配信日時 2021/06/23 20:00

【海軍戦略500年史(6) 】オランダとイギリスの海上発展 堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の六回目です。

エリザベス一世、フェリペ二世、無敵艦隊、ドレー
クなど、なじみある人や組織が登場します。

英国にも「神風」という概念はあったようです。
興味深いですね。

オランダの海洋覇権の栄枯盛衰は、
わが国ではほとんど知られてません。

個人的には、
カルタゴ、ヴェネチア、英国、ポルトガルと並んで、
実に興味あるところです。

「海賊」と「私掠」の違いも面白いですね!


ではどうぞ

エンリケ


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海軍戦略500年史(6)

オランダとイギリスの海上発展

堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

 前回は、大航海時代のアジアの海の状況はどうだ
ったか、ヨーロッパ勢力はどのように日本に入って
きたか、そして日本はなぜ植民地にならずにすんだ
のかなどについて述べました。
 今回は、話をヨーロッパに戻して、日本に入って
くる前のオランダとイギリスの海外発展の黎明期の
話です。
 次回は、オランダが繁栄して海上帝国となった話
です。


▼ニシン漁で発展するオランダ

 14世紀中ごろ、オランダでニシンを長期保存す
る方法が発明されるとヨーロッパ中に輸出されるよ
うになり、北海での漁業はオランダの基幹産業とな
った。やがて漁業の発展は造船業の成長を促し、オ
ランダの造船所は、風力製材機、大クレーンなどの
機械化でずば抜けた建造能力を誇るようになってゆ
く。ずいぶん先の話だが、西欧使節団(1697年)でオ
ランダを訪れたピョートル大帝が、偽名を使って
一職工として技術を習得したのもオランダの造船所
である。

 漁民たちは勇敢で優れた船乗りでもあり、漁期以
外は海運や沿岸貿易にも携わっていた。やがて彼ら
は北海からズント海峡を抜けてバルト海の奥深くへ
進出し、東方と直接交易するようになりハンザ同盟
と対立する。オランダの諸都市は「艦隊」を組んで
戦いを挑み、ハンザ同盟を打ち破ることに成功し、
オランダ経済は15世紀後半から急成長を遂げた。
この頃からオランダでは官民一体となって自国の貿
易や産業を支援するようになったが、英仏などが重
商主義をとる200年も前のことであり、オランダ
の繁栄につれ他国の妬みを生む原因ともなった。

▼海乞食党─オランダ海軍の源流

 1477年、オランダは政略結婚の結果としてスペイ
ン・ハプスブルグ家の所領になった。スペインは、
新大陸から収奪した莫大な富と無敵の軍事力により
専制と恐怖でヨーロッパを支配し、新教徒(利潤追
求を求めるカルヴァン派)が多かったオランダでも
カトリックを強制し、凄惨な異端迫害を大規模に行
なった。
 
 これに対して独立軍を率いて立ち上がるのが民族
の英雄オランイェ公ウィレムである(1568年)。
八十年戦争といわれる長いオランダ独立戦争の始ま
りだ。

 陸上でオランダ独立軍が戦った一方、海ではウィ
レムから私掠免許状を与えられた各地の商船や漁船
の船主たちが「海乞食党(ワーテルヘーゼン)」と
いう私掠船団を作って沿岸海域でのゲリラ戦を展開
した。

「私掠(privateering)」というのは、自国の君主
から特許を得て交戦相手国の船を襲う行為で、当時
の慣習国際法も認める「私的な戦争行為」だったた
め、捕まっても戦時捕虜として扱われる。これに対
して同じく私的な行為である「海賊(piracy)」は、
平時から相手を選ばず掠奪するので、海洋の自由と
安全に対する「世界共通の敵」とみなされ、捕まっ
たら処刑された。

 陸上での戦いが惨憺たる悪戦だったのに対して、
海乞食党は自分の庭のようなオランダ近海で有利な
戦いを進めた。なかでもゾイデル海海戦(1573
年)では、スペイン艦隊30隻を打ち破るという大
きな戦果をあげるほどで、海乞食党はオランダ海軍
の源流となっていった。

▼ユトレヒト同盟結成とオランダ存亡の危機

 オランダでは、宗教などの違いで北部と南部の足
並みがそろわなかったが、やがて南部はスペインの
影響下に入ってしまい、北部は「ユトレヒト連合」
を結成した(1579年)。この連合は軍事同盟で
はあるものの、各州の自治権を尊重するあまり、軍
事、外交、課税については全会一致を必要とする小
回りのきかないもので、ウィレムの権威で何とかま
とまっていたが、議会は富裕な商人貴族(レヘント)
に支配されオランダの大きな弱点となってゆく。

