配信日時 2021/08/04 20:00

【海軍戦略500年史(12) 】英仏抗争──大英帝国への歩み 堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の十二回目です。

きょうは「英仏抗争」の二回目です。

「硬直化」に苦しんだ英国海軍はいかにして硬直化
から脱したのか?の過程に非常な興味を覚えました。

この種の問題は、軍部内だけで解決できる課題で
ないこともよくわかります。

要因の一つが「高年齢化」にあったことも非常に興
味深い点です。重要な意思決定や決断に高齢者が関
わることはあまり良くないようです。

意思決定、エリート層の定年制には戦略的意味が
あるようですね。

さっそくどうぞ

エンリケ


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海軍戦略500年史(12)

英仏抗争──大英帝国への歩み

堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

 前回は、英仏抗争のはじめの2つの戦争の話でし
た。陸軍重視のフランスがイギリス海軍を撃ちそこ
ねましたが、イギリスにも海洋派と大陸派の対立が
ありました。フランスの通商破壊戦がイギリスを苦
しめますが、イギリスは勝勢を保って大国への道を
歩み始めました。

 今回は、イギリス海軍の思考の硬直化と堕落が進
むもののピットの登場で立ち直り、初めての世界大
戦である七年戦争で勝利者となり、大英帝国の基盤
を作るまでをたどります。

 日本海軍も海戦要務令で硬直化したことは知られ
ていますが、イギリスが幸運だったのはそれを脱却
できたことでした。


▼オーストリア王位継承戦争(1740~48年)

 1740年に起きたオーストリア継承戦争では、
オーストリアに対してプロイセンが戦いを挑み、プ
ロイセン側にフランス、スペインがつき、オースト
リア側にはイギリスがついた。

この戦争は、プロイセンがオーストリアから地下資
源の豊かなシュレジェンを獲得したシュレジェン戦
争、イギリスとスペインのジェンキンスの耳の戦争
およびイギリスとフランスがアメリカ新大陸で戦っ
たジョージ王戦争の3つが連動したもので、戦いの
構図も複雑なら戦場も地中海、北米、西インド諸島、
及びインドまでを含む広大なものだった。

このうちジェンキンスの耳の戦争というのは、イギ
リスがアシエントに乗じて行なった密貿易に対して
スペインが臨検、拿捕に踏み切ったところ、レベッ
カ号船長ジェンキンスがスペイン官憲によって削ぎ
落とされたという塩漬けにした自身の耳を暴行の証
拠としてイギリス下院に訴えたのを発端とする。こ
れによりイギリスにおける反スペインの世論が沸騰
し、スペインに宣戦布告(1739年)して始まっ
た戦争である。


▼ツーロンの海戦と軍法会議  

 ジェンキンスの耳の戦争において、イギリスの地
中海艦隊はツーロン沖で仏西連合艦隊と戦いを交え
た(1744年、ツーロンの海戦)。

 この海戦でイギリスの次席指揮官は、司令長官と
の対立から自己の後衛戦隊を戦闘隊形へ入れようと
しなかったため、英艦隊は仏西艦隊を取り逃がして
しまう。この失敗に関する軍法会議が開かれると、
次席指揮官は艦隊戦術準則を盾に論点をすり替えて
弁明し無罪放免となった。

 さらに彼は、司令長官が「戦時服務規程」に定め
る適切な艦隊の運用を誤ったとして巧みに告発する
と、司令長官は海軍から永久追放されるという理不
尽な結果となり、海軍に大きな禍根を残すことにな
る。

▼フィニステレーの海戦──混戦戦法の復活と封鎖
戦略の萌芽

 ツーロンの海戦の後、大西洋側で戦隊の指揮を任
されたのがアンソンである。彼は英本土の防衛と通
商保護のための制海権を確保するための作戦として、
フランスの英本土侵攻の策源地であるブレスト沖
と海外通商路の集束するイギリス南西端沖のシリー
諸島の間を哨戒していたが、ブレスト沖でフィニス
テレーの海戦が起きる(1747年)。

