配信日時 2021/07/07 20:00

【海軍戦略500年史(8) 】オランダの衰退 堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の八回目です。

オランダ衰退の条件を見ていると、
戦後日本の姿にとても似ていました。

歴史は、同じことは繰り返さないが、
似たようなことを繰り返す。と聞きます。

歴史から学ぶことはほんとうに大切。
改めてそう感じています。

さっそくどうぞ

エンリケ


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海軍戦略500年史(8)

オランダの衰退

堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

 前回は、アルマダの海戦の後の英国海軍の様子と
オランダ海上帝国がどのように繁栄していったか、
そして、そのオランダがダウンズ海戦でスペインの
シー・パワーにとどめを刺すところまででした。
 今回は、衰退に向かうオランダの話です。戦後の
日本が、経済最優先、軽武装路線で発展したものの、
湾岸戦争では何もできず「小切手外交」などと国
際社会から批判されたことなども思い浮かびます。
次回からは、いよいよイギリスが英蘭戦争でオラン
ダ潰しを始めます。


▼忍び寄る衰退の影

 17世紀前半、まばゆいばかりに繁栄したオラン
ダでは、芸術、文化、教育も大いに発展したが、や
がて何度か滅亡の淵に立つようになる。なぜか? 
岡崎はその理由を、『繁栄と衰退と』において「忍
び寄る衰退の影」として1章を割いて論じているが、
大きく四つある。(岡崎久彦 1999、165-201頁)

 第一は、行き過ぎた地方分権主義がオランダの外
交、防衛政策の一貫性を妨げたことだ。オランダの
州権主義は、七つの州と貴族代表の全会一致が必要
というものだったが、軍事、外交、課税について一
致できないときは総督が暫定的に決定できることに
なっていた。アムステルダム商人が牛耳るホラント
州は政府予算の過半を負担していることから発言力
も強く、州権主義を守るため総督の権限をできるだ
け制限しようとしてオランイェ家と対立した。

1609年の休戦も、総督は継戦を主張したが、スペイ
ンの工作もあって和平を欲するホラント州が押し切
ったものである。彼らの理屈は、軍隊を強くすれば
総督家が強くなり絶対君主制となるおそれがある、
そうなると王様同士の戦争にまき込まれてしまうと
いう短絡的なものだったので、戦争の継続により総
督の武勇に対する国民の信望がさらに高まるのを
妬(ねた)んだのだ。

 第二に、ホラント州の専横で統一国家の体を失っ
たことだ。「軍隊を強くすると戦争になる」と考え
るホラント州のレヘントたちの合言葉は「平和と経
済」だった。彼らはまず、総督と軍司令官の職の廃
止を唱え、他州の反対やユトレヒト連合の規約違反
だと議会が決議したにもかかわらず軍備の一方的削
減も主導した。

 この直後、総督のウィレム2世が急死(1650年)
して総督家の権威は消滅し、ホラント州のレヘント
政治が復活した。1651年の州代表会議では、再び総
督を持たないことを確認したほか、共和国軍も七つ
の州軍に分けることを決定したので、ついにオラン
ダの国防を統一して担う仕組みのない無総督時代と
なった。

▼背信、詐欺師の国民

第三には、オランダという国や国民の信用が大きく
失墜したことである。イギリス人は、アントワープ
攻略戦(1638年)でホラント州がアムステルダムの
繁栄を守るため、武器弾薬をスペイン軍に供給して
アントワープを切り捨てたことに驚き呆れた。

 エリザベスが1585年にオランダ出兵を決意した時
には、英国はオランダの三都市を担保に借款を供与
した。オランダは、エリザベスのあとを継いだジェ
ームズ1世がカネに困っていることを知ると、彼が
この手の取引に疎いのに乗じて、1/3ほどの額を即
金で払って三都市を取り戻してしまった。オランダ
の政治家たちはいい取引をしたと自慢したが、騙さ
れたと気づいたジェームズはその後、決してオラン
ダを許さなかったという。