 このあとオランダは存亡の危機を迎える。北部統
合の中心であったウィレムはスペインによって暗殺
され(1584年)、スペインの大軍は南部諸州を足場
にして諸都市を次々に攻略、略奪して北上、残るは
アントワープのみとなったのだ。
 
 切羽詰まったオランダは、生き残りのため自国の
主権を受け渡すことと引き換えに英仏両国の支援を
求めた。自国の主権を条件にするとは驚きだが、レ
ヘントたちからは強く支持された。つまり、英仏に
援軍を頼めば、当時の常識として当然カネが要る、
しかし、カネの代わりに主権を差し出しタダで援助
を得られれば、こんなうまい話はないという商人国
家ならではの計算である。

 一方、英仏にとってはスペイン大帝国を敵にまわ
すことはなかなか踏み切れるものではなく、カトリ
ック国のフランスは拒否、結局イギリスがエリザベ
ス女王の決断により支援に踏み切った。貧しい島国
であったイギリスがこのような決断に至った背景と
は何だったのか。

▼イギリス海軍の源流 

 中世のイングランドでは、国王は戦争のたびに商
船をかき集めて「軍艦」に仕立てて、王室船ととも
に艦隊を編成して戦った。12世紀後半には、イギ
リス海峡に面した五つの港の領主たちが戦時には船
舶を国王に提供する代わりに沿岸海域の司法取締り
の権限を与えられるという「シンク・ポーツ
(Cinque Ports、五つの港)」という組織ができた
のだが、彼ら自身がこの「権限」を乱用して掠奪、
密輸など好き勝手に振る舞うという問題もあった。
この組織の加盟港は最盛期には42にも達した。

 チューダー朝になり近世イングランドが始まる
(1486年)。初代ヘンリー7世は、イングランド商
人にそれまでの沿岸貿易から海外貿易に目を向けさ
せ、海上通商路の開拓と海外市場の獲得を目指した。

このため、ポーツマスに英国最初の乾ドックを建設
し、造船補助金制度により商船隊を大幅に拡充する
とともに、商品積出しをイングランド船に限る保護
主義的な「航海条例」を出した。彼の王室船が10隻
を超えることはなかったが、そのすべてを海外交易
に活用し、商人にも気前よく貸し出した。

▼ヘンリー8世─戦闘艦隊の創設者

 チューダー朝二代目は、横暴で知られる専制君主
ヘンリー8世だ。この頃のイングランドの戦略は、
大陸の強国であるスペインとフランスのうちどちら
か一国が覇権を握ってイギリス海峡の沿岸を支配し
ないようにするヨーロッパ勢力均衡政策だった。両
大国間のバランスに気を配り、イングランドが加担
する方が優勢になるようにすれば、まずまずの海軍
で自国を守れるという考え方だ。
 
 ヘンリーは敬虔なカトリック教徒であったが、王
妃との離婚問題がもとでローマ教皇から破門されて
しまう(1534年)。そのうえ教皇は、「異教徒」ヘ
ンリーを討伐するための「聖戦」をスペイン、フラ
ンス両国に対して呼びかけたので、イングランドは
それまでの戦略を根底から覆され、一挙に国家存亡
の危機を迎えた。

 ヘンリーは、カトリック両国の侵攻を撃退するた
めに、海上商人たちに私掠免許状を与えてスペイン
船を攻撃させるとともに王室海軍を増強することに
した。商人たちは拿捕したスペインの財宝船から莫
大な利益が上がることがわかると、競って私掠船に
出資するようになった。王室船は当時わずか10隻
しかなかったので各地に王立造船所を設けて急造す
るとともに、カトリック修道院の財産を没収して財
源に充てた。

当時の軍艦は、敵艦に接舷して兵士を斬り込ませる
「ソルジャー・キャリア」だったが、イングランド
の軍艦は新たに開発された大口径砲(攻城砲)を艦
載化した「ウェポン・キャリア」に進化していた。
ヘンリーが死去(1547年)するまでに57隻からなる
強力な「戦闘艦隊」が整備されたが、これを目の当
たりにしたスペイン、フランス両国はイングランド
への侵攻を思いとどまらざるを得なかったのである。

 ヘンリーは海軍組織の大改革にも取り組んだ。
14世紀初頭、最先任のキャプテンが艦隊の指揮権を
持つ「アドミラル(Admiral、提督)」として初め
て任命され、その補佐のための組織として「アドミ
ラリティ(Admiralty)」が置かれた。当時のアド
ミラルは艦隊を指揮するといっても兵士の海上輸送
程度だったので、もっぱら陸上にいて海上秩序の維
持や捕獲賞金の分配などを取り扱っていた。