 この海戦で、アンソンの戦隊は単縦陣の戦列戦か
らタイミングよく解列して総追撃戦に移行してフラ
ンス戦隊に圧勝した。ツーロンの例にならえば準則
違反を問われかねない状況であったが、アンソンは、
敗走する敵に対する総追撃戦や混戦を禁じていな
い準則の条項を巧みに応用して大胆な戦術をとって
勝利をつかんだのである。

この結果、フランスは陸戦で勝利を収めながらも、
イギリスが制海権を握ったために植民地からの戦費
調達を遮断されたため講和に踏み切らざるを得なく
なった(1748年、アーヘンの和約)。

講和では戦前の状態への復帰が基本原則とされたが
、プロイセンがシュレジェンを獲得するなど、オー
ストリアとプロイセンの対立が決定的となり、次の
七年戦争の火種を残してしまった。

▼イギリス海軍の堕落と思考の硬直化

 スペイン王位継承戦争からオーストリア王位継承
戦争にかけて、イギリス海軍の戦いぶりは徐々に低
調となり、ベンボウ戦隊の反逆事案(1702年)やツ
ーロンの海戦(1744年)のように多くの軍法会議で
艦長や司令官の無気力、怯懦、不適切な判断が裁か
れた。

 この原因を小林は次のように指摘している(小林
 2007、302-303頁)。

第一の原因は、海軍士官の老齢化である。この頃、
新造艦はほとんどなく、若い人材は採用されなかっ
た。その上、まだ定年制度がなかったので現役士官
が老齢化して、そのピークの1740年頃には海峡艦隊
司令長官は84歳、その後任者は68歳に達していた。
ちなみに、のちの七年戦争からナポレオン戦争にお
ける司令長官の多くは50歳代であり、トラファルガ
ー海戦(1805年)の時、ネルソンは47歳の若さだっ
た。

 第二には、官僚主義とマンネリズムが蔓延したこ
とがあげられる。戦闘集団である海軍も行政組織の
一面を持つので、そこにある程度の官僚主義的な傾
向が生じるのは否めない。この傾向を強めたのが士
官の老齢化であり、長年の平和であった。誰もが事
なかれ主義でリスクを負わず、お上に従うことをよ
しとする風潮が広がったのだ。

 第三は、艦隊戦術準則の呪縛である。本来、この
準則はそれぞれの艦隊司令長官が制定するものであ
るが、海軍の中央集権化が進むなか、1744年にアド
ミラルティが「常用艦隊戦術準則(Permanent
fighting instructions)」として制定した。

 その上、ツーロンの海戦の軍法会議で同準則の逐
語的な解釈論を展開した次席指揮官が無罪となった
ことから、海軍中で準則の文言を絶対視し、これに
違反することのリスクが浸透してしまい、長期間に
わたり多くの指揮官の決断に大きな影響を与えるよ
うになったのだ。

▼英仏の砲戦法のちがい

 フランスはすでに述べたように艦隊決戦を避けて
通商破壊戦への傾向を強め、防勢戦略に徹するよう
になった。海戦は敵艦隊の攻勢を阻止する場合に限
って行ない、それ以外の場合には戦闘を回避した。
フランス艦隊が風下側から仕掛けるのは、風下への
避退を容易にするためである。砲戦も艦が波頭に達
する直前に発砲し、高い弾道で敵艦のマストや帆を
狙い航行不能にすればよしとした。

 一方、イギリスは敵艦隊の撃滅のため、主導権を
握って接近戦に持ち込むために常に風上から接敵し
た。砲戦は艦が波頭に達した瞬間に発砲し、低い弾
道で敵艦の乾舷を撃ち抜き、人員を殺傷し砲台を破
壊して、撃沈か乗り込みをかけて降伏させるのがイ
ギリス流なので、混戦の一騎打ちか戦列にこだわら
ない接近戦が重視されるはずであった。

