったといえる。

トラファルガー海戦後のイギリスは、イタリア南部
カラブリアに強襲作戦を敢行しフランス軍を撃破し
たり、コペンハーゲンを攻撃してデンマーク艦隊を
撃滅したりして、ナポレオンを相手に孤軍奮闘した
。ワーテルローの戦い(1815年)でフランス軍
が壊滅しナポレオンが最終的に退位、フランス革命
以来20年以上にわたった大戦争が終結した。

以後、イギリスにとって、ナヴァリノの海戦(18
27年)やクリミア戦争(1854-56年)に加
えて植民地をめぐる小戦争はあったものの、他国と
海上覇権をかけて争うような戦争は約100年後の
第一次世界大戦(1914-18年)まで起こらな
かった。

イギリスの世紀、「パクス・ブリタニカ」が到来し
たのだ。


(つづく)


【主要参考資料】
ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』
山本文史訳(中央公論新社、2020年)
宮崎正勝著『海からの世界史』
(角川選書、2005年)
青木栄一著『シーパワーの世界史(1)』
(出版共同社、1982年)
小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』
(原書房、2007年)
堀元美著『帆船時代のアメリカ 上』
(原書房、1982年)
田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリ
タニカ』(有斐閣、2006年)
ジョン・テレン著、石島晴夫訳編
『トラファルガル海戦』(原書房、1979年)


 

(どうした・てつろう)



【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。


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