 しかし、軍艦がウェポン・キャリアに進化して海
戦の様相が変化してくると、アドミラルが海に出て
作戦の陣頭指揮にあたる必要が出てきた。また、艦
隊の規模が大きくなり、各地に設立された王立造船
所などの管理体制の充実も求められるようになった。

 このため、16世紀中ごろ、アドミラルたちを本
来あるべき艦隊に戻し、その最先任者を国王直属の
「ロード・アドミラル(Lord Admiral、大提督)」
として艦隊の指揮と管理、海事審判などを担当させ、
その下にのちに「ネイビー・ボード(Navy Board、
海軍委員会)」となる艦隊の管理組織を置くことに
なった。これにより、国王と枢密院の政治的な統制
を受けたロード・アドミラルが、作戦関係の軍令と
艦隊の維持整備などの軍政を一元的に握る強力な仕
組みが誕生したのだ。

 一連の改革を行なったヘンリーはのちに「戦闘艦
隊の創設者」と呼ばれた。しかし彼の死後は、せっ
かくの軍政、軍令の一本化はたちまち形骸化し、ネ
イビー・ボードの腐敗と財政難から艦隊は衰退して
しまった。

▼エリザベス1世─イギリス海外発展の黎明

 ヘンリー8世が死去して11年、エリザベス1世は
35隻に減ってしまった王室船を引き継いで即位した。
この頃になると海外貿易が盛んとなり、それまでの
北海やバルト海沿岸からアフリカやアメリカを含む
大西洋全域、地中海へと貿易圏が広がった。女王は
貿易相手先ごとの合資会社を設立させ、自らも出資
して配当を得たり、船を貸し出したりした。この中
にはアフリカとアメリカでの奴隷貿易も含まれた。

 スペインとポルトガルは、トルデシリャス条約に
基づいてイギリスの交易をすべて密貿易として取り
締まったので各地でトラブルが起きた。1568年にイ
ギリスの奴隷貿易船がスペインに攻撃される事件が
起こるとイギリス側も報復し、それまで良好だった
両国の関係は悪化する。
 
 スペインはポルトガルを併合し(1580年)、東イ
ンドの富を独占する大帝国となっていたが、女王は
私掠免許状を次々と発行してスペイン船を攻撃させ、
捕獲船からの利益の一部を王室に上納させて(1589
年に定められた配分率は、国王が1割、残りの9割
が船主と船長および乗組員の取り分とされた)財政
難を補った。ホーキンスやドレークらをはじめとす
る私掠船船長たちは「エリザベスの海の猟犬
(Elizabethan sea dogs)」として恐れられ、エリ
ザベスは「海賊女王(Pirate queen)」との異名をと
った。
 
 イギリスの私掠船の活躍は目覚ましく、ドレーク
はスペインが支配していた世界を荒らしまわり、マ
ゼランさえも果たせなかった世界一周を成し遂げて
英国に帰国(1580年)して、国庫歳入を上回る巨額
の利益を王室にもたらした。彼は出資者でもあった
エリザベスから爵位を授けられた。こうして船乗り
たちは海賊行為に駆り立てられ、海外探検、貿易圏
拡大が大ブームとなり、農業国イギリスは海外発展
の黎明期を迎えたのである。

▼アルマダの海戦

エリザベスがオランダに援軍を送り、スペインとの
戦争(英西戦争1585-1604年)を決断したのはこの
ような背景があった。女王は直ちにドレークに艦隊
を授け、スペインの西インド植民地を襲撃させた
(1585年)ので、両国は宣戦布告なき交戦状態とな
った。そして1587年にエリザベスがカトリック教徒
のスコットランド女王メアリを陰謀のかどで処刑す
ると、スペインのフェリペ2世はローマ教皇の支持
のもとイングランド侵攻を決意する。

 エリザベスはフェリペをけん制するために、スペ
イン艦隊が集結していたカディス港を急襲(「スペ
イン王の髭焦がし」)させ、スペイン艦隊の英国遠
征を遅らせることに成功したが、翌1588年には再建
された「無敵艦隊(アルマダ)」がイギリス海峡に
姿を現した。ちなみに日本で使われる「無敵艦隊」
という名称は、19世紀にスペインの海軍大佐が発表
した論文のタイトルに由来するらしいが、イギリス
海軍史では「Spanish Armada」としている。

 スペインのアルマダは、ガレオン船65隻のほか武
装商船や大西洋には不向きのガレー船を含む130隻
もの大編成であったが、寄せ集めの陸兵の輸送船団
であり戦闘艦隊というようなものではなかった。指
揮官は海上経験皆無のシドニア公で、国王に「すぐ
に船酔いしてしまう」と交代を願い出たが、尻をた
たかれ出撃した。艦隊は、カレーで17,000名の兵士
を乗せ、ドーバー海峡の制海権を握って一挙に英国
を征服する計画だった。
 
