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荒木さんの最新刊
知られざる重要組織「自衛隊警務隊」にスポットを
当て、警務隊とは何か?の問いに応えるとともに、
警務隊で修練されている「逮捕術」を初めて明らか
にしたこの本は、小平学校の全面協力を受けて作ら
れました。
そのため、最高水準の逮捕術の技の連続写真が実に
多く載っています。それだけでなく、技のすべてを
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自衛隊関係者、自衛隊ファン、憲兵ファンはもちろん、
武術家、武道家、武術ファンにも目を通してほしい
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『自衛隊警務隊逮捕術』
荒木肇(著)
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こんにちは。エンリケです。
きょうの、
「防衛省の秘蔵映像」解説 第15回は、
読者の方からの問い合わせに応えた
番外篇「特別掃海艇隊の記録」です。
自衛隊がまだなかった時代の
朝鮮戦争時に出動した
掃海部隊に関する記事です。
まさに知られざる歴史です。
わが軍事に興味ある方はみな、
知っておかなければならない歴史と
いえましょう。
さっそくどうぞ。
エンリケ
メルマガバックナンバー
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防衛省の秘蔵映像(15)
番外篇「特別掃海艇隊の記録」(1)
荒木 肇
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□はじめに
MMさま、いつもご愛読ありがとうございます。
今回は、お尋ねに答え、また事件から30年後まで
公開されなかった秘話をご紹介します。記述の大方
は、元防衛研究所戦史部主任研究官、鈴木英隆氏の
ご論稿『朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊―その
光と影―』に依ることをお断りしておきます。
なお、この掃海艇隊の記録はほとんど残っておら
ず詳細も不明です。ただし艇隊の出動の事情は後に
述べますように、米海軍の掃海部隊の不足から来て
おり、元日本海軍の掃海作戦部隊であります。そこ
で、手元の海上自衛隊艦艇史(1992年1月「世
界の艦船」から該当する船艇を調べてみました。
すると、1952(昭和27)年海上保安庁航路
啓開本部から、保安庁警備隊に23隻が移管された
「ちよづる」型が見つかりました。海軍駆潜特務艇
の後身で排水量130トン、木製のようです。磁気
掃海具は「五式掃海具」を装備し、乗員は24名で
す。全長29、幅5.5、深さ2.8、喫水2.0
(単位はいずれもメートル)、エンジンはディーゼ
ル400馬力、速力11ノット。
もう1つのタイプは、同じく哨戒特務艇だった「う
きしま」型でした。10隻が海上自衛隊の掃海艇に
なったとあり、主として磁気機雷対処を任務としま
したが戦後の航路啓開に活躍したとあります。排水
量は230トン、乗員は27名で船型、構造ともに
漁船式でした。全長33、幅6.1、深さ3.3、
喫水2.4(同前)、エンジンも「ちよづる」と同
じで速力9ノットとあります。
▼戦後初の国際貢献-ペルシャ湾派遣掃海部隊
防衛庁秘蔵映像にも1990(平成2)年の湾岸戦
争の元となったイラク軍のクウェート侵攻が登場し
ます。そして、何よりの事件は戦争終結後の199
1(平成3)年4月、海上自衛隊掃海部隊がペルシ
ャ湾に派遣されたことでした。これが戦後初の軍事
力の海外展開とマスコミや識者は大騒ぎでした。戦
争の足音が聞こえる、いよいよ米軍の戦争に巻き込
まれるといった意見で新聞、テレビも大賑わいでし
た。
しかし、この明らかに不正なイラクのクウェートへ
の一方的攻撃は当然、世界中の怒りを買いました。
自民党内のハト派の方々の出張が通り、わが国の海
部内閣は130億ドルもの拠出金を支払いましたが
、当のクウェートからも、国際社会からも感謝の声
はほとんどありませんでした。どころか、「金さえ
出せば責任を果たしたというのか」という軽蔑の声
すら大きかったのです。
