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荒木さんの最新刊
知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
警務隊で修練されている「逮捕術」を初めて明らか
にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
れました。
そのため、最高水準の逮捕術の技の連続写真が実に
多く載っています。それだけでなく、技のすべてを
QRコードを通して実際の動画をスマホで確認できる
のです!
自衛隊関係者、自衛隊ファン、憲兵ファンはもちろん、
武術家、武道家、武術ファンにも目を通してほしい
本です。
『自衛隊警務隊逮捕術』
荒木肇(著)
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こんにちは。エンリケです。
きょうの、
「防衛省の秘蔵映像」解説 第17回から、
防衛庁の秘蔵映像に戻ります。
冒頭の聯隊区に関するおはなし。
この種の「わが軍制知識」をきちんと持っておか
ないと敵の歴史捏造や嘘ばなしに右往左往させら
れることになります。
歴史戦や宣伝戦、法律戦等に不可欠なツールと
言えましょう。
掃海隊をめぐるおはなしからも思うところ大です。
きょうは空中心の本文も実に面白いですね。
まさに自衛隊史です。
さっそくどうぞ。
エンリケ
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防衛省の秘蔵映像(17)
自衛隊30年の歩み
─昭和59年映像─
荒木 肇
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1984(昭和59)年の映像
https://www.youtube.com/watch?v=DMUSDUeKGfw
□お礼
MMさま、いつもありがとうございます。掃海隊
の方々は戦死、あるいは戦傷という扱いは受けられ
ませんでした。当時の独り立ちできなかった日本の
ために、日本国民の将来のために出発されたのは確
かです。
何よりお気の毒なのは、すべてに緘口令が出された
ために、隊員の方々がさまざまな思いを胸に出撃さ
れた事実も世間に知られなかったことでしょう。米
海軍からも能力への高い評価を受けて、戦局への貢
献に対する謝意があったことなども知られずにいま
す。
あらためて、感謝の気持ちをもつべきだと思います。
□聯隊区についてのお問い合わせに答えて
HMさま、ご愛読ありがとうございます。聯隊区
と大隊区についてご説明いたします。まず、大隊区
司令部条例(明治21年勅令第29号)を見ましょ
う。第1条には、司令部職員表が載っています。司
令官は中佐、もしくは少佐1名、副官大尉もしくは
中尉1名、書記下士5名(うち1名は軍吏部下士)、
監視区長曹長2名ないし4名とあります。
第2条には、「司令官は旅団長に隷し、各大隊区
内の徴兵事務及召集事務を掌る」と隷属関係が明示
されています。そして第6条には48個の司令部の
位置が書かれます。当時は6個師団、合計24個歩
兵聯隊でしたから48個の大隊区司令部があったわ
けです。大隊区は2~4個の監視区に分かれます。
だから曹長が2名ないし4名だったのです。
注意すべきは、師管を2つの旅管(旅団管区のこ
と)に分け、旅管をさらに4個の大隊区に分けてい
ることです。ご承知のように、旅団は2個歩兵聯隊
ですから、大隊区はその倍の4個になります。2個
の大隊区から1個の聯隊の兵員を徴集することにな
りました。
東京の第1師管の例を挙げてみます。第1(東京)
旅管は麻布(東京)、横浜(神奈川県)、高崎(群
馬県)、長野(長野県)という大隊区に分かれます。
第2旅管は佐倉(千葉県)、水戸(茨城県)、本郷
(東京)、宇都宮(栃木県)の各大隊区です。
さらに詳しくいえば、当時は騎兵旅団も野戦重砲
兵旅団もありませんから、旅団長といえば歩兵旅団
長しかおりませんでした。だから旅管とは、そのま
ま歩兵旅団長の管轄する管区という意味になります。
そこで、当時の旅団長は、後の旅団長と異なって、
軍政上の職責権限を持っていたことにも注意しな
ければなりません。大隊区司令部を管轄し、徴兵や
召集業務を行っていたからです。旅団司令部条例に
もそのことを表す記述があります。
この制度が変わったのが、日清戦争(明治27・
8年戦役)後の、明治29(1896)年です。大
隊区司令部が廃止され、師団長に直結する聯隊区司
令部になりました。旅管も廃止されました。旅団長
は大きく軍政面から後退します。そのゆり戻しが日
露戦争直前の明治36(1903)年の改正です。
歩兵旅団長の職責として、聯隊区司令部、沖縄警備
隊司令部の徴兵事務を監督する権限が復活します。
そうして、大正13(1924)年には旅団司令部
