こんにちは。エンリケです。
『海軍戦略500年史』の十三回目です。
きょうは「英仏抗争」の三回目。
アメリカ独立戦争からフランス革命戦争までの
海の戦いが取り上げられています。
真の歴史は、
海の歴史を深く真剣に眺めると浮かび上がって
見えてくる、との印象を持ちます。
わが国は世界に冠たる海洋国家です。
地球、世界、わが国をめぐる海の歴史を
もっともっと知る必要がありますね。
さっそくどうぞ
エンリケ
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海軍戦略500年史(13)
英仏抗争──アメリカ独立戦争とフランス革命戦争──
堂下哲郎(元海将)
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□はじめに
前回は、ピットが登場してイギリス海軍が立ち直
り、七年戦争に勝利して大英帝国の基盤を作るとこ
ろまででした。
今回は、アメリカ独立戦争からフランス革命戦争ま
での話です。アメリカにも海軍が誕生してイギリス
海軍と戦いますが、フランスの参戦で英仏の激突と
なります。イギリスがアメリカの独立を許してしま
うのはなぜでしょうか。フランス革命戦争が始まる
と、いよいよ英仏抗争も最終段階です。
▼アメリカ独立戦争 初期の海上作戦
イギリス領植民地の独立運動は、イギリス陸軍と
植民地民兵の武力衝突(1775年、レキシントン・コ
ンコードの戦い)へとエスカレートし、アメリカ独
立戦争が始まった。
植民地連合の実質的な中央政府である大陸会議は
、わずかな武装船で大陸海軍(continental navy)
を創設(1775年)し、拿捕免許状を発行してイギリ
ス沿岸を含む大西洋で通商破壊戦を開始した。アメ
リカ海軍の誕生である。ちなみに現在でも米海軍が
掲げている赤白13本の横縞にガラガラ蛇を描いた
「DON’T TREAD ON ME」の旗は、大陸海軍で作られ
た最初の旗である。
イギリス海軍は1778年頃までは、主に北米沿岸、
湖や川において陸軍への支援作戦を行なっていたが、
七年戦争後の海軍予算の削減で戦力は大幅に低下し
ていたため、北米海域に50隻、西インド諸島方面に
は10隻足らずしか展開できなかった。このため大陸
海軍の私掠活動への対応にも苦戦し、ボストンのイ
ギリス軍への補給路も断たれるほどだったし、西イ
ンド諸島からの植民地軍の武器弾薬の密輸なども阻
止できなかった。アメリカの私掠船は戦争中に600
隻ものイギリス船を拿捕したという。
ちなみに、この頃のエピソードとして、アメリカ
のジョン・ポール・ジョーンズは「ボノム・リチャ
ード」などでイギリス周辺海域での私掠活動を行な
っていたが、イギリスの新鋭フリゲート「セラピス」
と壮絶な一騎打ちとなり降伏勧告を受けた(1779年)
ことがある。このときにジョーンズが発した「戦い
はまだ始まっていない!」という言葉は現在でもア
メリカ海軍の敢闘精神を象徴するものとして知られ
ている。
▼フランス参戦後の海上作戦
1778年にはフランスが参戦してイギリスの主敵と
なる。フランスのねらいは、植民地の独立により仇
敵イギリスを弱体化させるとともに、アメリカとい
う有力な同盟国を得ること、そして西インド諸島方
面からのイギリス勢力の一掃だった。フランスに続
いて、ミノルカ、ジブラルタルおよびフロリダを取
り戻す絶好の機会と見たスペインも参戦してきた。
1780年、イギリスはオランダにも宣戦するが、オ
ランダがアメリカと同盟を結ぼうとしていることを
つかんだため、伝統的な同盟国オランダの裏切りを
許せなかったのである。さらにロシアが北欧諸国を
誘ってイギリスの戦時禁制品の臨検に対する武装中
立同盟を結成するに至って、イギリスはほぼ全ヨー
ロッパを敵に回すことになった。
減勢した英海軍に比べると、フランスは七年戦争
後には戦列艦80隻などを建造して着々と再建されて
いたし、スペインも既就役艦60隻に40隻を追加しつ
つあり、1779年には仏西連合がイギリスを戦列艦の
隻数で上回り、年々その差は開いていった。このよ
うに有力な海軍国がこぞって参戦したため、戦域は
必然的に西インド諸島やインド洋にも拡大し、激し
い海戦が繰り広げられることになった。
▼英仏艦隊の激突─イギリス海軍の凋落
当初、イギリス海軍の司令官らは本来同国人であ
るアメリカ人と戦うことに戸惑いがあったが、仇敵
フランスが相手となると各地で激しい海戦が戦われ
た。
1778年にはフランス艦隊と英艦隊の交戦が北米海
域(ナガランセット湾沖の海戦)とブレスト沖(ア
シャント島の海戦)で起きたが勝敗はつかず、戦局
にも影響しなかった。むしろ問題だったのはアシャ
ント島の海戦後の軍法会議であり、世論の圧力に負
けたアドミラルティが渋々開き、ベテラン指揮官た
ちの戦いぶりを政争の具としてしまったのである。
このため高級士官たちは、政府やアドミラルティを
信頼しなくなり、指揮官職の任命を回避するという
イギリス海軍の凋落ぶりを象徴する事態となった。
このあと英仏艦隊の主戦場は、当時最も豊かな資
源地帯であり海上交易路の集まる西インド諸島海域
