配信日時 2021/06/16 20:00

【海軍戦略500年史(5) 】大航海時代と戦国時代の日本 堂下哲郎(元海将)

こんにちは。エンリケです。

『海軍戦略500年史』の五回目です。

きょうは、大航海時代と日本ともいうべき内容です。
戦国の英雄がたくさん登場します。

血沸き肉躍る
と言って差し支えない面白さですね!

宗像さんの連載もそうでしたが、
戦後社会で生きてきた一般人にはまったくない歴史
への視座。実に新鮮で力強く、楽しく面白いですね!

強かったから侵されなかった。
この単純な方程式がわからない、認められない人た
ちはもういりませんねw


ではどうぞ

エンリケ


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海軍戦略500年史(5)

大航海時代と戦国時代の日本

堂下哲郎(元海将)

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□はじめに

 前回は、カトリック世界のポルトガルとスペイン
が探検航海を開始し、各地に植民地を建設しながら、
アジアに到達して、日本へのアプローチをすると
ころまででした。

 今回は、大航海時代のアジアの海はどうだったか、
ヨーロッパ勢力はどのように日本に入ってきたか、
そして日本はなぜ植民地にならずにすんだのかな
どについて話を進めます。

 次回は、話をヨーロッパに戻します。


▼戦国時代の日本とアジアの海

 ポルトガルとスペインがアジアに到達した頃、日
本は戦国時代で、海では14世紀頃の前期倭寇に続
いて後期倭寇が全盛期を迎えていた。

 後期倭寇は密貿易を「強行」する海賊だったが、
明国の海禁令(1371年から1567年の間、中国人が海
上で交易することを禁じた)を逃れた中国人を中心
に日本人やポルトガル人などを含んでおり、各地に
拠点を設けて広く東シナ海や南シナ海で活動してい
た。

 その貿易ネットワークはフィリピン北部に及び、
フィリピン征服を狙ってマニラ(1574年)を襲撃し
た倭寇もいたほどであったが、明国の倭寇討伐と解
禁令の緩和とともに勢力を弱める。日本でも秀吉の
海賊禁止令(1588年)で活動は沈静化した。

 
 倭寇は奴隷貿易も行なっており、戦国時代の「乱
捕り」や朝鮮出兵で増えた奴隷をアジア各地に売り
、一部はポルトガル商人により遠くインドやポルト
ガル、スペインへと運ばれた。1582年にローマに派
遣された天正遣欧使節の少年たちも、アジアや南欧
の各地で大勢の日本人奴隷を見かけたことが記録さ
れている。
 
 戦国時代が終わると、仕事のなくなった兵士たち
は、高い戦闘能力を買われて契約に基づくヨーロッ
パ勢力の傭兵となり、植民地獲得をめぐる紛争や現
地民の鎮圧などに活躍した。兵士たちは東南アジア
諸国にも多く雇用され、シャムのアユタヤ王朝に仕
えた山田長政のような者も現れた。

 日本人の海外進出が本格化した16世紀以降、東
南アジア各地の港町には日本人町ができたが、その
うち最大のアユタヤには最盛期で1,000人以上の日
本人がいた。ちなみに中継貿易港として栄えたアユ
タヤは造船業も盛んで、徳川幕府で始まった朱印船
貿易で使われた日本の商船の多くはシャム製のジャ
ンクだった。
 
ポルトガル人が日本に来たのは1543年、乗っていた
倭寇のジャンクが種子島に漂着したのだが、鉄砲が
伝えられたのもこの時だ。1549年にはマラッカで出
会った日本人の案内で、イエズス会士フランシスコ・
ザビエルが鹿児島に上陸、翌年には平戸にポルトガ
ル船が入港し、領主の保護を受けてキリスト教が広
まる。
 
 スペイン人の日本来航は1584年であり、マニラを
拠点にして対日貿易を始めた。やがてフランシスコ
会の宣教師たちも布教を始めたが、教皇が日本布教
をイエズス会にのみ認めていたため、争いとなる。

 それでもポルトガルを併合したスペインのフラン
シスコ会系は強気で押し、ついに1600年にはローマ
教皇がイエズス会以外の日本布教も認めた。

▼スペインの明国征服論

 戦国時代の日本におけるスペインの動きと秀吉の
外交を、平川新著『戦国日本と大航海時代』にもと
づいてたどってみる。

アジアに進出してきたスペインは、明国との貿易を
確保し布教を進めるために同国を征服すべきと考え
ていた。中南米と同様、わずかな兵力で征服できる
と考えたのだ。それが世界領土分割(デマルカシオ
ン)体制における彼らの当然の論理でもあった。

一方、日本については、戦国時代の非常に勇敢で絶
えず軍事訓練を積んでいる武士たちを見て、すぐに
征服するのは困難だが、うまく使えば明国征服には
非常に役立つだろうと考えた。

