こんにちは。エンリケです。
『海軍戦略500年史』の七回目です。
毎回本当に面白いですね。
「海洋国家としての生き筋をいかに見出すか?」
というわが国永遠のテーマの土台となることば、
常識、感覚、知識を惜しみなく提供してくださる
ので、底のない知的喜びを味わえるのでしょう。
イギリス・エリザベス一世の「海洋戦略」を知り、
換骨奪胎してわが国式に実践することも、ほんとう
に大事ですね。
オランダが大西洋の制海権を握った背景に何があっ
たのか? が始めて分かったのもうれしいことでし
た。
ではどうぞ
エンリケ
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海軍戦略500年史(7)
アルマダの海戦その後──繁栄するオランダ海上帝
国
堂下哲郎(元海将)
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□はじめに
前回は、オランダとイギリスの海外発展の黎明期
の話でした。
今回は、アルマダの海戦後の英国海軍、オランダ
海上帝国の繁栄、そしてオランダがスペインにとど
めを刺すところまでの話です。
次回は、繁栄の極みにあったオランダが衰退に向
かう様子を見てゆきます。
▼イギリスの伝統的戦略の形成
17年にわたった英西戦争を通じて、エリザベス
はイギリスの伝統的戦略ともいうべきものを作り上
げた。
第一は、大陸政策と海軍政策の難しいバランスをと
って、大陸の脅威から島国を守ったことである。女
王がオランダの支援にこだわったのは、大陸の一国
が覇権を握ったりイギリス海峡の沿岸を支配したり
しないようにするためであり、これが大陸政策の基
本だった。海岸地帯がスペイン軍に握られることは
許容できないことであり、オランダはイングランド
の毛織物輸出の中心地でもあったのだ。
海軍政策についてホーキンスら「ブルー・ウォータ
ー派」は、オランダの地上戦にこだわった結果、そ
の気になればスペインを粉砕できたはずの海軍への
予算が削減されたことや、エリザベスがスペインの
銀の流れを遮断する作戦に十分な支援をしなかった
ことなどを強く批判している。
しかし、エリザベスはスペインを「粉砕」して、伝
統的なライバルであるフランスを利するようなこと
は考えていなかったし、艦隊を遠征させると本国の
守りが手薄になってしまうことを懸念していた。当
時の財政難とイングランド海軍の勢力を考えれば、
オランダ支援と海軍への支援を両立させることは困
難だったのだ。
第二に、エリザベスは精一杯の海軍政策として、
スペインに正面から挑戦するのではなくゲリラ的に
攻撃することで、イギリス海峡において自国船舶を
海賊や敵の私掠船から保護することに努めた。また、
商船隊や漁船団を拡大するために、週に3日の「魚
を食べる日」を定めたほか、造船用の木材資源を
保護し帆布や索用の亜麻や麻の栽培を奨励した。
第三は、バルト貿易を重視し戦略物資の流れを管
制したことだ。造船資材のマスト材、帆布、索類は
バルト地方でしか産出しない帆船時代の戦略物資だ
ったので、エリザベスも航海条例を改正してスペイ
ンを封じ込めて自国のバルト貿易を支援した。また
、中立国による戦略物資の交戦国への輸出を阻止す
るため、戦時禁制品リストを公布(1589年)してイ
ギリス海峡において臨検を行なったのもこの頃だ。
第四に、エリザベスはスペインのイングランド侵
攻に対して、地中海のトルコ艦隊を陽動に使おうと
した。これはイギリスによる地中海の戦略的活用の
始まりといえる。
最後に、女王は死去する直前、財政難のため王室艦
を通商活動に使ってきたが、これは断じて本来の任
務ではなく、王室艦は商船を護衛すべきものだと述
べており、海上交通路(SLOC、Sea lines of
communication)防衛が必要と考えていたことがわ
かる。
▼エリザベスの死と英海軍の衰退
エリザベスが死去(1603年)すると、父子二代に
わたるスチュアート朝となる。二人は正反対の海軍
政策をとった。
初代ジェームズ1世は驚くほどの平和主義者で、
すすんで英西戦争を終結させ(1604年)、私掠免許
状を停止しスペイン船襲撃を厳しく取り締まった。
多くの軍艦が除籍され、残された艦は放置され、乗
組員は訓練されず、給与の支払いも滞ったため士気
は地に落ちてしまった。
このように英国海軍が港で朽ち果て、私掠船が姿
を消すと、イギリス近海ではトルコ、アルジェリア、
モロッコなどのイスラム教徒やフランスの海賊や
私掠船が跳梁し、イギリス海峡や近傍の港湾でさえ
安全ではなくなった。
英国海軍と商船隊の低迷によって大きな利益を得