この対応として、政府は自衛隊法第99条(機雷
等の除去)に基づく、敗戦後初めての海外への実任
務部隊の派遣を行いました。これ以後、翌年から国
際平和協力法による国際平和維持活動要員・部隊の
派遣が行われ、2001(平成13)年から「テロ
対策特別措置法」に基づく海上自衛隊艦艇・航空機
の派遣が行なわれるようになりました。
https://www.youtube.com/watch?v=q0d-0t1dBkU
しかし、実際には1950(昭和25)年10月
初旬から12月中旬にかけて、海上保安庁特別掃海
隊は朝鮮海域において血と汗を流した掃海活動を行
ないます。これが戦後初の国際貢献活動であると言
えるでしょう。
▼北朝鮮軍が韓国に侵攻する
1950(昭和25)年6月25日、当時の中国・
ソ連首脳部の黙許の下、北朝鮮軍はいきなりの韓国
への侵攻を始めました。キム・イルスン(金日成)
は南北朝鮮の武力統一を企画して、一気に攻撃を
しかけます。ろくに準備もしていなかった米・韓国
軍は日曜日の朝に奇襲を受け、あっという間にソウ
ルを占領され、またたく間に半島の南端まで北朝鮮
軍の進撃を許してしまいました。
興味深いのは、この戦争についても韓国軍の侵攻
だの、米軍による陰謀などという虚説をまき散らす
マスコミや言論人、大学人が多かったことです。そ
の影響は、わたしの記憶によれば昭和40年代(1
960年代後半から70年代前半まで)、あるいは
ソ連崩壊(1988年)まで続きました。
「北朝鮮は平和愛好国家であり、米国帝国主義の侵
略だった」とか、「正義の軍隊の中国人民解放軍が
立ち上がり、米国の侵略を防いだ」などという、ま
るで戦争というものを分析しない主張が真顔でされ
ていたのを覚えています。誰がどうみても、開戦し
てからの北朝鮮軍の快進撃は準備が万端、計画的に
整えられていたものでした。戦争の推移や詳しいこ
とは省きます。今は誰でも、正しい情報を入手しや
すい時代です。
アメリカを中心にした国連軍は、朝鮮半島西岸の仁
川(インチョン)に大規模な上陸作戦を行ない(9
月15日)、この成功により半島南部の北朝鮮軍を
孤立させました。さらに26日には、国連軍はピョ
ンヤン(平壌)を占領し、北上を続けます。
9月29日のことでした。マッカーサー元帥は、
隷下の第8軍、第10軍団、極東海軍と極東空軍の
各司令官に元山(ウォンサン)上陸作戦の概要を伝
えます。すでに成功した仁川(インチョン)上陸作
戦ときわめて似ていた計画でしたが、ソ連製の機雷
があるという情報から上陸軍の進入海面を掃海する
必要ができました。
それに先立つ2日には、アメリカ極東海軍参謀副
長アーレイ・バーク少将は、海上保安庁大久保武雄
長官を極東海軍司令部に呼びつけました。バーク少
将は後にもふれますが、太平洋戦線の猛将として知
られ、「31ノット・バーク」などというあだ名も
もつような人でした。この人が海上自衛隊の父など
とも呼ばれるようになります。
ここでバーク少将は大久保長官に事情を説明しま
した。元山に上陸作戦を行なうにあたり、多くの掃
海部隊が必要であること、元山以外の主要港湾の掃
海も必要であること、国連軍が困難に面している現
在、日本掃海隊の助力が必要なことを語ります。占
領軍である米海軍の要請です。
▼米海軍には掃海隊がなかった
米国海軍は第2次世界大戦の終結後、多くの軍人
が復員し、陸海空3軍の統合が語られ、空軍の長距
離爆撃能力が強化されます。その反面、国防予算は
削減され、海軍も縮小されました。北太平洋でも、
機雷艦艇はモスボール(保存のための処置)やスク
ラップされて、46(昭和21)年には、機雷戦隊
司令部のもとに、掃海駆逐艦が2隊、鋼製艦隊掃海
艇2隊、木製船体掃海艇21隻、新型掃海ボート(
56フィート型)2隻となります。
翌47年には太平洋艦隊機雷戦部隊が解散し、4
8年にはもっと大きな削減があり、大戦中には50
0隻もあった掃海艇は、朝鮮戦争の開戦時にはわず
か22隻という寂しいものになっていました。この
うち極東水域で使えるフネはAMS(機雷敷設観測
艦)6隻とAM(機雷敷設艦)4隻で、しかもAM
のうち3隻はモスボール状態でした。もっとも、こ
れに傭船中の日本の掃海艇12隻を加えた22隻が
総兵力です。
▼戦後の歩み
敗戦時(45年8月)には、わが近海には海軍が
敷設(ふせつ)した係維(けいい)機雷が約5万5