その頃、キリスト教徒が急速に増え、キリシタンと
なった大名たちは宣教師の指示に忠実だとみなされ
ており、これらの大名を軍事的に支援すれば、他の
諸大名の改宗が一挙に進んで日本を支配でき、神の
名のもとに戦闘力の高い日本兵を明国侵略に駆り出
すこともそう難しくないと考えられたのだ。
 
 信長は、イエズス会は自らが敵対する仏教勢力の
けん制に役立つと考えて好意的に接したが、役立た
なければ容赦なく切り捨てる考えを宣教師らに示し
ていた。信長は、ポルトガルが伝えた鉄砲を巧みに
使う自らの軍事力に自信を持ちつつも、献上された
地球儀を前に宣教師たちから聞かされるポルトガル
の世界進出に対しては対抗心を持っていたと思われ、
諸大名を平定したら一大艦隊を仕立てて明国を征
服すると大言した。明智光秀に討たれる2週間前の
ことだった。

▼秀吉の強硬外交

 秀吉は朝鮮出兵を行なったほか、明国、台湾、南
蛮(東南アジア)、天竺(インド)の征服構想を語
っており、誇大妄想にとりつかれていたとの見方や
狂気説まである。たしかに明国征服は非現実的だっ
たが、秀吉は日本主導の出兵を具体的に考えてポル
トガルに軍事支援を依頼し、イエズス会もポルトガ
ル船の提供やインドからの援軍を申し出ていた。

秀吉はイエズス会とこのような関係にありながら、
彼らが日本国内で急速にキリシタン大名に対する政
治力を強め軍事力を蓄える様子に警戒心を深めてお
り、これが突然のバテレン追放令(1587年)に
つながる。驚いたイエズス会側はフィリピン総督な
どに援軍派遣を要請し、長崎に要塞を築いて教会を
守ろうとする。

結局フィリピン側は派兵には応じなかったが、この
頃から秀吉の「強硬外交」が始まる。秀吉は朝鮮出
兵を明国征服の前段階として位置づけていたが、出
兵に前後して琉球や台湾、フィリピン総督に服属を
要求しただけでなく、アジアのポルトガル植民地を
支配するインド副王にまで威嚇的な書簡を出した。

 特にフィリピン総督に対しては強い言葉で恫喝し
て服属を要求したため(1591年)、怯えた総督
はマニラに戒厳令を布き、慌てて秀吉に使者を送り
何とか融和に持ち込もうとした。使者は謁見の場で
秀吉にポルトガル人の悪口を吹き込むのだが、それ
を信じて怒った秀吉は長崎のイエズス会の教会など
の破壊を命じてしまう。

それまでの秀吉のイエズス会に対する不満が吹き出
した形だが、実は秀吉はマニラ貿易に関心を持って
おり、ポルトガルが独占する長崎貿易のあり方を変
えたいとも考えていたのだ。また、スペインとして
も対日貿易に食い込むために、バテレン追放令でイ
エズス会が追放されたら、その後釜としてドミニコ
会士を派遣しようとしていた。サラゴサ条約で境界
線上にある日本におけるポルトガルとスペイン両勢
力の争いが表面化したのだ。

 秀吉は、フィリピン総督へさらに激越な書簡を送
るが、その中でスペイン国王に対しても「遠方にあ
るというとも予が言を軽視すべからず」などと恫喝
している。朝鮮出兵が意のままにならないからこそ、
フィリピンの服属をなんとしても実現したかった
のかもしれない。

▼幻の明国征服構想

朝鮮出兵は失敗し、秀吉の死により明国征服も幻と
なったが、その征服構想は海洋戦略としてみると大
変興味深い。秀吉は、明国を征服したら天皇を北京
に置き、自らは寧波(ニンポー)(浙江省)を居所
とするつもりでいた。

 寧波は、古くは遣唐使や室町時代の日明貿易(勘
合貿易)で日本船が出入りし、戦国時代には明人倭
寇たちの拠点とポルトガルの対日貿易の中継地にな
った港である。ここからは東シナ海に面した朝鮮、
琉球、台湾はもちろん、南シナ海を経てマカオやマ
ラッカ、さらにはインドのゴアともつながることが
できた。明国を押さえるだけでなくシナ海交易も掌
握し、さらにポルトガルの支配領域にまでにらみを
きかすことができる港が寧波であり、東アジア全体
を視野に、陸だけでなく海も支配する秀吉の強い意
志を感じ取ることができる。

今日、その寧波は中国海軍東海艦隊の本拠地となっ
ている。東海艦隊といえば、台湾海峡や東シナ海な
どを担当し、日米などと対峙する重要な艦隊である。
中国がその艦隊司令部を置いているということは、
時代が変わっても地理は変わらず、国際情勢は変
わっても同地の戦略的価値の高さが変わらないこと
の証左といえる。