 しかし艦隊戦術準則は、前衛・中央・後衛の各戦
隊が厳格に戦列を維持することを求めており、敵が
敗走したときに限って解列して追撃戦ができるとし
ている。英仏抗争が始まってアメリカ独立戦争まで
の90年間で英艦隊が戦列を維持して戦った海戦が
15回あったが、敵を明確に撃破したことは1回も
なかった。一方で、同じ期間で英艦隊が鮮やかな勝
利を収めた海戦が6回あるが、いずれも指揮官が敢
然と戦列を解いて総追撃戦を下令した場合であった
(小林 2007、303頁)。

 フィニステレーの海戦でのアンソンは戦列主義を
否定していたわけではないが、確固たる信念で解列
して圧勝した。のちのネルソンは戦列戦を愚行の最
たるものとして独自の戦列突破戦法でトラファルガ
ー海戦での勝利をつかんだ。こうした例外はあるも
のの、イギリス海軍にいた多くの勇猛果敢な士官は
艦隊戦術準則の犠牲になっていたといえるし、その
他の大勢は事なかれ主義で解列そのものを恐れてい
たのだ。

▼七年戦争はじまる──ピングの銃殺刑

オーストリア継承戦争の後、オーストリアは台頭す
るプロイセンに対抗するため、伝統的なイギリスと
の同盟を放棄してフランスとの同盟を選んだことに
より「外交革命」と呼ばれるヨーロッパ情勢の激変
が起きた。この結果、イギリス・プロイセン対フラ
ンス・オーストリアという対立関係となり、それぞ
れの同盟の盟主イギリスとフランスの対決が地中海
とヨーロッパ中部の二正面で始まる(七年戦争17
56~63年)。また同時に英仏の北米植民地をめ
ぐってフレンチ・インディアン戦争が戦われた。

 英仏関係が一触即発となると、フランスは例によ
って通商破壊戦と英本土侵攻作戦の準備を始めた。
これに慌てた英政府は、海外が手薄になるのを承知
で艦隊を英本土周辺に集結させると、案の定ミノル
カ島が危なくなった。

それまで英政府がミノルカ島の防衛を軽視していた
のは明らかで、防備指揮官が衰弱した84歳の老将
軍なら兵力もわずかだった。急遽、わずか戦列艦1
0隻からなるピング戦隊が派遣されたが、戦隊がジ
ブラルタルに到着した時にはフランス軍は易々と同
島を占拠してしまっていた(1756年)。

 ミノルカを目指すビングの戦隊はフランス戦隊と
遭遇し並航戦となると、イギリスの前衛隊は隊列を
乱して大損害を受け本隊が接敵できなくなった。ビ
ングは、隊列にかかわらず各艦が最善を尽くして接
敵するよう命令すべきであったが、戦闘中止を命じ
てジブラルタルへ帰投してしまった。ビングは、準
則違反で海将が軍法会議に問われたツーロンの海戦
の前例を思い出したのだ。

ミノルカ島はフランスに占領された。島の防備を怠
りビングに中途半端な兵力しか与えなかった政府は、
自らの落ち度を覆い隠すためピングを軍法会議にか
けた。ピング擁護の声は各方面から寄せられたが、
彼は旗艦の甲板上で銃殺刑に処せられた。これは英
蘭戦争以来100年の間に戦術準則が形式化して、司
令官の判断を誤らせた最悪の例であり、司令官の銃
殺刑という衝撃的な結果でイギリス海軍に深い傷跡
を残した戦争でもあった。