 オランダ出兵といえば、援軍を率いたエリザベス
の寵臣レスターが南部の兵糧攻めを主張したところ、
穀物輸出業者とレヘントが反対して実現させなかっ
たため、憤慨した彼は短期間で帰国してしまった。
同じようなことはいくつもあり、イギリス人はオラ
ンダ人を背信、詐欺師の国民と考えるようになった。

 フランスもオランダの背信に遭っている。1635年
に結ばれた仏蘭同盟は、スペイン領ネーデルラント
からスペイン人を駆逐し、これを仏蘭間で分割しよ
うとするものだった。フランスはオランダを援助す
るかわりに、両国はスペインと単独で休戦または和
平をしないことを約束した。しかし、ホラント州な
どは商業上の利益を守るために早期の和平を欲し、
他州を説得、買収までしてついに単独和平を結んで
しまった。
 
 ルイ13世はオランダの忘恩を怒り、自由貿易の
特権を与えた関税同盟を廃棄し、地中海のフランス
私掠船にオランダ船襲撃を許した。そしてルイ14
世もこの背信を忘れず、フランスの報復はやがてオ
ランダ滅亡計画の形で表れてくることになる。

▼すべては金の世の中

 第四として、オランダ社会の退廃があった。繁栄
を謳歌するなか、質実剛健で合理的なオランダ人社
会に退廃の影が忍び寄ってきた。ユトレヒトの盟約
で謳った国民皆兵はいまや昔話となり、勇名をはせ
た軍隊も大部分は外国人の傭兵になった。
 
 それでも海上での戦いはまだ人気があったが、そ
れは大きな利益をあげられたからである。強力なス
ペイン艦隊を悪戦苦闘して撃滅してもほとんど無視
された指揮官が、スペインの財宝船を捕獲するとオ
ランダ中がお祭り騒ぎとなり、海軍中将に昇進させ
られた。すべては金の世の中になったのだ。

巨利を得るのに慣れた東インド会社は、地道な海運
業をいやがり、もっぱら貿易の独占に精力を費やし
た。オランダ艦隊は香料の原産地を定期的に訪れて
は、自国が管理する場所以外の香料の木を切り倒し、
他国から恨まれた。胡椒の独占に成功した時には、
価格を釣り上げて2、3年で3,000%の利益を上げた
という。
     
 オランダは、口では自由貿易を標榜しながら、実
際には世界各地でスペイン人を追い出した後、貿易
の独占に腐心したのだ。日本との貿易でも、日本側
では鎖国としているが、客観的にみればオランダが
独占していたのであり、ポルトガルなどのカトリッ
ク国を誹謗中傷して追い出したのが真相だ。

▼宗教的対立から経済的対立へ

世界に友人はなく、社会は退廃し、国の舵取りをす
る者がいなくなった、まさにこのタイミングで英蘭
関係が危機を迎えることになる。

 オランダの繁栄が彼ら自身の能力と勤勉のおかげ
であることは確かだが、ヨーロッパ諸国は三十年戦
争(1618~1648)の戦禍で経済発展など顧みる余裕
はなかったし、英国でも、王党派と議会との抗争が
ピューリタン革命に発展していた。この間、オラン
ダだけが南部戦線以外で平和と安定を維持し、ヨー
ロッパ中から押し寄せる避難民がもたらす資本や技
術を吸収して繁栄していたのだ。
 
 三十年戦争が1648年のウェストファリア条約で終
わると、信仰の自由が認められ、血みどろの対立の
原因だった宗教問題が国家間の問題でなくなり、カ
トリック教会とスペインの脅威がようやく去った。
ヨーロッパにしてみれば、1989年の冷戦の終結にも
匹敵する歴史的な転換点だったといえる。宗教的対
立からふっと覚めた瞬間、国家間の経済的な利害対
立が急に浮上してくる。ここから先、オランダの命
運に暗雲が漂うようになる。