▼台湾をめぐる争奪戦

失敗したとはいえ、朝鮮出兵によりスペインは日本
の軍事力の強大さを知ることになった。フィリピン
総督は、日本がいずれマニラを攻略しに来ると考え、
日本が朝鮮出兵に全力をあげている間にその前進
基地となる台湾を占拠することを国王に進言した。
結局スペインは台湾の占拠には動かなかったが、メ
キシコからフィリピンへ兵員と武器を積んだ船が派
遣されたという。

秀吉の死去により台湾出兵はなされなかったが、対
外貿易に携わる領主からするとマニラやマカオなど
との交易路上に存在する台湾は確保しておきたい拠
点だった。徳川幕府は、国内を平定すると台湾へ触
手を伸ばしはじめ、1616年には台湾の支配を狙って
13隻の船団を派遣したが、暴風のため失敗した。

台湾への関心はヨーロッパ勢力も同じで、オランダ
東インド会社が澎湖諸島を占拠すると(1623年)、
明軍と交戦となり、和議によりオランダ人は台湾南
部に移ったが、今度はスペイン人が台湾北部を占拠
してしまう(1626年)。

1642年にはオランダが登場する。オランダは、艦隊
を派遣しスペイン勢力を駆逐して台湾を植民地に組
み込んだが、1662年には鄭成功の攻撃を受けて、台
湾から撤退した。こうした熾烈な領土争奪戦が展開
されたのだが、今日の情勢をみると寧波の例のよう
に、台湾の戦略的価値も時代を超えたものであるこ
とがわかる。

▼オランダとイギリス

家康の時代に入り、遅れてやってきたオランダやイ
ギリスは、日本が軍事大国であるとの認識をもって
いた。なにしろ日本は、自国の数倍の人口を擁し、
鉄砲の数は30万丁で世界一、世界の銀の1/3を産出し
ていたのだ。

平戸のオランダ商館長はバタヴィアのオランダ東イ
ンド会社総督に対して、日本の皇帝(将軍)には力
がある、インドネシアの小さな国の国王のことなど
取るに足りないが、日本の皇帝を怒らせると危ない、
と書き送っている(1621年)。

また両国は、家康がキリスト教を嫌っていることを
知っていたので、ポルトガルやスペインが布教と征
服を一体化させていることをしきりに吹き込んだ。
そして、そう讒言(ざんげん)した以上、自分たち
が布教行為をするわけにはいかなかった。

 このようにオランダもイギリスも、スペイン・ポ
ルトガルとの貿易戦争に勝つために将軍の機嫌を損
ねないように、日本やその周辺での軍事的な行動は
もちろんキリスト教(プロテスタント)の布教も自
制したのだ。

▼日本が植民地にならなかったわけ

このあと幕府は禁教令(1616年)を出し、布教にこ
だわるスペイン・ポルトガルと断交する。スペイン
船の来航禁止は1624年、ポルトガル船の来航禁止は
島原の乱(1637?38年)の後、1639年に通告された。
そして、それをより万全なものとするために、幕府
は海岸線に遠見番所や烽火台を設けるとともに、長
崎では有事に大名家の兵力を動員する仕組みを整備
して、沿岸防備体制を整えた。イギリスはオランダ
との市場競争に敗れて1623年に日本から撤退するが、
オランダは出島に封じ込められ日本の貿易管理に従
った。

 圧倒的な武力と策略をもって世界中を植民地化し
てきたスペイン、ポルトガルは追放され、新興勢力
であるイギリスやオランダは幕府の指示に従った。
ヨーロッパでは三十年戦争(1618?48年)の真っ最
中で、列強は世界中の海で戦いに明け暮れていたこ
ともあっただろうが、戦国時代の日本がこれらの
国々と対抗可能な軍事力と外交力を持っていたこと
は確かだった。それが、ヨーロッパ列強に征服され
た地域との大きな違いだった。

 しばらくはヨーロッパから交易再開を求める船が
来たが、それが途絶えると(1673年)、日米和親条
約締結(1854年)までの200年以上にわたって鎖国
政策をとる。鎖国のおかげで泰平の海だったと思わ
れがちだが、果たしてそうだったのだろうか。


(つづく)


【主要参考資料】
平川新著『戦国日本と大航海時代』
(中公新書、2018年)
村井章介著『海から見た戦国日本』
(ちくま新書、1997年)
田中健夫著『倭寇 海の歴史』
(講談社学術文庫、2012年)
松尾晋一著『江戸幕府と国防』
(講談社選書メチエ、2013年)
松方冬子著『オランダ風説書』
(中公新書、2010年)




(どうした・てつろう)



【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学
公共政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤
務として、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、
護衛艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上
勤務として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監
察官、自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須
賀地方総監等を経て2016年退官(海将)。著書
に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクトリン
」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(20
20年)がある。


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