▼「海洋派」ピットの登場と戦局の転換

 七年戦争は、大西洋、西インド諸島、インド洋、
そして太平洋といった広大な戦域に広がり、最初の
世界戦争というべきものであった。イギリスの事実
上の指導者、国務卿ピットの構想は、戦争目的をア
メリカ植民地の保全と拡大に限定し、ヨーロッパ大
陸の戦いはプロイセンに任すという明快なものだっ
た。そして北米での勝利の必須要件は大西洋での制
海権の獲得であるとして、海軍にはフランス艦隊の
封殺、大西洋の海上輸送の防護、陸軍作戦の援護の
3つを任務として与えた。
「海洋派」の戦略だ。
 
 ピットの基本戦略は、制海権を獲得してフランス
とカナダ植民地の連絡を遮断すれば6万人もの仏入
植者は持ちこたえられず、仏艦隊を封じ込めてフラ
ンスの海外通商を遮断すれば、その継戦能力を枯渇
させることになる。あわせて敵の戦争努力をヨーロ
ッパとアメリカ両大陸と大西洋に分散させれば、そ
の効果は計り知れないというものだった。

ピットは海軍卿に当代一流の提督アンソン卿を据え、
その他の提督や将軍も能力本位で重用した。ピッ
トの登場で、ピングを生贄にした政治の優柔不断は
払しょくされ、各方面で戦局も好転した。

 イギリスの同盟国プロイセンは、先の戦争で得た
シュレジェンの防衛に徹したが、苦戦を強いられた
。七年戦争では、イギリス艦隊が先の戦争のように
地中海に引っ張られることはなかったが、当初、プ
ロイセンはロシアをけん制するためにバルト海派遣
を要請した。ピットは、賢明にも基本戦略どおりこ
の要請を断り、代わりに地上軍1万を派遣した。

このためイギリスは強力な戦隊を配備してブレスト
艦隊を閉じ込め、英本土や沿岸航路への攻撃ならび
に北米向けの海上軍事輸送を阻止できた。また、フ
ランスは中立国船を使って植民地貿易を維持しよう
としたので、ピットは海上臨検に踏み切り対仏経済
封鎖も実施した。

 そもそもピットの戦略は、イギリスは盤石な大西
洋の制海権を確保した上で、北米海域における優勢
のもとで戦うというものであった。このため、彼の
主導で増強された艦隊がブレストやツーロンといっ
た敵の基地を常にけん制していたため、フランスは
北米へ十分な兵力を送れずケベックやモントリオー
ルの攻防に大きく影響した。

▼七年戦争における「トラファルガー」

 1759年、フランスはイギリスの海外植民地作戦を
けん制するために英本土侵攻作戦を計画した。いま
やイギリス艦隊は十分に増強され、フランスの基地
は厳しい監視下にあった。イギリス艦隊は、ブレス
ト艦隊に合同しようとするツーロン艦隊を発見し、
撃破した(ラゴスの海戦)。

また同年、イギリスの封鎖の隙をついて出撃したブ
レスト艦隊との間でキベロン湾の海戦が起きる。イ
ギリス艦隊の圧勝に終わったこの海戦とラゴスの海
戦により、ブレストとツーロンの両艦隊の活動は封
じられ、フランスの英本土侵攻作戦は頓挫した。キ
ベロン湾の海戦は「七年戦争におけるトラファルガ
ーの海戦」とも評価されている。


▼北米植民地、インド、西インド諸島の戦い

フレンチ・インディアン戦争では、イギリスの派遣
戦隊は、世界初の本格的な両用作戦とされるケベッ
ク上陸作戦を成功させ、1760年にはモントリオ
ールを陥落させて休戦、イギリスはカナダ全土を手
に入れる。

 インドでは、戦争が始まると仏東インド会社とベ
ンガル太守はカルカッタを攻撃、占領したが(17
56年)、翌年イギリスから派遣された戦隊と英東
インド会社の部隊はカルカッタを奪還し、その後の
プラッシーの戦いで勝利し、イギリスはベンガル地
方を支配し、戦いはインド南東部沿岸へ移行した。