▼英国人の疑問 

 ヨーロッパ中、戦争にかかりきりの時期に、オラ
ンダだけがうまく立ち回って不当な利益を得ていた
と英仏は不満をもった。
 
 フランスは、スペインの脅威に対してオランダと
の同盟を確保する代償として、自らの産業を犠牲に
してまで自国市場をオランダ商人に開放したが、あ
っさり裏切られた。戦争が終わると、その反動のよ
うにフランスはオランダを標的とする強力な保護主
義をとるようになる。

 イギリスでは、エリザベスは利益を上げられる制
海権獲得を優先すべきとの周囲の意見をしりぞけ、
経済的には何の得にもならないオランダ独立の地上
戦闘の支援にその精力を集中した。オランダはたし
かに世界一の海上帝国を建設したが、それは多分に
金がかかるばかりで利益に結びつかない地上戦は同
盟国に頼り、もっぱら海上勢力の充実につとめたか
らである。そして、スペインの財宝船襲撃で多大の
利益を得、また世界中の市場で次々と英国との競争
に打ち勝っていったのだ。
 
 このようなオランダを見て英国人たちが疑問に思
ったのは、「われわれのように強く勇敢な国民が貧
乏していて、自分たちのための戦いも金を払って他
国民に戦ってもらっているような卑怯な商人どもが
世界の富を集めているのは、果たして正しいことな
のであろうか?」(岡崎 1999、219頁)ということ
だ。
 
 昔は英国も完成品を輸出していたのだが、16世紀
末のオランダの技術、産業、貿易の急成長に負けて
しまったのである。なかでも繊維産業については、
英蘭戦争に至るまで繊維品貿易の保護のため数々の
制限措置が試みられたがことごとく失敗し、双方の
非難もエスカレートして経済戦争の様相を呈し始め
ていた。

 しかし何といっても英国が最大の問題だと考えた
のはオランダの漁業であった。その漁場は夏にスコ
ットランド沖に始まり、だんだん南下して冬にテー
ムズ河口に至るまですべて英国沿岸であったのだ。

 1609年、ジェームズ1世は英国沿岸で漁業を行な
うには英国政府の許可証が必要であると布告した。
この問題は直ちに英蘭間の外交の最優先議題とな
り、英蘭戦争に至るまで40年間の交渉の主要議題と
なった。

ちなみに、イギリス海域におけるEU漁業者の操業権
の問題は、2020年のイギリスのEU離脱交渉でも最後
まで論点となったものである。漁業がイギリスやEU
の経済全体に占める割合は1%にも満たないが、既
得権の維持を求めるEUに対してイギリスがこだわっ
ていたのは海の主権回復であり、実に400年以上前
からの問題だったのだ。

▼国際法理論と力の裏付け

 ジェームズの布告の直前、国際法の祖とされるオ
ランダのグロチウスは海洋の自由を論じた「海洋自
由論(Mare Liberum)」を発表した。
イギリスも、スペインとポルトガルによる世界の大
洋分割に反対することではオランダと同じ立場であ
った。エリザベス女王は、ドレークが西半球を荒ら
しまわったことに対するスペイン大使の抗議に対し
て「海洋や大気は誰にも属するものではない」とは
ねつけ、一貫して「国際法」の名の下に海洋の自由
を主張している。
 
 しかし、イギリス沿岸の外国漁船の操業を取り締
まろうとするジェームズ1世としては新たな国際法
理論が必要となった。1617年にセルデンが発表した
「閉鎖海論(Mare Clausum)」がそれで、国家は領
土を支配するように沿岸の一定海域を領有できると
して、「領海」のもとになる考え方を主張した。

