こんにちは。エンリケです。
『海軍戦略500年史』の四回目です。
中共のいまの動きを欧州の過去の帝国主義と比較す
る「海洋からの発想」は、今のわが国にありません
ね!
こういう「海洋頭脳を拓き、広げてくれる」よみ
ものを求めていました!
感謝に堪えません。
ではどうぞ
エンリケ
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海軍戦略500年史(4)
大航海時代のはじまり─ポルトガルとスペイン
堂下哲郎(元海将)
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□はじめに
前回は序論の最後として「シー・パワーとは何か」
について話しましたので、今回からは本編として
シー・パワーの歴史をたどります。
カトリック世界のポルトガルとスペインが探検航
海を開始し、各地に植民地を建設しながら、アジア
に到達して、日本へアプローチするところまでです。
次回は、大航海時代と日本の関係に話を進めたいと
思います。
▼イベリア半島から始まった大航海時代
地中海と大西洋にはさまれたヨーロッパという大
きな半島の西端、ジブラルタル海峡をはさんでアフ
リカを望むイベリア半島は、キリスト教とイスラム
教の勢力が交差する地域だった。中世のキリスト教
徒によるレコンキスタ(国土回復運動)によりイス
ラム勢力が駆逐されると、キリスト教諸国の中で最
も早い統一国家であるポルトガル王国(1143年~)
やスペイン(イスパニア)王国(1479年~)が形
成された。
15世紀以降、両国が新たな領土や交易ルートを
求めて地中海から大西洋に乗り出したことにより大
航海時代が始まるが、その胎動は13世紀頃にさか
のぼる。マルコ・ポーロ『東方見聞録』などによる
商人らの東方への関心の高まり、ルネッサンス期に
発達した科学、特に精巧なコンパス、大帆船の建造、
球面三角法や天文学の進歩による海図作成の発達は
大きな要因だった。
そして何より大きかったのは、ポルトガルのエンリ
ケ航海王子の功績である。彼はインドへの新航路発
見の事業を一生の仕事ととらえて、世界中から地図
や航海術の知識を集め、逆風でも風上に切り上がる
ことのできる帆船を建造するなどして探検航海の大
きな推進役となったのだ。
両国は王室の支援のもと探検航海に乗り出し、幾多
の失敗ののちに新たな領土や航路を発見してゆくが、
「発見地」の領有権をめぐってしばしば衝突した
ため、ローマ教皇の布告(1481年)でカナリア諸島
より南の新領土はポルトガル領とすることになった。
▼ポルトガル海上帝国
ポルトガルは、この布告を受けて大西洋を南下し
続け、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがアフリカの
南端(喜望峰)をまわってインドのカリカットに到
達した。エンリケ航海王子の死後38年のことである。
彼らのインド洋への進出の理由の第一は医薬品とし
て珍重されていた胡椒や香辛料の獲得であった。ポ
ルトガルは、各地に拠点を築きながらオスマン帝国
やヴェネチア共和国が支援する勢力と戦い、アラビ
ア海でのディーウ沖海戦(1509年)に勝利してイン
ド洋の海上覇権を握り、ヴェネチアが独占していた
香辛料貿易を奪い取った。当時、ヴェネチアが陸路
と地中海経由で行なっていた香辛料貿易は、12人ほ
どの各地の商人を経由していたといわれており、中
間マージンを除いて生産地から直接ヨーロッパに供
給できるようになったポルトガルの利益は莫大だっ
た。
ポルトガルはインド洋方面への航路開拓を重視した
が、偶然(異説あり)到達したブラジルを1500年に
植民地にすると砂糖の主生産地であったマデイラ諸
島からサトウキビ栽培を持ち込み、奴隷制砂糖プラ
ンテーションを始めた。やがてヨーロッパの工業製
品をアフリカに輸出し、アフリカから奴隷をアメリ
カ大陸や西インド諸島に運び、そこからヨーロッパ
へ砂糖、綿花、タバコなどを持ち帰るという大西洋
での三角貿易が成立した。
ポルトガルは、本国と東インド地域との航路の要
衝に要塞をもつ港湾都市をつくり貿易を維持するこ
とを重視し、マラッカ占領(1511年)により東アジ
アに及ぶ世界的な交易システム「ポルトガル海上帝
国」を作り上げた。日本には漂着したポルトガル人
が鉄砲を伝えたほか(1543年)、平戸に商館を設立
(1571年)した。1573年にマカオにポルトガル人
の居留が認められると、日本との「南蛮貿易」の拠
点となった。
16世紀後半になると香辛料価格の下落で香辛料貿
易は徐々に衰退する。また、モロッコの征服を企て
た若き国王が戦死したことによりポルトガル王家は
断絶(1580年)してスペインに併合されてしまった。
ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓からわずか80
