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荒木さんの最新刊
知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
警務隊で修練されている「逮捕術」を初めて明らか
にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
れました。
そのため、最高水準の逮捕術の技の連続写真が実に
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荒木肇(著)
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こんにちは。エンリケです。
きょうの、
「防衛省の秘蔵映像」解説 第16回は、
読者の方からの問い合わせに応えた
番外篇「特別掃海艇隊の記録」です。
自衛隊がまだなかった時代の
朝鮮戦争時に出動した
掃海部隊に関する記事です。
まさに知られざる歴史です。
わが軍事に興味ある方はみな、
知っておかなければならない歴史と
いえましょう。
さっそくどうぞ。
エンリケ
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防衛省の秘蔵映像(16)
番外篇「特別掃海艇隊の記録」(2)
荒木 肇
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□はじめに
海上自衛隊は、この朝鮮戦争に参加した掃海艇隊
が始まりだと思いこんでいました。ところが、事実
はそうではありませんでした。
1952(昭和27)年4月23日に海上保安庁法
の一部改正がありました。26日に公布されたその
内容は、保安庁の外局として海上保安庁警備隊がで
きました。6月に開庁し、7月に要員を募集し、8
月には警察予備隊と統合され海上警備隊となりまし
た。そうして1954(昭和29)年に海上自衛隊
となったのです。
そうして実に、1952年の1月から「基幹要員」
として、海軍兵学校、同機関学校の出身者を中心に、
アメリカ海軍から教育を受けていた士官たちがおり
ました。彼らは「海軍の伝統の美風を残すこと」、
「海軍を再建すること」を旨としていたようです。
こうした事実の数々は、海上自衛隊創設50周年に
なる節目にマスコミにも公開されました。わたした
ちは、NHKのテレビ番組や(いつもの通り、やや
誇張された演出過剰なところもありましたが)、出
版された『海上自衛隊はこうして生まれた(NHK
報道局「自衛隊」取材班)』(2003年)によっ
て初めて知ったことも多くあり、驚かされました。
同時に、なぜ海自は日本海軍なのかが、よく理解で
きた気がしたのです。
▼掃海隊、元山に到着
元山での掃海勢力は次の通りでした。旗艦兼ねて
掃海母艦である高速輸送艦「ダイアチェンコ」、ア
メリカ掃海艦艇12隻、駆逐艦1隻、工作艦1隻、
サルベージ艦1隻と、日本掃海艇8隻で構成されま
した。指揮官は掃海任務群司令スポフォード大佐で
した。
日本掃海艇隊は田村総指揮官(「ゆうちどり」座
乗)と第2掃海隊(指揮官能勢事務官・7隻)は1
0月8日未明に下関を出発、対馬海峡北方でアメリ
カのサルベージ艦と合流し、目的地が元山であるこ
とを知りました。
翌日の9日、吉田総理から、「我が国の平和と独
立のため、日本政府として国連軍の朝鮮水域に於け
る掃海作業に協力する」といった電報が掃海艇隊に
届きます。10日に元山に到着すると、翌日から掃
海作業に入りました。
12日には触雷がありました。アメリカの掃海艇
2隻が沈み、13人が戦死または行方不明、79人
負傷という結果になります。そのため掃海作業は、
いったん休止になりました。しかし航空機による機
雷捜索は続けられ、14日に再開されることになり
ます。
▼MS14号が触雷
17日のことでした。アメリカ軍から永興湾内の
泊地と水路の掃海が命じられました。空中捜索の結
果、敷設線はないと判断された安全海域でした。と
ころが15時21分、麗島灯台から4500メート
ルの地点でMS14号の船尾で機雷が爆発します。
ただちに米軍の交通艇や日本の第6号艇から救助
艇が出ました。22人を救出しますが、行方不明1
人(中谷坂太郎氏)と重軽傷者18人が出るという
事態になります。救出された22名人米サルベージ
艦に収容され、18日に駆逐艦で佐世保に送られま
した。
▼任務の続行か帰投か
17日の夕刻から、「ゆうちどり」では緊急対策
会議が開かれます。各艇長からは、「米軍の戦争に
巻き込まれるのはいやだ。掃海をやめて日本に帰ろ
う」という声や、「出港前の下関での総指揮官の話
と違う」という怒りの声もあがったそうです。そこ
で、田村総指揮官は、米軍の上陸用舟艇がまず浅深
度の掃海を行なう、その後に日本掃海艇による掃海
を行なうという能勢指揮官の提案を米軍に申し入れ
ることにしました。
この艇長たちによる「米軍の戦争に巻き込まれる」
という言葉に注目したいと思います。多くの日本人
にとって、朝鮮戦争はまさに「対岸の火事」であっ
て、非常に関心が低かったといわれます。それは
『誰も戦後を覚えていない・昭和20年代後半篇』
(文春新書・鴨下信一・2006年)にも書かれて
いました。
「無関心、他人事、対岸の火事、巻き込まれたくな
い、すべてアメリカ軍(国連軍)まかせ―後のベト
ナム戦争・イラク戦争ではあれほど大騒ぎしていた
のに。」
まず理由の一つは、占領下であったことでしょう。
正確な情報などなかなか伝わらなかったのです。サ
ンフランシスコ講和条約で、曲がりなりにも独立を