たのはオランダであり、1620年代には実質的に大西
洋の制海権を握るようになる。また、スペインが長
年の戦争で衰えてくると、イングランドとオランダ
を結び付けていた戦略上、宗教上の結びつきは弱ま
り、かわりに敵対心が強まってゆく。
▼オランダの転機─海運貿易発展の8年間
話をオランダに戻す。エリザベスがオランダに派
遣した援軍は大歓迎を受けたが、スペイン軍に敗戦
を重ね期待外れに終わった。オランダ北部諸州は、
ようやく外国頼みをあきらめ自ら主権を担うことを
決意し(1588年)、フランスとイングランドも北部
7州を事実上の国家として条約で認めた(1596年)
ことでオランダ連邦共和国が誕生する。
オランダに幸運だったのは、スペインがフランス王
が暗殺されたのに乗じて同国への武力介入を決意し
て、軍をオランダからフランスへ向けたことだ。お
かげでオランダ独立軍は1598年までにほぼ現在のオ
ランダに相当する地域を支配下に置くことができた。
ちなみに、ユトレヒト連合では成人男子の兵役義務
を定めていたが、この頃には装備、編制、用兵すべ
ての面で全ヨーロッパの手本となるほどのオランダ
陸軍を作り上げて「軍事革命」の先駆者となっていた。
オランダはハンザ同盟を打ち破って以来、北海、
バルト海方面の貿易の主導権を握っていたが、そこ
での商品は主に穀物や木材であり、香料や銀などの
金目になるものは扱っていなかった。また、独立戦
争を始めてからは、スペインの経済封鎖を受けたの
で経済は貧窮していた。エリザベスに派兵を頼んだ
時も現金で払えず、都市を担保に差し出したことな
どは、後年の繁栄ぶりからは考えられないことであ
る。
そんなオランダに転機が訪れた。アルマダが敗北
したスペインは、艦隊再建用の造船資材調達のため
オランダ禁輸を解除したのだ(1590年)。今や
海におけるスペインの主敵はイギリスとなり、陸に
おいてはフランスへ武力介入を決意したことから、
オランダのような反乱州のことなどは大帝国にとっ
て小事に過ぎなくなったのだ。
オランダは、圧倒的に豊かなスペインとの貿易の
おかげで海運、貿易が急速に発展し始めた。この時
期、ヨーロッパ外貿易はスペインが独占していたが、
そのスペインとの貿易を英国は禁じられていたので、
オランダは中継貿易でありながらも極めて有利な条
件で大きな商売をしてその後の飛躍につながった。
また、それまでイギリスが独占的だったロシア貿
易でも、スペインからの砂糖、塩、香料、銀などを
見返りに輸出できるオランダは有利な地位を獲得し
た。さらに、1591年にイタリアに食糧不足が起こっ
た時は、400隻ものオランダ船がバルト海沿岸の穀
物をヴェネチアに供給し、それまでハンザ同盟が優
位を持っていた地中海貿易をも手に入れた。
▼敵国となったオランダ─スペインの命取り
しかし、このようなオランダの恵まれた状況は8
年間で終わる。アンリ4世が「ナントの勅令」(1
598年)でカトリックを国教とし、プロテスタン
トにも信仰の自由を認めたためスペインは軍事介入
の口実を失い、フランスと平和条約を結んだのだ。
こうなると、イギリス、スペインの海上覇権争いの
漁夫の利を占めて経済は躍進し、そのうえ海上でし
ばしばイギリスと組んでスペイン船に敵対していた
オランダはスペインにとって立派な敵国となった。
そこでスペインは、オランダ繁栄の源であるスペイ
ンとの中継貿易を封鎖して息の根を止めにかかった
のだが、これがスペインの命取りとなった。今や独
立国となって繁栄し、海軍力も充実しているオラン
ダである。海運、貿易なしにオランダは生存できず、
最も重要な「母なる貿易」であるバルト海貿易で
穀物、木材を輸入し続けるためにも、見返りとして
香料、塩、砂糖は不可欠だった。そうした物資をス
ペイン、ポルトガルから入手できないとなれば、オ
ランダは直接入手するために自らヨーロッパ外貿易
を行なわなければならなくなったのだ。
▼驚嘆すべき海外進出─ジブラルタル海戦
このようなわけで1598年以降、オランダはヨ
ーロッパ外の世界へ大躍進する。オランダ船が塩を
求めてはじめてカリブ海に向かったのは1599年だっ
たが、それから6年間で実に768隻が交易に向かって
いる。東インドへは、1598年からの4年間だけで13船
団、60余隻が香料と胡椒を求めて赴いた。東インド
会社を設立する前の段階で、すでにこれだけの船が
行っていたのだ。
このような動きに対してスペイン、ポルトガルは、
オランダ船の排除を狙ったが、オランダ船団は東ア
ジア各地で優勢に戦い、スペイン、ポルトガルの
艦隊は撃破され多くの財宝船が奪われてしまった。