条例から徴兵事務の監督権限が削除されます。これ
で旅団長は軍政面にタッチすることはなくなりまし
た。
なお、歩兵は大隊区時代ならその大隊区ごとに割
り当て徴集人数は、公平になるように配慮されてい
ました。歩兵以外の特科隊(騎兵・砲兵・輜重兵・
工兵)は師管全体から採られておりました。
□はじめに
昭和の50年代最終期の映像です。ある程度のお
歳の方々は「禁煙パイポ」のCMをご記憶ではあり
ませんか。「わたしはこれで会社を辞めました」と、
中年男性が小指を立てるものでした。「焼酎の一
気飲み」などが始まり、エリマキトカゲなども流行
しました。
食生活の変化も大きかった年です。外食産業の売
り上げは、マックが約1兆円を売り上げで日本一に
なります。第2位はファミレスのすかいらーくグル
ープ、3位は小僧寿し、ほっかほっか亭、ロイヤル、
ケンタ、ダイエーの外食事業部などと続きました。
ついでに「昭和家庭史年表」(河出書房新社)か
ら政治・経済面から昭和50年代(1975~84
年)をふり返ってみましょう。51年はロッキード
疑惑で田中角栄前首相が逮捕されました。52年は
三菱商事・三井物産などが韓国の朴政権や岸信介氏
らにリベートを払っていた日韓癒着問題が表面化し
ます。同年、米軍立川基地が全面返還されました。
53年には福田赳夫(ふくだ・たけお)首相が、防
衛庁に有事立法・有事防衛の研究促進、民間防衛体
制の検討を指示します。54年は米中が国交を結び、
台湾が切り捨てられました。アメリカのダグラス・
グラマン両社の航空機売り込みに関する疑惑が発
覚、キーマンとなっていた日商岩井の重役が自殺し
ます。東京都知事には自民党推薦の鈴木俊一氏が当
選し、革新都政が終わります。
55年になると、ソ連ではアフガニスタン侵攻へ
の批判が出ました。そして、イラン・イラクの間に
戦争が起きます。56年には日米貿易摩擦への対応
として、自動車の輸出自主規制が始まりました。自
治省は81(昭和56)年度の全国市町村要覧に、
北方領土3島6村を加えると決めました。歯舞(は
ぼまい)諸島はすでに根室市に編入済みでした。5
7年には日米共同の極東有事研究が始まります。欧
米との貿易摩擦が激しくなり、日本に非難が集中し
ました。58年には富士銀行がアメリカの金融会社
2社を買収。日本企業の外国企業買収が活発化しま
す。大韓航空機がソ連戦闘機に撃墜されます。
そして、この1984(59)年、日本海側の大
雪が「59年豪雪」と名付けられました。死者12
1人、重軽傷者733人も出たのです。もちろん、
映像の中に自衛隊の災害派遣が記録に残されていま
す。
気象庁は「異常気象白書」で北半球の急速な温暖化
を指摘します。東京では熱帯夜が連続16日間も続
きました。観測史上初めてのことだそうです。
▼イーグルの配備
映像には第2航空団第203飛行隊が、F-10
4からF-15に機種改編がされたことが出てきま
す。この時代、装備取得計画は5カ年単位で計画さ
れました。この映像の頃は1980(昭和55)年
から84年までの計画になります。これが「53年
度中期業務見積り」です。
ただし、この見積りは決して固定的なものではあ
りません。目安として5カ年単位にしていますが、
3年間が経った時点で、残りの2年に新しい次の年
度の3年を加えて、新5カ年計画としていました。
いわゆるローリング方式を取ることになっています。
1980年代には旧式化したF-104Jスター・
ファイターの更新用として、待望のF-15Jイー
グルが戦列につくことになりました。1986
(昭和61)年には、暫定的に編成されたF-4EJ
ファントムの1個飛行隊が退役します。そこでF-
15Jの調達数も当初の100機から123機くら
いになるのではと思われていました。
F4EJは防空戦闘機(邀撃専門の戦闘機)とし
ての任務は外されて、対地攻撃の支援戦闘機や戦術
偵察機であるRF4への改修がされていました。支
援戦闘機にはすでに三菱F1があり、その戦闘機隊
の定数の問題もあります。
▼当時、最強の戦闘機イーグル
F15イーグルはベトナム戦争で得た格闘戦闘の
経験をもとに、米空軍がパイロットの意見を取り入
れながら開発しました。戦闘機本来の空中戦能力を
とくに重視した戦闘機です。米空軍は長い間、F4
ファントムを主力戦闘機としてきましたが、海軍の
艦上戦闘機として開発、生産されたものではなく、
空軍が独自で開発した戦闘機を使いたいという願い
を強くもっていました。
朝鮮戦争(1950年)で初めてアメリカ軍はソ
ビエト連邦(以下、ソ連とします)製の小型ジェッ
ト戦闘機と遭遇します。これに対抗したのがF-8
6Fセイバー戦闘機でした。第2次大戦以来の50
口径(12.7ミリ)ブローニング機関銃6門を備
えていました。対して20ミリの大口径機関砲を装
備し、一撃離脱戦法を常套としたソ連戦闘機(MI
G15など)を圧倒しました。
この経験から、米空軍は戦闘機には優秀な格闘戦