年余りの栄光の時代だった。
その後、スペインに併合され停滞している間にオラ
ンダやイギリスといった新興海洋国家が登場し、オ
ランダ・ポルトガル戦争(1602〜63年)で香辛料
貿易を奪われ、世界の海でし烈な植民地獲得競争が
繰り広げられるなか、ポルトガルは徐々に衰退して
いった。
▼ローマ教皇による世界領土分割
ポルトガルの探検航海にローマ教皇が決める領土
分割線が大きな影響を与えたのは前述のとおりだが、
コロンブスが新大陸を「発見」(1492年)すると、
今度はスペイン出身のローマ教皇が「教皇子午線」
を示して、それより西側の土地はすべてスペイン領
としてしまった(1493年)。これを不満としたポル
トガルはスペインと交渉して、教皇子午線をさらに
西側(西経46度37分)にずらした(トルデシリャス
条約、1494年)。
この条約により、教皇は世界を二分割して(デマ
ルカシオン)、ポルトガルはアフリカやアジアへ、
スペインはアメリカ大陸全域へ進出して自国領土と
することを認め、貿易と支配によって利益を得るだ
けでなく、カトリックの布教により世界を文明化す
るという「事業」に乗り出した。それは「神の国」
をつくるという大義によって正当化された力による
独善的な世界支配であった。
これ以降、ポルトガルは前述のように喜望峰回りの
東回り航路を開発し、スペインはマゼラン海峡を抜
けて太平洋を横断する西回り航路をとって貪欲に勢
力圏を広げていった。
▼太陽の沈まぬ帝国
スペインは、西インド諸島からアメリカ大陸に向
かい、残虐な征服戦争を展開して中米アステカ王国
やマヤ系諸王国を滅ぼし、1533年には南米インカ帝
国を滅ぼして植民地としている。中南米以外では、
スペインに雇われたポルトガル人のマゼランが南米
大陸南端で太平洋へ抜ける航路を発見し(マゼラン
海峡、1520年)、グアム島を経由してフィリピン
のセブ島に到達した(1521年)。
こうして東回りのポルトガルと西回りのスペイン
が地球の裏側の東南アジアで再びまみえることにな
った。地球はやはり丸かったということなのだが、
香辛料の産地であるモルッカ諸島にスペイン人が到
達したとき、すでにポルトガル人が入っていたりし
て、各地でしばしば衝突が起こった。
そこで両国はニューギニア島中央部を通る子午線
(東経144度30分)を境界とする条約(サラゴサ
条約、1529年)を結ぶのだが、このときスペインは
賠償金をもらってモルッカ諸島から手を引くかわり
に境界線の西にあるフィリピンを確保している。
サラゴサ条約の境界線は北に伸ばすと北海道を通
るが、条約締結時には日本のことは充分に認識され
ておらず、両国とも権利を主張できる微妙な位置関
係にあった。カトリックの宣教師たちは、ポルトガ
ルはイエズス会、スペインはフランシスコ会などが
中心となってアジアでの布教を強力に進めてゆくの
だが、両国は日本での布教権をめぐって対立するこ
とになる。
スペインの植民地では、過酷な領域支配のもと原住
民は奴隷として使われ、金銀などの資源は徹底的に
収奪された。これによりスペインは16世紀半ばから
は「黄金の世紀」と呼ばれる繁栄をみたが、のちに
富のほとんどは新興国オランダやイギリスに流出し、
国内の産業形成はなされなかった。1580年には、前
述のとおりポルトガルを併合(~1640年)して同君
連合となったことにより、東アジアの植民地も手に
入れて広大な海外領土を誇る「太陽の沈まぬ帝国」
といわれた。
▼オランダ・イギリスの登場と日本との出会い
このようなカトリック世界の二大国により行なわ
れた海洋支配に挑戦したのが、プロテスタント国家
で新興海洋国のオランダとイギリスである。
イギリスはアルマダの海戦(1588年)でスペインの
無敵艦隊を破ってイギリス本土侵攻を阻止し、プロ
テスタント世界の盟主となった。オランダは、宗教
戦争でもあった八十年戦争(1568〜1648年)でス
ペインからの独立を勝ち取り、スペインの100年ほ
どの「黄金時代」にピリオドを打つ。
スペインとの香辛料貿易が難しくなったオランダは、
ジャワ島との独自ルートを確保、1602年に東アジ
ア会社を設立して、ポルトガルや現地の小王国と戦
いながらジャワ島に地盤を築いた。イギリスはこれ
より先、1600年に東アジア会社を設立して、インド
や東アジア地域に拠点を開いている。
日本に初めてやってきたオランダ船は、1600年に
豊後国に漂着したリーフデ号だ。その後、オランダ
は平戸に商館を設置し(1609年)、日本との貿易関
係を強めてゆく。
イギリスも、リーフデ号に乗っていたイギリス人航
海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)の仲介で、
1613年に国王の使者を派遣して、同地に商館を開い