000個、これに米海軍が敷設した感応(かんのう)
機雷が約6500個あったといいます。米軍の感
応機雷については日本海軍が戦時中から掃海作業を
行なっていました。戦後になっても、GHQ(連合
国総司令部)の命令で、日本国と朝鮮水域の機雷は
日本政府が掃海することとなっています。そこで海
軍省内に掃海部を設けて、10月には艦船348隻、
人員約1万名で掃海作業を続けました。
その後、海軍省は廃止され、第二復員省、復員庁、
運輸省海運総局、そして海上保安庁と管轄の役所
は変わっても、業務は引き続き行なわれます。人員
は、掃海作業に就く者は、46年2月の「旧職業軍
人公職追放令」からは除外されました。海軍時代か
らの掃海技術をもった経験豊富な士官たちのクビは
切れなかったからです。
日本海軍が敷設した係維機雷の除去がほぼ終わっ
た46年の夏、50%の人員削減があり、約450
0名が勤務を続けることになりました。そうして4
8年1月、復員庁(旧海軍省につながる復員業務担
当庁)の廃止で掃海関係者は1500名に整理され
ました。49年3月末には約1400名が海上保安
庁職員として掃海に従事しています。
朝鮮戦争が始まった50年8月にはGHQ民生局
から追放該当者の解任をせよという指令が出ます。
ところが掃海部隊の存続を願うジョイ中将(極東海
軍司令官)と来日した米海軍作戦部長とマッカーサ
ー元帥の協議で、解任は10月31日まで延期にな
ります。そうして51年のわが国の独立、連合国と
の平和条約の調印まで、3次にわたって解任の延期
があり、追放該当者(つまり元海軍正規士官)の実
質的な公職追放はありませんでした。
掃海艦艇の数も削減がされ、46年4月には32
8隻、47年12月末には45隻になりました。そ
の後、米海軍が傭入していた掃海艇の返還などで、
50年6月には79隻に増えて、この勢力で朝鮮戦
争を迎えます。
▼朝鮮半島の機雷
仁川上陸作戦の作戦計画によれば、北朝鮮海軍に
は機雷敷設の能力はないとされていました。ところ
が、9月4日、鎮南浦(チムナムポ・平壌の外港)
南西海域で米駆逐艦が機雷を発見します。3日後に
は英国海軍艦艇が複数の浮遊機雷を見つけます。1
0日には韓国海軍の駆潜艇が海州(ヘジュ)沖合で
機雷敷設中の北朝鮮船艇を撃沈しました。
京畿湾(キョンギマン)北部の海州湾の湾口には
機雷があるとの報告があり、第7艦隊司令官は全艦
艇に警報を出します。太平洋艦隊司令官はただちに
極東方面に掃海艇を急きょ派遣することにしました。
仁川上陸作戦では、攻撃任務部隊(タフィー90)
に7隻の米海軍掃海艇が含まれていました。輸送
船グループを護衛し、強襲上陸部隊より2日遅れて
仁川に着く予定でした。ところが、9月13日、艦
砲射撃をするために仁川水道に進入した駆逐艦が係
維機雷を発見し、これに銃撃を加えて爆破。このた
め護衛グループの掃海艇は現地に急行し、ただちに
掃海任務に就きました。ところが、機雷処分の実績
はあがらず、事前掃海の意味はなかったのでした。
9月26日から10月2日までの1週間で、朝鮮
半島東海岸で触雷によって米国掃海艇1隻が沈み、
米国駆逐艦、韓国掃海艇など4隻が被害にあいまし
た。開戦後には英国、カナダ、豪州、ニュージーラ
ンド、オランダなどの海軍も派遣されましたが、国
連加盟国も含めて掃海艦艇を派遣するといった申し
出はありませんでした。
9月末には、国連軍が使える掃海艇は米国掃海艇
21隻と、日本占領連合国司令部が傭船中の日本掃
海艇12隻だけだったのです。
そうして高い練度と高級な装備(機雷処分具など)
をもった大きな掃海部隊がありました。それが海上
保安庁の掃海部隊であり、東京湾口や銚子沖、佐世
保港外を含めた内地の沿岸航路や瀬戸内海で活躍し
ていたのです。
▼国際信号旗E旗を掲げよ
当時、わが国は占領下にありました。吉田茂首相
は苦境に追い込まれます。アメリカ軍の軍隊や物資
を輸送するのは傭船契約が結ばれていたが、掃海作
業の契約はなかったのです。海上保安庁法には、明
確に「非軍事組織である」と書かれていました。朝
鮮戦争下の掃海行動は戦闘行為にあたるし、「平和
憲法」に明らかに違背します。ただし、敗戦直後の
45年9月2日の連合国最高司令官指令の第2号に
は、「日本国及び朝鮮水域における機雷は・・・(
連合国)海軍代表により指示せらるるところに従い