北海で鍛えられたオランダの船乗りたちは勇敢であ
り、他国の船乗りに恐れられた「吠える40度」と
いわれる南半球の偏西風海域を利用したジャワ島へ
の追風高速航路を発見(1610年)したほどだ。
オランダは、現地の政治、宗教については不干渉
を約束したため、スペインの過酷なカトリック支配
に恨みを持っていた現地の人々に歓迎され、ジャワ、
スマトラ、モルッカ諸島、マレー半島だけでなく、
セイロン、マカオでも友好通商関係を結んでいった。
このうち現在のインドネシアに相当する地域は、オ
ランダが第二次大戦まで領有を続ける重要な経済基
盤となる。
オランダは時としてアメリカ大陸沿岸にまで進出
しスペインの利権を脅かすようになったほか、ジブ
ラルタル沖でオランダ艦隊がスペインに大勝して地
中海の制海権を握った(1607年、ジブラルタル海戦)。
この海戦を含め、世界の海におけるオランダ海軍の
跳梁ぶりは、スペインに和平を求める大きな動機と
なり、1609年には12年間の休戦が成立した。
▼オランダ海上帝国
1602年、オランダは東インド会社を設立して植民
地貿易を本格化させる。その権限は、喜望峰以東、
マゼラン海峡以西における貿易の独占、要塞の建設、
総督の任命、兵士の雇用、条約の締結、スペイン、
ポルトガル船の捕獲など幅広く、スペインとポルト
ガルの植民地や貿易を次々に奪っていった。同じ性
格を持つ西インド会社も1621年に設立された。
オランダは、東アジアだけでなく世界各地を広く
探検し、植民地を建設した。ニューアムステルダム
(のちのニューヨーク)を含む北米大陸の北東部を
領有する一方で北部探検も行なった。ハドソン湾に
名を残す英国人探検家ハドソンは、オランダ東イン
ド会社の社員であった。ニューホラント(のちのオ
ーストラリア)、タスマニア、ニューゼーラント(
のちのニュージーランド)もオランダがイギリスよ
りも1世紀前に足跡を残している。こうしてオラン
ダは、のちの大英帝国に劣らぬ「オランダ海上帝国
」を作り上げ、西半球の富をアムステルダムに集め
たのだった。
▼オランダ経済の躍進
スペインとの八十年戦争の戦費をまかないながら、
なぜオランダ経済は大躍進して海上帝国を築き上げ
られたのだろうか?
第一は、植民地貿易に加えて、ヨーロッパの倉庫、
貿易の中継地としての役割を果たしたことが大きい
。東・中欧、ロシア全域に及ぶ大通商貿易地域であ
るバルト海と大西洋に面し、中欧貿易の幹線である
ライン川の河口に位置するオランダは、ヨーロッパ
の中継貿易の中心地にもってこいだった。
第二は、外国人の移住を進め産業や技術の流入を
図ったことである。オランダの外国人移住奨励策の
おかげで、南部からの避難民に加えてヨーロッパ中
の迫害から逃れた新教徒やユダヤ人が流入し、16
09年の人口は350万人に達して英国とならんだ。戦
争前のオランダは、漁業と海運中心で工業は大した
ことはなかったが、戦争が始まるとヨーロッパ中の
産業と技術が流入して経済が急成長したのだ。
造船、海運業の発展はいうまでもなく、年間2,000
隻の建造数を誇る造船所とそれによって作られた商
船隊は35,000隻(1634年)に及び、オランダ一国の
船舶数が他のヨーロッパ諸国全部に匹敵するほどで
大海運帝国でもあった。
さらに、農産品も安価な穀物を輸入できたため、よ
り付加価値の高い酪農が発達し、チーズやバターの
大輸出国になった。このような資本集中的な農業の
おかげで、農民人口を海運、漁業、製造業に振り向
けられるようになり、さらなる成長が可能になった
のだ。
▼オランダ、世界の商業の中心となる
これらの経済発展に加えてオランダを世界の商業
の中心にしたのは、世界最大で最も進んだ資本と商
品の取引の中心となったことが大きい。
1609年には中央銀行としてアムステルダム銀行が
設立され、信用制度を確立したが、イングランド銀
行に先立つこと75年である。
1611年には、有力商人たちの集まる居酒屋、コー
ヒー・ハウスから発展した商品取引、両替、保険を
扱う総合的な取引所が完成した。商品の相場表は15
80年から毎週発行されており、先物取引も盛んに行
なわれたため、アムステルダムは単なる商品の取引
所ではなく世界貿易の価格と流れを調整する機能を
果たした。
こうしてオランダが商業、金融の中心として独占
的な地位を確保すると、物資の買占め、価格の操作
などで独占利益を上げることも可能になった。各国
がいかに真似しようとしても、その独占は簡単に崩
れなかった。
その背景には、オランダの政治経済の実権が各都
市のレヘント層に握られていたことがある。こうし