闘を要求するようになったのです。しかし、この傾
向は長続きすることなく、高速性と兵器搭載量を多
くするといった戦闘機を開発するようになりました。
F-100に始まる(センチュリー・シリーズと
いわれます)大型戦闘機が次々と開発・装備されま
す。しかし、多くのパイロットからはあまり歓迎さ
れず、とうとうF15が生まれました。
F-15は高性能のターボファン・エンジンを2
基積み、推力の合計がなんと機体重量よりも大きく
なりました。つまり、垂直上昇も可能だと解説され
ました。大きさはファントム(F4EJ)よりほぼ
一回り大きいです。
比べてみましょう。全長は19.43メートル(イ
ーグル)、17.76メートル(ファントム)、以
下単位はメートルです。全幅13.05(イ)、
11.71(フ)、全高5.62(イ)、4.95
(フ)になります。重量は18.8トン(イ)、
24.8トン(フ)とさすがに復座のファントムが
重い。
武装は両機とも同じで、20ミリ機関砲M61A1
が各1門ずつ、AIM-7Eスパロー×4、同9B
サイドワインダー×4という当時の標準装備といえ
るでしょう。何よりの特徴は、イーグルが装備する
ヒューズAPG-63レーダー火器管制装置です。
制空戦闘機のミッションには最適で、ルック・ダウ
ン(前下方捜索能力)能力は地表をかすめて飛ぶヘ
リコプターや攻撃機を確実に捉えることができます。
▼80年ごろの航空自衛隊
よく知られているように、航空自衛隊は実戦部隊
として航空総隊をもっています。この他には飛行教
育集団、術科教育本部(航空学生教育隊、飛行教育
団など)や補給処、航空実験団、航空救難団、保安
管制気象団、輸送航空団などが、当時ありました。
航空総隊(東京都府中)は、北部(青森県三沢)、
中部(埼玉県入間)、西部(福岡県春日)の各航
空方面隊と南西航空混成団(沖縄県那覇)に分かれ
ます。( )の中は司令部所在地です。各航空方
面隊は2個航空団と1個から2個の高射群、1個航
空警戒管制団、その他の直轄部隊を隷下に置きまし
た。沖縄の航空混成団だけは第83航空隊と1個高
射群、南西航空警戒管制隊とコンパクトになってい
ます。
1980年現在の航空部隊の保有機一覧がありま
す。第1航空団(静岡県浜松北基地)は飛行教育集
団の隷下部隊です。その第1飛行隊はF86、第3
3同はT33、第35同もT33。第2航空団(北
海道千歳)は第203飛行隊(F104)、第30
2同(F4)、青森県三沢の第3航空団はF1装備
の第3と第8飛行隊で構成されていました。宮城県
松島基地の第4航空団は第21、第22の両飛行隊
をもち、装備するのはT2。
▼実戦対応の戦闘機隊
第5,6,7、8航空団は邀撃(ようげき)戦闘機
部隊です。邀撃は迎撃(むかえうつ)と同じ意味で
す。自衛隊では「要撃」という言葉を使います。ま
ず、宮崎県新富町の新田原(にゅうたばる)基地の
第5航空団。隷下にF-104の2個飛行隊、第2
02と第204飛行隊です。石川県小松基地には第
6航空団がいます。隷下にはF104の第205、
F-4の第303飛行隊でした。茨城県百里基地の
第7航空団はF-4の第305、第301の両飛行
隊、それに偵察航空隊である第501飛行隊です。
第501は偵察機型であるRF-4Eを装備します。
そうして最後は福岡県築城(ついき)基地の第8
航空団、F-86の第6飛行隊、F-4の第304
飛行隊です。そして、南西航空混成団には第83航
空隊があり、その隷下にF-104の第207飛行
隊がいました。
▼C130Hがやってきた
映像には愛知県小牧基地に4発のプロペラ輸送機、
C130Hが飛来する様子が撮られています。こ
の年内に4機がやってきて、輸送航空団への配備を
待ちます。この機体は実に古い物です。1950年
代の初めに開発されています。しかし、基本設計が
しっかりとされ、将来的な見通しがあたっていたの
でしょう。大きな設計変更もなく、いまも活躍して
います。
機体の後方はカーゴ・ドアがあり、地上に下ろす
ことができます。陸自でも使うパジェロ(小型トラ
ック・ジープに相当)なども自走して入れます。貨
物室は高さが2.81メートル、幅3.12メート
ル、長さ12.5メートルもあり、乗員は4名、武
装兵92名を運べるそうです。空挺部隊なら64名
が乗れます。
最大速度は580キロメートルですから、わたし
も千歳まで3時間近くかけて運んでもらいました。
航続距離は最大で7800キロメートルですから、
C-1ジェット輸送機の3300キロメートルに比
べれば、2倍以上の性能になります。
(つづく)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
https://amzn.to/31jKcxe
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