た。やがて両国は、先に日本に入っていたポルトガ
ルやスペインとの競争を繰り広げることになる。
▼植民地のパターン
植民地についての話は今後も繰り返し出てくるこ
とになるので、ここで整理しておきたい。
大航海時代以来19世紀にかけてヨーロッパ人は多
くの植民地を作ってきたが、青木栄一・東京学芸大
学教授は都合4つのパターンをあげている。
(青木 1983、19-21)
第一は、交易の拠点としての植民都市の建設であ
る。この植民都市は港湾都市であり、現地内陸部の
商品とヨーロッパの商品との交易の場であった。ヨ
ーロッパからの植民者は基本的に商人であり、貿易
の利益が保たれる限り、内陸部の政治体制や住民と
は共存できた。これはポルトガル人が15世紀以降
アフリカやアジアで作ってきた植民地のタイプであ
り、のちにオランダ人、イギリス人、フランス人な
どもこの方式を踏襲した。
第二は、植民者が農民として定住するものである。
この場合は原住民を「駆逐」あるいは奴隷として
使役して農地を内陸部へ拓いてゆく。スペイン人が
新大陸で行った植民地開拓の方式であり、当初は金
銀などの鉱山開発の比重が大きかったが、のちに農
業開発に中心が移った。イギリス人、フランス人も
この方式を繰り返した。
これら15世紀以来の植民地の方式に加えて、ヨー
ロッパで産業革命が進展すると19世紀には第三の方
式が生まれる。それは、食料や原料の供給地である
と同時に製品の市場となる植民地である。そこでは
ヨーロッパ人の資本と技術を投入して鉱山の開発や
食料、工芸作物などの農場が拓かれ、原住民を労働
力として用い、港湾や鉄道の整備も進められた。
このように事業が広範囲に広がり、市場として安定
するには現地政治にも安定が求められるようになり、
ヨーロッパ本国の支配力が海岸部の都市から内陸部
に及ぶようになっていった。特に1870年代以降にな
ると、ヨーロッパ諸国によるアフリカ内陸部の分割
が盛んに行なわれ、イギリスとフランスが相互に対
立しながら勢力を拡大し、新たにドイツとイタリア
が植民地獲得競争に加わった。
第四に、植民地は大陸や大きな島に拡がっただけ
でなく、経済的には何の価値もないような大洋中の
小島にも拡大した。これは、艦隊の泊地や石炭の補
給地として海上交通の要地となることが期待され、
19世紀末になると、海底ケーブルの中継地として
の役割も生まれた。
19世紀の植民地獲得の尖兵となったのは各国の海
軍であり、ヨーロッパ人の手つかずの土地を求めて
調査、探検を行なうとともに、現地の支配者に対し
ては圧倒的に優勢な武力をちらつかせながら、自国
の権益確保に手段を選ばなかった。こうした新しい
かたちの植民地の獲得と経営を進めていく政策が帝
国主義と呼ばれた。
以上のようなヨーロッパ人の植民地のパターンに加
えて、近年中国が展開する「新植民地主義」は第五
のパターンといえるかもしれない。
中国は「一帯一路」構想の名のもとで途上国のイン
フラ整備などを積極的に援助しているが、援助を受
ける国に対して返済能力をはるかに超えた融資を行
ない、償還困難になったところで当該インフラの運
営権を取得するような例が出てきた。いわゆる「債
務の罠」だ。追い詰められた債務国は、政治や軍事
面で中国の不当な影響を受けざるを得ず、実質的に
「植民地化」されるというものだ。
今日の国際社会で、このような中国の身勝手な政
策が受け入れられ続けるはずもなく、「中華民族の
偉大な復興」のための「一帯一路」構想がいつまで
通用するのか注目される。
(つづく)
【主要参考資料】
茂在寅男著『航海術 海に挑む人間の歴史』
(中公新書、1967)
羽田正著『東インド会社とアジアの海』
(講談社学術文庫、2017)
平川新著『戦国日本と大航海時代』
(中公新書、2018)
村井章介著『海から見た戦国日本』
(ちくま新書、1997)
青木栄一著『シーパワーの世界史(2)』
(出版協同社、1983)
(どうした・てつろう)
【筆者紹介】
堂下哲郎(どうした てつろう)
1982年防衛大学校卒業。米ジョージタウン大学
公共政策論修士、防衛研究所一般課程修了。海上勤
務として、護衛艦はるゆき艦長、第8護衛隊司令、
護衛艦隊司令部幕僚長、第3護衛隊群司令等。陸上
勤務として、内閣官房内閣危機管理室(初代自衛官)、
米中央軍司令部先任連絡官(初代)、統幕防衛課長
(初代)、幹部候補生学校長、防衛監察本部監
察官、自衛艦隊司令部幕僚長、舞鶴地方総監、横須
賀地方総監等を経て2016年退官(海将)。著書
に『作戦司令部の意思決定─米軍「統合ドクトリン
」で勝利する』(2018年)『海軍式 戦う司令
部の作り方―リーダー・チーム・意思決定』(20
20年)がある。
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