た有力者たちは皆、船の共同所有者になっており、
その数は1隻につき他の国では多くても2、3人だ
ったが、オランダでは数十人になることも珍しくな
かった。これによりリスクが分散されることはもち
ろん、多様な業種の情報を活かし、それらの利益を
横断的に代表する政策がとられやすくなり、国中が
一体となって国の経済利益を追求する体制となって
いたのである。
当時はまだ重商主義という考え方はなく、国の優
先事項といえば国防と宗教であり経済などは二の次
だったが、17世紀初頭のオランダは早くも近代的
経済制度の原型を備えた他国とは異質の商業国家、
商人国家となっていた。
▼忘れられたダウンズの海戦─スペインの衰退
12年間の休戦期間が終わって1621年には戦闘が再
開されたが、陸上の戦線が膠着した一方、海におい
てはオランダとスペインは世界中で戦った。
1639年、スペインはかつてのアルマダに匹敵する
100隻もの大艦隊を仕立て、13,000人ものスペイン兵
を運ぶとともにオランダ艦隊を撃破して北海の制海
権を握ろうとした。
この艦隊を迎え撃ったのは名提督トロンプが指揮
するオランダ艦隊であり、当初わずか18隻の軍艦で
あったが、優れた操艦術を発揮してスペイン艦隊を
英国海岸に向けて追い詰めた。オランダはあらゆる
船を戦闘用に艤装して、2、3週間のうちに艦隊は
96隻に増強され、トロンプの総攻撃でスペイン艦隊
の2/3を撃破するという大勝利を収めた(ダウンズ
海戦)。
この時のスペイン艦隊は、ヨーロッパ海域におけ
る海上覇権を維持するためにスペインがふりしぼっ
た最後の力であった。この勝利により、ジブラルタ
ル海戦に引き続いてオランダの海上覇権が証明され
、スペインはヨーロッパ海域でのシー・パワー競争
から脱落した。
この意味で、半世紀前のアルマダの海戦の敗北より
も大きな歴史的意義があったダウンズ海戦であるが
、その後、大英帝国が栄えてオランダが衰退したた
めに、後世にはアルマダ撃滅の歴史だけ残って、こ
のトロンプの功績は忘れ去られてしまった観がある
。
植民地帝国となったスペインであったが、海外で
収奪した金銀を財宝船で運ぶだけに終始し、植民地
貿易や国内産業の育成はなされず、貴族中心の封建
的な政治体制や強いカトリック信仰は近代的な資本
主義社会の形成を妨げ、スペイン経済は停滞した。
スペイン王位継承戦争(1701~14年)では、国土
は戦場となりヨーロッパ各地の領土を失い、七年戦
争(1756~63年)ではアメリカでフロリダを割譲し
た。フランス革命戦争(1792~1802年)とナポレオ
ン戦争(1803~15年)でも無力をさらけ出し、セン
ト・ヴィンセント岬海戦(1797年)とトラファルガ
ー海戦(1805年)においてスペイン艦隊は再び大損
害を被り、スペインのシー・パワーは衰退した。
(つづく)
【主要参考資料】
桜田美津夫著『物語 オランダの歴史』
(中公新書、2017年)
岡崎久彦著『繁栄と衰退と』
(文春文庫、1999年)
ポール・ケネディ著『イギリス海上覇権の盛衰 上』
山本文史訳(中央公論新社、2020年)
青木栄一著『シーパワーの世界史(1)』
(出版共同社、1982年)
小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』
(原書房、2007年)
(どうした・てつろう)
【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学
公共政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤
務として、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、
護衛艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上
勤務として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監
察官、自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須
賀地方総監等を経て2016年退官(海将)。著書
に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクトリン
」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(20
20年)がある。
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