配信日時 2021/07/14 20:00

【海軍戦略500年史(9) 】イギリスのオランダ潰し 堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の九回目です。

オランダがたどった道と
わが国の現状が極めて似ていると感じるのは
私だけでしょうか?

さっそくどうぞ

エンリケ


ご意見・ご感想・ご要望はこちらから

https://okigunnji.com/url/7/


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

海軍戦略500年史(9)

イギリスのオランダ潰し

堂下哲郎(元海将)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

□はじめに

 前回は、繁栄したオランダに衰退の予兆が現れた
という話でした。今回は、いよいよイギリスが英蘭
戦争を仕掛けてオランダ潰しを始めます。国家の舵
取り役がいないオランダの悲劇です。
次回は、フランスのオランダ潰しです。

▼オランダ潰しの航海条例

 1650年にオランダが無総督時代になると英蘭
交渉が再開された。親オランダのクロムウェルは新
教国同士の連合を提案したが、オランダは関心を示
さず、もっぱら貿易、海運、漁業における身勝手な
経済的利益の維持拡大にこだわったばかりか、英国
私掠船の根拠地を攻撃したり、デンマークと組んで
バルト貿易を独占しようとしたりした。

こうしたオランダ側の交渉態度に嫌気がさした英国
側は交渉を打ち切り、そして間もなく運命の航海条
例を発布する(1651年)。オランダは、史上初
めての無総督時代を迎え、国家的立場からスペイン
の脅威の低下、英蘭間の世論や海軍バランスの変化
などの国際情勢を判断できず見当違いの交渉をして
いたのだ。

 航海条例により、英国に輸入される商品は生産国
(出荷国)から直接に英国船か生産国(出荷国)船
で運ばれなければならず、塩蔵(えんぞう)魚、魚
油などは、英国の船で捕獲され英国人が加工したも
の以外は輸入できないとされ、さらに沿岸の貿易は
英国人所有の船だけに許されることになった。
 
 この条例は中継貿易で栄えたオランダの海運業と
漁業を狙い撃ちにしたもので、この背景にはヘンリ
ー7世の時代とは違い、英国の海軍力の充実による
自信があったことはいうまでもない。

▼事態を甘く見たオランダ

 航海条例に驚いたオランダは、直ちに撤廃を要求
したが、英国が応じるはずもない。戦争のおそれが
あるなどと騒いだら、たちまちオランイェ家と軍の
復権につながると思っているレヘントたちは、航海
条例は英国に対する損害も大きいから、いずれは撤
廃されるだろうと考えた。国内政治では詐術や暴力
を使ってでも事を進めた彼らだったが、国際政治に
ついては楽観的で他力本願的だった。

 たしかに航海条例により英国は大きな損失をこう
むったが、オランダにとっては破滅的だった。もと
もと英国は自国が損をしてでもオランダを潰そうと
考えていたのだから狙いどおりだ。航海条例は英国
の海運と漁業を発展させ、英国の海上覇権と世界帝
国の礎石を築くきっかけとなった。一方のオランダ
ではレヘントたちの楽観論のせいで戦争準備を進め
ることができず、軍事的に優位に立った英国から次
々に強硬な要求を押しつけられることになった。
 
 英国が過去30年間、世界各地でオランダから被
った「被害」に対する賠償要求がそれだ。そこでは、
1623年のアンボイナ事件も取り上げられた。
モルッカ諸島のアンボイナのオランダ総督が、英国
人が日本人傭兵とともに自分を襲撃しようとしてい
ると疑って逮捕、拷問して処刑したという事件であ
る。この事件をきっかけにオランダが香料貿易を独
占し、協力関係にあった英蘭両国の東インド会社が
対立するようになったのだ。当時の英国としては海
軍力の差のために泣き寝入りせざるを得なかったが、
優位になった今、当時の怒りが噴出したのだ。

あわせて独立戦争時のオランダのスペイン禁輸違反
も蒸し返され、運命共同体であるべき同盟国として
背信はなかったのか改めて問われた。英国は英蘭交
渉の条件を厳しくし、オランダ船を次々と臨検して
200隻以上を捕獲した。オランダは忍耐強い交渉
が成功することを信じていたが、気がついたときは
もう戦争を避ける方法がないところまできていたの
だ。