へ移る。フランスは同海域からの英勢力の駆逐を狙
っていたし、イギリスにとっても同諸島は戦費調達
のために不可欠だったのだ。しかし決定的な海戦は
起きず、優勢なフランス戦隊は英艦隊の動きを封じ
込めてしまった。
▼仏西の英本土侵攻作戦─セント・ヴィンセント岬
の月光の海戦
この戦争でもフランスはイギリス本土の侵攻作戦
を計画し、1779年、スペインとの連合艦隊を編成し
たが、連合艦隊側の指揮の乱れと天候悪化で頓挫し
た。
この間、スペイン軍はジブラルタルの包囲を固めて
いたので、ロドニー率いる英艦隊はジブラルタルの
救援に向かい、月明かりの夜戦においてスペイン艦
多数を捕獲する(1779年、セント・ヴィンセント岬
の月光の海戦)。この頃にはイギリス艦の艦底は銅
板で覆われて速力が向上しており、スペイン艦隊へ
の追撃戦に大いに威力を発揮した。なお、スペイン
は、ジブラルタル救援を許した腹いせに仏西連合国
艦隊でミノルカ島を奪回してしまう(1781年)。
▼チェサピーク湾の制海権が決めた独立戦争の終結
北米での戦いでは、イギリス軍はサウス・キャロ
ライナのチャールストンを占領する(1780年)が、
植民地軍の内陸への誘因策にのせられて翌年には
チェサピーク湾南西部のヨークタウンまで進出して
しまい、補給不足に陥っていた。イギリス軍の拠点
はニューヨークにあったので、ヨークタウンとの連
絡線は海路だけになり、チェサピーク湾の制海権を
決する英仏艦隊の戦いに戦局がかかっていた。
植民地軍総司令官のワシントンがフランスに対して
軍資金と艦隊の提供を求める書簡を送ると、この要
望は通報艦によって西インド諸島に展開していた仏
艦隊に達し、ド・グラース司令官がすべての仏艦隊
を率いてチェサピーク湾に向かうことになり、その
ことも通報艦で米仏の包囲軍に知らされた。西イン
ド諸島のイギリス艦隊の一部もアメリカ東岸に向か
ったが、それを知らせる通報艦は不運にもアメリカ
海軍に捕獲され情報は達しなかった。
1781年、英仏艦隊は2回にわたって戦火を交えた
が、勝負のつかなかった1回目と異なり2回目の海
戦では、ワシントンの要望で西インド諸島から回航
してきたフランスの有力なド・グラース艦隊が出現
した。イギリス艦隊が戦列にこだわる過ちを犯した
こともあり、チェサピーク湾の制海権をフランスに
握られてしまった。米仏連合の陸軍はこの海戦と呼
応してヨークタウンのイギリス軍を包囲すると、ほ
どなく降伏して北米の戦闘は実質的に終わった。
チェサピーク湾の制海権が独立戦争の終結を決めた
のだが、そこにはワシントンの的確な判断と、通報
艦による情報伝達が成功したという幸運も大いに関
係していた。
▼セイント諸島の海戦─敵戦列の突破
チェサピーク湾の海戦が終わると、フランスの次
の目標はイギリス領ジャマイカの攻略だった。ジャ
マイカに向かうフランス艦隊に対し、ロドネー率い
るイギリス艦隊がほぼ互角の兵力で会敵し、ロドネ
ーはフランス艦列の隙間に突入し、これを分断、混
乱に陥れ、退却させジャマイカ攻略を阻止した(17
82年、セインツの海戦)。これによりフランスの参
戦目的のひとつであった西インド諸島からのイギリ
ス勢力の排除はできなかった。
ところで、この海戦で行なわれた「敵戦列の突破」
は、それまで危険な戦術であるとして事実上封印さ
れていたものを成功させたロドネーの名声を高めた
のだが、のちに単なる成り行きの結果であることを
本人が明らかにしている。いずれにせよこれをきっ
かけとして、イギリス艦隊は、のちのフランス革命
戦争やナポレオン戦争において、戦術準則にこだわ
らず敵の戦列に突入、分断して決戦を強要するとい
う戦術でしばしば勝利を得るようになる。
▼講和条約─イギリス海軍の敗因
インド洋でも英仏戦隊は激しい海戦を繰り返した
が決着のつかないまま英米はパリ条約(1783年)で
休戦となり、イギリス軍の撤退で終戦となった。
フランスは西インド諸島の島々、アフリカの一部、
インドの既存施設と交易権、そしてニューファンド
ランドの漁業権を獲得し、スペインはミノルカを獲
得し、フロリダを譲渡された。イギリスは、西イン
ド諸島の島々やジブラルタルなどは確保したが、七
年戦争で作った大英帝国の基盤からアメリカという
最大の植民地を失ってしまった。
イギリスの根本的な敗因は、伝統的な国家戦略であ
るヨーロッパ大陸の勢力均衡政策をとらずに敵を増
やしたことであり、七年戦争後の艦隊の整備を怠り、
チェサピーク湾の海戦に見るように硬直的な戦術で
決定的な時期にアメリカ沿岸の制海権を失ったこと
だった。
▼ピットの建艦政策
アメリカ独立戦争後のイギリスは、深刻な財政難
に陥り、外交でもヨーロッパで孤立した。このよう
な苦境にあっても、首相(小)ピットは「国家の安
全保障が担保されなければ、経済政策を推進すべき
平和を持続できない」と強い反対を押し切って、歳
入の1割を艦艇建造費に充てるようにした(1783年)。
この政策は20年後のトラファルガーの海
戦で成果を見ることになる。
第一次露土戦争(1768-74年)で黒海沿岸への進出
を果たしたロシアは、黒海艦隊の編成とセヴァスト