掃海すべし」と、明らかに朝鮮水域が含まれていま
した。そこで吉田首相は大久保長官に米軍命令に従
うべしと命じます。
こうして10月2日、長官は掃海艇20隻を門司
に集める指示を出します。掃海部隊の総指揮官は田
村航路啓開本部長となり、1番隊は第7管区航路啓
開部長、2番隊は第5管区同、3番隊は第9同、4
番隊は第2管区同を各指揮官としました。各隊には
掃海艇5隻、処分艇(係維機雷を浮かせて処分する)
1隻が所属となりました。
大久保長官はジョイ中将に憲法9条とのからみや、
万一の事故の場合の補償問題のためにGHQから運
輸大臣に命令を出してもらいたいと要求しました。
ジョイ中将はこの派遣がマッカーサー元帥の命令に
よるものであること、各艇の艇尾には国際信号のE
旗(上紺下赤)燕尾旗を揚げること、乗員は任務中
2倍の給与を受けることを記した文書を出します。
▲特別掃海隊出発
6日の午後、大久保長官は旗艦である「ゆうちど
り」のサロンに、田村総指揮官と各隊指揮官、船艇
長を集めました。「国際貢献をかちとろう。それが
日本の独立のためだ」と長官は激励しました。ほと
んどの乗員は任務を果たすことに納得して出動する
ことになりました。
7日には1番隊が仁川に、8日には田村総指揮官
が率いる2番隊が元山に、17日には3番隊が同じ
く元山に、同日4番隊が群山へ出港します。そうし
て12月日に日本特別掃海隊の編成が解かれるまで
約2ヵ月間、朝鮮海域の掃海に従事しました。のち
に「試航船」とされた「桑栄(そうえい)」の名前
も出てきますが、みな海軍に籍があった掃海艇であ
り、乗員もまた元海軍軍人ばかりでした。
次回は、いよいよ触雷と犠牲、その後について鈴
木氏の論文からご紹介しましょう。また、同時に進
行していた「ネービー再建」への動きも付け加えま
す。
(つづく)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、
同大学院修士課程修了。専攻は日本近代教育史。
日露戦後の社会と教育改革、大正期の学校教育と陸
海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関係の研究を
行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処
理教育センター研究員、同小学校理科研究会役員、
同研修センター委嘱役員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専
門学校講師(教育原理)などをつとめる。1999年4月
から川崎市立学校に勤務。2000年から横浜市主任児
童委員にも委嘱される。2001年には陸上幕僚長感謝
状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、
講話を行なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、
『静かに語れ歴史教育』『日本人はどのようにして
軍隊をつくったのか―安全保障と技術の近代史』
(出窓社)、『現代(いま)がわかる-学習版現代
用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、『自衛
隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに
嫌われる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイ
ド』『学校で教えない自衛隊』『学校で教えない日
本陸軍と自衛隊』『あなたの習った日本史はもう古
い!―昭和と平成の教科書読み比べ』『東日本大震
災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚気
と軍隊─陸海軍医団の対立』『日本軍はこんな兵器
で戦った─国産小火器の開発と用兵思想』『自衛隊
警務隊逮捕術』(並木書房)がある。
『自衛隊の災害派遣、知られざる実態に迫る-訓練
された《兵隊》、お寒い自治体』 荒木肇
「中央公論」2020年3月号
https://amzn.to/31jKcxe
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