▼戦備も戦意もないまま開戦へ

 1652年5月、ついに衝突が起きた。オランダ
艦隊と英国艦隊がドーバー沖で遭遇した際に、オラ
ンダ側が旗を下ろして敬礼(通峡儀礼、Channel 
salute)しなかったとして英国側が砲撃し2隻を沈
めたのだ。オランダ側は話し合いで解決しようとし
たが、英国側は損害賠償の支払いが条件だとして応
じなかった。

オランダ側は、イギリスに譲歩すると政府の弱腰が
非難され、国内でオランイェ派の力が復活すること
をおそれ、ついに英国艦隊攻撃の命令を下した。国
の存亡をかけた戦争の決断も国内の政争を反映した
ものだったのだ。こうしてオランダは、十分な戦争
準備も戦意もないままに戦争に引きずり込まれてい
った。

 英蘭戦争は、第一次(1652~54年)がクロムウ
ェルの独裁時代に、第二次(1665~67年)と第三
次(1672~74年)が王政復古後のチャールズ2世の
時代に戦われたオランダの貿易に対するイギリスの
挑戦であり、第三次にはフランスも加わった。


▼オランダの弱さ

 オランダ艦隊は、明らかにイギリスよりも不利だ
った。第一に兵力の差は明らかで、1653年の時
点で、英国海軍の大型艦58隻に対して、オランダ
は小型艦主体にわずか15隻であった。

英海軍はピューリタン革命を通じて革命派に属して
いたので、クロムウェルは在任中に200隻以上の
軍艦を建造し乗組員の待遇改善にも努力した。専用
軍艦の建造も進んでおり、チャールズの建艦税で建
造された「ソブリン・オブ・ザ・シーズ」(163
7年進水)などは排水量1,141トン、三層砲甲板を持
つ100門艦で当時世界最強の軍艦であった。

 オランダはといえば、その造船能力は圧倒的に大
きかったにもかかわらず、戦争が終われば商船に使
える武装商船の方が得だと考えられており、レヘン
トたちが専用軍艦の必要性を認めたのは、オランダ
海軍がさんざんに打ち破られ、提督たちがもっとい
い艦をくれない限り出撃できないと言い出してから
である。

 第二に、オランダ艦隊は国内の政争を反映して内
部対立を抱えており、トロンプとデ・ロイテルとい
う名提督がいながら、その指揮に従わない艦長がい
たことだ。この戦争では、陣形を組んだ艦隊運用と
砲戦術を組み合わせた高度な海戦術が用いられるよ
うになったが、オランダ側の優れた操船術、射撃術
にもかかわらず、陣形を乱す艦がいたことは致命的
な弱点となった。

 第三に、両国の地理的な条件は海戦の勝敗に大き
な影響を与えた。英国の通商路は大西洋に向かって
西に開いていたのに対して、オランダの交易路はグ
レート・ブリテン島によって押さえられている。ま
た年の大半は偏西風が吹いているので、英国を出撃
した艦は順風で行動が容易であるのに対して、オラ
ンダ側は逆風で行動に制約を受けた。

 第四に、英蘭両艦隊に与えられた任務の違いであ
る。英国側は、ずばりオランダの経済的優位の破壊
に焦点を絞った。ブレイクが受けた命令は、第一に
東インドから帰ってくるオランダ船を積荷ごと拿捕
することであり、次いでオランダの漁業やバルト貿
易を妨害することであった。
 
 一方のトロンプは、英国艦隊の捕捉殲滅が主要な
任務と考えていたが、東インド会社の船団が帰国す
るたびに、政府は商人たちの強い陳情を受けて船団
護衛の命令を下した。海賊相手なら船団護衛も考え
られるが、戦闘艦隊を相手にやることではなく、オ
ランダ艦隊は、一つの任務に集中することが許され
なかった。