するのが、翌年の9月8日でした。発効はさらに翌
1952年のことです。情報は占領軍によって統制
され、さらに東西冷戦体制がその乏しい情報をさら
に歪ませたという鴨下氏の指摘はあたっていると思
います。
▼申し入れを一蹴される
18日の朝、田村総指揮官は任務群指揮官に米上
陸用舟艇による小掃海を提案します。ところが、任
務群指揮官の上官にあたる前進任務部隊指揮官から、
「小掃海などする時間的余裕はない。予定通り掃海
を実施せよ」という命令が下されました。
その日の午後、さらに田村氏が「小掃海を先行さ
せつつ係維掃海をするか、米掃海艇による係維掃海
の後に日本艇が磁気掃海をする」という提案をしま
す。すると、米指揮官スミス少将は、「日本掃海艇
3隻は15分以内に内地に帰れ。さもなければ15
分以内に掃海を始めよ。いずれであれ、出港しなけ
れば艦砲で撃つ」と言いました。
これを伝えられた能勢氏は各艇長の意思を確かめ、
日本への帰投を決意します。第2掃海隊3隻は、総
指揮官の慰留を振り切って永興湾を離れます。
20日、入れ替わりに第3掃海隊5隻は元山に到
着。残存していた3隻を編入。21日から米軍の命
令通り、湾内の水路と泊地の掃海を始めます。
▼指揮官の処罰
永興湾を脱出した第2掃海隊は20日に下関に到
着しました。能勢指揮官は東京の海上保安庁に出頭
します。田村総指揮官も22日、米軍飛行艇で東京
に帰り、事件を保安庁長官に報告しました。アメリ
カ極東海軍司令部からは、「能勢指揮官と3人の艇
長は、保安庁航路啓開隊から排除せよ」という指令
が届きます。また、GHQ(総司令部)からは、
「公職追放猶予中の旧海軍将校全員の猶予を取り消
す」という通達が出ました。
これまでの通説では、その任務を果たさず帰国し
たことを許せないという意見、いや、やはり人命尊
重からやむを得なかったという2つの説があり、現
場は混乱したとされています。しかし、鈴木元主任
研究官は残された米軍と海上保安庁の文書を確認し、
次のように事実を確かめられました。
戦闘掃海ではなく、確認掃海のみに従事することと
して出撃した。
田村航路啓開部長と各船艇長の確認で、北緯38度
線以南の掃海に従事することにしていた。
米軍現地指揮官が能勢隊の米舟艇による小掃海の提
案に対策を取らなかったこと。
これらのことから、能勢隊の帰投は、「日本側の
置かれた立場をよく認識しようとせず、米舟艇の小
掃海という申し出に対してなんらの処置もしなかっ
たことに原因があるとされたといいます。
それでも24日には大久保保安庁長官は、田村総
指揮官あてに命令を打電します。前線部隊は掃海継
続の方針を徹底することが書かれていました。長官
は総指揮官とともに、米極東海軍司令部に謝罪に訪
れ、責任者の処分を言明します。対して、ジョイ司
令官は日本掃海隊の仕事ぶりを褒め、今後は注意さ
れたいと寛大な態度を示しました。結局、米軍も強
硬な態度をゆるめ、処分は能勢指揮官のみとなりま
す。
▼掃海隊員はどう考えていたか
鈴木元主任研究官の論文には、当時の人々の手記
がある。能勢氏はその中で、「日本再建という使命
だけをになって国民の掃海作業に献身的努力をして
いる。外国の掃海をする為に戦場に行くのは納得し
かねる。しかし、占領軍の命令とあれば、日本政府
としてはこれに従うしかないのではないか」という
のが隊員のふつうの心情だったといいます。
第6号艇長は「戦争に巻き込まれる恐れもある。
部下を連れてゆくことはできない」と上申すると、
「理屈は抜きにして全体のために自説を曲げてくれ
(一部略)」といわれ、「先輩にこうまで言われる
と、いやとは言えない海軍の連帯感が心の中にあっ
た」と書き遺しているそうです。
指揮官の1人は、次の通り述べています。「国際
社会において、名誉ある一員たるためには、手をこ
まねいていてはその位置を獲得できない。私たち自
らの努力と汗で獲得しなければならないとの願望を
もって、占領からの脱却、独立国日本の実現になん
らかの寄与ができるのではないかという期待があっ
たものと思う」
▼日本海軍の再建
NHK取材班が刊行した本にも掃海隊のことが書
かれています。米国立公文書館に保存された文書が
発見されました。日付は1950(昭和25)年1
1月18日です。占領軍(連合国軍)総司令部(G
HQ)が作成したその文書には、「朝鮮沖で機雷掃
海作業中に死亡したり、負傷したりした日本の水兵
の名前。連合国軍総司令部は、補償金は手早く済ま
せ、公表しないようにと希望している」と書かれて
いました。そうして機雷掃討作戦で負傷した水兵へ
の補償金として総額388万7403円が支払われ
たこと、死亡した中谷さんの父親は199万581
6円とあります。
重要なことは、当時の掃海隊員は海軍軍人ではあ
りません。国家公務員として、一般の事務官や技官
と同等の待遇であり、生命の危険を冒して任務を遂
行する義務はないのです。そのため上司といえども、
危険な任務に就くことは強制できません。それで
も彼らは、国家の独立のために、国際社会への復帰
のために危険を覚悟で任務を全うしました。
元山からの撤収を任務放棄ととらえるか、やむを
得なかったのか。これが海軍の伝統を継承する海上
自衛隊と、海上保安庁の分かれ目だったと思います。
(つづく)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
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心から感謝しています。ありがとうございました。
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