 南東部のマドラスとポンディシェリーは、それぞ
れ英仏両東インド会社が本拠地としていたため、こ
こでの決着がインド全体の支配権を左右した。17
58年以降、英仏戦隊は3回の海戦を戦ったが、仏
戦隊の戦意は低く、最終的にイギリス海兵隊が上陸
し、艦艇と協同してポンディシェリーを降伏に追い
込み(1761年)、最後の拠点を失ったフランス
はインド支配の歴史に幕を下ろした。

 西インド諸島でフレンチ・インディアン戦争が起
きると、英仏戦隊による通商保護作戦が始まり、各
地でイギリスは優勢に戦いを進めた。イギリスは、
1760年に北米でのフランスとの戦いに決着がつ
くと、カナダから戦隊を回すとともに本国からも増
援部隊を送り込み、フランスの本拠地マルティニク
をはじめとする島々を占領した(1762年)。

▼ピットの下野

 フランスの英本土侵攻作戦を頓挫させ、北米や西
インド諸島での戦いも勝勢を確実にした1759年
をイギリスは「素晴らしき年」と呼ぶ。引き続きイ
ギリスはカナダとインドを手に入れ、のちの大英帝
国となる土台を築いた。このころがピットの人気の
絶頂期であったが、プロイセンの戦況が悪化して戦
線が膠着すると厭戦ムードが広がった。

 ピットは、あくまで戦争を継続してフランスに対
する完全な勝利を目指したが、新国王ジョージ3世
は戦争の早期終結を希望しており、スペインに対し
ても宣戦を主張するピットは孤立し、辞職する。そ
の後、イギリスは結局スペインに対して宣戦(17
62年)し、西インド諸島での激しい攻防戦ののち
ハヴァナを占領した。

 また同年、インドに展開したイギリス戦隊と陸軍
は、フランスが降伏した後、することがなかったた
め、スペインとの戦争が始まるとフィリピン攻略に
転用され、戦列艦7隻などと2,300名の攻略部
隊ですべてのスペイン領の島々を手に入れた。

▼イギリス、世界大戦に勝利する──パリ条約

1763年、パリ条約によりフレンチ・インディア
ン戦争と七年戦争に終止符が打たれた。この条約に
よって、イギリスはフランスからカナダとミッシシ
ッピー川以東のアメリカ植民地を獲得するとともに
、インドも手に入れた。地中海においてはミノルカ
を取り戻して通商保護の拠点を確保し、西インド諸
島でも若干の島々を得た。プロイセンはシュレジェ
ンを維持できた。フランスは西インド諸島の小島と
インドのごく一部を確保したに過ぎなかった。スペ
インもキューバとフィリピンを返還されたが、これ
らの植民地をみずから守れないことを世界にさらし
た。

 イギリスは、この初めての世界大戦における勝利
者となり、北米大陸とインド亜大陸における覇権の
基盤を構築し、ピットは大英帝国の創始者となった。
また、ピットの戦略である制海権の獲得を目標と
することの正しさが立証され、イギリスが世界の海
を支配して、パクス・ブリタニカと呼ばれる海洋覇
権を作り上げる大きなステップとなった戦争であっ
た。

 この後、イギリスに対する北米植民地の反発から
アメリカ独立戦争が始まり、北米植民地のほとんど
を喪失したフランスは財政が逼迫しフランス革命に
つながってゆく。(つづく)

【主要参考資料】
ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』
山本文史訳(中央公論新社、2020年)
宮崎正勝著『海からの世界史』(角川選書、200
5年)
青木栄一著『シーパワーの世界史(1)』
(出版共同社、1982年)
小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』
(原書房、2007年)



(どうした・てつろう)



【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学
公共政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤
務として、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、
護衛艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上
勤務として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監
察官、自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須
賀地方総監等を経て2016年退官(海将)。著書
に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクトリン」
で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(20
20年)がある。


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