▼第一次英蘭戦争

 イギリス海峡にオランダ船団が帰ってくるたび、
多数のオランダ船が英国側に拿捕され、オランダ艦
隊も優勢なイギリス海軍との戦闘で次第に損耗して
いった。戦争の1年目は互いに勝敗があったが、2
年目に入るとクロムウェルの海軍拡張策で戦力を増
強したイギリスが海峡の制海権を握った。このため
、オランダに帰国する船団はスコットランドの北を
迂回しなければならなくなった。

オランダ艦隊は港に閉じこもり、オランダの沿岸は
英国艦隊により封鎖された。2年間の戦争で、オラ
ンダ商船1,000ないし1,700隻が失われた。貿易は停
止し穀物の値段は暴騰、魚の水揚げもなくなり、多
数のオランダ人が飢餓状態になった。銀行、企業の
倒産が相次ぎ、東インド会社の株も暴落した。画家
のレンブラントもその被害者の一人で、ミケランジ
ェロなどのコレクションを含む全財産を手放したと
いう。繁栄を誇った市街も荒廃し、飢えた失業者の
群れは掠奪に走った。植民地経営にも手が回らなく
なり、西インド会社の本拠地であるブラジルがポル
トガルに奪回されるのもこの時である。
 
 1653年、トロンプは出撃を命じられるが、英国艦
隊に散々に打ち破られ、彼自身も戦死し、もはやオ
ランダにとって戦いに勝つ望みは絶たれた(スケヴ
ェニンゲン海戦)。この後、戦争は小康状態になり、
長期間の海上封鎖に疲れていた英艦隊は封鎖をゆる
めてしまう。オランダは英国海軍の眼を盗んで細々
と海外貿易を続けたが、経済はどんどん窮乏してい
った。
 
 この戦争はウェストミンスター条約(1654年)で
幕を閉じたが、オランダは「アンボイナの虐殺」の
賠償を払い、航海条例はそのまま存続することにな
った。英国は沿海に対する主権も主張しなかったし
入漁料についても触れず、オランダ船に英国軍艦に
対する敬礼を義務付けただけで驚くほど寛大なもの
だった。

▼オランダの復興とイギリスの嫉妬

第一次英蘭戦争は、クロムウェルの親オランダ政策
のために中途半端で終わった。漁業の制限は平和条
約のおかげで以前とあまり変わらなかったし、航海
条例も抜け道だらけだった。多数の商船が拿捕され
たが、平和が戻ると年間2,000隻の造船能力を誇る
オランダの造船所のおかげで、海運、貿易は再び力
強く拡大し、繁栄を取り戻した。オランダ東アジア
会社も、セイロン島とマラバール海岸をポルトガル
から奪った(1658年)。

オランダとの和平を欲したクロムウェルの死後、チ
ャールズ2世が即位して王政復古(1660年)となる。
スペインとの戦争や王政復古の混乱で停滞している
間に、一度は叩き潰したオランダが急速に復興した
ことにイギリスは再び嫉妬し、反オランダ感情は高
まるばかりだった。イギリスは、より確実にオラン
ダを排除できる新しい航海条例を公布し、英国のオ
ランダたたきは以前よりエスカレートし事態は悪化
の一途をたどる。

 英国は、西アフリカのオランダ植民地を略奪、占
拠するなど露骨な挑発を繰り返したが、オランダが
デ・ロイテルの艦隊を派遣して奪回(1664年)する
と、さらに逆恨み的に反オランダ感情が燃え上がっ
た。英国はこの「恨み」を晴らすためにニューアム
ステルダムを攻略してニューヨークと名づけ、他の
北米のオランダ植民地も奪取した。
 
 そして、まだ戦争は始まっていないのに英国はオ
ランダ商船を片端から捕獲して積荷を戦利品とし、
軍艦用の資材を大量に買い付けて、オランダの倉庫
を空にしてから宣戦布告をしたのだ(1665年)。オ
ランダ商人は迫りくる危険にもかかわらず、高値で
ありさえすれば喜んでいくらでも売ったという。

▼第二次英蘭戦争

 こうして押し込まれる形で戦争が始まったため、
オランダのすることはすべてチグハグで、風を待っ
ていた主力艦隊は、政府からの矢の催促で出撃させ
られ、緒戦で司令官も戦死する惨憺たる大敗北を喫
した。