イギリスは、初めのうちこそ無許可で操業するオラ
ンダ船若干を捕らえて身代金を取ったが、オランダ
が軍艦を出して漁船を保護するようになってからは
止めてしまった。オランダの海軍力にかなわなかっ
たからである。漁業問題に進展が見られるのは英蘭
間で海軍バランスが変わってきてからである。結局
は力だった。

 イギリスが再び海洋の自由を主張するようになる
のは、英国海軍が世界の海を支配するようになって
からである。18世紀から19世紀初頭にかけて、海上
輸送による自由貿易の必要性と各国海軍の行動の自
由の確保の要求が高まるにつれ、徐々に沿岸国に当
時の大砲の着弾距離だった3マイルまでの「狭い領
海」を認める一方で、その外側の「広い公海」では
自由競争を容認するというところに落ち着き、「領
海・公海の二元的海洋秩序」が慣習国際法となった。
現在では、この考え方に基づいて海洋法が法典化さ
れている。

▼英国海軍の増強 建艦税 共和制

 エリザベス女王の時代でさえも英国海軍は閑却さ
れていたが、女王やドレーク、ホーキンスなどが次
々と世を去り、ジェームズ1世のもとで英国海軍は
ほとんど放置され、荒廃し、汚職にまみれていた。
 
 ジェームズの後を継いで正反対の海軍政策をとる
ことになるチャールズ1世が即位(1625年)した時、
ヨーロッパは三十年戦争の真っ只中であった。本来
イングランドは蚊帳の外のはずであったが、チャー
ルズは姻戚関係などから無理を重ねて5回も遠征艦
隊を派遣し、どれも散々の結果となりヨーロッパ中
の笑いものになった。

ちなみに、この時のフランス遠征作戦(ユグノー
(新教徒)支援のためのラ・ロッシェル遠征)をき
っかけにフランス枢機卿リシュリューは自国艦隊の
増強政策をとり、のちにコルベールに継承されて、
やがてフランス艦隊がイングランド艦隊の最終にし
て最強の宿敵として登場することになる。

 目の前のイギリス海峡ではオランダが宗主国のス
ペイン船を追い回し、スウェーデンやフランスがス
ペインと北海とイギリス海峡の制海権を争っていた。
チャールズは不甲斐ない海軍の再建を図りたいが、
シティからの借金は天文学的数字に達し、議会は戦
費支出を拒否したため、議会を解散して建艦税
(Ship money)による海軍力増強に乗り出した(16
34年)。
 
 建艦税とは、有事に際して軍艦を建造するために、
国王が議会の承認なしに沿岸都市に課税できると
いう中世以来の特権のことであり、エリザベスはア
ルマダの危機に際しては内陸部にも課税した。チャ
ールズが歴代君主と違ったのは、必ずしも「有事」
ではないのにこの制度を乱用して毎年恒常的に税金
を徴収しようとしたことである。結果的に国中の反
対を巻き起こしピューリタン革命(1642-49年)に
つながりチャールズは死刑(1649年)となり、クロ
ムウェル率いる共和制に移行してしまう。

 ともかくもこれにより軍艦19隻、武装商船26隻と
いう海軍力(建艦税艦隊(Ship money fleet))が
出来上がると、1636年、チャールズは1609年に出し
た布告の再確認を宣言し、海上の取締りを強化した。
オランダも情勢の変化に危機を感じて護衛の軍艦を
派遣し、英蘭関係は一触即発の状況となった。


(つづく)


【主要参考資料】

岡崎久彦著『繁栄と衰退と』
(文春文庫、1999年)
ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』
山本文史訳(中央公論新社、2020年)
青木栄一著『シーパワーの世界史(1)』
(出版共同社、1982年)
小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』
(原書房、2007年)
小松一郎著『実践国際法(第2版)』
(信山社、2011年)


(どうした・てつろう)



【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学
公共政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤
務として、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、
護衛艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上
勤務として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監
察官、自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須
賀地方総監等を経て2016年退官(海将)。著書
に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクトリン
」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(20
20年)がある。


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