 迎え撃つ英国側は197隻、そのうち王室所有船は
34隻に過ぎず、残りは私掠船の寄せ集めで、こちら
の指揮官も海上経験はなかったがドレークを副司令
官に得て、操艦や砲戦などでもスペイン側よりはる
かに優れていた。
 
 ドーバー海峡を東航し接舷、斬り込み戦法をもく
ろむソルジャー・キャリアからなるアルマダに対し
てイギリス側はウェポン・キャリアとして遠距離で
の砲戦を挑んだことは海戦史上、画期的なことだっ
た。決着のつかないままスペイン側はカレーにたど
り着いたが乗り込んでくるはずの兵士がなかなか到
着しない。オランダ海軍が150隻の艦艇により海
岸に出るあらゆる水路でスペイン軍の移動を封鎖し
ていたのだ。
 
 泊地で待機を強いられたスペイン艦隊は、火船の
急襲を受けてバラバラに脱出したところを英国艦隊
の攻撃に遭い大被害を被ったため、上陸作戦をあき
らめて退却した。両艦隊は折からの大嵐に襲われる
が、英国艦隊が全艦なんとか帰港できたのに対して、
スペイン艦隊は方々で難破するありさまだった。
 
 スペイン艦隊の損失63隻のうち戦闘で喪失したの
は4隻に過ぎず、その他は荒天による難破、行方不
明であり、指揮や練度が劣っていたために自滅した
のだ。英国海軍史はこの嵐を「Winds of God(神風)」
と呼んでいる。

 もしスペイン艦隊が計画どおりに兵士を乗せ、た
だちに海峡を渡っていたら英国は征服されたかもし
れない。そう考えると、この海戦で特筆すべきはオ
ランダ海軍の働きであり、英国を救ったといっても
過言ではない。この海戦を「イングランドの制海権
のはじめ」とする見方があるが、実際にはイングラ
ンドに降りかかった国難をオランダ海軍の助けを借
りて切り抜けたというのが正当な評価だろう。

▼アルマダの海戦その後

 アルマダの海戦に勝利したエリザベスは、プロテ
スタント世界の盟主として自らを宣言した。

 しかし、スペインのイングランドへの挑戦は止ま
ず、さらに二度アルマダを派遣(1596年、1597年)
した。いずれも悪天候のためとん挫したが、エリザ
ベスはスペイン艦隊との対決を極力避けて、アルマ
ダの海戦で得られたイギリス海峡の制海権を拡大ど
ころか維持しようともせず、海軍予算も大幅に削減
してしまった。

 また、エリザベスの「海の猟犬」によって荒らさ
れた西インド諸島のスペイン植民地の守りは強化さ
れ、私掠船が簡単に掠奪できる時代は終わった。女
王は国力を蓄えるために合資会社には存分に活動さ
せたが、ドレークらの私掠活動には小心ともいえる
慎重さで手綱を絞り、彼らを憤慨させた。こうして
スペインは以前にも増して多くの富をアメリカから
略奪したのだった。

 こうしたことからエリザベスは、優柔不断とかシ
ー・パワーを理解できなかった君主などと批判され
ることがあるのだが、彼女の常備艦隊はわずか34隻
で、増強するにもカネがなかったのだから仕方がな
い。当時のイングランドは人口も少ない農業国であ
り、輸出品といえば毛織物くらいのもので、始まっ
たばかりの植民地開拓も失敗続きだったので、アル
マダの海戦以降もスペイン艦隊と戦い続けたら国家
財政は破綻してしまっただろう。

エリザベスはひとまず国難を脱したが、イギリスが
トラファルガーの戦い(1805年)で海上覇権を握る
のは200年も先のことである。


(つづく)

【主要参考資料】
桜田美津夫著『物語 オランダの歴史』
(中公新書、2017年)
岡崎久彦著『繁栄と衰退と』
(文春文庫、1999年)
ポール・ケネディ著
『イギリス海上覇権の盛衰 上』山本文史訳
(中央公論新社、2020年)
宮崎正勝著『海からの世界史』
(角川選書、2005年)
青木栄一著『シーパワーの世界史(1)』
(出版共同社、1982年)
小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』
(原書房、2007年)



(どうした・てつろう)



【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学
公共政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤
務として、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、
護衛艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上
勤務として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監
察官、自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須
賀地方総監等を経て2016年退官(海将)。著書
に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクトリン
」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(20
20年)がある。


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