後任の司令官は、またもや党争を反映して、人望厚
かったトロンプ2世はオランイェ派として退けられ
、デ・ウィット自身の全般指揮の下に彼の弟を置き
、トロンプ2世とデ・ロイテルが実戦の指揮をとる
という変則的な形となった。

 第二次英蘭戦争以降は、両軍とも敵艦隊の撃滅を
主目的とし、付随して敵国の海岸地域に侵攻して停
泊中の艦船や倉庫を破壊するようになった。緒戦の
後は、いずれの側にも決定的な勝利がないまま経過
したので、その後、英国側はオランダの港を襲撃し
て多くの船を焼き、オランダ側はテームズ川を遡り
沿岸を砲撃して英国民に衝撃を与えたりする展開と
なった。

 海戦よりもオランダに大きな損害を与えたのは、
隣国の雑軍が侵入して国土がほしいままに掠奪され
たことである。オランダ陸軍は無総督時代になって
から実質的に解散していたため、結局フランスから
の傭兵で雑軍を追い払うことになったが、このよう
な貧弱な国防態勢をみて、オランダ侵略を狙ってい
たルイ14世は大いに喜んだという。

 英蘭間の海戦は一勝一敗を繰り返して長引き、オ
ランダは疲弊し、英国も倦(う)んできた。この頃、
ロンドン大火(1666年)と疫病の大流行で英国の経
済がマヒする事態となり、ブレダの英蘭平和条約
(1667年)で戦争は終わった。

 戦争中は英蘭両国とも艦隊を本国水域に集中させ
ていたため、その隙をついてスペインやフランスは
植民地を強化していた。このため、英蘭両国とも戦
争の合間には艦隊を派遣して権益の維持、拡大に努
めた。特にイギリスの海外進出は著しく、ノヴァ・
スコーシアやジャマイカ島を奪い、いたるところで
スペイン船を襲ってエリザベス時代の再来のようだ
った。

また、平和条約でオランダは東インドの香料産地は
維持できたが、北米のすべての植民地が英国に奪わ
れた。これ以降、オランダの海上覇権は失われてゆ
き、世界貿易の中心がアムステルダムからロンドン
に移る時代となる。


(つづく)

【主要参考資料】
桜田美津夫著『物語 オランダの歴史』
(中公新書、2017年)
岡崎久彦著『繁栄と衰退と』
(文春文庫、1999年)
ポール・ケネディ著
『イギリス海上覇権の盛衰 上』山本文史訳
(中央公論新社、2020年)
宮崎正勝著『海からの世界史』
(角川選書、2005年)
青木栄一著『シーパワーの世界史(1)』
(出版共同社、1982年)
小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』
(原書房、2007年)


(どうした・てつろう)



【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学
公共政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤
務として、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、
護衛艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上
勤務として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監
察官、自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須
賀地方総監等を経て2016年退官(海将)。著書
に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクトリン
」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(20
20年)がある。


▼きょうの記事への、あなたの感想や疑問・質問、
ご意見は、ここからお知らせください。
 ⇒ https://okigunnji.com/url/7/



PS
弊マガジンへのご意見、投稿は、投稿者氏名等の個
人情報を伏せたうえで、メルマガ誌上及びメールマ
ガジン「軍事情報」が主催運営するインターネット
上のサービス(携帯サイトを含む)で紹介させて頂
くことがございます。あらかじめご了承ください。
 
PPS
投稿文の著作権は各投稿者に帰属します。
その他すべての文章・記事の著作権はメールマガジ
ン「軍事情報」発行人に帰属します。
 
 
最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝し
ています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感
謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、
心から感謝しています。ありがとうございました。
 
●配信停止はこちらから
https://1lejend.com/d.php?t=test&m=example%40example.com
 
 

-----------------------
発行:
おきらく軍事研究会
(代表・エンリケ航海王子)
 
メインサイト
https://okigunnji.com/
 
問い合わせはこちら
https://okigunnji.com/url/7/
 
-----------------------

Copyright(c) 2000-2021 Gunjijouhou.All rights reserved