ポリの軍港建設に着手(1776年)し、南下政策を進
めてきた。ついで第二次露土戦争(1787-91年)で
はロシアがトルコを制覇する勢いをみせた。
こうなるとロシア艦隊が地中海へ進出してエジプト
も征服しかねず、陸路スエズを経由するイギリスの
植民地戦略上重要なインド航路が脅かされることに
なってしまう。こうした危機に際して、イギリスが
艦隊で断固たる対応ができたのは、ピットの建艦計
画のおかげであり、アメリカ独立戦争終結時に58隻
まで減少していた戦列艦が、この頃には93隻まで回
復していた。
▼フランス革命戦争─英仏抗争の最終段階のはじま
り
フランス革命(1789-99年)が起き、共和制とな
り革命が激化してくると、ヨーロッパ列強の革命潰
しを狙った侵攻とフランスの反撃によって戦争が始
まった。1793年、フランス国民議会はイギリスとオ
ランダに対して宣戦布告し、イギリスはオーストリ
ア、オランダ、プロイセン、スペインなどと第一次
対仏大同盟を結成する。フランス革命戦争とその後
のナポレオン戦争の22年間にわたる英仏抗争の最終
段階の始まりだ。
戦争が始まるとイギリスでは、海洋派対大陸派の
伝統的な戦略論争が再燃した。大陸派は、フランス
の周辺国を支援して、のちにナポレオンが「イング
ランドを狙うピストル」と呼ぶ沿岸地域を支配させ
ないようにすべきと考えた。一方、ピットに代表さ
れる海洋派は大陸派をしりぞけ、海軍力でフランス
の貿易と植民地を叩いて、戦時経済の財源を断ち切
ることにした。
フランス艦隊は、革命の影響で一時期完全に秩序が
崩壊し、多くの経験豊富な指揮官を失ったばかりか、
どの艦も訓練不足のまま戦争に突入していた。しか
し、フランスは自給自足の広大な大陸国家で、海運
や植民地防衛の必要性もイギリスほどは高くなかっ
たため、その艦隊を随時、通商破壊など攻撃目的に
回すことができた。このため、イギリスは防衛のた
めの兵力を広く張り付けなければならず、対仏同盟
側の戦列艦がフランスの3倍以上あったとはいえ、
同盟国の戦意も低く、当てにならなかった。
1793年、ツーロンを占拠した反革命勢力が、ツー
ロン艦隊をそっくりイギリスに引き渡すという話が
舞い込み、イギリスは早速、地中海艦隊を差し向け
てツーロンを占領してしまうが、同盟国の結束が悪
く、4か月後には奪回されてしまう。スペインの派
遣した戦隊はやる気がなく、オランダはまたもや条
約義務を履行せず艦隊を派遣しなかったのだ。
ツーロン撤退後にイギリスが狙ったのは、地中海
の戦略的要地にあるコルシカ島だった。この島は、
近くにレヴァント貿易の拠点があり、ツーロンの造
船所の建造用木材の供給地でもあった。イギリスは
先任指揮官ネルソンのもと激烈な攻防戦を演じて、
地中海における艦隊の策源地の確保に成功した
(1794年)。
同年、イギリス艦隊がアメリカからの帰国船団を
護衛中のフランス艦隊と大西洋で交戦し、「栄光の
6月1日」と呼ばれる大勝利を収めると、またもや
フランスは制海権の獲得をあきらめ、ルイ14世時代
の通商破壊戦に移行してしまう。
(つづく)
【主要参考資料】
ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』
山本文史訳(中央公論新社、2020年)
青木栄一著『シーパワーの世界史(1)』
(出版共同社、1982年)
小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』
(原書房、2007年)
堀元美著『帆船時代のアメリカ 上』
(原書房、1982年)
田所昌幸、阿川尚之編『海洋国家としてのアメリカ』
(千倉書房、2013年)
田所昌幸編『ロイヤル・ネイヴィーとパクス・ブリ
タニカ』(有斐閣、2006年)
(どうした・てつろう)
【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学公共
政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤務と
して、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、護衛
艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上勤務
として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監察官、
自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須賀地方
総監等を経て2016年退官(海将)。
著書に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクト
リン」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(202
0年)がある。
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